其ノ弐
「何故、おまえの息子を引き取れと言うのだ?」
瀧澤家は大身の旗本だ。部屋住みの一人や二人くらい養えるだろう。
新八郎は、こうも続けた。
「わしは、『不浄役人』だぞ」
片頬が皮肉げに歪む。
それはかつて、目の前の男の取り巻きに言われた言葉だ。それを思い出したのか、亮之助の顔がひきつる。だがそれについては何も言わなかった。
「じつは……」
亮之助は、新八郎が知らない二十五年前にあったことを話した。
妻であり萩乃に憑いていたあやかしの妄鬼のこと。その妄鬼がきっかけとなり、息子の鋼之助が閉じこもってしまったこと。
切々と語る亮之助の声は、たくさんの後悔が滲んでいるようだった。
「私は、あのとき、ただ鋼之助を怒鳴りつけてしまった……」
妄鬼が憑いた萩乃が、新八郎の妻を殺し、そして殺された。こんな大事が当時の瀧澤家の当主である兄に隠し通せるわけもなく、兄の篤之助は、その後始末に病弱な身体を酷使してしまった。そのせいか、篤之助も間もなく亡くなってしまったのだ。
すとんと、落ちてきた瀧澤家当主の座。
亮之助はやりきれない気持ちだった。あんなに日の目を見たかったのだ。だが、こんなにも酷い状況を望んでいたわけではない。
萩乃は家が決めた妻だったが、何度か枕を交わした相手。嫌ってはいなかった。
兄が疎ましく思うこともあったが、幼少時から尊敬していて、この人に勝ることはないと思っていた。
何もかもが、身から出た錆だ。自分自身をしっかりと律していれば、こんなことにはならなかったのだ。
──ちくしょう。
亮之助は絶えず苛々としていた。
萩乃の死の不穏を外に洩らさないために、屋敷中にひいた箝口令。
そんななか一人、幼い鋼之助だけが、萩乃のことを口にする。けっして鋼之助が悪いわけではない。だが亮之助は、苛立ちを鋼之助にぶちあててしまったのだ。
「鋼之助は妄鬼を怖がっていると思っておったようだが、本当に怖れていたのは、人の目だ……」
当主の勘気に触れた鋼之助は、次第に周囲から疎まれるようになった。冷めた目に晒される鋼之助は、部屋に閉じこもるようになっていく。後継ぎでもない鋼之助が部屋から出てこなくても、とくに問題は無かったのだ。
「しかし、それが間違いだった。あの子は、きっかけを失ってしまった」
心と、身体を遮るそれを越え、外に出ていくきっかけを。
「もっと早くに、あの子の叫びに気づいてやればよかった」
無言の訴えは、親にさえ届かなかった。
「それを教えたのは、『あいつ』だ」
「あいつ?」
「この瀧澤家に憑くもの」
「……あやかしか?」
まるで絵巻を広げたように、あやかしが出てくる。新八郎は実感が湧かない。
「似たようなものら…っ、ゴホゴホッ!」
咳き込んだ亮之助に、新八郎は背をさすってやった。
「おい、大丈夫か?」
「つ、都合のっ、いい話だとは……、わかっている……、だが、そなたしか、頼る者が、いなっ……」
死が迫る身体。あとに残す鋼之助だけが気がかりなのだと、新八郎の腕にすがって言う。両手には、もはや力が無かった。
(わしには、子供を気にやむこともできなかった……)
妻を奪われたことで、子供を作ることも奪われたのだ。
(なのに、こいつは……)
怒りが湧いてくるかと思ったが、妙に淡々としている自分がいた。目の前の男が、あまりにも哀れに思えたのかもしれない。
「頼む……っ!」
亮之助の懇願は続く。
そうして、新八郎はついに頷いたのだった。
(しかし、なんとかなるものだな)
鋼之助を養子にした経緯を思い出していた新八郎は、つい含み笑いを浮かべた。
養子にして三月近く経つ。いつの間にか鋼之助を心から可愛がっていた。
(萩乃どののことを打ち明けたときは、どうなるかと思ったが)
きっと鋼之助は、この家から出ていくと思った。この家から、また人か減る。それはとても寂しく思えた。だが鋼之助は大物だった。新八郎を許し、そして気遣ってくれたのだ。
「ふふふ、あいつは大きくなるぞ」
同心として、人として。その姿を思い浮かべると、楽しくなってくる。
新八郎は空を見上げた。今日もいい天気だ。澄んだ青空には、どこからか愛らしい桃色の花びらが舞っている。
「長生きしよう、あの男の分まで」
今でも許しがたい亮之助。だが亮之助は、鋼之助という子供をくれた。それは、あの男にとっての鋼之助への贖罪だが、自分には贈り物だった。
たとえ血の繋がりはなくても、子を持つ親の喜びを教えてくれた。
亮之助への感情は、単純なものでは計れない。しかしもう、亮之助は鬼籍に入った。いつまでも憎むことはないのだろう。
「なあ、お衣智」
新八郎は空に向けて、目を細めた。




