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覚悟はできていた。できていなければ、ここにいない。
目の前には、下卑た笑みを浮かべる男たち。くだらない。わたしに力があれば、こいつら全員ぶん殴って、アヴァのことだって解放できるのに。
「ほら、早くしろよ」
急かして来る。こいつらは、動物となんにも変わらない。いや、理性があるだけ、動物の方がマシだ。理性があるのに、その欲望を抑えられていないのだ。動物よりもくだらない存在ではなかろうか。
「うるさい。わかってるわよ」
ああ、本当にくだらない。気持ち悪い。アヴァをこんなところに来させなくて、良かった。
* * *
「誰か、こいつを気に入ったやつはいるか?」
ことを終えると、そんな声が聞こえた。もう、意識が無くなりそうだった。誰よ。気持ちいいことって言ったやつ。なんにも知らないで、適当を言ったに違いない。
痛い、苦しい、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「俺のお気に入りにさせてくれ」
もう、目を動かす気も起きない。ただ、聞いたことのある声だった。
* * *
「罪滅ぼしでも、しているつもり?」
エフィーが、体を洗い流しながら問う。姿は見えないが、近くに相手がいることはわかっていた。
これ、どれだけ洗えばいいんだろう。
「それに近いな。俺が連れて行くのは、俺が騙してきたやつだけだ。俺のせいで、酷い目に遭わせたくはない」
「馬鹿みたい。それなら、最初から騙さなければいいのに」
「そうさな。それができないのは、俺が保身に走ってるからだ」
乾いた男の笑い声が聞こえる。エフィーはそれに苛立ちを覚えた。
この汚れきった水を、あいつの口に注ぎ込んでやろうか。
「体を洗い終わったら、殴らせて」
「好きにしろ。顔じゃなければ、いくらでもやってくれ」
彼女にとってそれは、なんとも、気力が削がれる返答だった。そもそも、彼がエフィーを「お気に入り」にしてくれなかったら、もっと酷い目に遭っていたというのは、想像に難くない。
こいつだけは、絶対に許さないと思っていたのに。それが、一番まともなやつかもしれないなんて。
それよりも、体が気持ち悪い。どれだけ洗っても、汚れが落ちている気がしない。どこかで見切りをつけるべきか。
「アンタが悪いやつだっていうのは決まっているんだ。アタシが出てくる前に、罪を全部吐きな。その数だけ殴ってやるよ」
「はっ。それは恐ろしいな」
どうでも良さそうな声だ。だが、男は一つずつ罪を告白した。声音は変わっている。それが意図的なものか、無意識なものか、エフィーには姿が見えないためわからない。
「全部、覚えてるんだね」
「忘れられるわけがない。忘れることを、俺は許さない。他人を苦しめておいて、俺だけがのうのうとそれも忘れて自由になるなんて、おかしいだろ」
「アンタ、そこまで思ってるのに、どうしてこんなことやってるの?」
彼女の中に浮かび上がった、当然の疑問だった。行動は全くまともではないが、まともな倫理観は持っている。それでいて、なぜこんなことを続けているのか。
「逆らえないから。それだけさ。俺は死にたくない。みっともなく、生きたいと思っているんだよ。だから、ずっと人を騙し続けてきた。少し顔がいいからって、そんな理由で当てられた役だ」
「ディル。アンタ、どうして生きたいの?」
エフィーは初めて、男の名を呼んだ。
「死んではいけない気がしてるんだ。これまで騙してきたやつを、裏切る気がして」
「あははは! それこそ笑い種じゃない! 散々、他人を騙して苦しめて裏切ってきたのに、自分が死んだら裏切る気がしたって!? 馬鹿じゃないの!」
なにも面白くない。
彼女はただ、馬鹿だ、愚かだと、嘲りたかった。一人で深刻そうに抱えている悩みを笑ってやれば、ささやかながらも復讐になるんじゃないかと思った。
「そうだな。ただ、裏切った代償を払いたい。さっき、お前が言ったよな。殴ってやるって。俺が騙した全員から、満足するまで殴ってもらうってのも、いいかもしれないな」
調子だけなら軽口のように聞こえる。しかし、エフィーには本気で言っているような気がした。それがエフィーの神経を逆なでる。
アタシを、アヴァを、皆を傷つけて、そのくせに、どうしてそんな、苦しんでいるのは自分だとでもいうようなことを口走れるのか。
「ねえ、そこまで思っているなら、逆らえばいいじゃない。死にたくないから命令に逆らわなかったんでしょ? それなのに、アタシ達に殴られるのもいいなんて、変なこと言ってるの気づいてる?」
「ああ、よく考えれば変だな。それなら、なにか他の償い方はないか?」
「だから、逆らえって言ってるじゃない。それが一番の償いよ。罪を清算できる方法としては、一番なんじゃないの?」
ディルは、ふん、と馬鹿にしたように鼻で笑う。
「そんなの無理に決まってる。俺が翻ったとして、敵がどれだけいると思う。お前は地下にいたから知らないだろうが、この組織は、お前が思っているより随分と大きいんだよ」
「アンタこそ、知らないでしょう。誰か個人じゃない。この集団の存在を憎んでいる人たちが、どれだけいるのか。だって、アンタはその憎まれる側だもの」
そうだ。ディルは憎まれる存在だ。皆の敵だ。それなのに、彼は敵であることを嫌がっている。そして、大人なのに、迷子だ。
なら、アタシが道を作ってやろう。見つけてやろう。ここから抜け出すために。アヴァのためにも。
一緒にここを飛び出て、いつか、二人で街を歩き回りたい。買い物を教えてあげるんだ。あの子に似合う服を見繕って、お店の人には姉妹みたいね、と言われたりするかもしれない。
ああ、考えてみれば、いくらでも膨らんでいく。そうだ。アタシが頑張らないといけないんだ。でないと、誰があの子を救うのか。
「さあ、もう一度考えてみなさいよ。アンタ達に敵はどれだけいる。アンタの本当の敵は、どれだけいる!」
「おい、まさか」
「簡単なことでしょ。アタシみたいな子どもでも思いつく。なのに、アンタがそうやって一人でいじけて、どうせ他の男たちも、そんななんでしょ。情けないし、くだらない」
さっきの集団の中に、父親がいなかっただけまだいい。でも、どうせあの中には、騙されて奪われて、それでも快く、あいつらの味方になっているような奴だっているはずだ。
「どうなのよ。アンタの敵は、どれだけいるの。早く言ってよ。決めてよ!」
考えるまでもないはずだ。考える必要のないものなのだから。
「……わかった。そうだな。最初から、そうするべきだったんだ」
「ふん。そこはどうせなら、味方が増えるときを待っていた、なんて言っておけば格好がついたのに」
「それもそうだな。だが、こんなところで見栄を張ったも仕方ない。全て、ことが済んだら計画通りだったとでも言おうか」
「そうしてよ。そのときは、アタシだけでも褒めてあげるからさ」
そろそろ、いいだろうか。嫌な感じが紛れてきた気がする。
エフィーは体を布で拭きながら、外へと向かう。滴る水が、地面を冷たくさせた。
そのまま、彼女が開けた空間へ出ると、すぐ隣に人が立っていた。石壁に背中を預けたディルだ。
「なっ、お前、もう少し恥じらいをもてよ」
「は? 今更でしょ? まあ、思い返せば、さっきはアンタ、あまり手出ししてこなかったね」
「昔は、そうでもなかった。うまく立ち回るようになったのは、罪悪感を覚えてからだな。だから、別に俺が意識するからって訳じゃない。俺はお前のことを考えて言っているんだ」
「だから、今更でしょ? アタシはもう、どうでもいいよ」
そう、身体はいい。もう、取り戻せるものでもない。これからは新しいものを手に入れるんだ。残されたのは心。手に入れるのは未来。自由を得て、アタシはアヴァと一緒に幸せになる。
「まあ、お前がいいなら、それでいい。なら、計画の進め方を考えよう。まずは、味方を増やす。それが露見されないように注意して」
「なら、最初はアヴァの兄にすればいい。アンタのことは絶対恨んでいるだろうし、アタシと話せば信頼も得られるはずよ」
「そうだな。それが良さそうだ。その後は、そのままブラムに仲間集めを頼もう。くれぐれも、慎重にな」
エフィーは、ブラムの名を初めて知った。また、ブラムと話したいというのもあった。アヴァのことを教えてあげたいし、自分の知らないアヴァのことも知りたかった。
ただ、前しか向いていないエフィーに対して、ディルには憂慮していることがあった。
「でも、お前は大丈夫なのか?」
「なにが?」
「これから、何度も同じ目に遭うはずだ。反乱の日まで、どれだけの時が必要かもわからない。そのときまで、お前はそれを耐えられるのか?」
ディルは、これまで何度も心が折れる瞬間を見てきた。希望の光が消える瞬間を見てきた。
あるときは、話し合えば分かり合えるはずだと信じた女性、またあるときは、終わりを信じて待ちきれなかった女性、自ら命を絶った女性もいた。
だからこそ、彼には自らを支えるものがなかった。なにかをするための意思を保つための、変わらないものがなかった。
「アタシは、耐え切るよ。もう、アタシみたいな被害者は増やさない。ここで止めるんだ。だから、アタシを信じなさいよ」
信じろ。その言葉に、ディルは撃たれる。なに一つ信頼できるものも、信頼したいものもない。そんな中で苦悩と葛藤を抱えていた彼にとって、それは強力な言葉だった。
「わかった。俺は、お前を信じる。信じさせてくれ。希望を、光を失わないでくれ。お前が折れない限り、俺も折れない。だから、頼む」
「任せなよ。アタシは、きっとこのためにここへ来たんだから」
エフィーは、そう思わずにはいられなかった。
彼女の住んでいた国では宗教が布教されていた。信仰なき者は差別されるような国だ。それもあって、彼女は神を信じていた。そして、彼女だからこそできるこれを、神に与えられた役目であると考える。そう思わなければ、意思が挫けてしまうような不安がわずかにあった。
これがアタシの役目なら、全てうまくいくはずだ。運命のままに。そう、彼女は信じていた。
ディルの趣味か、部屋の端に飾られた鋭い剣に、彼女はその意志を重ねた。




