1-3
「さあ、起きな。仕事の時間だよ」
石畳の冷たさを頬に感じながら、アヴァは目覚めた。眼を擦り、格子の外を見てみると、エフィーが欠伸をしながら立っている。
「仕事?」
「そう。動物の解体だよ」
「ひっ! いたっ」
後退ったアヴァは、壁に背中をぶつけてしまった。エフィーが乾いた笑い声を出す。
「どうせ、他にやれることもないんだ。やらないと、アンタ、殺されるかもしれないよ」
「ころ……されるってなに?」
「あー、この世で一番イヤなこと、かな」
それがどんなに酷いことなのか、アヴァは頭を回転させて想像してみた。しかし、村が襲われた日の、生々しい光景が巡るばかりだった。
「ヒドイ目に遭うの?」
「そう。役立たずは要らない!ってね」
「それは、嫌だ」
アヴァは、緩慢な動きで立ち上がる。身体を押さえつけたい感情と、それに抵抗する意思が対立していた。
お母様とお兄様、二人に再開するまでは、絶対に生き続けるんだ。
「いい目をしてるよ。それが、どこまで持つかね」
暗闇でも光を見出したアヴァの瞳には、今にも闇に飲み込まれてしまいそうな、エフィーの眼が映っていた。
* * *
エフィーとアヴァは、たくさんの作業台が並んだ部屋に来た。ここは、アヴァが最初に連れてこられた場所、つまり出口と直に繋がっている部屋だ。
「お腹、空いた」
「朝は配給が無いんだよ、我慢しな」
あいつら、どうせ寝てやがる。エフィーは忌々しそうに呟いた。
朝食を欠かしたことのないアヴァには少し堪えた。しかし、騒いだところで意味がないということも、雰囲気で理解できたために、多くは言わない。
「代わりにああやって、死体は転がり込んでくる」
エフィーが指差した方向には、動物が入った籠が置かれていた。それがぬいぐるみであったなら、アヴァも喜ぶことができただろう。だが、それはエフィーが言った通り、死体であった。
生気のない、物言わぬ死体。人形と同じようでありながら、確実に異質なものだと感じ取ることができる。
アヴァは可哀想だと思う前に、また吐き気を催したが、空っぽの胃からは胃液が上がってくるだけで、焼けそうな喉を堪え、無理矢理それを飲み込んだ。
「解体の手順を教えるから、言われた通りにやってね」
「わかった」
話しながら、エフィーはアヴァに包丁を手渡す。
柄はズッシリと重く、血のせいか汗のせいなのかはわからないが、嫌な粘性があった。
「まずは血抜き。その動物の首辺りを切って。具体的な箇所は、やっているうちに感覚で掴めるでしょ」
アヴァの身体は震えていた。小刻みに揺れる包丁を、動物の首にあてがう。そして、ゆっくりと、その刃を擦り当てるように上下させる。
「ああ、駄目駄目。そうだね。思い切りよくいった方がいいか。首、切り落として」
「切り落とすの!?」
「そうだよ。その間に、わたしは吊るす準備を進めておくから」
「吊るすって?」
「血抜きっていうのは、この動物から血を抜くってそのままの意味さ。そのために、首の脈か、首ごと切り落としたあとに、頭を下にして血を垂らす」
かわいそう。アヴァは再びそう思ったものの、次は口に出そうとしなかった。それもまた、嘆くのと同様に、意味のないことだとわかっていたからだ。
「ほら、早く切り落としな」
エフィーがアヴァを急かす。いつの間にか、エフィーは動物の身体に紐を結びつけていた。その上、頭を台からはみ出させ、切り落としやすく補助までしている。
「ヒドイ目には、遭いたくないだろ?」
その言葉は冷たくアヴァに浸透し、彼女の呼吸は小刻みになる。
やらなければいけない。切り落とさなければいけない。殺されないために。強制力と緊張感の摩擦で、震えと汗が止まらない。今にも身体の中が焼き切れそうだった。
両手でしっかりと包丁を握り、自身の頭上へ持ち上げる。
「うあああああっ!!」
ゴロン。テン、テン、テン。コロコロ……。
「よくやったね。褒めてあげるよ」
エフィーの手が、頭に乗せられる。撫でられる。とても、優しげに。労わるように。
「はぁはあはぁはあはぁ……うっ……うっ、ひぐ」
「よしよし」
狂気の塊を振り下ろしたまま、アヴァは涙を流していた。辛くて、悲しくて、そしてホッともしている。エフィーは、アヴァの額を両腕で抱いて、自身の頬を髪の毛に擦り付ける。
「ゆっくり、それを置くの。それから、頭を拾いに行きなさい。頭も、皮だけは剥ぐことになるから」
アヴァは、振り切ったままのそれを落とす。石と金属がぶつかり嫌な音を立てるとともに、生温い新鮮な血液がアヴァの足に付着した。
彼女はそれに構うこともなく、首を回し、ぎこちない所作で頭を拾いに行く。暗がりでぼやけた視界の中、転がった頭は、誰かの足元で見つかった。
向かう先では、一人の女性が首を切り落とすところだった。慣れた動きだが、どこか気怠げに皮を剥ぎ始める。その女性は、アヴァが近づくと、その存在に気づいたようだった。
見下ろされるというのは、背の低いアヴァにとってそれほど珍しいことではない。しかし、見下ろしてくるその目は、空虚の中に怒りを潜ませたようなその瞳は、今までに彼女の触れたことがないものだった。
「あの、その、頭を」
女性の足元にある頭を、アヴァは恐る恐る指差す。
相手の目線は、アヴァと足元を行き来した。そして、女性がふんっ、と鼻で笑うと、その次の瞬間には、アヴァの顔を目掛けて、生気のない顔が飛んできていた。
「ひゃっ」
アヴァは、思わず悲鳴をあげる。同時に、両腕が反射的に顔を守った。腕の隙間から垣間見えたのは、蹴った反動で裾が捲り上がり、白く浮かび上がる痩せ切った細い足であった。
「ちょっと、なにすんのさ!」
異変に気付いてエフィーが駆けつけてくる。
「目障りなのよ。その子を大人しくさせな」
「目障りって、アンタの邪魔をしようとしたわけじゃないでしょ?」
「結果的にそうなってるのよ。余計な力を使わせないで」
険悪な雰囲気になった二人を、アヴァはなんとか止めたかった。
「エフィー、わたしは大丈夫だから。貴女も、ありがとうございました。ごめんなさい」
「…………」
「はぁ。じゃあ、戻るよ」
アヴァは無言の女性から、なにか反応が得られないかと思ったが、エフィーに肩を掴まれ引っ張られて行く。頭はエフィーが拾っていた。
「ムカつく。出られないからって諦めて、こんなところでせっせと頑張って、そのくせ不満は他の奴にぶつけようとして、アンタ子供かっての」
「エフィー、やめてよ。あの人に、聞こえるかもしれないよ」
「あっちから来れば、悪いのはあっちでしょ。先に手を出した方が悪いんだよ。ここでは悪いことをしたって、誰かがお仕置きするわけじゃないんだ」
「あの人は、なにも悪いことしてないよ」
アヴァとしては、あの細い足を見てしまったがために、その女性に同情してしまっていた。彼女の純真な常識では、『かわいそう』な人に味方をするのは当然のことであった。
「年下に威張ってるのが気に食わないんだよ。強い男たちには逆らおうともしないで、弱そうな年下には偉そうにしてさ。アンタはそう思わないの?」
「わたしは、ちょっと怖かったけど、きっと、あの人も大変なんだろうなって、そう思ったから」
「あんなのでかわいそうとか言ってたら、ここの女は誰だってあんな感じよ。アンタ、全員に逆らわないつもり?」
「うん。エフィーの言う通りなら、そうするよ。それに、わたし、ケンカはしたくない」
アヴァは、誰かに危害を加えるということを恐れていた。その理由はもちろん、ケンカはいけないことだという教育もあっただろう。しかし、それだけではなく、彼女の脳裏に揺らめく、憎悪に満ちた表情もまた、その意思を導く一因であった。
「そんな生易しい覚悟でさ、アンタはここでどうするつもり? このまま働き続けて死ぬの?」
「死にたくないし、殺されたくないよ。だからーー」
最初は、兄あるいは母が助けてくれるのを待つと、そう答えるつもりだった。しかし、本当にそれでいいのだろうかと、アヴァは首をもたげる。
「だから? なによ」
エフィーの追及に、アヴァは正しいと思える答えが思い浮かばなかった。
「頑張る! いろいろ!」
具体的には示すことができない。しかし、無茶苦茶にでも頑張れば、なんとかなるかもしれないと、彼女はそう考えた。
「いろいろ、か。まあ、アンタみたいなのは、それでいいのかもね。頭も足りないんだ。光だけ失わないでいられたら、それだけでも凄いよ」
「光?」
「絶対に、なにかのために生き抜いてやるって思いさ。さっきの女みたいに、ただ生きることしか考えなくなった奴、他には生きることを諦めた奴、そんな奴らの目に光はない。生きているのに、死んだような目をしているのさ」
アヴァは、さっきの女性を思い浮かべることで、なんとなく、雰囲気だけは理解した。
「アンタは、なんの為に生きる?」
「お母様と、お兄様に会う為に!」
「即答か。いいね。アンタが、いつまでそうしていられるか、楽しみだ」
エフィーは不敵に微笑む。そして、指示する。
「さあ、お喋りはここまで。作業の再開だ。まだ、怖いかい?」
「もう、大丈夫。たぶん」
アヴァのそれは、強がりも少しはあった。しかし、本音でもあった。彼女は、エフィーと話しているうちに、目的が見え始め、覚悟が決まったのだ。
「よし、良い子だ。じゃあ、血抜きの済んだものを解体するよ。これはアタシが掛けて、血抜き済みのも持ってきてあげる。ちょっとだけ休んでな」
エフィーが死体を肩に担いで離れると、代わりに足音が近づいてきた。
「あんた」
「え? な、なんですか?」
さっき、転がった頭を蹴り飛ばしてきた女性だった。
「あの子、エフィーは、狡いやつさ。あんたも、いつか良いように使われて、ポイさ。わたしの言うことを聞かない? あの子を、懲らしめてやれるよ」
要するに、エフィーに痛い目を見せようと、彼女はそう提案していた。アヴァにもそれは理解でき、答えはキッパリとしていた。
「わたしは、エフィーが居ないところで、エフィーの悪口を言うような人は嫌いです。わたしは、エフィーよりも貴女の方が、とっても狡い人だと思います」
「あっ、あんたねぇ!」
「ちょっと、またちょっかい掛けてるの!?」
口論になりかけたところで、エフィーが近づいて咎める。女性は舌打ちをして離れていった。
「なに、アヴァ、またなんかやられたの?」
「何もされてないよ。ただ、エフィーの悪口を聞かされただけ」
「悪口? なんて言ってた?」
「エフィーは狡いやつだって」
聞くなりエフィーは女性の背中を睨みつけて、地面を強く蹴飛ばした。小石が遠くに飛んだが、女性にはぶつからなかった。
「狡いやつ? ほんっとうにムカつく! 狡いのはあいつの方でしょうよ!」
「わたしも同じこと思ったから、同じことを言ったよ」
「そうしたらどうなった?」
「怒りそうだった」
アヴァが素直に答えると、エフィーはお腹を抱えて笑い始めた。首もなく血もない死体が、足元に落ちる。
「あははっ! そりゃそうだよ。いやあ、アタシ、アンタのこと気に入ったよ。最初は面倒って思ったけど、アタシのところに来て良かった!」
「エフィーが喜んでくれて嬉しい。わたしも、あの人よりエフィーの方が、とっても好きだもん」
「うんうん。アタシもそう思うよ。いやあ、最高だね」
エフィーは注意を払って、腕で目を擦る。手は動物の毛と血液でグチャグチャだ。
「でも、これからまた気分は最悪だよ。アヴァ、これから解体をやってもらうけど、大丈夫かい?」
アヴァは考える間も無く答える。
「大丈夫! だって、これはやらないといけないことなんだから」
「うん。いい心意気だ。それじゃあ、説明するよ」
そうして、エフィーの手ほどきに従い、アヴァは初めて動物を解体した。途中、何度か吐き気と目眩が襲ってきたが、なんとか耐えきることができた。
ただ、この手についた感触は、ずっと忘れることはできないのだろうと、アヴァは漠然とそう感じていた。




