89.作者の娘
「俺、この物語が大好きなんだ!
そういや、この絵本の女神もハープって名前なんだよな。」
懐かしがって絵本を手に取るレンジの背後から、老婆の声が聞こえてきた。
「そこの少年。
その本、好きなのかい?」
尚も気づかず、夢中で絵本を読み続ける彼の肩を、ハープはとんとん、と優しく合図する。
そして、彼は初めて老婆の存在に気付くのだった。
杖をついた白髪の老婆の身なりは小奇麗で、とても優しい目をしていた。
「あぁ、物心がついたときから大好きなんだ。
俺の家にもあるんだぜ。」
レンジの言葉に、老婆は杖をトン、と一つ付いて背筋をしゃん、と伸ばす。
「そうかい!
その絵本はね、この私が書いたんだよ。」
老婆はえへん、と言わんばかりの口調だった。
絵本の作者の欄には、ジニー=フォードと記されている。
そして、その独特な口調は、少年に故郷を思い出させた。
「可愛いカップルさん、時間はあるかい?
もし良かったら、うちにおいでな。
パンでもご馳走しようかね。
ほら、もたもたしないよ!」
「は、はい。」
老婆の勢いに根負けした二人は、老婆の後をついていった。
老婆の家の庭は決して広くはないが、綺麗な花が咲いている。
きっと、小まめに手入れしているのだろう。
雑草ひとつ生えていない。
木の蔓で作られたアーチをくぐり、家の中へと案内される。
玄関には、ユニベルの地図が壁に貼られており、その隣にはあの世界で一番有名な物語のワンシーンの絵が飾られていた。
その絵の内容は、少女が天に昇り、女神となっていく場面だ。
レンジはその絵の前で、思わず立ち止まる。
絵のタッチは淡く、そして、何処となく切なさを感じる。
「ほうら、今朝たくさん焼いたんだよ!
たんとお食べ!」
食卓の前に並べられるのは、レンジが毎日のように見てきたライ麦パンだった。
形、焼き加減の色、そして、味。
どれを取っても、オリバの焼いたライ麦パンと寸分の狂いもないものだった。
「美味しい……!」
メロンのシャーベットを完食し、幾分お腹は空いていないはずなのに、老婆の焼いたライ麦パンならいくらでも食べられそうだ。
ハープはパンをちぎっては口へ運ぶことを繰り返す。
一方、レンジはパンを一口分、齧っただけでいる。
ずっとパンを眺めていた少年は、おもむろに口を開いた。
「なぁ、ばあちゃん。
ばあちゃんは、子供がいたのか?」
「何だい?
いきなりおかしなことを聞くもんだねぇ、この子は。
……確かに、私には娘が一人いたんだ。
でもねぇ、二人の幼なじみと旅に出てから、それっきりさ。」
「なぁ、良かったらその話、聞かせてくれないか?
知ってるところまででいいから!」
レンジの言葉に、老婆は遠くを見つめるような表情になる。
そして、娘と幼なじみのことについて、ゆっくりと語りだす。
さすが、絵本作家というのだろうか。
聞き入るような語り口調が、レンジとハープの脳裏に情景を浮かび上がらせる。
「お母さん……。」
「どうしたんだい、オリバ。
そんなに目を腫らして。
何かあったのかい?」
雨が降る日、娘は雨か涙か分からないもので頬を濡らしていた。
「カインとリラが、結婚するんだって……。」
カインとリラ、とは、彼女の幼なじみの名前であった。
ここ、ブックガーデンで生まれ育った彼女らは、三人揃って考古学の研究員となった。
自分の娘のオリバは、幼いころから正義感の強いカインに惚れていたのだ。
その事を知っていた母ジニーは、泣き崩れるオリバの背中を撫でて言った。
「おめでとうって、ちゃんと伝えたのかい?」
「うん……。
でも、私、好きだって言わせてももらえなかったよ……。
リラだからおめでとうって言えたの、リラだから───。」
今まで堪えていたのだろう。
わぁっ、と声を上げて泣くオリバの背中を、ジニーは慰めるように撫で続けた。
十八にして、娘の初めての恋が終わる。
オリバの失恋を、母はそっと見守った。
思い返せば、オリバはずっとカインの長い金髪の髪を見つめていた。
猪突猛進で、いつも突っ走るカインの背中を、オリバとリラは追いかけていた。
娘のオリバは、亡くなった父親に似たのか、男勝りな性格で男の子と殴り合いのケンカを毎日のようにしていた。
たまに負けそうになると、いつもカインが助けに来てくれる。
そして二人の怪我を、大人しいリラが手当てしていた。
対照的なオリバとリラの性格だが、二人はとても仲が良かったのだ。
「やーい、団子鼻のオリバ!」
「お前みてぇなヤツ、嫁の貰い手ねぇぞ!」
オリバの容姿は、リラの様に整ってはいなかった。
不器量な容姿が何よりのコンプレックスだった。
やがて身長が止まり、胸が膨らみ、体つきが女性らしくなってくる頃、オリバとカインはいつまでも昔のままではいられなかった。
「ねぇ、カイン。
久しぶりに、一緒にお風呂入ろうよ。」
十三歳になろうとする頃、幼いときの様にオリバはカインを風呂に誘った。
だが、年頃の男の子は、当然の如く断る。
「ばっ、バカ!
お前なぁ、一応女なんだからな!」
頬を真っ赤に染めながら言うカインの言葉は、不思議と心地良かった。
自分みたいな不器量でも、カインはちゃんと「女」として見てくれていると。
オリバは、嬉しかったのだ。
この街の男の子は、自分の顔を見ると、やれ団子鼻だ、やれ不器量だと言ってくるのに対して、カインは今まで一度たりとも、そんな言葉を口にはしなかった。




