其之参
◇◇◇
雲の存在を知らないような、澄み渡った青い空が奉行所の上に広がる。そんな空の下で、ふと男は半年近く前のことを思い出していた。
──あれはまだ、寒い季節のことだった。
「鋼之助を、この屋敷から出せ」
そう言うと、亮之助は目を見開いて驚いた。床に伏してだいぶ経つが、こんなにも表情が動いたのは初めてだった。
「鋼之助が、部屋から出てくるとは思えん……」
亮之助は次男のことを気にはしているが、手立てがないと諦めていたのだ。病が身体を蝕んでいるせいか、近頃何かと弱気になっている。
(死の色が濃くなっている)
このまま死なせてはならない。男はこんこんと語った。
鋼之助はここにいたら駄目だ。どんどん行き場を無くしてしまう。いっそのこと外に出せ。鋼之助自身が踏み出せないのだから、おまえが、思いきって環境を変えてやれ。
「あいつは、昔のおまえに似ている」
「私に?」
初耳だとばかりの亮之助の口調だ。
「ああ、とんでもなく暗い目をしている。だが違うのは、おまえは外にそれを向け、鋼之助は内に向けている。いつか、それで身を滅ぼすぞ」
「………」
それが説得となったのか、亮之助は鋼之助を、佐倉新八郎の養子に出すことに決めた。
よかったと、男は息をついた。
男は瀧澤一族に、何世代にも渡って憑き続けている存在だった。己の正体が、あやかしだったのか、他のものだったのかさえわからない程の悠久の先から憑いている。
なぜ瀧澤の人間に憑いているのか。それは、護るためだ。瀧澤一族を。
かつて朝廷から、あやかし退治を任じられた瀧澤家は、数多くの殉死者を出したのだ。流れる大量の血。響き渡る叫び声。男も女も、子供でさえ。
男は見ていられなかった。男が懐いた慈しみは、瀧澤一族の血に、まるで呪いのように染み込んでいった。以来瀧澤一族を守護するようになったのだ。
瀧澤の人間は、総じて男になついた。また男も、自分を慕う者を可愛がった。
それは今の世でも変わらない。篤之助も亮之助も自分を見れたし、なついてくれた。しかし、亮之助の子供の文之助には、男の姿は見えなかった。その事実には酷く落ち込んだ。だから男は、幼い鋼之助には、姿が見えるか試してみたのだ。
(あのとき、木の根本から手招いてみたのが、そもそもの始まりだ)
私が見えるかい。おまえ達を見守っているよ。そんな気持ちで、手招いたのだ。
だがそれがいけなかった。
そのことがきっかけとなり、鋼之助の人生が変わってしまったのだ。
(もっと早く萩乃に憑いた妄鬼に気づいていれば……)
人は誰しも欲望を持っている。欲こそが、人たらしめるのだ。だから気づけなかった。萩乃に憑いた妄鬼の存在に。
あれ以来鋼之助は、部屋にこもりっぱなしになってしまった。自分の世界にこもり、好きなだけ絵を描く。男はそんな鋼之助を見守っていた。上手に描いた絵を、心の内で褒めもした。見守るだけだ。へたに姿を見せて、鋼之助がどんな反応をするかわからなかったから、出れないでいたのだ。怖がっていたのと思う。まだこのときは、鋼之助が何を怖がっていたのかはわからなかったのだ。
見守り続けた鋼之助は、二十歳を過ぎた頃に、このままでは駄目だと思ったのだろう。得意な絵を版元に売り込もうとするが、なかなかうまくいかない。うまくいきかけても、他人に指図された絵には、色気というか命が感じられなく、死んだ絵になってしまうのだ。
そんな絵は、誰も欲しがらない。
そのうち鋼之助は、酷く暗い目になっていった。唯一の得意なものを否定された。その絶望は、鋼之助の内を蝕んでいく。鋼之助は一人、部屋で泣くのだ。外に洩れないように気をつけて、たくさんの不安を胸に溜めて。
男には鋼之助を放っておくことはできなかった。なんせ鋼之助がこうなってしまったのには、自分にも非があるのだから。
(ここにいてはいけない)
咄嗟に思ったのだ。だから男は、亮之助に進言したのだ。
鋼之助は瀧澤家から出ていった。男も当然のように瀧澤の屋敷から離れた。そうして、いつも側にいる。
男は片岡真太郎の岡っ引きになり変わって、鋼之助に近づいたのだった。鋼之助を護るために。
鋼之助に何かあれば、逐一新八郎に告げて、手を貸させた。
手柄を立てさせるため、新八郎に殺生丸のことを教え、多少の無茶もした。
そうして影から見守っている。
(せめて、一人前の同心になるまでは、側にいて護ってやりたい)
本性を現すことも、木の根本で手招いたのが自分であることも、いつかは告白しないといけないのだろう。新八郎が、そうしたように。
だがまだ男は、それを告げる勇気は無かった。
「長く生きてるというのにな……」
自嘲するように笑った。
そんなことを考えているうちに、鋼之助が出仕してきた。胸中の思いを少しも顔に出すことなく、男は声をかけた。
「佐倉の旦那、おはようございます」
男に声をかけられ、鋼之助はぎこちなく笑った。それでも瀧澤の屋敷にいた頃よりも遥かに自然な笑顔だ。
「おはよう、辰次」
そう返した鋼之助が、辰次に歩み寄っていった。
終わり。