110.離して
「ふむ……では、始めるかの。」
大長老は、天に手をかざして詠唱を始めた。
それはどんなものよりも長い、ハープもロイドも聞いたことのない詠唱である。
「な、何だ!?」
大長老の詠唱が終わると、床に刻まれた紋章と、四人の精霊が水色、黄色、黄緑色、鮮やかな赤色のオーラを身に纏い、輝き出した。
そして四つの光が集まってハープの頭上でひとつにまとまると、光は彼女の身体に吸収されていった。
一瞬何が起こったか分からないでいたハープは、自分の両手を眺めていた。
じわあっ、と、自分の身体の奥底から魔力が溢れ出てくるのを感じる。
「わ、私、本当に……。」
戸惑うハープに対して、大長老は彼女を見据えて重々しく口を開いた。
「ハープよ……お前はこれで、印の魔法の使い手となった。
それに伴い、印の魔法の術者は火・水・大地・風、それぞれの究極魔法を使うことが出来るようになる。
精進するがよい。」
「わ、私……。」
ハープは、自分の身に起こった出来事を受け入れられないでいた。
確かに、覚悟を決めて儀式に臨んだはずだった。
だが、いざ印の魔法を習得したとなると、目に見えない恐怖に、逃げても逃げても後ろから追いかけられている様な感覚に陥った。
意志の弱い自分を、助けてほしい、支えてほしい。
そう願い、ハープはレンジに目を向けた。
だがレンジの言葉は、無情にも彼女の期待を裏切ることになる。
レンジは、知らないのだ。
レンジだけが、事実を知らないのだ。
「ハープ、良かったな!
これでゼロを封印したら、ユニベルもきっと平和になる。
そしたら俺達───。」
ハープはレンジの言葉を最後まで聞かなかった、いや、聞けなかった。
ハープはレンジから目を背け、大神殿を飛び出した。
「ハープ!!」
彼女を追いかけたのはロイドだった。
一方で、無責任な少年はまるで地に根が生えたように動けないでいる。
「ハープ、お前……。」
ロイドは大神殿の入り口でハープに追いつき、肩を掴んだ。
そして、表情が分からないでいる彼女の長く美しい黒髪を、指でよける。
大きな瞳には、涙が浮かべられていた。
こんなに悲しくて儚い表情を、ロイドは今まで見たことがなかった。
「お願い……離して……。」
聞いたこともないような切ない声に、ロイドはただ従うしかなかった。
ハープはそのまま、丘を駆け下りていく。
自分の愛した少女に、こんな悲しい表情をさせた奴が許せなかった。
ロイドはすぐさま向きを変え、大神殿の廊下を突っ走った。
儀式を行った奥の間に着くと、一目散にレンジの前に立ち、勢いに任せて胸ぐらを掴む。
「お前……ハープに何を言った。」
レンジは、ロイドが何故こうも怒っているのかを理解できないでいた。
自分はただ、ハープが印の魔法を習得したことに対して喜んだだけであった。
「だから、ゼロを封印して、ユニベルが平和になったらって───。」
レンジの言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。
左頬に強い衝撃が走ったかと思うと、口の中で鉄の味が広がった。
口からもれる鮮血を拭うと、意味もなく殴られた事に怒りが込み上げる。
「てめぇ、何しやがる!」
地面に尻を付いたまま、レンジはロイドを睨み付ける。
だが、ロイドの勢いはしずまらない。
再び胸ぐらを掴んでレンジを引っ張り上げ、そして怒鳴った。
「お前……それが何を意味しているのか知ってるのか?
なぁ、知ってんのかよ!?」
「ロイド、やめて!」
セレスが憤激したロイドに声をかけるが、ロイドの耳に入らない。
怒りに身を震わせ、レンジに怒鳴り散らす。
「ハープはなぁ、自分の精神を……自分の命を引き換えにあの魔法を使わなきゃならないんだよ!!」
「何……だと!?」
レンジは、ロイドの言葉に、怒りで煮えたぎるような血の気が引いていく。
そして、鈍器で後頭部を殴られたような感覚に襲われた。
「何だよそれ……。
みんな、知ってたのかよ!?」
レンジの問いに、大長老も、仲間であるシアードもセレスも目を伏せて黙り込む。
もしそれが事実なら、自分は今まで散々酷い事を言ってきた。
ユニベルが平和になったら、旅をしよう。
その約束は、ユニベルが平和になったら叶えられない。
そこにハープは、いないのだから───。
平和のためには、彼女は自分の命を差し出さなければならない。
「俺……何も知らなかったんだ……何も……。
……ハープ!!」
レンジはいても立ってもいられなくなり、大神殿を飛び出した。
彼女が何処にいるか分からないまま、くまなくハープを探す。
ラクベールの都のあちこちで、レンジの彼女を呼ぶ声が響き渡る。
「くそう……ハープ、ハープっ!!」
いくら知らなかったとはいえ、ハープは深く傷ついていたに違いない。
自分は一体、どれだけ彼女を傷つけてきたのだろう。
思い出すたびに、胸が締め付けられるような悲嘆と後悔が込み上げる。




