第一章 不夜城の終わりと、異世界の夜明け
霞が関の不夜城から異世界の森へ。命の危機に現れたのは、タバコを吹かすワイルドな軍医でした。
「……っ、よし。これで農林水産省とのすり合わせ資料、完成……」
深夜二時。不夜城と呼ばれる霞が関のビルの一角で、日野輝夜は小さく息を吐き出した。
パソコンのモニターが発する青白い光が、彼女の疲労の色が濃い顔を照らしている。内閣府・政策統括官付、内閣政務官補佐官。それが二十五歳の輝夜に与えられた肩書きだった。
聞こえはいいが、実態は省庁間の調整や終わりの見えない根回しに奔走する激務の毎日だ。
冷え切った夜道を歩き、殺風景な官舎の自室に帰り着いた時には、もう午前三時を回っていた。
スーツのジャケットを脱ぎ捨て、輝夜はふらつく足取りでベランダへと向かう。そこには、彼女が大切に育てているハーブや季節の野菜のプランターが並んでいた。
じょうろで水をやりながら、輝夜は夜空を見上げる。
東京の空には星が少ない。それでも、故郷の長野で見たのと同じ月が、ビル群の隙間から優しく光を落としていた。
「皆が、それぞれの場所で輝いて……夜には月を見ながら、笑って楽しくお酒を飲める世界にしたいな」
それは、輝夜が官僚を志した原点だった。地方の衰退を食い止め、人々が人間らしく生きられる温かい社会を作りたい。
けれど現実は、無機質な数字とデータ、終わりのない業務に心をすり減らすだけの日々。
自作した備前焼のぐい呑みに触れようとした瞬間、輝夜の視界がぐにゃりと歪んだ。
心臓が早鐘のように打ち、呼吸がうまくできない。
(あ、ダメ……これ、限界かも)
泥のような疲労感が全身を覆い尽くし、輝夜の意識は暗い底へと沈んでいった。
*
「……ん、っ……」
頬に触れる、冷たくて湿った感触。
土と、むせ返るような緑の匂いが鼻を突く。
輝夜はゆっくりと重い瞼を開けた。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、見慣れた官舎の天井でも、東京のコンクリートでもなかった。
鬱蒼と生い茂る、見たこともないほど巨大な木々。空を覆い隠す深い森の中に、輝夜は倒れていた。
オフィスカジュアルのブラウスとタイトスカートという、およそ場違いな格好のままで。
「どこ、ここ……? 私、倒れて……」
誘拐? いや、それにしては周囲の植生が日本のものではない。青や紫に発光する奇妙な苔が、木の根元にへばりついている。
混乱する輝夜の耳に、ガサッ、と草を踏み折る低い音が届いた。
――グルルルルル。
背筋が凍るような低い唸り声。
振り返った輝夜は、息を呑んだ。
暗闇の中から現れたのは、狼のようなシルエットをした三頭の獣だった。しかし、尋常ではない。体長は二メートル近くあり、爛々と輝く赤い眼球と、異常に発達した顎から粘ついた唾液を垂らしている。
間違いなく、地球の生物ではない。いわゆる『魔獣』という存在だった。
「ひっ……!」
後ずさろうとした輝夜は、木の根に足を取られて無様に尻餅をついた。
逃げられない。足がガクガクと震え、立ち上がることすらできない。
三頭の魔獣が、獲物を定めた残酷な瞳で輝夜ににじり寄ってくる。鋭い牙が、月明かりにギラリと光った。
(嘘、私、こんなところで死ぬの……?)
霞が関でどれだけ完璧な資料を作れても、政策の知識があっても、この暴力の前では何の意味もない。
死の恐怖に輝夜がギュッと目を閉じ、身をすくませた、その時だった。
――ドッドッドッドッ!!
突如、森の静寂を引き裂くような重低音が響き渡った。
強烈なヘッドライトの光が暗闇を切り裂き、魔獣たちの目が眩む。
木々の間を縫うようにして宙を舞い、輝夜と魔獣の間に割って入ったのは、泥だらけの巨大なオフロードバイクだった。
「グルァッ!?」
突然の乱入者に魔獣たちが怯んだ瞬間、バイクから一人の男が滑り降りた。
グレーのパーカーにジーンズ、足元はスニーカーという現代的な出立ち。
男は手にした短い棒のようなものを振るう。カシャンッ!という硬質な音と共に、棒の先から鋭い刃が飛び出し、一振りの『薙刀』へと変形した。
「……シッ!」
短い呼気。男の動きには、一切の無駄がなかった。
魔法のような派手な光はない。ただ、圧倒的なまでの洗練と暴力。
男は姿勢を低くし、波打つような独特の歩法で瞬時に間合いを詰める。魔獣が牙を剥いて飛びかかってきたが、男はまるで闘牛士のように体をズラし、その巨大な質量をいなす。
すれ違いざま、銀閃が煌めいた。
ワスプ薙刀の刃が魔獣の急所を的確に捉え、内部から破壊する。
一頭、また一頭と、ほんの数秒の間に、あれほど恐ろしかった魔獣たちが物言わぬ骸へと変わっていく。
静寂が、再び森に戻った。
男は薙刀についた血をパパッと払い、カシャンと折りたたんで腰に収める。
そして、左腕にはめられた無骨な黒い腕時計――G-SHOCKの盤面に視線を落とし、周囲に他の敵がいないことを確認したようだった。
「……」
男がゆっくりと振り返る。
身長一八〇センチを超える長身。しなやかで鍛え上げられた体躯。前髪の隙間から覗くのは、鋭くもどこか静けさを湛えた、黒曜石のような瞳だった。
男はパーカーの胸ポケットから水色のタバコの箱を取り出し、一本を唇に咥える。
シュッ、と軍用マッチを擦る小気味良い音が鳴り、オレンジ色の小さな炎が男の顔を照らした。
紫煙が、夜の森にふわりと溶けていく。
「怪我はないか?」
低く、よく通る声だった。
輝夜は呆然としたまま、コクコクと頷くことしかできない。
「……日本人だな。運が良かったな、あんた」
異世界の森の中で聞く、日本語。
タバコ――アメリカン・スピリットの少し甘い香りと、男が纏う土の匂い。
まだ少しぶっきらぼうなその響きの中にある、確かな『保護』の意志。
輝夜を見下ろす男の背中は、東京のどんな高層ビルよりも大きく、そして圧倒的な安心感に満ちていた。
「俺はルナミス帝国軍、派遣医官の中村優太だ。もう大丈夫だ、立てるか?」
優太と名乗ったその人は、腰を下ろして震える輝夜の目の前にしゃがみ込み、大きくて無骨な手を差し出した。
その温かい手のひらに触れた瞬間、輝夜の目から、張り詰めていた糸が切れたようにポロポロと涙がこぼれ落ちた。
過労で倒れたエリート官僚と、泥臭くも圧倒的に頼りになる最強の軍医。
二人の運命が交差したこの夜から、輝夜の人生は大きく、そして温かく変わり始めるのだった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
過労で倒れた輝夜を救ったのは、タバコを吹かすワイルドな軍医・優太でした!
ここから、スパダリ軍医に甘やかされながら、輝夜の持つチートスキルで村を大改革していく極上の癒やし&スローライフが始まります!
「輝夜ちゃん、生きててよかったね!」
「優太、ぶっきらぼうだけどカッコいい!」
「これからの二人の関係が気になる!」
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次回『泥臭い軍医官と、生きるための金曜カレー』
輝夜の胃袋と心が、優太の優しさで満たされます。お楽しみに!




