第四回 高知② 二十八番~三十二番札所(二日目)
二日目、ホテルをチェックアウトして、しばらく道路沿いを歩いていくと、やがて五台山トンネルに差しかかる。
歩道が設けられているトンネルだが、自転車も通っていたので、安全のため、小型の懐中電灯を点けながら通り抜けた。
これぐらいのトンネルなら、車だとあっという間だろうに、歩いていると長く長く感じられた。出口の光が見えたとき、胎内巡り、という言葉が頭をちらついた。
トンネルを抜けたあと少し進むと、鬱蒼と茂った木々に囲まれた遍路道を登っていくことになるのだが、ここでいきなりピンチに遭遇。
道を思いっきり横ぎるクモの巣に、行く手を阻まれたのである。
私はクモが何より苦手である。この虫の名を漢字で書くのもつらい。Gは平気だがKは本当に厳しい。大きかろうと小さかろうと、視界に入るだけで身の毛がよだつ。
目の前のクモの巣に何が引っかかっているか見ないよう、目の焦点を合わせないようにしながら、さてどうしたものか、頭を悩ませる羽目になった。
クモの巣を払って通るか。思いきって飛びこんでから体中はたくか。
もし、この巣の家主が私の服や鞄にくっついたとして、殺生しない自信がない。しかし、仮にも遍路の身で殺生をするのは、信仰心が強いわけではない私でも、さすがにタブー感をおぼえるというか、それは良くないと思う。
迷いに迷ったすえ、私がとった手段は、匍匐前進だった。身をかがめればギリギリくぐれそうなスペースが、クモの巣の下側にあった。
幸い、周囲に他の通行人はいなかった。これなら恥ずかしいこともない。私はクモの前に膝をついた。リュックがクモの巣にひっかからないくらい身を低くして、はいつくばって、突破。
頭の片隅を「さんぽ」の歌のあの歌詞部分が流れる。
くぐった後は振り向かず、数歩走って先に進んだところで、大急ぎでバックパックをおろし、ばたばたはたきまくった。
幸い、クモの糸の感触はどこにもなく、家主がついてきた様子もなかった。
今回いちばん心臓がバクバクしていた。同じようなことがこの先ありませんように、と本気で祈りながら、疲労のせいでなく早々に息を切らしつつ、ようやく、三十一番札所竹林寺にたどり着いた。
とてもきれいなお寺だった。楓の木々が立ち並び、今はまだ透明感のある緑の葉が茂っていて、紅葉の時期はさぞ見事な景色になるだろうと思わされた。ただ、今は今で、赤い五重塔とのコントラストが、背景の青空もあいまってあざやかで良い。
見どころの多いお寺だったので、前日に急遽行程をひとつ減らし、ゆっくり見て回れるようにして、改めて良かった。
境内の日吉神社の狛犬は親子像で、小さい子犬像が可愛い。
書院と庭園も、ちょうど拝観したタイミングで他に人がいなかったため、ひとりきり贅沢な時間を過ごせた。書院の畳に寝っ転がりたい気持ちになるほど、穏やかな空気が流れていた。
ゆったり過ごしたあと、出発。
県道三五九号から遍路道に下りるところでは、滑って転倒した。無傷だったが、たいして足場が不安定でもないこんな場所より、もっと他に転ぶところがあるだろう……。
そのあたりから途中まで、もときた道を戻るルートだったため、さっきのクモの巣のところをまた通らねばならないことが気がかりだったが、二度目の通過のときにはなくなっていた。安堵したことこの上ない。
遍路道を下りると、しばらくは下田川という川沿いにずっと東へ歩いて行くことになる。天気が良く、遮るもののないそこそこ長い道のりだったが、前回の遍路で痛い目に遭った私は、今回は帽子も日傘も装備してきていた。
が、台風が日本に近づいていたこともあってか、風が強く、帽子を被れば飛んでいき、日傘を差せばひっくり返る。自然の前に人間は無力。途中で諦めて、結局全身に日光を浴びながら歩くことになった。
教訓、次回以降に向けて、帽子クリップも調達すること。
風が強いことで涼しさもあり、前回のように危機をおぼえるほどの暑さにはならなかったのが幸い。
長く平地と住宅地近くの道が続いていたかと思うと、三十二番札所に向けて最後の最後に、土と緑の道へ分け入っていく。違う世界に連れていかれる心地がした。
五キロほど歩き続けてきた足で、さっきと比べると急に傾斜がきつくなった道を、いく度か折れ曲がりながら登っていく。
その道の終盤、石段を登りきったところが、三十二番札所禅師峰寺の山門だった。
山門の先にもさらに階段があり、さすがに息を切らしながら、本堂のあたりにたどりつき、納経前に息を整えようとベンチを探したところで、視界の左手に海が一望できる場所があって、妙に驚いてしまった。
道中の地図で、海の近くまで来ていることは知っていたはずなのに、道中全く海が目に入らないルートをたどっていて、ここで初めて海が見えたからかもしれない。
この景色を事前にインターネットなどで知ることがないまま、ここで初めて目にすることができたことは、幸福なことだったと思う。
以前のお遍路で、札所に関する事前知識を得ておきたい、と思ったことを記したが、景観など、視覚的な情報についてはむしろできるだけ知らないまま、当日初めて目にする感覚を大切にしたいような気がする。これだけ情報のあふれた時代において、ちょっと調べ物をしたらそんなもの、すぐに見つけられてしまうだろう。
けれど、禅師峰寺から海を見渡したときの、あまりにも新鮮な心の動きは、この先何度でも経験したいと思う。
事前準備において情報をいかに取捨するか、ネット民をそこそこ長くやっている人間の腕の見せ所だ。
ここにきてようやく気づいたが、遍路旅のやり方が、回を追うごとに変わってきているというか、こういうふうにお遍路をやりたい、という考え方が、一つ一つ新しく見つかっていくような感じがある。
最初に、こんなお遍路をやりたい、と思っていたこと通り進んでいる部分なんて、半分もあるかないか。次はどんな道のりになるか、計画立ててはいるけれど、計画通りいかないところこそが楽しみだ。




