117.人魚の血
船は一旦、王都ベガスへと向かうことになった。
他の乗客の安全確保、怪我人を搬送しなければならないことから、船長は苦渋の決断を下した。
その船の上で、ハープは肩を抱きながら震えている。
「私のせいだ……私のせいで、レンジとセレスが……!!」
「ベガスに船が着いたら、俺達も救助船に乗せてもらおう。
捜査を手伝いつつ、二人を探すんだ。」
シアードはこんな窮地にもかかわらず、何故そんなに冷静でいられるのか。
そう思い、ハープは彼を見上げた。
だが、それは自分の思い過ごしであったという事に、すぐさま気付く。
彼はただ、夜明けの海を見据えている。
じっと海を見つめるその眼差しは、今までに見たことのない程、険しいものだった。
「ハープ、お前のせいじゃない。
あの魔法をつかっていなければ、乗客も僕達も、きっと今頃海に……。」
ロイドは、それ以上話すのを止めた。
中途半端に慰めても、気休めにもならないと判断した。
こういう時、レンジならどういう言葉をかけるのだろう。
ロイドの脳裏に一瞬そう浮かんだが、首を激しく横に振って振り払った。
「シアードの言う通りだ。
ベガスに着いたら、レンジとセレスを探そう。」
その言葉に、ハープはゆっくりと頷いた。
一方、レンジはあの激しい大渦の中ではどうすることもできず、セレスの手を離してしまう。
クラーケン、レンジ、セレスは別々に海流に飲まれていったところに、ある者が意識を失ったレンジを救い出した。
その者の姿は、下半身が鱗に覆われており、大きな尾ひれを器用に使って泳ぐ、まさに人魚という言葉が相応しい。
齢はレンジと同じ程であろうか。
絹の様に美しい水色の長髪と、海の様に青い瞳が特徴的な、女型の人魚だった。
見た目といい、年齢といい、彼女の容姿は何処となくハープを思わせる。
「はぁ……はぁ……。」
人魚は、レンジを抱えて砂浜へと上がるが、自身も砂浜に倒れてしまう。
水の中では抱えることが出来ても、自分よりも重い少年を沖へと上げるのは、せいぜい数メートルが限度だった。
全身傷だらけのレンジは、意識を失ったままでいる。
人魚は彼を救い出したものの、一人頭を悩ませていた。
「このままだと……そうだわ。
あたしの血なら……。」
人魚は、自分の左手首を貝殻で切った。
「痛っ……!」
手首から彼女の鮮血が滴り落ちる。
それを彼女はすかさずレンジの口元へと持っていき、口に含ませた。
すると、少年の傷はみるみるうちに癒えていく。
人魚の血は、いかなる傷も癒すという不思議な効力がある。
人間界では言い伝えでしかないが、時折ハンターが人魚を捕獲しようと狙ってくるため、人魚は普段、人目に付かない岩陰や海底で暮らしている。
だが、人魚の血には、ある副作用があった。
人魚の血を試したことのない人間は、副作用があることすら知らないだろう。
「あれ……ここは……?」
傷が完全に癒えた時、レンジは目を覚ました。
「良かった、気が付いたのね!」
人魚は声を上げて喜んだ。
「クラーケンの事、悪く思わないであげて。
あの子、人を襲ったんじゃないの。
私の代わりに、助けを求めていただけなの。」
「クラー……ケン?
……俺、混乱してるみてぇでさ、話が全く見えねぇ。
自分が何処から来たのかも、何でここにいるのかも、さっぱり分からねぇんだ。」
人魚は、自分の血の副作用を思い出した。
少年を助けるために咄嗟に自分の血を飲ませたが、副作用の事など微塵も考えなかった。
人魚の血の副作用は、記憶を失う事。
どう説明しようかと悩んでいる時、自分の両肩が掴まれる。
「なぁ、どうして俺はここにいるんだ?」
あと十センチもすれば、鼻先が当たるほどの距離に、少年の顔があった。
金色の髪に緑色の目、自分の周りにはいない姿形と、少年の中性的なその顔立ちはまさに人魚の好みだった。
だが、今は好みがどうとか言っている場合ではなかった。
彼女は、咄嗟に嘘をついた。
「あなたはみんなを助けるために、あたしとこの島に戻って来たんでしょ?」
レンジは彼女の言葉に、ある二つの光景がフラッシュバックする。
巨大なイカの魔物が船を襲った事と、目の前にいる人魚とよく似た少女が、叫んでいる姿だ。
「……悪ぃ。
俺、どうも思い出せねぇみたいでさ、いろいろと説明してくんねぇか、えぇと……。」
「あたしはミリル。
……あたしも、あなたの名前忘れちゃったかも。」
「レンジだ。」
「……レンジ。
と、とりあえず島に上がろっか。」
噛みしめるように少年の名を読んだ後、ミリアは魔法で下半身を人間の足へと変えた。
人魚は陸を歩くとき、人間の姿に変化する。
そのため海沿いの街では、街人の中に好奇心旺盛な人魚が紛れ込んでいる時があるのだ。
「バカ、お前……!!」
「えっ?」
その時、レンジが赤面する。
胸は長い髪に隠れているものの、下半身は何一つ身に纏っていないという状況だった。
レンジは彼女の姿に、まともに目も当てられないまま服を脱いだ。
「ほら、これでも着てろ。」
レンジはやや乱暴に、ミリアに自分の服を渡した。
ミリアが彼の服を着ると、それは丈の短いワンピースのようになった。
少年とはいえ、男の人の服は丈が長く、ギリギリではあるが下半身まで隠してくれる。
ミリアの胸中には、様々な感情がひしめいていた。
彼に嘘をついてしまったという罪悪感もあれば、仲間を救うためには仕方ないのだと、どこか開き直る気持ちもあった。
だが、何よりも彼女の心をいっぱいにしたのは、彼に対する淡い恋心であった。




