第九話 沸かしても消えないもの
「濃くなっています」
フィアは煮詰めた水へ試薬を落とし、硝子棒でかき混ぜた。
透明だった液体が、ゆっくり灰色へ濁っていく。煮る前の水を入れた隣の器にも同じ試薬を加えてあるが、こちらの色は薄い。
「どうしてですか。沸かしたのに」
「水だけが蒸気になって逃げたからだと思う。溶けていたものが残って、濃度が上がった」
「煮沸すれば毒気は消えると教わりました」
「生き物が原因なら、熱で死ぬものは多い。でも、金属や塩はそれだけでは消えない」
理人は二つの器を灯りへかざした。
第三浄水所から採取した水は、見た目だけなら澄んでいる。鼻を近づけると、湿った硬貨に似た臭いがわずかにあった。味を確かめる気にはなれない。
第二工房の一角に設けられた検査台には、八つの器が並んでいた。
原水路、第三浄水所の入口、濾過槽の出口、下層街の共同水栓。比較用として上層貯水槽と黒湖の水も採っている。器を取り違えないよう、フィアが縁へ異なる数の切り込みを入れていた。
理人の油性ペンで番号を書けば早いが、ほかの者が読めなければ記録として役に立たない。
「もう一度、最初から確認します」
フィアは薄紫色の液体を、それぞれの試料へ一滴ずつ加えた。
上層貯水槽の水は青紫のまま。黒湖はわずかに赤く、第三浄水所の入口はそれより濃い赤へ変わる。濾過槽の出口では色が薄くなったものの、下層の共同水栓では再び赤が強くなっていた。
「酸性、という理解でいい?」
「こちらでは腐水性と呼びます。赤いほど、金属を溶かしやすい水です」
「浄水所を出たあとで、また悪化してる」
「途中で何か混じっているんでしょうか」
「それか、配管そのものを溶かしている」
理人は共同水栓の試料へ、金属性の不純物へ反応するという硫黄臭の試薬を加えた。灰色の濁りが生じ、時間が経つにつれて底へ黒い粒が沈んでいく。
「これで金属が入っていることは分かる。でも、何の金属かまでは?」
「鉄なら赤茶、銅なら青、鉛と黒銀は黒くなります」
「黒くなるものが二種類ある」
「黒銀は毒ですが、鉛も毒なのですか」
「量による。少しずつでも長く飲めば、身体に溜まる可能性がある」
フィアは黒い沈殿を見つめ、試料へ伸ばしかけた手を引っ込めた。
「手で触っても?」
「まだ触らないで。皮膚から入るか分からないし、試薬と反応して別のものができている可能性もある」
理人自身、この世界で鉛と呼ばれている物質が、地球の鉛と同じものか確信はない。翻訳される言葉が同じでも、化学的性質まで一致する保証はなかった。
「燃やせば見分けられるかもしれません」
フィアが言った。
「炎の色を見る?」
「はい。銅なら青緑になります。鉛と黒銀は、錬成塩を加えたときの煙が違います」
「換気できる場所で、少量だけにしよう。煙は吸わない」
「そんなに危ないですか」
「分からないから」
理人が答えると、フィアは素直に頷いた。
検査台の向かいでは、アーデルが王命設備調査員の銀札を指先で裏返している。
「それ、そんなに面白い?」
「王家の設備札に、異国人の名前が刻まれたのは初めてでしょうね」
「名前は読めるの?」
「ミヤサカ・リヒトと刻んである。あなたの文字ではないけれど」
「落としたら届けてもらえそうだ」
「先に拘束されると思うわ」
アーデルは銀札を返し、器の列へ身を寄せた。
「結果は?」
「上層の水は、いまの検査では大きな反応なし。第三浄水所へ入る原水は酸性で、処理後に少し改善しています。ただ、下層の水栓へ届くまでにまた酸性が強くなって、金属も増えてる」
「浄水所と下層街の間に、古い鉛管がある」
「どれくらい古い?」
「建国前から使っている区間もあるわ」
「交換記録は」
「ないと思う」
「思う?」
「交換できるなら、記録に残す前に交換している」
昨日までなら、その返答へ苛立っていたかもしれない。いまは、設備と記録が失われた順番を少し理解し始めていた。壊れた箇所へ使える部品を入れ、流れを戻す。それだけで一日が終わる場所では、材質や施工日の記録は後回しになる。
後回しにされたものが何十年分も積み重なり、誰も全体を把握できなくなっていた。
「第三浄水所を見に行きたい」
「いまから?」
「水を止める必要があるなら、早い方がいい」
「止めた場合、下層の六千人が飲み水を失うわ」
「だから、止める前に見る」
アーデルは理人の脇腹へ目をやった。
「医療院から出て、まだ半日も経っていない」
「今日はもう四刻寝ました」
「胸を張るところではないわね」
彼女はため息をついたものの、止めはしなかった。
第三浄水所は、黒湖の南側にある低い建物だった。
外壁には白い析出物が幾重にも固まり、排水溝には赤茶色の泥が溜まっている。入口へ近づくにつれ、濡れた鉄と硫黄を混ぜたような臭いが強くなった。
内部では、円形の濾過槽が四基並んでいる。そのうち二基は水を抜かれ、底の石が露出していた。残る一基では濁った水がゆっくり浸透し、最後の一基だけ、水面が不自然な速さで下がっている。
「そっちは濾過してない」
背後から女の声がした。
振り返ると、五十代半ばほどの女が立っていた。短く刈った髪へ白い粉が付着し、革の前掛けには薬液で焼けた跡がいくつもある。右手の指二本には布が巻かれていた。
「第三浄水所の管理をしているマルタだ。王様の札を持った地上人ってのは、あんたか」
「宮坂理人です」
「名前はどうでもいい。濾過してないと言ったのが聞こえたか?」
「聞こえました。どうして通してるんですか」
マルタは最後の濾過槽を指した。
本来なら槽の上から入った水が、内部の砂や白い礫を通り、底の集水管へ抜ける構造らしい。ところが側面の迂回管にある弁が開かれ、水は濾材を通らず出口へ流れていた。
「三基だけじゃ量が足りない。二基は詰まって使えず、一基は半分しか通らない。迂回を閉めれば、夕方には下層の水甕が空になる」
「いつから開けています?」
「三か月前からだ」
王の報告にあった、苦情が増え始めた時期と重なる。
理人はその一致を口にしなかった。相関があっても、それだけで原因とは決められない。
「濾材は何を使ってる?」
「上から黒炭、細砂、白灰石、粗石。以前は銀砂も入れていたが、七年前に鉱床が潰れた」
「白灰石を見せてください」
マルタは使用前と使用後の石を、籠ごと作業台へ載せた。
新しい白灰石は、爪で擦ると白い粉が付く。酢に似た酸性の液を一滴落とすと細かい泡が出た。石灰岩に近いものらしい。
使用後の石は赤黒い皮膜に覆われ、互いに固着している。隙間を水が通れず、濾過槽が詰まった理由は一目で分かった。
「何度か洗いましたか」
「水を逆に流してな。最初は落ちたが、いまは石ごと固まっている」
ポンプの取水口と同じように逆洗するだけでは足りない。酸性の原水が白灰石を溶かし、そこで生じた成分と金属が反応し、濾材の表面へ沈着した可能性がある。
理人は使用後の石を布越しにつかみ、割れた断面を確かめた。赤黒い皮膜は表面に集中し、内部には白い部分が残っている。
「砕けば、まだ使えるかもしれない」
「砕いたら細かくなりすぎて、水が通らなくなる」
「そのまま槽へ戻すんじゃなく、別の容器で原水と混ぜて、沈殿させてから上澄みだけ送る」
マルタの表情が険しくなった。
「思いつきで水路を変えるな。下層は、あんたの実験場じゃない」
「だから、先に小さい量で試します」
理人はフィアへ、検査用の器を六つ並べるよう頼んだ。
同じ量の原水を入れ、砕いた白灰石を少しずつ量を変えて加える。最初の器には入れず、二つ目から順に増やした。硝子棒で同じ回数だけかき混ぜ、沈殿を待つ。
「回数まで揃えるのか」とマルタ。
「条件を一つだけ変えたいので」
「石の量だけ?」
「まずは。混ぜる時間や粒の大きさまで一緒に変えたら、何が効いたか分からなくなる」
しばらくすると、白灰石を多く入れた器ほど赤茶色の沈殿が増えた。上澄みを別の器へ移し、紫色の試薬を落とす。
石を入れていない水は赤いまま。量を増やすにつれて紫へ近づき、五つ目と六つ目では青みが出ている。
「入れすぎれば、今度は反対側へ偏る」
理人は五つ目の器を除き、四つ目の上澄みへ金属検査用の試薬を加えた。灰色の濁りは生じたものの、原水よりかなり薄い。
「金属も減っています」
フィアが器の底を見た。
「溶けていたものが、石で固まって沈んだんだと思う。全部ではないけど」
「飲めるのか」
マルタが尋ねた。
理人は透き通った上澄みを見る。見た目は、共同水栓から採ったものよりきれいだった。臭いも弱くなっている。
ここで飲めると言えば、迂回水の代わりに使える。六千人の水を確保でき、自分の提案が正しかったことも示せる。
「まだです」
マルタの顔から期待が消えた。
「さっきよりましになっただけです。反応しない毒が残っているかもしれないし、石を入れる量も毎回同じでいいとは限らない」
「なら、何の役に立つ」
「迂回させている水を、そのまま流すよりは減らせる。空いている槽か大きな容器があれば、沈殿させたあと、使える三基へ送れます」
「空いている槽なら、染料組合の古い染め桶がある」とアーデルが言った。「下層水路の隣に六基。二年前から使っていない」
マルタが首を振る。
「染料が残ってる。洗う水も要るぞ」
「洗浄水は黒湖から取れる。最初の排水は、飲料水路へ入れず鉱滓路へ送る」
「管をどうつなぐ」
「それを決めるのは、僕よりマルタさんの方がいい」
マルタの目が細くなる。
「私にやらせるのか」
「この浄水所の流れを一番知っているのは、あなたでしょう。僕は必要な処理を提案できますが、どの管を使えば間に合うかは知りません」
「王様の札で命令すればいい」
「命令して、間違った管へつながせたくない」
マルタは試験用の器と、理人の銀札を交互に見た。すぐには答えず、使用済みの白灰石を一つ取り、掌の上で転がす。
「迂回を全部は閉められん」
「分かっています。仮設の処理量が増えるまでは一部を残す。ただし、いまの水を飲料用と呼ぶのはやめたい」
「住民へ何と言う」
「煮沸しても安全にならない可能性があると伝える。上層の水を回せる量は?」
アーデルが持ってきた給水記録を開く。
「貯水を崩せば一日半。ただし医療院と食料工房の分も含む」
「まず子供と妊婦、体調を崩している人へ上層水を回す。料理にもできるだけそちらを使う。洗濯や清掃は、処理前の水でもいい」
「誰が優先順位を決める」とマルタ。
理人は答えられなかった。
設備なら、故障率や処理量で順番を決められる。人間へ水を配る順番は、技術だけでは決められない。
「王宮へ判断を求めます。僕が決めるべきことじゃない」
「逃げるのか」
「分からないことを、権限があるという理由だけで決めたくない」
マルタは鼻を鳴らした。
「面倒な地上人だな」
「昨日から何度か言われています」
「褒めてない」
「分かってます」
マルタは作業台から古い水路図を取り、染料区画へ向かう管を指した。
「この枝なら、染め桶へ送れる。だが、弁が十年動いていない。開かなければ壁を壊して管をつなぐことになる」
「ガルドに連絡します」
「先に私が見る。あいつを呼ぶと、壊す前から壁へ穴を開ける」
彼女は前掛けの紐を締め直し、作業員たちへ声をかけた。二人が工具を持って集まり、別の一人は使用済みの白灰石を砕くため、鉄槌と受け皿を運んでくる。
誰も理人を歓迎してはいない。それでも、試験結果と具体的な作業が示されると、止まっていた人の流れが動き始めた。
フィアが煮詰めた水の器を片づけようとする。
「それは残しておいて」
「比較用ですか」
「住民へ説明するときに使える。沸かす前と後で、反応が濃くなるところを見せた方が伝わりやすい」
理人は共同水栓から採った試料へ蓋をし、切り込みの数を確かめた。
浄水所の奥で、長く動かされていなかった弁へ工具が掛けられる。金属の軋む音が響き、赤錆が床へ落ちた。
マルタが弁棒の状態を確かめながら振り返る。
「リヒト。もし、この水を飲んでいたせいで病人が出ているなら、処理を変えれば治るのか」
「原因がこれだけなら、悪化は減らせると思います。でも、身体に溜まったものが抜けるかは分かりません」
「そうか」
彼女はそれ以上尋ねず、両手で工具を握った。
弁がわずかに回る。使われていなかった枝管の奥から、濁った水と黒い泥が吐き出され、排水溝へ流れ込んだ。
フィアが屈み、泥へ試薬を一滴落とす。
濡れた床の上で、黒い反応が広がった。




