第十話 飲める水の条件
「待ってください。まだ染め桶には回さないで」
理人が声をかけると、弁を操作していた作業員が振り返った。
十年間使われていなかった枝管から、濁った水が鉱滓路へ流れ続けている。最初に吐き出された黒い泥は排水溝の窪みへ溜まっていた。フィアが試薬を落とした場所だけ、濡れた煤のような色へ変わっている。
マルタは弁棒から手を離さなかった。
「ここで閉めたら、また泥が中へ残るよ」
「弁はそのままで大丈夫です。透明になるまで外へ流しましょう。泥には触らないよう伝えてください」
「十年も止めていた管なんだ。虫の死骸くらいは入ってるさ」
「それだけなら助かります」
理人は排水溝のそばへ腰を落とした。右脚を深く曲げると包帯の下が引きつる。傷を庇って片膝をつき、流れてくる水へ手を近づけた。
周囲より温かい。
フィアが細い硝子管で上澄みを採った。泥を巻き上げないよう、管の先をゆっくり動かしている。小瓶へ移したあと、先ほどと同じ試薬を一滴落とした。
液体はすぐ灰色へ濁った。やがて光を通しにくい黒へ変わっていく。
「共同水栓のものより反応が速いですね」
フィアは瓶を鉱石灯へ透かした。
「止まっている間に、管から溶け出したのかもしれない。枝管は何でできているんですか」
マルタは面倒そうに管を叩いた。
「赤銅だよ。継ぎ目は鉛灰で埋めてある。どこの水路も似たようなものさ」
鉛という言葉に理人は顔を上げた。
赤茶色の管と管の間には、鈍い灰色の金属が盛られている。継ぎ手の下側は痩せており、表面には細かな孔が開いていた。
フィアも理人の視線を追った。
「鉛灰なら、熱するとすぐ溶けます。錬成院でも瓶の金具を留めるときに使いますよ」
「製錬所では鉛熱が出ることもあるわ」
アーデルが継ぎ手の前にしゃがんだ。
「腹痛や手の震えが続く病気ね。煙を吸った職人に多いと聞くけれど、水に溶けるという話は知らない」
「酸性の水なら金属を溶かします。この鉛灰が地球の鉛と同じ性質なら、少しずつ飲んでも身体へ影響が出るかもしれません」
王の報告書に記されていた症状と似ている。とはいえ、それだけで原因を決めることはできなかった。別の金属も入っている。感染症や栄養状態が重なっている可能性もある。
マルタが千枚通しに似た工具を取り出した。
「欠片が欲しいんだろ。剥がれかけたところならある」
継ぎ手の端へ差し込むと、米粒ほどの金属片が簡単に外れた。力を入れた様子はない。
掌へ落ちた欠片を見て、マルタの口元が歪んだ。
「こんなに脆くなってたのか」
フィアが布越しに受け取った。欠片を二つに分けて、一方は第三浄水所の原水へ入れる。もう一方には上層貯水槽の水を注いだ。
「しばらく置いてから比べます。同じ温度にしておいた方がいいですよね」
「お願いします。酸性の方だけ反応が強ければ、水が継ぎ手を傷めている根拠になります」
フィアは瓶へ印をつけ、検査箱に収めた。
マルタは枝管を見上げたまま動かなかった。
「濾過槽を直しても、この継ぎ手は元に戻らないんだね」
「はい。酸性を弱めれば溶けにくくはなると思います。ただ、傷んだ箇所はいずれ交換が必要です」
「いずれ、か。便利な言葉だよ」
この街の給水管には、建国前から使われている区間もある。三万人分の配管を一度に交換できるはずがない。どこから手をつけるか決めるだけでも、継ぎ手の数と水質の変化を調べる必要があった。
枝管から出る水は次第に澄んできた。黒い泥も減っている。
理人はフィアに三本の試料を採ってもらった。採取した順番が分かるよう、瓶の縁へ一つずつ傷を増やしていく。試薬を加えると、最初の瓶だけが黒くなった。二本目は濃い灰色。三本目は共同水栓の試料と同じ程度である。
「そろそろ染め桶へ回せそうだ」
マルタが作業員を呼ぼうとした。
「先に桶を洗わせてください。染料が残っていると、試薬の反応まで分からなくなります」
「分かってるよ。あんたは同じ注意を何度するつもりだい」
「こちらへ来てから、分かっていると言われた設備で二度死にかけました」
マルタが振り返る。理人の顔をしばらく見たあと、何も言わず作業員へ洗浄を命じた。
その頃になって、重い足音が浄水所へ入ってきた。
ガルドが工具箱を担いでいる。後ろには四人の職人が続いていた。脇へ挟んだ紙束には、染料区画の水路が描かれているらしい。
「壁を壊す話はどうなった」
「最初から、そんな話はしていないよ」
マルタの返事に、ガルドは枝管を一瞥した。
「十年放っておいた管が素直に動くとは思わんだろう」
「だからって、穴を開ける道具まで持ってくるかね」
「開いたなら使う。それだけだ」
ガルドは管を工具の柄で軽く叩いた。返ってくる音を聞きながら継ぎ手を確かめ、二番目の箇所へ炭筆で印をつける。
「ここだけ替える。ほかは当分もつだろう。染め桶の洗浄は?」
「始めたところさ。二年分の汚れを一刻で落とせと言うなら、あんたも手伝いな」
「二年なら新しい方だ」
二人は言い合いながら図面を広げた。互いに譲る様子はない。それでも指が示す水路は同じだった。
理人は試験に使った白灰石を作業台へ並べた。
「最初の処理は、この量で試したいと思います。ただし毎回同じ量にはできません。原水の状態を確かめてから増減させます」
ガルドは白灰石と試薬の色見本を見比べた。
「その検査を毎回やるのか。フィア一人では足りんぞ」
「作業員にも覚えてもらいたいです。色を比べるだけなら、手順を決めればできます」
話を向けられたフィアは、自分を指した。
「私が教えるんですか? まだ見習いですよ」
「試薬の扱いは、僕より知っています」
「でも、間違えて教えたら……」
フィアは助けを求めるようにアーデルを見た。
「最初の数回は私が確認するわ」
アーデルが色見本を一枚手に取る。
「手順どおりにできたかを見るだけなら、あなたにも教えられる。分からない質問が出たら、無理に答えなくていい」
フィアは不安そうなままだった。それでも検査箱を開き、作業員の人数に合わせて試薬を小瓶へ分け始めた。
理人は王から渡された銀札を取り出した。
「仮設の処理が動く前に、下層への配水を一度止めたいです」
作業場の音が少し遠のいたように感じられた。
マルタは枝管の図面から顔を上げる。
「上層水を回せるのは一日半だ。その分には医療院も食料工房も入ってる。仮設が遅れたら、今夜の煮炊きにも間に合わないよ」
「分かっています。ただ、このまま流し続ければ、酸性の水が配管から金属を溶かします。管の中に残った水も一度出したい」
「止めるのは簡単さ。元へ戻せなかったとき、困るのは下で暮らしてる連中だ」
「再開する条件を先に決めましょう」
理人は白い陶板を作業台へ置いた。紫から赤へ変化する腐水性の見本が塗られている。
「この色より酸性が弱くなること。金属試薬の反応が上層水と同程度まで薄くなること。目に見える濁りと異臭がないこと。続けて三回確認できたら配水を戻す。設備の状態はマルタさんに見てもらいます」
「三回やれば安全だと言えるのかい」
「そこまでは言えません。一回だけより、偶然の見落としを減らせるという程度です」
「歯切れが悪いね」
「安全だと言い切れる道具がありません」
マルタは銀札へ目を落とした。
「王様の札があるなら、命令すればいいじゃないか」
「設備を知らない人間が、札だけで押し切る方が危ないでしょう」
すぐには返事がなかった。
マルタは陶板を手元へ引き寄せ、色見本を順に眺める。やがて作業台へ戻すと、職人へ向かって声を張った。
「迂回管は仮設がつながり次第止める。下層水路も洗うよ。ぼさっとしてる暇はないからね」
それから理人を見た。
「住民への説明は、あんたも来な。止めると言い出した本人が工房へ隠れていたら、余計にこじれる」
「分かりました」
「言っておくけど、石を投げられても私の後ろへ隠れるんじゃないよ」
下層街の共同水栓には、すでに人だかりができていた。
配水停止の鐘を聞き、残った水を確保しようと集まったのだろう。桶を二つ抱えた男がいる。瓶を詰めた籠を背負う女もいた。列の前では、蓋付きの壺を抱えた子供が水栓を見上げている。
流れは細かった。順番が進まないため、苛立った声があちこちから上がっていた。
エルナが六人の兵士を連れて現れた。列の前へ出たものの、剣には手をかけていない。
「浄水所の作業により、下層の飲料水を一時停止する。医療院と各街区の配給所には、上層の水を運ばせている」
「一時って、いつまでだよ」
「夕食はどうするんだ」
「また上の連中だけ水を使うんだろ!」
エルナは無理に声を重ねなかった。代わりにマルタへ場所を譲る。
「迂回管を開けたのは私だよ」
その一言で、住民の声が少し弱くなった。マルタを知る者が多いらしい。
「三か月前、濾過槽が二つ詰まった。残りだけじゃ下層へ回す量が足りなかったんだ。水を止めるよりは流した方がいい。そう考えて濾過していない水を混ぜた」
「じゃあ、あんたが毒を入れたのか」
「違う。水が古い管を傷めたらしい。継ぎ目の金属が溶けているかもしれないんだ」
そこでマルタは理人へ顎を振った。
理人は煮沸前と、半分まで煮詰めた水の瓶を掲げた。どちらにも同じ量の試薬が入っている。煮詰めた方が明らかに濃く濁っていた。
「これまで水を沸かすよう言われていたと思います。細菌が原因なら煮沸は有効です。ただ、今回見つかった金属は残ります。水だけが蒸気になるので、煮詰めるほど濃くなる場合があります」
「今まで飲んだ分はどうなるの」
幼い子供を抱いた女が、列の中から尋ねた。
理人は二本の瓶を下ろした。
「すぐには答えられません。飲んだ量も身体への影響も、まだ調べられていない。ただ、腹痛や手足の震えが続いている人は医療院へ行ってください。どこの水を飲んでいたかも伝えてほしい」
「治るかどうかも分からないの?」
「はい」
女の表情が硬くなる。
「今の僕に言えるのは、これ以上同じ水を飲まないよう処理を変えるということだけです」
少し離れた場所で、地上人という囁きが聞こえた。
「昨日落ちてきたやつだろ」
「自分で何か入れて、見つけたふりをしてるんじゃないか」
理人が声の方を探す前に、マルタが腰へ手を当てた。
「私は三か月前から迂回管を開けていた。この男が落ちてきたのは昨日だよ。疑うのは勝手だけど、せめて順番くらい考えてから喋りな」
疑いは消えなかった。ただ、住民の視線が理人だけに集まることもなくなった。
エルナが兵士へ合図を送る。
元弁が閉められ、水栓から落ちていた細い流れが止まった。空になりかけた管が、息を吸うような音を立てる。
*
最初の仮設処理が終わったのは、配水を止めてから三刻後だった。
古い染め桶を黒湖の水で洗い、砕いた白灰石を入れる。そこへ第三浄水所の原水を送った。四人の作業員が長い棒で攪拌すると、水は赤茶色へ濁った。しばらく置くうち、濁りの大半が桶の底へ沈んでいく。
上澄みは既存の濾過槽へ送った。細砂と黒炭を通した水を使い、下層の給水管を洗う。
最初の排水は黒かった。二度目は灰色。三度目で、ようやく目に見える濁りが消えた。
理人とフィアは、そのたびに試料を採った。
最初の水は酸性こそ弱まったものの、金属の反応が残る。二回目では薄くなったが、上層水より濃い。
三回目の試料へ試薬を落とす。
フィアは上層水の色見本を隣へ並べた。鉱石灯の下で何度も角度を変える。
「かなり近いです。でも、もう一度見たいです」
「決めた条件では、三回目から数えられます」
「その前の二回は駄目でした。処理後の水として、三回続けて確認した方がいいと思います」
彼女の目の下には濃い隈ができている。それでも試薬を扱う手つきは、朝より落ち着いていた。
「そうしましょう」
四回目と五回目も、色見本とほぼ同じ反応になった。
マルタは濾過槽の水位と流量を調べている。原水中の金属を染め桶へ先に沈めたため、濾材の詰まりも起きていない。
「普段の七割は出せる。夕食には間に合うよ」
記録へ三人の署名を残し、下層の元弁を開いた。
共同水栓から水が戻ってくる。最初の一桶は検査用に除けた。次の桶をマルタが自分で受ける。
「飲むつもりですか」
理人の声に、マルタは桶の水を見下ろした。
「飲める水として流すんだろ」
「今日できる検査を通っただけです。安全だと証明できたわけではありません」
「じゃあ捨てるかい?」
止める言葉が見つからなかった。
マルタは水を一口含んだ。舌の上で確かめてから、ゆっくり飲み込む。
「少し石の味がするね」
「白灰石が多かったかもしれません」
「金属の味よりはましだよ」
待っていた住民たちが水栓へ戻り始めた。まず臭いを嗅ぐ。指先へ取って確かめる者もいた。それからようやく桶を差し出していく。
これで問題が終わったわけではない。
検出できない物質は残っているかもしれない。古い継ぎ手も交換できていない。酸性を弱めたことで、鉛が溶け出す速さを下げただけである。
それでも、昨日までと同じ水ではなかった。
「リヒトさん!」
フィアが坂の上から駆け下りてきた。両手で試料瓶を抱え、中身がこぼれないよう胸へ押しつけている。
「原水の反応が変わりました。さっきより赤いんです」
理人が瓶へ触れると、先ほどの試料より温かかった。
フィアは腐水性の試薬を一滴入れる。水は基準の赤を越え、暗い朱色へ変わった。
「同じ取水口から二度採りました。瓶も洗っています」
採取間違いではなさそうだった。
固定した量の白灰石を入れ続ければ、次の槽では中和が足りない。攪拌中の染め桶には、すでに新しい原水が流れ込んでいる。
「二槽目はいったん止めましょう。いまの原水でもう一度、加える量を決めます」
フィアは作業員のもとへ走った。
理人は最初に作った配合表を開く。一定量として記した白灰石の数字へ二重線を引いた。代わりに原水の色と温度、投入量を時刻ごとに記録する欄を作る。
染め桶の攪拌棒が止まり、追加の白灰石が運び込まれた。
理人は温かい試料瓶を手の中で転がす。採取時刻を確認すると、上層熱受け槽へ大きな熱が入ってから、まだ一刻も経っていなかった




