2-7
「先生、おかえりなさい」
出迎えたのはレイラだ。他の子ども達は、まだ勉強をしていたり、駆け回っている途中で帰宅に気づいたようだった。
「はい。補習はどうでしたか?」
「無事に終わりました。それで、文字の習得に移ったんです。ただ、えっと、信じられないかもしれませんが、ネズミが一緒に勉強していて。確か、その人のです」
レイラはアヴァを指差した。アヴァは、ネズミという単語が出てきた時点で、もしかするとそうなのではないかと見当はつけていた。
「あの子は賢いから、本当に字も憶えられちゃうのかも。わたしだって、まだ完璧じゃないのに」
「賢いにしても、文字に興味を持ち更に勉強までするとは、なかなか興味深い。他には何もありませんでしたか?」
「えっと……はい。何もありません」
何かを言いあぐねるようなレイラに、キーファは違和感を覚えたようだった。口を開きかけたが、一人の男子がレイラに声を掛けた。
「レイラ姉ちゃん、男の人が来たこと言わないのか?」
「それは、うん。男の人が来ましたけど、大したことじゃなかったです」
「なんの用事だったんですか?」
「その、孤児院がちゃんとやっているかどうか、確認しに来たみたいです。もちろん、完璧です」
「……そうですか。わかりました、ありがとうございます。お疲れ様でしたね」
キーファが、レイラの頭を撫でる。レイラは顔をうつむかせていたが、どうやら嫌がっているというわけではないようだ。アヴァには、それくらいしかわからなかった。
「では、食事の準備といきましょうか。勉強している子達は、そのまま集中してもらって、私たちでやりましようか」
まだ文字の読み書きに不安を持っているアヴァは、勉強の方へ行きたかった。しかし、それは自分のことしか考えていないように思えて、感じが悪いかな、と考えて辞めておいた。
* * *
食事中、アヴァの元へフィンが寄ってきた。紙を見せてきて、そこには日本語でいう「あいうえお」が書かれていた。
「そのネズミ凄いんだぜ! ネズミなのに、あいうえおが書けるんだぜ!」
目を輝かせた少年が、まるで自分のことのようにアピールする。フィンも、胸を張っているように見えなくもない。
「そう。凄いわね」
人差し指でフィンの頭を撫でると、フィンは気持ちよさそうに鳴き声をあげた。
「人語を理解しているという話でしたね。理由はわかりますか?」
自分の力のせいかもしれない。それは思っていたが、実際にそうなのかはわからない。そこで、兄やガルトの考えを言うことにした。
「このネズミは拾ったんですけど、お兄様はフィンが昔、誰かに飼われていて、芸として言葉を教えようとしたんじゃないかって」
アヴァとしては、少し納得がいかない。フィンと仲良くなれたのは、蘇ってからだと思えたからだ。それまでのフィンは、果実を求めて近づいて来ただけなのではないかと思う。
「ふむ、なるほど。しかし、どうやって教えたんでしょうね。興味深い。また、言語を理解していても、話すことはできないと。
動物の鳴き声が、偶然にも人のものと同じになる例は見つかっていませんが、もしかしたら元々、人と同じ言葉は話せないのかもしれませんね」
「先生、考えるのは食べ終わってからにしてください」
レイラがキーファを窘める。と同時に、アヴァはレイラに睨まれるのを感じた。
もしかしたら、キーファの興味が私やフィンに移ることが嫌なのかもしれない。
「レイラさんは、私の歯止めになってくれてますね。助かります。それと、アヴァさん」
「なんでしょう?」
「普段はこれほど、授業は長くないのです。私は、子ども達の興味を大切にしたいので、基本的なことを教えたら、あとは自由に動いてもらっています。
そして、知りたいことがあれば、それを学ぶ。もちろん、教えられる人間がいれば、の話ですが。明日から教えてもらいたい薬草の知識についても、衛生に興味を持った子ども達に対してとなります」
アヴァは頷く。レイラが怖くて、あまり彼女がいる場で話し掛けるというのができなかった。キーファは気づいていないのだろうか。
レイラと話している様子を見ていると、気づいていなさそうだ。アヴァの知る恋というものは、まだ両親の様子でしかなく、その雰囲気と違うことから察するしかない。
「それでは、皆さんそろそろ部屋へ戻りましょう」
夜の外は騎士が見回っているらしいが、ときどき人が消えるという事件も起こっているらしい。そこで、夜になると排泄は複数人で行き、全員が済ませると部屋から出ないようにする。これまでそうしてきたらしく、アヴァもそのルールに則っていた。
「アヴァさん、この町はどうでしたか?」
ジーンと二人きりの部屋。フィンは、またどこかへ行ってしまっている。最近のフィンは、朝型から夜型の生活に戻っているような気がする。それでも、昼には起きているので、字は学べるのだろう。
「どうって言われたら困っちゃうね。キーファ先生の話もあったし、多分、とっても良い町ではないんだろうね」
「そうですね。奥の町はいいところなんだと思います。でも、こっちの方は、子どもができても邪魔だからと、捨てられることがあります。町も大人が出払っているので静かです」
町が静かなのは、大人が家畜の処理をしたり、わたしの知らない仕事をしていたりするからだったのか。この町の人が特別なのかと思ったけど、そもそも出歩いている時間に、人がそんなにいなかったということだ。
「わたしは、出られるのなら、この町を出たいと思っています。そして、もっとすごくいい町で住みたいです。かっこいい人と結婚して、それで、それで……わからないですけど、きっとすごくいいはずです!」
アヴァは結婚という単語から、一人の少年を思い出す。憎悪の目は、一生忘れられないだろうと思っていたのに、だんだんと記憶から薄れていくようだ。あとには楽しい記憶しか残っていないのに、きっと嫌われているという事実は変わらない。
彼は今、どうしているのだろう。
「アヴァさん、えっと、わたし、変なこと言いましたか? もしかしたら、こんなのできないですか?」
「いいえ。いい夢だと思う。きっと、ジーンならできるわ」
最近、ふとしたことから昔を思い出してしまう。忘れてしまいたいようなことでさえ、心が忘れることを嫌がっているのかもしれない。それで、勝手に思い出そうとする。
嫌な記憶なんて全て忘れてしまえばいいのに、それもわたしの大切なものなのだと、心のどこかでわかっているのかもしれない。
「良かったです。アヴァさんがそう言ってくれるなら、なんだか大丈夫な気がします。そのためにも、いっぱい勉強しないと」
「そうね。知ってることは、多い方がいいわ」
多分、そうだ。まだ、あまり実感はないけど。
「はい。アヴァさんは、なにか目指していることとか、夢とか、あるんですか?」
「わたし? わたしはね……」
二つの夢を、彼女は言おうとした。しかし、よく考えてみれば、それは彼女自身の夢ではなかった。
幸せに生きて欲しい、神様を殴って欲しい。大切な人たちから受けた夢だ。
でも、ジーンとは違う。ジーンは自分で考えて、そうしたいと思っている。わたしは、もちろんお母様とエフィーの夢を受け継ぎたいと思っている。だけど、わたしのための夢も、持ってみた方がいいのかもしれない。
「わたしは、まだ考え中なの。頼りにならなくて、ごめんね」
「いえいえ! そんなことありません。だって、アヴァさんはわたしより知っていることが多くて、できないことやできることもわかっていて、だから考えるのも難しいんだと思います。だから気にしないでください!」
ジーンのフォローに、アヴァはいじらしさと似たものを感じた。
環境が大きく変わっても平気でいられるのは、ジーンの存在も大きいのかもしれない。これまでも、わたしはいろいろな人に助けられてきたから。
「ありがとうね。わたし、ジーンのことが大好きよ」
「良かった。わたしもアヴァさんのこと大好きです!」
その後も、二人は話し続けた。止めるモノも出来事もなく、自然と眠りに落ちるまで、ずっと。




