2-15
息が切れる。振り返る余裕はなく、しかし、いつも感じていた見られているような気配がないことに安堵と解放感を覚える。石畳を叩く足音はアヴァのものだけ。それが、走ることに集中しているために聴覚が封じられたからなのか、本当に誰も後ろにいないからなのか、焦燥感に追われるアヴァには判断がつかない。
そんな彼女を落ち着かせたのは、ネズミの鳴き声だ。それだけは、いつもとなんら変わりない。焦燥感に流されることはなく、現状を顧みさせない自然な声は、アヴァの足を止めるに至る。
何度か建物の角を曲がってきた。最後にもう一度曲がり、建物の壁に手を当て、アヴァは肩で息をする。体が傾いてから、肩に乗っていたはずのフィンの存在を思い出す。鳴き声はただ、アヴァを制止させることしかできていなかったのだ。
不安になった彼女は、ゆっくりと上体を起こそうとするが、途中で首に訪れた感触に気づき、安心するともう一度荒く息をつき始めた。
しかし、息が整うのは待たず、意識を聴覚に傾ける。どんな音も届かない。しいて言えば、アヴァ自身の拍動音ばかり。足音も甲冑の音も入っては来なかった。
そこまで気づくと、アヴァは止めていた足を進めながら、息を整えることに専念した。その場に止まっていることが不安だった。足の裏は固い床の反動が響き、鈍い痛みがジンジンと広がっている。本当はもう歩きたくなどないが、そんな彼女の意思を無視するかのように、足は進んで行く。
しばらく壁に体重を預けつつ歩いていると、ようやく息が落ち着いてきた。考える余裕も出てくる。
一体、この後どうすれば良いのだろうか。
逃げ切る、というのは、もちろんそれが目的だ。しかし、表口から町を出ようとすれば、必ず見咎められることだろう。それに、兄のことを置いていくなんて考えはできなかった。
一旦、どこかに隠れるのが一番だ。騎士は闘って勝てる相手ではないし、兄もこの事態を知れば合流できるはずだ。アヴァは、そう考える。ブラムも捕まるのでは、ということには思い当たらない。
そして、記憶を辿る。この町で頼れる人物や施設など、そうそうない。さらに、騎士の方がこの町には長くいるのだから、自分の思いつく限りの場所に隠れたところで、簡単に見つかってしまうだろう。
また、孤児院に戻るというのも考えたが、すぐに頭を振る。騎士が見張りにいないとは、とても考えられない。やはり、隠れるしかないのだ。それも、ブラムだけに気づいてもらえる場所で。
お兄様は、今どこにいるのかしら。
向こう側へ渡ることができない以上、こちら側で隠れるしかない。しかし、それだってそうそう広くない。もしも、ブラムがこちらへ探しに来てくれているのであれば、歩いているうちに偶然にも合流できるということはあり得るだろう。それはあまりにも、夢みたいな可能性だが。
兄との合流を置いておき、彼女は記憶を遡る。誰でもいい、どこでもいい。孤児院の他に、助けてくれる存在や、場所はないだろうか。
思い返せば、この町での記憶は孤児院でのことばかり。見知った子供たちの声。先生の声。これから先、生きる上で頼りになるはずのそれらも、今ばかりは掬っていられない。
そうして、やっと、アヴァは一つの記憶に思い至った。
それは、後ろにいる誰かに、初めて気づいたときのこと。どこかに向かったわけでもなく、あのときもただ逃げるように進んでいた。そして、その先に、お爺さんがいた。
神話について教えてくれた人だ。そしてその人は、困ったことがあれば頼れ、と言っていた。更には、よくよく思い返してみると、神話や宗教に裏付けられた権力に対して、わだかまりを抱いていたようにも感じられた。
アヴァが追われている理由は、悪魔に関係する者だと疑われていること。そして、それを向こう側の人間が言ったことだ。
盗み聞きの記憶と、お爺さんの様子を擦り合わせてみれば、もう行く先はそこしかないように思えて来た。ただし、問題は、その場所を正確に覚えていないこと。
アヴァは、出歩くことが少なかったことを後悔した。その原因は謎の気配だったために、アヴァだけの責任ではないが。
アヴァは後悔を打ち切り、息を整えることに集中する。きっと、騎士が追いついてこれないのは、鎧の重さが理由だろうと彼女は見当した。
彼女は窓の枠を越えて出て来たが、鎧でそのような芸当ができるとは思えない。それに、周りに待ち伏せている騎士がいなかったことから、来たのは二人だけ。
体力さえ十分にあれば、再び出会うことがあっても、逃げ切れるんじゃないかと考えていた。問題は、体力の絶対量に差があるだろうこと。振り切れなければ、いずれ体力が尽きて追いつかれてしまう。
まずはゆっくり、この静かな町なら気配には気づけるだろうと考えて、アヴァは慎重に歩き出した。まだ、音は耳に入ってこない。記憶を揺り起こして、あのお爺さんの家までの道を浮かべようとする。
不鮮明ながらも、町並みだけは想起できる。ただ、そこで気づいたが、アヴァは自分がいる場所すらわかっていなかった。
路地にいるため、両脇は建物の壁。前と後ろには、陽の光で明るい、通りが見える。しかし、この景色を見たことはない。
ひとまずは、外の道を確認しよう。
アヴァは壁に沿って、大きく息を吸う。そのまま息を殺し、顔だけを通りに出す。
誰の姿もない。あるのは道と建物だけ。特徴になるようなものもない。ただ、向こう側とを隔てる壁だけは、印となる。
今いる場所は、どちらかといえば中央の通りから右寄りの場所のようだ。右側の壁の端が見えた。そして壁との距離感から、町の入り口よりは壁側にいる。
逃げ出すなら入り口側へ行くべきなのだが、逃げ場のない壁側に来てしまった。それは考える余裕がなかったからなのか、それともいつだって信頼できるその人を無意識に求めたからなのか、それはわからない。
アヴァは顔を路地に引っ込めて、考え直してみる。お爺さんの家、その帰り道、きっと壁だって見たはずだ。それは、大体どの辺りだったか。
落ち着かない鼓動を無視して、必死に記憶を手繰り寄せると、それはとうとう捕まった。ただ、それは頼りないものだ。
壁のどちら側か、わからない。真正面にそびえ立っていた壁は、端が見えず、ただ壁が広がっていたのだ。中央の右側か左側か、それはわからないが、少なくとも中央に近い通りのはずだ。それなら、左側に向かっていって、あとは記憶と照らし合わせて。
中央の橋にいる騎士の視界に入らないよう、それだけは注意することを考える。
「フィン、わたしから離れないでね」
声は切羽詰ったようでいて、言って聞かせる意思を込めた忠告のようでもあった。それは、フィンの安全と、彼女自身の心細さを抑えるために。離れるなどという考えは、一欠片も抱いていなくとも。
肩に乗るわずかな体重を気に掛けつつ、彼女は通りに顔を覗かせ左右を確認。誰もいないことを認め、足音を立てないよう早歩きで向かいの路地に入り込む。
相変わらず、足音は聞こえない。顔を覗かせても、誰もいない。警戒心を緩めることはないが、町の人々がいないおかげで見通しが良いのは、彼女にとって喜ばしい状況だった。
しかし、もしも、これが大変な事件だと扱われれば、騎士達が見回り針を通せる程の穴もなかったことだろう。
アヴァは足を踏み出し、次の路地へ。追ってきていたであろう騎士は、一体どこにいるのだろう。見通しが良い通りに立っているものだと、彼女は考えていた。もしかしたら、一人は孤児院で話を聞いたり見張ったりしているのかもしれない。それなら、早く動いた方が有利に働く。
通りの左右を確認する。
「あ」
アヴァは思わず声をあげる。通りの右側、壁の方から、一人の男性が歩いてきていた。そしてそれは、アヴァが最も頼りにできる人物。
「お兄様」
周りを確認し、他に人がいないことがわかると、アヴァは通りに躍り出た。
「アヴァ! 無事だったか」
「はい」
ブラムの格好は、軽い防具といつもの帯剣。装備はそれだけだ。黒い手袋に、鉄の膝当て。上も下も衣服で、戦闘に対しての防御力は気になる。
「でも、どうしてお兄様はここに?」
「詳しい話は後だ。まずは、安全を確保するぞ。アヴァはどこへ向かおうとしてたんだ?」
「前に出会ったお爺さんのところです。いろいろ考えて、そこがいいかと。場所はわからないけど」
「わかった。なら、ついてきてくれ」
ブラムに従い、彼女はあとについていく。安心感は気を緩ませたが、大丈夫だろうとどこかで考えていた。
「合流したか」
ブラムが通りを見て、呟く。
「なにかあった、んですか?」
アヴァがブラムと、間を空けて再会するのは二度目だ。今置かれている状況のせいもあってか、彼女は再びブラムへの態度に迷う。今まで、年上の男子とはあまり話すことがなく、最近はほとんどがキーファが相手だ。敬語の癖が抜けない。
「お前を追ってた騎士と、橋にいた騎士が合流して三手に別れた。最低でも一人、最悪で二人とぶつかるな」
橋からこちら側へは、左右と通りの三方向へ向かうことができる。橋を放置する訳にはいかないし、それぞれの方向へ一人ずつ騎士が向かったのだろう。
そして、その騎士の一人は、今まさにブラム達が面している通りを歩いているのだろう。途中で曲がれば問題ないが、左右の路地を確認しながら、通りを歩き続けている。
「仕方ない。距離が近くなる前に強行突破だ。アヴァ、準備はいいか?」
「え、はい。待って。一回だけ」
アヴァは大きく息を吸い、そして吐く。緊迫感に詰まっていた息が、飲み込まれ吐き出された。まだ整い切ってはいないが、走れるくらいには体力も回復している。
アヴァは様子を伺ってくるブラムに頷き、差し出された手を取る。せーの、と小声の合図に合わせ、彼女は足を踏み出した。
ブラムのそれより一歩早かったが、それくらいで丁度よかった。引っ張られるがままに、転ばないよう必死に足を前へ出す。もしかしたら、ブラムは速度を落としているのかもしれないが、体力の回復し切っていないアヴァには、それでもまだ十分ではなかった。かといって、これ以上遅くなれば、追いつかれてしまうことも必至だ。
路地へ視線を向けていた騎士も、前を向いて横切る二人の姿に気付く。一瞬、対応できずに足が固まったようだが、すぐに対処して追いかけてくる。どう見ても、アヴァより早かった。
「追いつかれるか?」
後ろを振り返る余裕はないが、少しずつ大きくなっていく足音と鎧の音に気付く。手を伝わって感じるアヴァの体重の増減から、速度を落とさなければ転びそうな感覚もあった。
「フィン!?」
ブラムは、立ち止まって騎士の相手をしようか、というところまで考えたが、そのとき声がした。
「お兄様! フィンが! フィンがっ!」
ブラムはその声を無視した。代わりに速度は緩める。しかし、進むことはやめない。
「お兄様!?」
具体的になにが起こっているのか、ブラムにはわからない。ただ、あの賢いネズミのことだ。おそらく、アヴァのために時間稼ぎをしようと考えたのだろう。
「フィンなら大丈夫だ! きっとな!」
それは、信頼でもあったし、希望でもあった。いかに賢いネズミであろうとも、体格差から騎士を撃退することはできない。しかし、時間を稼ぐのならば、その小さい体で注意を引く必要はある。
そう考えれば、フィンは危険な行動をしているはずだと、叩き潰されてしまうかもしれないと、ブラムはわかっていた。
しかし、それでも、アヴァには代えられない。
アヴァは、意識が揺り動かされていた。前を見ていなければ、足を進めなければ、転んでしまいそうだ。そうすれば、騎士に捕まってしまうのは確実だ。だけど、肩から消えた体重は、後ろの脅威に挑みにいってしまった。
顔に張り付いて爪を立て、掴まれるかと思いきや手の影に気づき回避する。そして、器用に体の上を歩き回って、鎧の部位がないところを狙って爪を立てる。全身鎧であったならどうしようもなかったが、動きやすさを考えた軽鎧であったことと、フィンの賢さ故に成功していた。
それでも、アヴァの肝は冷えるばかりで、いつフィンが捕まってしまうか気が気ではなかった。それでも、引っ張られて足を止めることはできず、フィンと騎士は遠ざかっていく。
ブラムが足を止めない以上、わたしが足を止めれば転んでしまう。そして、傷ついてしまう。そんな痛みで歩けなくなるとは思えないけど、逃げる時間はかかるし、無駄にした時間で追手が増えることも考えられる。
思考の理性的な部分と感情的な部分がせめぎ合う。しかしそれは、ブラムの大丈夫だという声が勝敗を分け、感情的な部分を切り捨てた。今のアヴァだからこそ、できてしまう決断だった。
「あと二本だ!」
それが通りの数であるのか、路地の数であるのか、どちらでも良かった。ただ、そこへフィンがついてくることを願うだけ。落ち着いたら、あとで探しにだって行く。
「くそっ!」
足を止めない代わりに、強制的に注意力を失う。路地から通りに出た瞬間、素早く首を巡らせてみると、そこには騎士がいた。静から動へ転ずる分、動き続けているアヴァ達は差をつけることができた。ただ、さっきに比べて、アヴァの足がもつれかけているのも確かだった。
余裕のなくなってきたブラムが、自然と速度を上げていた。対して、体力を奪われたアヴァ。二人の速度は反比例していた。
「もう少しだ!」
通りに出る。叫びとともに足を止め、ブラムは前のめりになったアヴァを背中で受け止める。背後を振り向くと、騎士が近い。
「お兄様?」
なぜ足を止めたのか。前のめりになって自然と下を向いた視線の先には、右へ曲がろうとした意思の名残が見える。そして、顔をあげると同時に、声がした。
「アヴァ?」
声がした右を向くと、レイラを筆頭に見知った女子の面々がいた。彼女らは、路地から突然現れたアヴァともう一人に、目を丸くさせていた。
「走るぞ!」
アヴァが声を掛けあぐねていると、ブラムの声がして手を引っ張られる。態勢は整っていなかったが、足を踏み出してその動きに倣う。
「後ろの人を止めて!」
路地へ滑り込む直前、聞いてくれるかはわからないが、アヴァはそう声を発した。そして、真っ直ぐ進み、ブラムが左へ曲がるのを感じた。アヴァの意識は右に曲がろうと思っていたために、足を捻りかける。
「止めてくれたなら助かるが」
いくつか家を過ぎて、一件の前で足を止めると木製の扉をノックする。振り返ってみるが、騎士が来る様子はない。
「来たな」
扉が開くと、現れたのはアヴァが頼ろうとしていたお爺さんだった。
「久しぶりじゃな。入れ」
家の中に入る。家具は極端に少なく、椅子が数脚と机があるだけだ。人が住む場所には思えない。そして、男性が一人立っていた。
「ついていけ」
老人が男性を指差しそう言うと、男性は一礼して歩き出す。ブラムとアヴァは、無言でその後をついていく。アヴァは、ブラムに引きずられるように、というのが正確だろう。
床は木製のようだった。先を行く男性は、隅の床を指差し、手を掛ける。すると、それはいとも容易く外れる。そして、大人が一人通れるくらいの穴ができた。
「中へ」
男性は短く言って、足から先に中へ入っていった。態勢からして、梯子が掛かっているように思われた。
「お兄様、説明して」
「わかった。簡単にだが、俺はお前が捕まりそうだと聞いて助けに来た。そして、この人たちは今のこの国に不満を持っている。俺はそこに関わりを持った。この人たちは、俺たちを助けてくれる。これでいいか?」
丁寧な説明ではなかったが、アヴァはひとまず納得した。あとは、もう一度詳しく説明してもらうとして、今は想像で補うしかない。
「フィンは、本当に大丈夫かしら」
女子たちは、大丈夫だと思いたい。たまたま通りがかっただけだし、足止めをするにしても、レイラならうまい言い訳を考えてくれるはずだ。そうなると、フィンだけが心残りだ。
「あとで保護してもらおう。万が一のときは……」
先は言わない。ブラムは、アヴァに能力を使わせたくない。だが、もしフィンの命が失われたとしたら、そのときは必ず使われることになるだろう。あるいは、それを意識していたから、フィンを置いていけたのかもしれない。
その思考の矛盾に気づいて、ブラムは口ごもってしまった。
「アヴァ、行くぞ」
それを誤魔化すようにして、彼は穴の中へ入っていった。ブラムの姿が見えなくなると、次はアヴァの番だ。
穴の中を覗き込むと、やはり梯子が掛かっている。しかし、どれだけ深いのか、底が見えない。暗く、深い、闇に覆われた穴だ。ずっと見ていると、走って来た疲れもあって、そのまま吸い込まれてしまいそうな気がする。そして、取り込まれてしまいそうな。
実際には、そんなことがあれば、自身の命が失われてしまうだけだと知りつつも。もしくは、ブラムが支えることになるだろう。
「お嬢ちゃん。これからよろしくな」
背後から、老人に声を掛けられる。なにがよろしくなのか、いまいち理解できないが、アヴァはとりあえず頷いておいた。なかなか整わない息で、考える力が回復しない。
息を大きく吐く。吸って、もう一度。
改めて穴を見て、体が震えた。なにかが、自分を覗き込んでいそうだ。
振り払って、ブラムがいるのだから大丈夫だと、そう安心させて、梯子に足を掛けた。
そして、アヴァは穴を降りていく。その行為は、大きな生き物の喉を降っていくような感覚を、彼女に与えた。
ここで入れるか迷いましたが、やはり構成は崩さずに断章を挟みます。
これからも、本編→断章→道程→本編、は崩さない予定です。




