第22話 1555年 宗滴の死、義景の覚醒
蝦夷島松前郡大館 1555年(天文24年)7月 蠣崎舜広(16歳)
私は私室で松前を中心とする手書きの地図を眺めていた。51年のチリオチアイヌとの同盟締結と、53年のハシタイン討伐により、渡島半島の勢力図は大きく変わった。ここらで一度状況を整理して、今後の方向性を考えてみよう。
①北:ハシタインによって一時的に天の川まで国境を押されていた。しかしハシタイン討伐により、上ノ国を奪還しただけでなくエサシとハチャムベツを勢力圏とした。エサシアイヌはハシタイン討伐で重要な役割を果たしてくれたので今は同盟国扱いだが、いずれは蠣崎領に組み込み江差港を活用したい。ハチャムベツは蠣崎領として和人とアイヌの混住地域とし、和人が農林業の担い手として暮らせるようにした。今はアイヌの方が多いので入植する和人には不安も有るだろうが、いずれは和人が多数派になるだろう。最初は屯田兵として、戦える農家・木こりを優先的に送ろう。禿山にならないよう植林は重要だな。
②東:蠣崎領は折加内までだ。その先のチリオチ以東はチリオチアイヌ領だが、同盟締結によりチコモタイン殿の許可を得た開発は出来るようになった。彼らの許容範囲内という制限は有るが、森を伐採し、農地を作り、小麦や玉蜀黍等の食料生産を大規模に行いたい。農業に関心の有るアイヌに利益を与えて労働者として取り込み、なし崩しで事実上の蠣崎領にするのが目標だ。物流や行軍を円滑にするために、松前~折加内~チリオチ~リロナイ~モベツ~ウスケシを今作れる最高規格の道路で結びたい。折加内~チリオチ間は山が海岸線のすぐ近くまで迫っているので内陸の峠道を通るしか無いが、ここが移動の妨げにならない方策を考えないとな。リロナイの東には広大な函館平野が広がっているので、ここを何とか領有・開発出来れば蠣崎家の国力は大いに上がるだろう。いずれは函館に本拠地を移すのも有りだな。母方の実家(陥落済み)も有るし。
③南:津軽海峡冬景色だな。今は夏だが。津軽海峡の地名は江戸後期から使われたらしいが、紛らわしいのでこの地名を使うとしよう。海峡の南側は陸奥国で、南部家が支配している。ただ、津軽地方は浪岡家等の勢力が南部家に臣従している状態らしい。いずれ切り崩せると良いが、まだまだ先の話だ。
④西:松前小島と松前大島を領有している。無人島だが、水鳥の羽毛やグアノの供給地として頼りにしている。開拓しても住みにくそうなので、今後も資源採集拠点を造る程度だろうな。私は船酔いが辛いのであまり行きたくない場所だ。
地図から顔を上げ、思わず溜息が出た。領土が広がったと言っても、食料生産に使える土地が狭過ぎる。チリオチやリロナイはチコモタイン殿に許可を得れば何とかなるが、北方のハチャムベツやセタナイは蠣崎領の筈だが事実上開発が出来ない。北に農民を送っても開拓して最初の収穫まで食料が得られないし、その前に反和人のアイヌに殺される恐れが高い。北を開拓するにはまとまった数の武装農民(屯田兵?)と、後方からの持続的な食料供給が必要だな。当面はチリオチ・リロナイ・上ノ国で食糧を生産し、東の函館方面に勢力を広げるしか無いな。函館平野を領有すれば、蠣崎領に挟まれたチリオチアイヌの領民化が進むかも知れないしな。
そう言えば渡島半島の西にはイクシリ島が有ったな。対岸のエサシやセタナイを領有したからここも領有出来るな。ただ、平野がとても小さい上に出航予定地のエサシからも遠いので、費用対効果が函館方面に比べて低いんだよな…。本土と往来しにくくてそれなりの広さが有る島だから、流刑地としては使えるかも知れないな。蠣崎家が領土を広げる上で人手不足は常に悩みの種なのだから、罪人は極力処刑せず、イクシリ島の開発や資源採取をさせるのも良いかも知れない。罪人は殺したらそれまでなのだから、過酷な場所で強制労働させる方が経済的だ。ここに身内を送る事が無いと良いのだが…。
蝦夷島松前郡大館 1555年(天文24年)7月 明石元広(15歳)
「本日より蠣崎万五郎改め明石元広となりました。明石家と蠣崎家の繁栄のため、身命を賭して邁進して参ります。」
無事元服式を終え、改めて明石家の入り婿となった事を実感した。私の正室となった衡姫と、義父の明石季衡殿と共に明石家の屋敷に移る時には、生まれ育った大館を離れる事に寂しさを覚えた。しかし、武士の次男以下に生まれるというのはこういう事なのだ。本家の家督は継げず、苗字すら継げない事も有るのだ。嫡男として生きられる兄の舜広への恨めしさが頭をもたげたが、私は頭を振ってその思いを振り払った。私のすべき事は、明石家の後継者として兄を支える事なのだ。兄の功績を考えれば、兄を誇りに思う事こそ有れ、恨みを覚えて取って代わろうとする等有り得ない事だ。もしも兄に害をなす不届き者が居るなら、私は命と引き換えにしてでも兄を守る覚悟だ。
加賀国江沼郡大聖寺城付近 1555年(天文24年)8月 朝倉宗滴(78歳)
「これは長丁場になりそうじゃな…。」
思わず零れた独り言に当主の義景様が振り向いた。ええい、お主は当主であり総大将であるぞ!それが不安を表に出してはならんと何度も教えたじゃろうが…。お主が自信に溢れた顔でどんと構えるからこそ、家臣や足軽が安心して力を発揮出来るのじゃ。仮に劣勢や退却戦であっても、問題無く対処出来ると自信を滲ませなくてはならないのじゃ。朝倉の柱であるお主が揺らげば、朝倉家が揺らぐ。大きく立派な家でも、揺らげば簡単に崩れるものぞ。まだまだ「率いる者」の心構えを教え込まねばならぬか…。
しかし…。恐らくその時間はもう無いじゃろうな。先月の加賀出陣前から体力の衰えを強く感じていたが、ここで何日も加賀一向一揆と睨み合っている内に体調を崩してしもうたようじゃ。息が苦しい。足がふらつく。更には頭がぼうっとする。こんな状態で軍を率いる等無理な話なのじゃ。
はあ…、朝倉軍を十全に率いられる後継者をしっかりと育てておけば、このように老体に鞭を打つ事も無く、一乗谷で庭園を眺めながら鷹の繁殖の研究が出来ていたのにのう…。後悔しても意味は無いが、どうしても溜息が出てしまうのう…。いかんいかん、儂がしょぼくれた姿を見せては朝倉軍の士気が下がってしまう。ここは皆を鼓舞するためにもうひと踏ん張りするかの。よっこらせ…、うむ?足に力が入らぬ。地面が近付く。受け身が間に合わぬ。無様な姿を見せては…ならぬ…。
「宗滴殿⁉お気を確かに!宗滴殿⁉」
義景様が倒れた儂を強く揺らしながら声をかけている。全く、いつまでも未熟な小童よのう…。お主の動揺はすぐに軍全体に広まるのだぞ…。叱りつけたいが、もう声も出ぬか…。80年近い戦ばかりの我が人生も、ここらで終幕かの…。もう小童の声も聞こえぬ。姿も見えぬ。さらばじゃ…。朝倉と一乗谷に繁栄を…。
加賀国江沼郡大聖寺城付近 1555年(天文24年)8月 朝倉義景(22歳)
朝倉の大黒柱が折れた。祖父と父、そして私は宗滴殿の力に頼り切りであった。しかし…、もう宗滴殿に頼る事は出来ない。意識の無い宗滴殿は一乗谷に至急お帰り頂いたが、恐らくもう助からないだろう。あの齢になるまで戦を任せ続け、隠居する暇を与えなかったのは私や父の責任だ。私達は宗滴殿に頼り過ぎたのだ。
なればどうする?ここは敵地。ここは戦場。目前には一向一揆の大軍。宗滴殿が居ないのならば、誰が朝倉軍を率いるのか?誰が越前国の平和を守るのか?
「義景様、戦はどうなさりますか?撤退するのであれば、私が殿を務めますが…。」
一門衆以外では宗滴殿の教えを最も体現している山崎吉家が恐る恐る訪ねて来る。
「総大将の任は一門衆の私が引き継ぎますので、義景様には無事一乗谷にお戻り頂きますよう…。」
従兄で宗滴殿にも期待された朝倉景隆は私に軍を残して撤退を求めている。確かに私は軍略に乏しいからな、仕方無い事だ。それどころか戦が怖くて仕方が無いので、これまでは一門衆に総大将を任せて私は一乗谷で報告を待つだけだった。朝倉家当主が越前国外に出陣するのは1494年(明応4年)が最後だったらしく、どうやら出不精が伝統になってしまったようだな。しかし、しかしだ。当主が総大将として出陣する事は危険も伴うが、士気は上がるものなのだ。私に軍略が無いのなら、それが有る者に任せれば良い。しかし私が戦場に立った上で家臣に戦いを任せるのと、一乗谷に引きこもって家臣に丸投げするのでは、家臣からの見え方は全く異なるだろう。こんな簡単な事に去年まで気付けなかったとは…。全く、私が覚悟を決めるきっかけをくれた、安東殿と蠣崎殿には礼を言わねばならぬな。
私は朝倉家当主、朝倉義景。今こそ覚悟を持ってこの難局を乗り越えるのだ。宗滴殿という大黒柱が折れたのならば、私が新たな柱となれば良い。私が朝倉を守るのだ。
「皆の者、よく聞け!越前国の平和を守るため、我らは目の前の一向一揆を打ち破らねばならぬ!奴らを倒さねば、次は我らの土地が襲われるのだ!」
私が突然大声で檄を飛ばすのを見て、山崎吉家と朝倉景隆が目を見開いて驚いている。しかし、それはたちまち期待を込めた眼差しに変わっていた。我らが当主の心は折れておらぬ。それどころか頼もしさを感じるようになった。殿が士気を上げ、我らが作戦を立てて実行する。宗滴殿には及ばないが、我らもそれなりには出来るつもりだ。この戦、勝てるぞ。
2人の力強い眼差しに応えるように、私は拳を高く突き上げた。朝倉軍の鬨の声が大聖寺に響き渡った。
・明石季衡:?~?年。蠣崎家の家臣。息子が居なかったため、主君の蠣崎季広の次男を婿養子に迎える。
・山崎吉家:?~1573年。父は山崎長吉。朝倉家家臣。外交や戦に長ける。刀根坂の戦いで殿を務めて主君を一乗谷に逃がすも、ここで信長被害者の会に加入する。
・朝倉景隆:1508~1570年。父は朝倉景職、母は北殿(朝倉貞景長女)。朝倉家家臣で、朝倉義景の従弟。




