泥臭い軍医官の背中と、涙の金曜ネイビーカレー
泥臭い軍医官の背中と、涙の金曜ネイビーカレー
差し出されたその手は、霞が関のエリート官僚たちが持つような、ペンのスレしかない滑らかな手ではなかった。
分厚く、硬いタコがあり、幾度も修羅場をくぐり抜けてきた痕跡が刻まれた、無骨で力強い手。
「……っ」
輝夜が恐る恐るその手を取ると、ぐいっ、と力強く引き上げられた。
腰が抜けていたはずなのに、男――中村優太の腕力に支えられ、輝夜はどうにか自分の足で立つことができた。
「立てたな。偉いぞ」
子どもをあやすような、けれど決して馬鹿にしていない、落ち着いた低い声。
優太は輝夜の土汚れを軽く払うと、傍らに停めてあった巨大なオフロードバイク――ホンダのアフリカツインに跨った。エンジンが野獣のように低い産声を上げる。
「後ろに乗れ。しっかり掴まってろよ。振り落とされたら自己責任だ」
「あ、はい……っ」
言われるがままに後部シートに跨り、輝夜は優太の腰に腕を回した。
分厚いパーカー越しに伝わってくる、岩のように引き締まった筋肉の感触。そして、ふわりと鼻をかすめるアメスピの少し甘い煙草の香りと、微かな汗、それに土の匂い。
東京の満員電車で嗅ぐような香水やストレスの匂いとは全く違う、圧倒的な『生きている人間』の匂いだった。
「出すぞ。舌、噛むなよ」
優太の言葉と共に、バイクは荒れた森の獣道を爆発的な加速で駆け抜けた。
夜の森の風は冷たかったが、輝夜の前に座る優太の広い背中が、その冷気をすべて弾き返してくれる。
優太の背中に顔を押し当てながら、輝夜は不思議な感覚に包まれていた。
見知らぬ異世界の森で、ほんの数分前まで死にかけていたというのに。この見ず知らずの不愛想な男の背中にしがみついているだけで、東京のセキュリティ万全な官舎にいる時よりも、ずっと確かな『安全』を感じている自分がいた。
*
森を抜け、バイクが辿り着いたのは、木造の建物が立ち並ぶ活気ある集落だった。
深夜だというのに、あちこちで焚き火が焚かれ、人間だけでなく、獣の耳を持った者たちの姿も見える。
優太は集落の入り口近くにある『月見亭』という看板が掲げられた宿屋の前にバイクを停めた。
「ここはポポロ村。周辺の国々が不可侵を貫いてる緩衝地帯だ。とりあえず、今夜はここで休め」
優太は宿の主人に銀貨を数枚渡し、手際よく部屋を手配してくれた。
案内された部屋は、木とランプの匂いがする、素朴だが清潔な部屋だった。ベッドに腰を下ろした輝夜は、ここでようやく、自分の置かれた状況の異常さに気づき始めた。
(私、本当に東京から……日本から、いなくなっちゃったんだ)
農水省への根回しは? 明日の朝イチの会議は?
いや、それよりも、私はこれからどうやって生きていけばいいのだろう。
急激にアドレナリンが切れ、全身の震えがぶり返してくる。孤独と不安が、冷たい水のように足元から這い上がってきた。
膝を抱え、小さくうずくまった時だった。
コンコン、と控えめなノックの音がして、扉が開いた。
「入るぞ。……やっぱり、限界みたいだな」
優太が両手に木製のお盆を持って入ってきた。
その瞬間、部屋の中に、信じられないほどスパイシーで、酷く食欲をそそる香りが充満した。
「え……?」
輝夜が顔を上げると、優太はお盆を小さなテーブルに置いた。
そこに乗っていたのは、湯気を立てる山盛りの白いご飯と、とろみのある茶色いルー。
――カレーライスだった。
「……カレー、ですか? なんで、こんなところに……」
「俺のいた部隊じゃ、金曜日はカレーを食うって決まってたんだよ。曜日感覚を忘れないためにな。ほら、食え」
それは、優太が自身のユニークスキル【地球ショッピング】の『善行ポイント』を消費して取り寄せた、地球の軍隊式『ネイビーカレー』だった。もちろん、輝夜にその仕組みはわからないが、優太は何も説明せず、ただスプーンを輝夜の手に握らせた。
「飯、食わないと死ぬぞ。人間、どんなに絶望してても、腹に温かいもん入れりゃ少しはマシになる」
促されるまま、輝夜は震える手でスプーンをすくい、カレーを口に運んだ。
じっくりと炒められた玉ねぎの甘み。ゴロゴロと入ったお肉の旨味。そして、ピリッとしたスパイスの刺激。
熱いくらいの温度が、冷え切っていた食道を通って、胃の腑にすとんと落ちる。
その瞬間、輝夜の全身を、強烈なほどの『生』の感覚が駆け巡った。
「ぁ……、美味しい……」
霞が関での毎日は、ゼリー飲料やサプリメント、味のしないコンビニのおにぎりをパソコンの画面を見ながら胃に流し込むだけだった。
『食事』なんて、ただの生命維持の作業だった。
けれど、このカレーは違う。誰かが、自分のためだけに用意してくれた、血の通った温かいご飯。
「美味しい、です……っ、すごく、あたたかくて……っ」
ポロ、ポロと。
カレー皿の中に、大粒の涙が落ちた。
一度こぼれ落ちた涙は、もう止まらなかった。見知らぬ世界に放り出された恐怖。一人きりの孤独。東京で背負い続けてきた重圧。
それらがすべて溶け出し、輝夜は子どものように声を上げて泣きじゃくった。
「ごめ、なさい……私、わけがわからなくて……っ、でも、カレーが、おいしくて……っ」
「謝るな。食いながらでいい、泣きたいだけ泣け」
優太は輝夜を笑うことも、無理に慰めることもなかった。
ただ、パーカーのポケットから清潔なハンカチを取り出して、輝夜の横にそっと置いた。
「俺たち軍医が泥を被って戦うのはな、あんたみたいな普通の奴らに、地獄を見せないためだ」
優太は窓辺に寄りかかり、夜風に向けてアメスピの煙を細く吐き出した。
「あんたは東京で、立派に自分の地獄を生き抜いてきたんだろ。なら、ここからは少し休め。生きる意志があるなら、当分は俺が面倒見てやるよ」
その言葉は、どんな甘い慰めよりも、輝夜の心を強く打ち抜いた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、輝夜はカレーを最後の一口まで綺麗に平らげた。
異世界の宿屋の小さな部屋。ランプの灯りと、タバコの煙。
空っぽになったお皿を見つめながら、輝夜は、自分がもう一人きりではないのだと、心からの安堵を覚えていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
見知らぬ異世界での孤独と不安を打ち砕いたのは、優太の背中と、熱々の金曜ネイビーカレーでした。
限界まで頑張ってきた輝夜が、ようやく素直に泣くことができた瞬間です。
優太の「生きる意志があるなら、面倒見てやる」という不器用な優しさ、いかがだったでしょうか?
「輝夜ちゃん、いっぱい食べて休んで!」
「優太のカレー、美味しそう!」
「こんなスパダリ軍医に拾われたい!」
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次回『【月詠の窯】と一杯の白湯』
輝夜のチートスキルがついに発現!? 優太が彼女のポテンシャルに気づきます。
明日も更新しますので、お楽しみに!




