01.溢れる文字列
次にミナトの意識が浮上した時、真っ先に目に入ってきたのは空だった。
高くて、青い。
こんなに広い空を、久しく見ていなかった気がする。
視線をぐるりと回すと、生い茂る木々が見えた。森の中のようだ。
いつの間にこんな場所に来たのだろう――
手足が動くのを確かめながら、ゆっくりと上体を起こす。爽やかに吹き抜ける風を頬に受け、もう一度空を見上げた。
身体に異常はない。だが、意識を自分に向けたところで、別の違和感に気づいた。
見慣れない記号の羅列が、頭の中を流れている。
視界に浮かんでいるわけではない。それなのに、ひとつひとつの形が分かる。目を閉じても消えず、瞬きをしている間にも絶え間なく流れ続けていた。
長時間モニターを見続けたあと、目を閉じても文字の残像がちらつくことがある。感覚としては、それに近い。だが、これは目に焼きついたものではなかった。見た覚えのない形が、今も新たに頭の中へ送り込まれている。
「なんだこれ……」
単なる模様にしては、並び方が整いすぎている。同じ形が何度も繰り返され、いくつかのまとまりに分かれ、その間には区切るような空白がある。
文字だ。
意味はひとつも分からない。それでも、何らかの規則に従って並べられた、知らない言語の文字なのだと思った。
意識を失う前に感じた、自分の身体が文字へ置き換わっていくような、あの不可解な感覚。その名残なのだろうか。
不意に、背後の茂みが鳴った。
慌ててそちらに目を向けると、薄暗い木々の合間に人影が見えた。二人、だろうか。静かに動いている。
警戒する気持ちがないわけではない。だが、ここがどこなのか聞けるかもしれない。そんな期待を込めて、腰を上げる。
その次の瞬間、左側の茂みが弾けた。
咄嗟に振り向く。土と葉が飛び散って、大きな影が飛び出してくる。
「わあ!?」
反射的に声が出る。
低く、速く、距離が一瞬で縮まる。
避けようにも、間に合わない。
そう思った次の瞬間、何かが横から影に激突した。
耳をつんざく衝撃音とともに、巨体が横に弾かれる。それは木に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。パラパラと葉が散る。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
呆然としたまま、へたりとその場に座り込んだ。
影の正体は、野生の生き物だったようだ。大人の熊ほどの大きさで、猟犬のようなスマートなフォルムなのに、毛ではなく鱗に覆われている。ひくひくと手足を小さく痙攣させているだけで、起き上がる気配はない。
「なんだよ……」
思わず声が漏れる。
大きな口、大きな牙、そして鋭い爪。見たことのない風貌だった。この爪で引き裂かれていたかもしれない――そんな考えが頭をよぎると、ゾッと背筋が粟立つ。
「無事か」
呆然としている間に、背後から低い声が降ってくる。短い一言。抑揚がなく、確認事項を読み上げただけのような声だった。
振り返ると、鎧を身にまとった男が立っていた。
木漏れ日の中で、髪の金色と鎧の銀色が静かに輝いている。深い青の外套をなびかせながら、一歩ずつこちらに近づいてくる。ゲームやアニメに出てくる騎士のようだ。
あまりにも現実離れした姿に、映画の撮影かと思う。
しかし、その考えはすぐにかき消えた。
背後で草木が激しく鳴る。
「こっちだ」
振り返る前に、騎士にスーツの肩を掴まれて体が浮く。そのままものすごい力で後方へ放り投げられた。地面に突っ込まないように腕を前に出して支え、なんとか振り返る。
ギィン! という甲高い金属音が聞こえた。騎士が抜いた剣が、先程の獣の爪を弾いた音だ。
「団長!!」
叫び声のような大声とともに、横の茂みから別の騎士が姿を現す。手にしていた盾で、獣めがけて突進した。
ゴォン、という鈍い音がして、獣は横に態勢を崩す。
「ッ、硬い!」
盾の騎士は呻きながらも踏ん張り、もう一度獣に突進する。
金髪の騎士が言葉を紡ぎ出した。
「万象を満たし、世界を巡る根源、リュドーよ――」
耳慣れない堅苦しい言葉が、その先に続いていく。次の瞬間、頭の奥に痛みが走った。
文字が流れ込んでくる。
先ほど見えた残像のような文字よりも、ずっと鮮明だった。キーボードで打ち込んでいる最中の文字表示を眺めているかのようだ。
そして強烈な違和感。
それらは規則的に並び、複雑に枝分かれしながら組み上がっていく。
何らかの構造を持っているのが直感的に分かる。プログラミング言語で書かれたソースコードのようだ。
そう考えた次の瞬間には、もう、意識が文字列を追いかけていた。構造を理解しようとしている。
文字に気を取られている間に、金髪の騎士の周囲には光の線が踊り、獣に向けて突き出した手のひらの中へ集まっていく。周囲の空気が引き寄せられ、拳ほどの大きさの球体に圧縮されていく。
球体がわずかに膨らんだ直後、頭の中で文字が弾けた。
空気の塊が、獣に向かって射出される。
頭の中で構築されていた文字がバラバラになる。かと思えば、怒涛の勢いで次から次へと流れ込んできた。
頭が痛い。
激しい痛みに、頭を抱えてうずくまる。
目を閉じても文字列は止まらない。黒くなった視界を埋め尽くす。
プログラム処理中のログに似ている。状況を淡々と記述するそれ。痛みの中でも、どこか見慣れた景色があった。
轟音と共に、獣が吹き飛んだ。細い木をなぎ倒し、土煙と葉や枝を撒き散らしながら茂みの奥へ消えていく。
球体が霧散すると同時に、頭の中の文字も一気に流れ去った。残ったのは、頭痛だけだ。
「負傷したのか」
うずくまっていると、またあの声がする。
「大丈夫です……」
片手で頭を押さえながら身を起こす。金髪の騎士が目の前に手を差し出してくる。
躊躇した。人と接触することは、あまり得意ではない。しかも初対面だ。
それでも、助けようとしてくれている。その気持ちを無下にもできず、おずおずと手を取る。
騎士に引っ張り上げられるように立ち上がると、すぐに手が離れた。
「今のうちに――」
騎士が言いかけた瞬間、突然、抱き込まれる。鎧に顔面を打ち付けて痛みが走ったが、気にしている場合ではない。
足が浮いて宙をかく。抱きかかえられたまま振り回されて、地に足がつくと軽いめまいがした。
「無事か!」
騎士が声を上げる。鎧の金属がジンと震え、顔の骨に伝わって響く。
盾の騎士が、盾を支えに地面に膝をついていた。
「申し訳ありません!」
すぐに彼は立ち上がり、盾を構える。
獣の姿が確認できない。
「時間を稼げ!」
「はい!」
盾の騎士は右手側の茂みに向かって構える。あちらに獣がいるようだ。
金髪の騎士がミナトを抱えたまま剣を地面に落とし、手を前に突き出す。そして言葉を紡ぎ出した。
「万象を満たし、世界を巡る根源、リュドーよ――」
そのあとに続く言葉も、先ほどと同じだった。途端に、頭へ流れ込んでくる文字列。だが、痛みは先ほどとは比べ物にならないほど強い。
それと同時に、騎士の手に掴まれている肩が熱くなる。その熱が焼けるような痛みを伴って身体に入り込んでくる。そして全身を駆け巡る。
どこもかしこも痛い。わけが分からない。
それでも、文字から目が離せなかった。意識が文字に持っていかれる。
並ぶ文字列。知らない言語。意味は分からないのに、構造は分かる。
先ほどと同じだ。そして、不思議と、美しいと思った。綺麗に整理されたコードを見た時のような、静かな感心。だからこそ、その中に繰り返し現れる文字列が目についた。
こんなに綺麗なコードなのに、無駄がある。処理が重複している。直感的にそう思った。
こうすれば、もっと、きっと――そう考えた瞬間、文字列が揺れた。
「あっ……」
一瞬の静寂。文字が消えた。
しかし次の瞬間には怒涛の文字列に襲われた。頭を引っ掻き回されるような激しい頭痛。胃がひっくり返るような不快感と吐き気。
ピュウッ――と空気を鋭く切り裂くような音がした。
顔を上げると、獣が細い光の筋に貫かれて吹き飛ぶ瞬間だった。
さっき見たものとは、明らかに違っていた。同じ呪文だったはずなのに。
肩を抱く騎士の腕の力が、強くなる。
そこで意識は途切れた。




