第十一話 遅れて届く水
二槽目へ入れる白灰石は、最初の一・五倍になった。
理人は砕いた石を秤へ載せた。フィアが横で数値を記録する。原水の色はまだ暗い朱色のままだった。試薬を入れてから時間を置いても変わらない。
「これで足りますかね」
フィアの声には自信がなかった。
「小さい器で先に試そう。桶へ入れたあとで足りないと分かるより早い」
同じ原水を三つへ分けた。それぞれ白灰石の量を変えて混ぜる。赤茶色の濁りが生じるまで待ち、上澄みだけを別の器へ移した。
中央のものが色見本へ最も近かった。石を多く入れた右端は青みが強い。
「一・五倍で始めます。処理後の色が青へ寄るなら減らしてください」
「今度の水も変わったら?」
「また測り直すしかない」
フィアは記録板へ新しい欄を作った。理人の言葉をそのまま写すのではなく、腐水性の色と投入量が横へ並ぶ形に直している。作業員が見ても使いやすそうだった。
昨夜まで検査を教えることへ怯えていた者と同じには見えない。理人がそう伝えると、彼女は少し嫌そうな顔をした。
「怖くなくなったわけじゃありません。止める人がいないのでやっているだけです」
「僕も似たようなものだよ」
「リヒトさんは自分から危ない場所へ行くじゃないですか」
「それは直したいと思ってる」
「思ってるだけですか」
返答を探しているうちに、浄水所の入口からアーデルが現れた。
片腕に図面筒を抱え、もう一方の手には記録板を持っている。王宮を出たときより髪が乱れていた。上層と下層を何度も往復したらしい。
「受熱槽の記録を持ってきたわ。フィア、そちらの水質変化は?」
「最初に温かくなったのが六刻の半ばです。そのあと七刻の初めにもう一度。腐水性も両方で強くなっています」
フィアは自分の記録板を作業台へ置いた。
アーデルも隣へ並べる。上層熱受け槽へ熱が入った時刻には、赤い丸がつけられていた。大きな脈が三回。小さなものが二回。
理人は二枚の時刻を見比べた。
最初の熱流入から、原水が温かくなるまで四分の三刻。二回目もほぼ同じだけ遅れている。夜中の記録まで戻ると、三つ目の組み合わせが見つかった。
「同じくらいの遅れが三回ある」
「偶然ではないということ?」
アーデルは水質記録を手元へ引き寄せた。
「まだ三回です。ただ、無関係だと考えるよりは調べる価値があります」
「受熱槽から水が流れてきているのかしら」
「それなら、この遅れは移動にかかった時間かもしれない。別々の場所へ同じ原因が作用している可能性もあります」
理人は二枚の記録を重ねた。端を揃えると、赤い丸の少し右へ水温上昇の印が並ぶ。
上層で異常を見つけてから、下層の水が悪化するまで猶予がある。その関係が正しければ、原因を突き止める前でも使い道はあった。
「受熱槽で大きな脈を確認したら、第三浄水所へ知らせられますか」
「伝声管はないわ。鐘なら鳴らせる」
アーデルが壁に掲げられた警報表を見た。
「既存の組み合わせと重ならないものが必要ね」
マルタが処理槽から戻ってきた。話を聞くと、汚れた手で記録を押さえた。
「短く二回、そのあと長く一回なら空いてる。第三浄水所だけじゃなく、南の取水所でも聞こえるよ」
「受熱槽の脈が小さい場合は?」
「全部知らせておくれ。こっちで水を採れば済む話だ」
原因が確定してから動く必要はない。熱流入の鐘を聞いたら原水を検査する。変化がなければ、通常どおり処理を続ける。酸性が強くなっていれば白灰石を増やす。
理人は手順を紙へ書いた。フィアが内容を確かめ、マルタは鐘を扱う作業員へ伝えに行く。
アーデルだけが記録から目を離さなかった。
「これで水は止めずに済む?」
「今よりは。ただ、原水の変化が大きすぎれば処理が追いつきません」
「元から分けた方がいいわね」
「南の取水所を見たい」
理人が口にすると、アーデルは予想していたように図面筒を差し出した。
「古い水路図も持ってきた。現在の図面にはない管が、南取水所の近くを通っている」
広げた図面は変色が進み、折り目の一部が破れていた。上層熱受け槽から出た冷却管が街の外縁を下っている。行き先は南冷却廊と記されていた。
第三浄水所の原水路は、そのすぐ下を横切っている。
「冷却管が漏れて、水路へ入っている?」
「図面だけでは分からない。南冷却廊は二十年近く使われていないそうよ」
「使われていない設備ばかり動いてますね」
「この国では珍しくないわ」
理人は図面を丸めた。脇腹と右脚は休めと訴えている。医療院の長椅子で四刻眠っただけでは、落下の傷が治るはずもない。
それでも水質が変わるまでの時間は分かった。次の脈が来る前に取水所へ着けば、どの経路から温かい水が入るのか見られるかもしれない。
「エルナへ連絡します」
アーデルが先に言った。
「一人で行くとは言ってません」
「言わなくても顔を見れば分かる」
「そんなに分かりやすいですか」
「あなたが図面を丸めるときは、だいたい現物を見に行くときよ」
否定できなかった。
*
南取水所は、市街地の灯りが途切れた先にあった。
黒湖へ注ぐ地下水を石造りの槽へ集め、飲料用と工業用に分ける施設である。水は三本の坑道から流れ込んでいた。中央の水路が最も太く、左右は半分ほどの幅しかない。
入口で待っていたマルタは、理人たちを見るなり歩き始めた。
「大きい方が中央泉。左は旧鉱山から来る水だよ。右は冷却廊の排水。昔から温かいけど、量は少なかった」
「いまも冷却廊の水を混ぜているんですか」
「捨てる水路が潰れたんだ。止めれば上流で溢れる。だから飲料槽へ入れる前に中央泉で薄めてる」
理人は足を止めかけた。
マルタは振り返らずに続ける。
「開けたのは十八年前。私がここへ来る前だよ。当時の検査では問題なし。熱いだけの水だと記録にある」
「水質が変わってからも検査は?」
「年に二度。だが、鉱毒の試薬しか使っていなかった。腐水性は味が変わったときだけさ」
責める言葉は浮かばなかった。
十八年前に安全だった水を、限られた試薬で年に二度調べていた。それが十分だったとは言えない。だからといって、毎日すべての項目を検査できる人員も薬品もなかったのだろう。
先頭を歩くエルナが足を止めた。
「この先は天井が低い。順番を変える。私が先に入る」
右側の坑道だけ、入口が古い木枠で補強されていた。柱には数字と名前が細かく刻まれている。エルナはそのうち一つへ視線を向けたが、指で触れることはしなかった。
理人は何も聞かず、彼女のあとへ続いた。
坑道内には、膝下ほどの深さで水が流れている。石の足場を選んで進んでも、数歩ごとに靴が濡れた。右脚へ水圧がかかると傷が痛む。
フィアは検査箱を頭上へ掲げていた。胸元の灯具も消えないよう、外套の内側へ入れている。
「原水の色を、入口でも見ておきますね」
彼女は水を採り、腐水性の試薬を落とした。反応は薄い赤である。先ほど浄水所へ届いたものほど強くない。
「いまは落ち着いてる」
理人は腕時計を見た。上層熱受け槽で最後の脈を記録してから、かなり時間が過ぎている。次がいつ来るかは分からなかった。
奥へ進むにつれ、空気が温かくなる。水路の右壁には太い管が埋め込まれていた。管そのものは露出していない。壁面のひびから、白い析出物が垂れている。
終点には円形の集水室があった。
床の半分を水槽が占め、岩盤から湧く水を受けている。その上を横切る形で、黒い金属管が通っていた。表面には古い断熱材が巻かれている。
管の一部は、煉瓦の壁へ埋め込まれていた。
「この向こうが南冷却廊です」とマルタが言う。「崩落のあと、通路を塞いだ。排水だけは下の穴から流してる」
煉瓦壁の下部から、細い水が集水槽へ注いでいる。温度は中央泉より高い。流量は少なく見えた。
理人は壁へ近づいた。
「目を使うのか」
エルナが横へ立つ。
「短い時間だけ」
「何か見えたら、先に口で言え。倒れてからでは遅い」
理人は壁へ手をつかず、半歩離れて《熱流眼》を開いた。
冷たい湧水が青い層となって床を流れている。その上へ、煉瓦壁の穴から橙色の筋が入っていた。見えている範囲では細い。
さらに奥へ焦点を合わせる。
壁の向こうには、もっと太い流れがあった。断熱された管の内部を熱い液体が通っている。その一部が枝分かれし、下の排水穴へ向かっていた。
流れは一定ではない。
弱くなったあと、奥から圧力の波が押し寄せる。橙色が白へ近づき、枝管の壁が外側へわずかに膨らむ。
「来る」
理人は能力を閉じた。
「壁から離れてください。熱い水が増えます」
エルナが全員を坑道側へ下がらせる。マルタは集水槽の水位標へ目をやった。
数十秒後、煉瓦壁の奥で低い音がした。
排水穴から出る水が太くなる。湯気が立ち、集水槽の表面を薄く覆った。温かい流れは冷たい湧水の上へ広がり、やがて取水口へ吸い込まれていく。
フィアが長柄の採水器を差し出した。
「熱い方だけ採ります」
「無理に近づかなくていい」
「柄が届きます」
採った水は、触れなくても分かるほど瓶を温めていた。フィアは冷水を張った桶へ瓶を入れ、ほかの試料と同じ温度まで下げる。
腐水性の試薬を落とすと、液体はすぐ濃い赤へ変わった。
「浄水所で採った原水より強いです」
「途中で中央泉の水と混ざって薄まっていたんだと思う」
金属性不純物の試薬では、目立った反応が出なかった。少なくとも鉛の大半は、この水に最初から入っていたものではない。酸性の水が岩や配管を通る間に金属を溶かした可能性が高くなった。
フィアはもう一本、小さな瓶を検査箱から取り出した。
「これも試していいですか」
「何の試薬?」
「魔晶を洗った水に使うものです。魔力が残っていると銀色に濁ります。ただ、自然の霊脈にも反応するので、飲み水には普通使いません」
理人は集水槽を見た。原因を決めるための検査ではない。それでも比較用の中央泉と、熱い排水の両方へ使えば差は見られる。
「同じ量ずつで」
フィアは二つの器を並べた。
中央泉の水へ試薬を入れる。底に銀色の粉がわずかに生じた。
熱い排水へ加えると、液体全体が白く曇った。銀色の膜が水面へ浮かび、灯具の光を鈍く返す。
フィアの表情から、眠気が消えた。
「学院で見た廃晶の洗浄水に似ています。でも、こんなに濃いものが流れているなら、普通は臭いで……」
言葉の途中で、彼女は瓶を鼻から遠ざけた。
「嗅がないで。反応した物質が安全とは限らない」
「すみません」
フィアは瓶へ蓋をした。指先が少し震えている。
マルタは白く濁った水を見下ろした。
「十八年前の検査では、問題がなかったんだよ」
「そのときの記録を確認します」
理人は煉瓦壁の下へ視線を移した。
排水の勢いはすでに弱まり始めている。上層熱受け槽の脈と同じく、短時間だけ増える流れだった。
「この排水を止めれば、冷却廊の中で溢れるんだね」
「そう聞いてる。崩落前は、外縁廃水路へ流していたそうだよ」
「外縁廃水路は、どこへ?」
マルタは集水室の奥を指した。
煉瓦で塞がれた壁の向こうだった。
「街より深い場所へ落としていた。どこまで続いているかは、私も知らない」
エルナが壁へ近づき、古い断熱材の端を剣の鞘で持ち上げた。下から黒ずんだ金属板が現れる。
フィアが灯具を寄せる。腐食の隙間に、文字が残っていた。
「南冷却還路。その下は……地上側排液、受入管」
フィアは読み上げたあと、声を止めた。
理人は温かい排水と、銀色に濁った試料を見比べる。
熱だけではなかった。
地上で使われたあとに残った何かが、冷却管を通って地下の水路へ流れ込んでいる。そう考えれば、受熱槽の脈から遅れて水質が変わる理由も説明できた。
ただし、管の表示と一度の検査だけでは足りない。
「この試料は封をして持ち帰ろう。受熱槽から漏れていた冷却液とも比べたい」
理人が言うと、フィアは検査箱の空いた場所へ瓶を収めた。
エルナは煉瓦壁の前に立ったまま、奥の音を聞いている。
「ここを開ければ、元の廃水路へ戻せるのか」
「崩落の状態を見ないと分からない。すぐ壊すのは危険です」
「ガルドなら、もう槌を持ってくる頃だな」
「呼んだんですか」
「ここへ来る前に伝言を残した」
遠くから、金属製の荷車が坑道を進む音が聞こえてきた。
エルナはわずかに口元を緩めた。
「どうやら間に合ったらしい」




