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「アヴァ、起きて」
揺すられた体の動きと、母親の声を聞いてアヴァは目覚めた。酷い悪夢を見たような気がしたが、思い出そうとすると頭が痛んだ。覚えているのは、ヒリヒリした喉の感覚と、暖かい手の感触と温度だけだった。頭の中にはモヤモヤしたなにかが渦巻いていて、不安も恐怖も嫌悪感もあった。
「お母様、大丈夫?」
「大丈夫よ。ちゃんと眠れたわ。ディルの話によれば、町まではもう少しらしいから、急ぎましょう?」
アヴァは目を擦りながら立ち上がる。3人は既に準備を終えていた。
「お兄様、手を繋いでもいい?」
「なんだよ急に、恥ずかしいな。まあ、いいけど」
そっぽを向きつつも、ブラムは手を差し出した。アヴァはその手を握って、兄と一緒に前を行く大人たちについていく。
進んでいくと木々が消え、辺りはより荒れ果てていった。足元の舗装も悪くなっていく。木々や植物が極端に少なくなっていき、砂漠に近い砂地が広がっていった。
「アヴァ。俺たちは、生きるべきだよな」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「夢に出てくるんだ。村の人たちが。母さんやお前を守らないといけないと思うけど、でも、あれが母さんのせいなら、俺たちは……」
太陽が2人の背中をジリジリと焼いていた。視線を影に落とすブラムを見て、アヴァが答える。
「わたしには、わからないよ。でも、まだ死にたくないもん。死にたくないから、生きたいよ」
考える力や体力が奪われているだけではない。アヴァは、どちらかといえば現状を深く考えたくなかった。どうしてこうなったのか、そう考えてしまえば、足が止まってしまう気がした。
「そっか。そうだな。なら、俺も死ぬまでアヴァを守るよ。もう、俺にできることなんて、それしかないから」
「うん!」
アヴァが笑顔で頷くと同時に、無数の足音が聞こえた。遠くの方に砂埃が舞っている。
「あれはなに!?」
「落ち着きなって。慌てても無駄さ」
「ディル、あなた、なにが来ているかわかるの?」
「まあ、そうだな。待ってな。すぐにわかるから」
どこか突き放したような、それでいて投げやりなような態度で、ディルは答える。
どちらにせよ、ここで走って逃げる体力は、ディルを除いた3人に残されてはいなかった。少しの時間が経過すれば、馬に乗った男たちに四方を囲まれていた。
「ご苦労だったな、ディル」
「へい、お頭」
「ディル、どういうことなの!?」
男たちの中で、一番立派な馬に乗った眼帯の男に、ディルは気怠げに首を垂れる。クレシダの質問に答えたのは、リーダー格と思われるその眼帯の男だった。
「お前らには、これから奴隷になってもらう。ディルはな、お前らみたいな旅人を騙す俺たちの仲間だよ。怪我をしたくなければ、大人しくしな!」
ブラムは抵抗しようとしたが、クレシダに止められる。敵うはずがないと考え、怪我をさせたくなかった。アヴァは戸惑ったまま、状況に流されるばかりだ。
研ぐのを怠っているようで、刃こぼれが見受けられる剣に脅され、そのまま3人は手足を拘束された。口を塞がなかったのは、助けなど来ないということがわかっていたからだろう。
「なに!? どういうことなの? ディルさんは、旅人じゃなかったの!?」
「うるせえな。黙らないと殴るぞ。俺たちは本気だ」
連れ去られている、そしてディルはそいつらの仲間だ。それだけ状況が掴めてきたアヴァが騒いでいると、そう脅された。アヴァは泣きそうになったが堪えると、口をキュッと閉じた。
馬に乗せられ、日が落ちない程度の速さで着いたのは、山脈のような場所だった。ところどころに洞窟があり、ボロの布服を着た人々や、無骨な鎧を着た人たちがいる。アヴァはそれを見て、怯えたようにしている細い人たちが、ドレイというやつなんだろうと思った。
アヴァはドレイという言葉も知らなかったが、母や兄の様子から、それが喜ばしいものではないことを感じ取っていた。
「お頭、こいつらはどうしますか?」
「いつも通りの役目を割り振る。母親は上物だな。そのまま役目を果たしてもらう。ガキ2人は別々に教育しておけ」
「わかりました」
お頭と呼ばれた人物は、馬の背にクレシダを乗せて連れて行こうとする。ディルもその後ろに付き添う。
「お母様!」
声を抑えてきたアヴァだったが、母親がいなくなる心細さに負けて思わず叫ぶ。
「アヴァ、心配しないで。アヴァもブラムも、絶対に無事でいてね」
アヴァには、振り返った母親が今までで最も頼りなく見えた。もう会えなくなるような、そんな予感さえする程に。
「母さん、アヴァは俺が守る。母さんも、いつか助けに行くから」
「ありがとう。でも、無理はしちゃダメよ。私は2人が元気でいてくれれば、それだけでいいから」
馬は走り出し、速度を上げて声の届かないところまで行ってしまう。 別れを惜しむ間もない。
「よし、お前らも奴隷として働いてもらうぞ。男は俺が連れていく。娘の方は任せたぞ」
男がブラムを連れて行く。
「アヴァ!」
呆然としていたアヴァは、声でようやく気づいた。いつの間にか、アヴァ自身は男に抱えられて洞窟の中に入りかけていた。
「お兄様、わたし頑張るから!」
ブラムの姿が見えなくなる間際に、アヴァは笑顔でそう伝えた。うまく笑えていたかしら。お兄様を、心配させないようにしなくちゃ。これから身に降りかかることを知らぬアヴァは、未だに健気でいられた。
男に抱えられ、体はユラユラと揺れている。階段を降っているようだ。途中には松明が立っているが、その間隔は徐々に開いていき、暗闇の中に潜っていく。冷んやりした空気に、アヴァは身を震わせた。
しばらくすると体の揺れが収まり始め、アヴァは足元が平地になったことを感じ取る。途端に、腐ったような酷い悪臭がし、同時に床へ投げられていた。
「痛いっ」
ゴツゴツとした石床に体を打ち付ける。鈍い痛みがジワジワと広がって、アヴァはいよいよ泣き出したくなった。
「お前はここで働け。おい、誰かコイツの世話をしろ」
芋虫が歩くような様子で悶えていたアヴァは、部屋の中を見ようと顔を上げた。そこには、たくさんの女の子や女性がいた。卓を囲み、黙々となにかをしている。
「おい、誰かいないのか!」
アヴァの方をチラと見る人は何人かいたが、誰も動くことはなかった。男がイライラするように足踏みをする。踏まれるんじゃないか、蹴られるんじゃないかと、アヴァは怖くなった。
「ちっ。面倒だな。おい、そこのお前。お前がコイツの世話をしろ」
舌打ちをして男が指差した先にいたのは、霞んだ赤毛の少女だった。
「えっ、アタシ?」
「お前だ。口答えする気か?」
「……しません。わかりました。アタシがその子の面倒を見ます」
「それでいい。ん? お前そろそろ、いや、あとでいいか。よし、コイツは任せたぞ」
男は鼻唄混じりに元来た道を戻っていく。アヴァはようやく安心することができた。
「アンタ、名前は?」
男と話していた女子が、アヴァに近寄り話し掛ける。
「アヴァです」
「そっ。アタシはエフィーよ。まあ、世話役になったもんは仕方ないか。アンタにここのことを教えてあげるよ」
アヴァにとっては、これまでに出会ったことがない勝気そうな女子だった。近くで見ると、アヴァよりは背が高いようで、見下ろされるような怖さが少しあった。
「とりあえず、この縄を切ってやらないとね。ちょっと待ってて」
エフィーは卓の方へ向かい、なにかを手に取り持って来た。近づいて来たエフィーを見て、アヴァは息を呑む。
「エフィーさん、それは?」
「ん、ああ、肉切り包丁だよ。あとで使い方も教えてあげる」
エフィーの手には血塗れの包丁が握られていた。この部屋に充満している嫌な臭いが、そこにも染みついている。アヴァは少しでも動けば自分が切られてしまうのではないかと、ビクビクしながらも、身じろぎせずに待っていた。
「はい、これで大丈夫でしょ。立てる?」
「立てます」
アヴァはすぐさま立ち上がる。
「よし、まずは仕事の内容を教えようか。おいで」
逆らえば、なにが起きるかわからない。エフィーたちも、味方なのかはわからない。あの男たちに命令されてはいたけど、ディルのことが頭に浮かび、彼女がエフィーが本当に同じ立場なのか確信が持てないからだ。
それでも、他にできることはなく、アヴァは先を行くエフィーについていく。彼女は卓の前で止まった。
「怖いし気持ち悪いかもしれないけど、これがアタシらの仕事だよ」
「うっ」
悪臭と、おぞましさにアヴァは吐き気を催した。しかし、吐くものなどなにもなく、喉にせり上がった胃液が食道を灼くだけだった。
そこにあったのは、動物の死体だ。女性たちはそれを捌いている。近くには座って、糸を紡いでいる人もいた。
「掃除するのが面倒だから、吐かないでよね。仕事は見ての通り動物を解体して、肉は食用に、皮は剥いで服飾品を作るんだよ。あとは掃除やら洗濯やら、雑用ばっかりだ」
「怖くないんですか?」
「うーん、慣れたかな。それにさ、アンタは生まれてから肉を食べてるだろうし、服も着ているでしょ? 誰かがこれをやってるから、それができてるんだよ」
アヴァは初めて、自分がいかに無知なのかということを認識した。こんな酷いことを、誰かがやっていたんだ。
「じゃあ、ドレイというのは、こんな辛いことをやっていたの? それに、動物がかわいそう」
「アヴァ、アンタってお嬢様だったの? なんか、ズレてるよね」
「ズレてる?」
「いや、気にしないで。でも、動物はかわいそうじゃないよ。アタシ達は、動物の命をいただいて生きているんだ。感謝こそすれ、同情なんて馬鹿らしいよ」
「そう、なんですか?」
「そうなのよ。あと、ドレイっていうのは、主人の命令に忠実な道具よ。人間を道具として扱う最低の行為。まあ、頭がいい人は効率的に働かせるために待遇もよくしてくれるんだけど、ここの連中にそんなことを考える脳はないみたいね」
エフィーは言い切ると舌打ちをした。アヴァは少し体を強張らせた。
「エフィーさんって、物知りなんですね」
「アンタが知らな過ぎなのよ。それと、アヴァって何歳なの?」
「12歳です」
「12歳か。6歳差ね。アタシの方が年上だけど、敬語は使わなくてもいいよ。アタシはあんまり気にしないから」
「は、はい。じゃなくて、うん」
「ま、これも慣れるでしょ。今日は説明で終わるから、明日からは手伝ってね」
そして、アヴァはエフィーに洞窟内を案内してもらうことになった。エフィーとアヴァは歩きながら、会話をしていた。その方が、ここの様子がわかりやすいだろうというエフィーの計らいだ。
「ここの男の人たちは、旅人を捕まえて、奴隷にして働かせているのね。それで、荷物を奪い取ったり、近くの動物を捕まえて生活している」
女の人が包丁を振り落とし、動物から血が飛び散った。アヴァは思わず目を背けたが、エフィーも女の人もなんとも思っていないようだった。
「そうだよ。楽がしたいから、アタシらを働かせているんだ。アヴァは買い物をしたことはある?」
「村にはなかったけど、オカネっていうのを使うんだよね。それは知ってるよ」
「へえ、お金もなしに生活が成り立つんだ」
「動物や物を交換してたと思うよ。お父様は、村を守る役割をして、皆にモノを貰っていたみたいだけど。お父様、無事かしら」
アヴァは同行できなかった父の姿を思い出した。わたしたちは村を追い出されてしまったけど、お父様もあの後そうなったのかしら。あんなに傷だらけだったのに。
「ふーん。アヴァのお父さんは、ムラに雇用されていたのかね。そりゃ、皆が皆、やりたいようにやってたら、うまくはいかないか」
「雇用?」
「人を報酬で雇うんだよ。ここでの奴隷は、生きるのに必要な最低限の食べ物しかもらえない。でも、雇用をされれば、アヴァのお父さんみたいになる」
「そうなんだ」
「そうだよ。ほら、あれ見てみな。皮を剥いでいるでしょ」
指が差された方を向くと、さっき包丁を振り下ろした女性が、確かに動物の皮を剥いでいた。グロテスクな肉の様子に、アヴァはまた目を背けそうになる。
「さっき言った買い物ってやつね、ここで皮を剥がさせて、その皮は旅人から奪った荷物と一緒に町で売られるんだ。そしてお金を手に入れて、町でもっといいものと交換する。多分ね」
「たぶん?」
「アイツら、頭が悪いからさ。アタシはそんな風になっているんじゃないかって思うけど、実際のところはわからない。奪ったモノの価値も知らず、皮も服作りの材料としか思ってないかもね」
「なら、エフィーは頭がいいのね」
「そんなことないよ。アタシだって、町にいた頃に先生から教わっていただけでさ。……まあ、ここでは身分もなにも意味がないんだけど」
自嘲気味に話す彼女を、アヴァは不思議そうに見ていた。気づいたエフィーは、ふと思いついたようにアヴァに訊ねた。
「そうだ。アヴァはどんな風に捕まったんだい?」
「わたしたちは、ディルって人に騙されたの。街まで用心棒をしてくれたはずなのに。お母様は偉そうな人に連れていかれたし、お兄様もどこかに。お父様は村を出るときに、一緒についてこれなかったわ」
「どうしてついて来れなかったの?」
「村が襲われて、お父様が戦っていたの。わたしたちはお父様に言われて逃げだせたけど、お父様は……」
「……そっか。カッコいいお父さんだね」
「うん。エフィーは?」
「アタシはーーまた今度。ご飯の時間だ」
説明や作業で時間が経っていた。男たちがリンゴのような果物を配って回る。
「少ないのね」
「アタシらは奴隷だからね。あいつらにとっては、死んでも構わない存在なのさ。奴隷がこれだけ増えていくってことは、まだ国もここの事件に対処できていないってことだし」
果物を一つ受け取ると、全員が移動を始める。割り当てられたスペースで食事を摂るのだ。
「皆お腹が減ってるから、もらったあとに奪われないか心配なんだよ。前に何度かあったから。アヴァも早く行った方がいい。あっちの方で待ってな?」
アヴァは頷いて、光もない陰気な片隅に身を寄せた。エフィーは果物を受け取ると、アヴァの方へ来る。
「まだ空いてるスペース、確かあったと思う。広さだけはあるんだよね。まあ、それだけ人も消えてるってことなんだけどさ」
エフィーの案内で、なんとか無事に、アヴァは自分の場所に着いた。石造りの部屋だ。壁も、床も、全て影を帯びて黒く、部屋の中は暗かった。また、アヴァ達の目の前には、扉の代わりに格子が嵌められていた。
「じゃあ、また明日。世話係になっちまったらしかたないわ。明日からはアタシが実際にやり方を教えていくよ」
「うん。ありがとうね、エフィー」
「はあ。アンタ、文句一つさえ言わないのは凄いと思うよ。じゃ、おやすみ」
エフィーが離れていくのを見送って、アヴァが果物を食べ始めようとすると、キキッという鳴き声が聞こえた。見るとネズミだ。
アヴァは、大きく口を開け果物の一部を齧りとると、それを手に取り床に置いた。
「あなたにもわけてあげる。その代わりに、友達になってくれる?」
ネズミは返事もせずに果物を食べ切ると、どこかに走り去っていった。アヴァは残念そうにため息をついて、寂しさに身をうずめた。