07.文字の奔流
「日が暮れてきたな」
そう言って、イースは空を見上げる。
空は橙に染まり、一部はすでに夜の群青へと沈み始めていた。遠方の輪郭が曖昧になり、そろそろ灯りが必要な時間帯だ。
イースは近くに立てられた背丈ほどの杭の前へ歩くと、その頭部に手のひらをかざした。
短い詠唱。
その瞬間だった。
ミナトのこめかみに、鈍い衝撃が走る。
――文字だ。
獣との戦闘の時に感じたものと同じ。頭の奥に知らない文字が流れ込んでくる。それに少しでも意識を向けると、視界へも侵食してくる。
ただし今回は、強くはない。構造も単純で、流れも短い。軽い頭痛が起きる程度だ。
なんとなく、文字列の中から意味の分かる単語が見えた。火、固定。
イースが呪文を唱え終わると、一気に情報量が増え、文字が流れ込む速度が跳ね上がる。思考の奥に無理やり情報が押し込まれるような感覚。吐き気が遅れて追いかけてきた。
大量の文字列は、杭の上に火が灯ると同時に消える。
しかし残していった影響は消えない。ミナトはこめかみを押さえ、俯く。
やはり、この文字は魔法の呪文と連動しているらしい。
しかし、耳にした呪文はほんの少しでも、頭に流れ込んでくる文字列は桁違いに多い。
呪文そのものではない。呪文をきっかけに、その裏側で動く大量の処理を見せられているようだった。
最初に感じた、ソースコードやログのようだという感覚は、あながち外れていないのかもしれない。
魔法を使う人たちは、これをどのように処理しているのだろうか。気を紛らわすために考えてみるが、聞いてみないことには分からないことだ。
「……ん? どうした?」
イースはミナトの異変に気づき、視線を向けた。
「あ……いえ、大丈夫です……」
「本当に?」
純粋な心配の声だった。それが分かるからこそ、余計に言葉が重い。
「少し、頭痛がするだけで」
「辛かったらすぐ言えよ」
「ありがとうございます」
ミナトの返事にイースは頷き、歩き出す。
正直に言えば吐き気もある。そこまで言えば大事になる気がして、黙っていた。
イースを始め、魔法を使っている人たちは平気な現象なのに、自分だけが辛いと言って止めてしまうことも出来ない。まだ我慢できる範囲だ。
「じゃあ、次は飯の準備だな。手伝うこともあるだろ」
ミナトも遅れてイースの後ろに続いた。
問題は、その直後からだった。
移動の途中、広場のあちこちで変化が起こる。
イースが当たり前のような動作で灯りをつけていく。
備え付けの炊事場で、食事を準備するために火の魔法が唱えられる。
水場で濡れた布を乾かすために風が起こされ、少し離れた場所で荷物の運搬のために物が浮かぶ。
広場のあちこちで、別々の魔法が同時に動き始めた。
一つひとつは軽い魔法だ。単純で、分かりやすい構成だった。
だがミナトの頭の中には、それがすべて同じ種類の情報として押し寄せてくる。
火、風、浮遊、乾燥、加熱。ばらばらのはずの処理が、折り重なって頭の中に入り込み、視界を埋め尽くす。目を閉じてもそれは消えず、逃げ場がない。
「……っ」
息を吸おうとしているのに、うまくいかない。足がもつれる。何もない場所で体勢を崩し、そのままイースの背中にしがみつくように倒れ込んだ。
「おい、何やってんだ」
イースは軽く笑いながら振り返るが、すぐに違和感に気づいた。笑みが消える。
「……冗談じゃないな」
ミナトは立ち直ろうとするが、膝に力が入らない。イースの腕にすがっても、そのまま崩れていく。
「おい!」
イースは即座に腕を回し、落ちる前に体を支えた。周囲に目を走らせ、近くで手元のランタンに呪文を唱えていた騎士に向かって短く叫ぶ。
「水だ! 持ってこい!」
「え、あ、了解!」
騎士は突然のことに訳もわからず、しかしイースの腕の中のミナトを見て状況を理解すると、駆け出した。
「どうした? 具合が悪いのか?」
イースは膝をつき、ミナトを抱え直して顔を覗き込む。
「ぅ……」
返事をしようとして、言葉にならなかった。ひどい頭痛と吐き気に、脂汗と涙が滲む。
「真っ青だぞ……」
イースが呟いた直後、後ろから鎧が忙しなく鳴る音がした。
「どうした」
低い声。先ほどイースが声をかけた騎士ではない。イースが振り向くと、アルヴェインがいた。後ろにはローデリクもいる。
イース越しにミナトを見たアルヴェインは、すぐに回り込んで膝をついた。
「なにがあった」
鋭い視線がミナトを観察する。顔色。呼吸。意識の有無。問いはイースに向けたものでもあり、ミナト本人に向けたものでもあった。
「分かりません。先ほどまでは普通に話していました」
イースは即座に答える。
その腕の中で、ミナトは浅い呼吸を繰り返していた。胸が上下するたびに吐き気が込み上げる。目は閉じられ、眉間に深い皺が刻まれていた。
アルヴェインの視線が周囲へ流れる。
乾燥の魔法。荷を運ぶための魔法。食事を作る炎の魔法。
そして再びミナトへ。
「魔法か」
低く呟いた直後。
「各自、魔法の使用を中止しろ!」
アルヴェインのよく通る声が広場に響く。周囲の騎士たちは一瞬だけ顔を見合わせたが、すぐに従った。
風が止む。浮いていた荷が下ろされる。料理の火が消える。次々と魔法の気配が消えていった。
「あ……」
ミナトは薄く目を開き、大きく息を吐いた。頭の中を埋め尽くしていた文字が、引き潮のように遠ざかっていく。こめかみを締め付けていた痛みも、少しずつ和らいでいった。
「ありがとうございます……」
掠れた声で礼を言う。アルヴェインは鼻から長く息を吐いた。
「周囲で魔法が使われると体調を崩す。その認識でいいのか」
問われて、ミナトは言葉に詰まる。
「ええと……」
違うとも言い切れない。だが、それだけでもない。
「魔法を使った時に見える文字が……体に合わないというか」
「文字……?」
イースが眉間に皺を寄せて呟く。意味が分からないといった顔だ。
しかしアルヴェインは表情を動かさなかった。ただ静かに後ろを振り返り、ローデリクと視線を交わす。ローデリクはわずかに顎を引いた。
短いやり取りだったが、二人の間では何かしらの確認が済んだらしい。
「え、あの……」
思わず声が漏れる。イースは文字のことを知らないようなのに、この二人は何かを知っている。そんな気がした。
「何だ」
アルヴェインが視線を戻す。
「俺の言っていることはおかしいですか?」
尋ねると、アルヴェインは目を細めた。
「我々は通常、魔法を文字で認識しない。文字が見えるというのは、分からない感覚だ」
「そう、ですか……」
ミナトは俯いて小さく呟く。魔法というのはこういうものだと思っていたが、どうやら間違いらしい。
落ち込んだように見えたかもしれない。アルヴェインは短く息を吐く。
「だが、そういう症例は聞いたことがある」
「えっ」
ミナトは顔を上げた。
「それは、俺と同じということですか?」
「詳しくは知らない。魔導監査局の管轄だ」
「魔導監査局」
確認を兼ねて呟く。この一行の目的地、ミナトが連れて行かれる場所だ。
そこへ、コップに水を汲んできた騎士が駆け寄ってくる。アルヴェインはイースが受け取る前にそれを取り、ミナトに向けた。
「飲めるか」
「あ、はい。ありがとうございます」
ミナトが頷いて手を差し出す。アルヴェインはコップを渡そうとして、動きを止めた。ミナトの手が小さく震えている。
「イース」
「はい」
「支えてやれ」
アルヴェインはイースにコップを差し出した。
「了解です」
イースはコップを受け取り、ミナトの手に自分の手を添えながら握りこませた。ミナトは慎重に口を付ける。
冷たい水が喉を落ちて、腹の底にじわりと広がる。二口、三口と飲み込むうちに、気分の悪さがいくらか引いていった。
「……冷たいな」
不意にイースが呟く。支えた手に触れるミナトの指先が、驚くほど冷えていた。ミナトは返す言葉が思いつかず、また一口、水を飲み込んだ。
アルヴェインはミナトが水を飲み終えたのを見届けると、ゆっくりと立ち上がった。そして周囲を見回す。
「魔法の使用は当面控えろ」
低いが、よく通る声だった。
「必要な場合は私に報告しろ。その他は通達する。以上だ」
「はっ!」
一斉に返答が上がり、騎士たちはそれぞれの持ち場で作業を再開した。
「すみません……」
ミナトはイースの腕に支えられながら、力なく謝罪を口にする。結局、自分のせいで周りの行動が制限されてしまった。
アルヴェインは静かにミナトを見下ろす。
「隊の運用は私が決める。必要な時は、お前が倒れようとも使う」
「……ありがとうございます」
有事の際は配慮しない。それだけで、ミナトは少し気持ちが軽くなった。足手まといになるぐらいなら、多少乱暴に扱われても構わない。置いて行かれても仕方がないとさえ思っている。
アルヴェインはそんな気持ちを汲んだのか、静かに頷いた。そして踵を返す。ローデリクがその後を追った。
二人が離れたのを確認し、イースはミナトからコップを受け取って地面に置く。
「立てそうか?」
「多分……」
イースに支えられながら、ミナトはなんとか立ち上がる。
「魔法でこんなことになるなんて、今までどうやって生活してきたんだ?」
「んん……魔法が無い場所で生活してたので……」
「へえ。不便そうな場所だな……」
答えに詰まる。イースはそれ以上は聞いてこなかった。
魔法が使えないことは、やはりここでは不便らしい。それを周りに制限させてしまった。その重さが、じわりと胸にのしかかる。
「とりあえず、馬車で休んでおけよ。食事は運んでやるから」
「ありがとうございます」
お礼を言いながらも、イースの善意にすら申し訳なさが募ってしまう。




