07.別れの挨拶
その日の夕方、部屋で絵本の文字を書き写していると、扉がノックされた。
レヴィンのものとは違うと思った。もっと力強い。
ミナトはペンを置いて席を立ち、扉に近づく。
「どなたですか」
『アルヴェインだ』
「っ!」
扉越しでもよく通る低い声。
急いで扉を開けると、そこには確かにアルヴェインがいた。
「アルヴェインさん!」
思わず大きな声で名前を呼んでいた。
アルヴェインの目がわずかに見開かれたのを見て、ミナトは慌てて自分の口をふさぐ。
「すみません」
「いや……」
少しだけ反応に困ったようなアルヴェインは、いつもの鎧姿ではなかった。
立ち襟の濃紺の上衣はコートのように裾が長く、前を開けて着ている。その下には白いシャツが覗き、濃灰色のズボンを深い茶色の革ベルトで締めていた。腰には細身の短剣を帯びている。
上衣はゆったりとした作りだが、それでも腰の位置が高いのが分かった。すらりと伸びた脚を脛まで覆う編み上げのロングブーツが、ただでさえ長い脚をいっそう際立たせている。
衣服の装飾は控えめだが、生地には上品な艶があり、仕立ても一目で上等と分かる。よく見れば、襟と袖口には生地と同じ濃紺の刺繍が施されていた。
私服なのだろうか。いつもの鎧姿よりも、どこか柔らかく見えた。
「入ってください」
ミナトはアルヴェインを部屋の中に招き入れる。
イースはいずれ様子を見に来ると言っていた。それでも、本当に来るとは思っていなかった。
昨日、想像以上に多くの人間を束ねる立場だと知ったばかりだ。自分の様子など、イースから報告を受ければ済む。
だから、もう会えないかもしれないとも思っていた。
それなのに、来てくれた。
申し訳なさより先に、嬉しさが込み上げた。
椅子が机のところにある一脚しかなかったので、それを部屋の中央に引っ張ってきて置く。
「どうぞ」
「いや、すぐに行く」
アルヴェインは部屋の中に視線を巡らせた。
その姿を見ているうちに、妙に落ち着かなくなってくる。
昨日、その立場の大きさを知ったせいか、同じアルヴェインなのに少し違って見えた。
そんな人を自分の部屋に招き入れて、どう振る舞えばいいのだろう。
考えているうちに、アルヴェインの視線がこちらを向いた。
「体調はどうだ」
「はい。大丈夫です」
聞かれたことは、旅の間と変わらない。それだけで、少し肩の力が抜けた。
立場を知ったからといって、アルヴェインまで変わったわけではない。そう思うと、さっきまでの緊張は薄れていった。
「あの、会えて良かったです」
「……良かった?」
率直に伝えると、アルヴェインは怪訝そうな顔をした。
ミナトは少し視線を外し、腹の前で重ねた手を所在なく擦り合わせる。
「最後に会った時、まともに挨拶ができていなかったので。それが、ずっと気になっていたんです」
「今生の別れでもなかった。今だってこうして会っている」
「はい。それは、そうなんですけど……てっきり、もう会えないのかと思っていたので」
指を組み、ぎゅっと握る。
それからアルヴェインを見上げた。
「だから、会えてほっとしました」
アルヴェインの眉がわずかに上がった。
数度瞬きをしたあと、眉間に薄く皺が寄る。
「それほど、別れの挨拶をしておきたかったのか」
「えっ……」
思ってもいなかった言葉に、ミナトは固まった。
その言い方では、きちんと別れを済ませて、自分との関係を終わりにしたかったのだと思われているようだった。
「いえ……そういう、つもりでは……」
では、どういうつもりだったのか。
何も言えないまま離れてしまったことが、ずっと引っかかっていた。
それ以上のことを、うまく言葉にできない。
戸惑ったまま見上げると、アルヴェインの涼やかな目元が、先ほどよりわずかに強張って見えた。
「ああ……いや」
アルヴェインが眉間を指で押さえる。軽く首を振り、改めてミナトを見た。
「今のはこちらの受け取り方が悪かった。忘れてくれ」
そう言われても、小さな引っかかりだけが残った。
言葉を探せないままでいると、アルヴェインが話を切り替えた。
「様子を見に来た。不便はないか」
「あ……はい、よくしてもらっています」
「あれは?」
アルヴェインは机の方へ視線を向ける。
机の上には、絵本と紙とペンがある。
「文字の練習をしていました」
「覚えるように言われたのか」
「いえ、自分が覚えたくて」
「そうか……邪魔をしたな。無理はするな」
アルヴェインは頷き、踵を返した。
「あっ、ありがとうございます」
ミナトはお礼を言ってその背中を追い、アルヴェインより先に扉を開けた。
アルヴェインは部屋を出ると、振り返った。
「また来る」
その短い言葉に、ミナトは目を瞬かせた。
何のために来るのかは分からない。けれど、また来てくれるらしい。
胸に残っていた小さなつかえが、そのひと言でほどけていく気がした。
自然と口元が緩む。
「はい、待ってます」
アルヴェインは小さく頷き、そのまま廊下の向こうへ歩いて行った。
その背中を見送ってから、ミナトは扉を閉める。
振り返ると、使われなかった椅子が寂しげにぽつんと置いてあった。
その椅子を眺めながらゆっくり歩き、そこに座る。
ここにアルヴェインを座らせて、自分は何を話す気だったのだろうか。
改めて考えてみるが、特に思いつかない。
それでも、部屋にもう一脚、椅子を用意してもらおうと思った。




