第十二話 閉ざされた排水路
坑道の角から現れた荷車には、槌だけでなく支柱と鋼管まで積まれていた。
ガルドは先頭で車を引いている。後ろから三人の職人が押し、最後尾には防水布を巻いた工具箱が載っていた。狭い場所へ無理に入ってきたせいで、車輪が岩へ乗り上げるたび金属同士がぶつかる。
「ずいぶん持ってきましたね」
理人の言葉に、ガルドは荷車を止めた。
「壁の向こうが潰れているなら支えが要る。管を切るなら継ぎも要る。来てから足りないと言い出す奴は、現場へ来る前に半分失敗している」
「壁を壊す道具も入ってます?」
「それを決めるために来た」
答えながら、ガルドは理人の頭越しに煉瓦壁を見た。
排水穴から流れ出す水は、すでに細くなっている。先ほどの熱い脈は収まり、集水槽から立つ湯気も消えつつあった。代わりに白く濁った試料が検査箱へ残されている。
フィアがガルドへ小瓶を示した。
「地上側排液から採りました。腐水性が強くて、魔晶を洗った水と似た反応も出ています。まだ同じものだとは言えませんけど」
「飲めん水ということだけは分かるな」
ガルドは瓶へ触れず、煉瓦壁の前へ進んだ。
エルナが片手を出して止める。
「奥から圧が来る。さっき壁の向こうで管が膨らんだ」
「音は?」
「低い唸りが先にあった。そのあと排水が増えた」
「間隔は分かるか」
エルナは理人を見る。
「いまのところ不規則です。ただ、上層熱受け槽で大きな熱流入があったあとに来ています」
ガルドは短く唸り、工具箱から細い金属棒を取り出した。煉瓦の継ぎ目や床を順番に叩いていく。硬い音が続き、排水穴の右上だけ鈍く響いた。
「ここに空洞がある。図面を」
マルタが古い水路図を広げた。集水室の床は濡れているため、職人が二本の角材を渡し、その上へ紙を載せる。
図面の端は破れていた。それでも排水管と外縁廃水路の接続部は残っている。壁の向こうには小さな点検室があり、そこで二本の管が合流していた。
「煉瓦壁は崩落のあとで積んだものだよ」
マルタが図面の印を指で押さえた。
「通路が潰れたから、排水だけ下へ抜いた。十八年前の工事記録ではそうなってる」
「下へ抜いた先が、この集水槽ですか」
「元は取水所の洗浄水を流す穴だった。温かい排水を中央泉で薄めれば使えると判断したらしい。量も今ほど多くなかったんだろうね」
その当時の判断を責めるのは簡単だった。飲料水が不足していたなら、捨てていた水を利用するのは合理的に見える。検査で問題が出なかったのなら、なおさらだ。
十八年の間に何が変わったのか。
地上から送られる量が増えたのか。受熱槽や冷却管の内部が傷み、別の液体が混ざるようになったのか。地下の岩へ触れたことで、水質が変化した可能性もある。
理人は図面の接続部を見た。
「この点検室へ入る方法は、煉瓦を外す以外にない?」
「上から入れたはずだ」
ガルドは天井へ灯石を向けた。
集水室の中央を通る黒い管。その脇に、四角い石板がはめ込まれている。表面が石灰質の析出物に覆われており、天井と同化していた。
職人の一人が梯子を運んでくる。ガルドは自分で上ろうとしたが、エルナが先に足をかけた。
「中を確認するだけだ。技師長が行く必要はない」
「閉じた穴へ騎士が頭を入れて、管の違いが分かるのか」
「管が破れているかくらいは分かる」
「破れる前の管は分からん」
二人は梯子の前で睨み合った。
結局、エルナが一段下で支え、ガルドが石板を調べることになった。表面の析出物を削ると、指を掛けるための窪みが現れる。ただし石板は動かない。周囲の目地が固まり、蓋ごと封じている。
「開けない方がいい」
理人は黒い管へ目を向けた。
「点検室にも熱い排液が入っているなら、中の空気まで温まっています。蓋を開けた途端、蒸気が出るかもしれない」
「では、どうやって見る」
「小さい穴から圧力を確かめたい。栓のようなものはありませんか」
ガルドが梯子の上で目地を削り続ける。石板の角近くから、親指ほどの金属部品が出てきた。中央には四角い窪みがある。
「検圧栓だ。古い圧送管にはよくある」
理人は梯子の下へ移った。
「栓を抜く前に、管をつなげられますか」
「何のために」
「中身が噴き出しても、正面に人がいないようにするためです。小さい弁を挟んで、先を空の槽へ向けたい」
ガルドは荷車の鋼管を振り返った。持ってきた中で最も細いものでも、検圧栓より太い。
「直接は合わん。継ぎを削れば付けられるが、一刻は要る」
「お願いします」
「その間、何をする」
「壁のどこに圧力が集まっているか見ます。ずっとは使えないので、最初に図面へ場所を決めたい」
理人は煉瓦壁から二歩下がった。
エルナが梯子を降り、理人の隣へ来る。以前のように数を数えるとは言わなかった。ただ《熱流眼》を使う前から、理人の腕をつかめる距離へ立っていた。
視界を切り替える。
集水槽を満たす冷水が青く沈み、壁の向こうへ橙色の線が浮かぶ。上から下りてきた太い管は点検室で二つに分かれていた。一方は集水槽へ続く細い排水管。もう一方は奥へ曲がり、崩落した廃水路へ向かっている。
廃水路側の流れは止まっていた。
管の先に、熱が塊となって残っている。壁へ近い位置ではない。点検室から十メートルほど先で、流れが急に途切れていた。
崩れた岩か、沈殿物による閉塞。
厚い煉瓦を隔てても、どちらかまでは見分けられない。
理人は視線を手前へ戻した。集水槽へ向かう枝管には、片側から押し開く構造の弁がある。廃水路が塞がれたことで圧力が上がり、逃げ道としてこちらへ流れているらしい。
目の奥が熱を持ち始めた。
「もういい」
エルナの声が近くで聞こえる。
「あと少しだけ」
「目から血が出ている」
理人は視界を閉じた。
頬へ触れると、右目の下が濡れている。指先についたのは血ではなく涙だった。熱を持った眼球を冷やすように、勝手に流れている。
「涙です」
「私には見分けがつかん」
エルナが布を差し出した。
理人は受け取り、目元へ当てる。視界の中央に橙色の残像があった。
「奥の廃水路が塞がっています。点検室から十メートルくらい先です。いま集水槽へ出ているのは、圧力を逃がすための枝管だと思います」
「本来の道へ戻すには、詰まりを取る必要があるわけか」
ガルドは作業台代わりの板へ金属継ぎを固定していた。鑢を往復させながら話を聞いている。
「閉塞の手前まで入れるなら、岩をどけるか管を洗えるかもしれない。ただ、管の先には熱い液体が溜まっています。いきなり開けば、点検室側へ戻ってくる」
「廃水路が生きているところまで新しい管を通す方が早い」
ガルドは削った金属片を息で払った。
「壁へ穴を開け、閉塞を越えてつなぐ。傾斜が残っていれば自然に流れる」
「その先は、どこへ続いています?」
「街の下だ」
「そこへ流して問題がないか、確認されていますか」
鑢の音が止まった。
「飲み水へ混ぜるよりはましだろう」
「比べる相手が飲み水なら、たいていの場所がましに見えます」
「では、このまま飲ませるのか」
「そうは言ってません」
ガルドの苛立ちは理解できた。地下王国には余裕がない。飲めない水があるなら、生活圏の外へ出すしかない。処理設備を一から作る時間も資材も足りない。
それでも、下なら構わないという判断は、地上の神殿庁がこの国へしていることと変わらなかった。
「廃水路の先に何もないと確認できるまでは、流したくありません。少なくとも成分を調べて、処理できるものを減らしてからにしたい」
「その間の置き場はどうする。次の熱が来れば、また取水槽へ入るぞ」
理人は答えられず、図面へ目を落とした。
排液の量は一定ではない。脈が来るたび増える。最大流量も、一日に何度来るかも分かっていない。受け止める槽を用意しても、容量を超えれば同じことになる。
マルタが図面の端を指で叩いた。
「旧選鉱場の沈殿槽なら使えるかもしれないよ」
「どこです」
「この坑道を一つ下りた先。鉱石を洗っていたころの槽が六つ残ってる。染め桶より大きいし、内側には焼き煉瓦が張ってある」
ガルドが顔を上げる。
「あそこは二年前に漏れただろう」
「漏れたのは三番槽。残りは雨水を溜めるのに使ってた」
「地下に雨は降らん」
「地上から流れ込む水を、こっちでは雨水と呼ぶんだよ」
二人のやり取りを聞きながら、理人は図面上の距離を確かめた。現在の枝管から旧選鉱場までは、坑道沿いに下っている。高低差があればポンプを使わず流せる。配管の長さは必要だが、外縁廃水路を掘り直すより短い。
「沈殿槽へ一時的に逃がす。そこなら中身を採って調べられます。満杯になる前に、処理方法と次の行き先を決める」
「一時的とは、どのくらいだ」
ガルドが問う。
「槽の容量を見ないと分かりません」
「またそれか」
「排液の量も測ります。今日一日の最大量で計算すれば、少なく見積もるよりは安全です」
「今日より大きい流れが来たら?」
「そのときは前提を変えます」
ガルドはしばらく理人を見た。納得した様子はない。それでも鑢を作業台へ戻し、職人の一人へ沈殿槽を確認するよう命じる。
走り去る足音が遠ざかったころ、鐘が鳴った。
短く二度。間を置いて長く一度。
上層熱受け槽からの警報だった。
「来るぞ」
ガルドが叫ぶ。
理人が合図するまでもなく、全員が集水室の入口へ下がった。梯子は壁から倒して床へ置く。工具箱と検査用の瓶も、職人たちが手分けして運んだ。
エルナは最後まで室内へ残り、人数を数えてから坑道へ出る。
鐘を考えたとき、実際にどれだけ時間を稼げるかは分からなかった。
砂時計が返される。
最初の砂が底へ落ちてから半分ほどで、煉瓦壁の奥から低い唸りが届いた。前回より長い。床へ置かれた灯具の炎も細かく揺れている。
排水穴から湯気が立った。
次の瞬間、熱い水が集水槽へ噴き出す。流れはすぐ太くなり、冷たい湧水の上を白い膜のように広がっていった。
「前より多い」
マルタが水位標を見ている。
「取水口を閉じろ!」
集水槽の反対側にいた作業員が弁輪へ飛びついた。二人がかりで回す。古い軸が抵抗し、途中で止まりかけた。
エルナが加わり、三人で押し切る。取水口の水音が弱まり、最後に金属が噛み合う音がした。
これで排液が飲料水路へ入る量は減る。ただし行き場を失った水は集水槽へ溜まり続ける。
「水位が第二標まで来たら退避するよ!」
マルタの声が坑道へ響いた。
理人は流入量を目で追った。
水位標の間隔と、槽の縦横。正確な容積は分からないが、上昇速度から一回分のおおよその量は出せる。フィアが砂時計を見ながら、標を通過した時刻を記録した。
流入は急に始まり、頂点を越えると少しずつ弱くなった。完全に元へ戻るまで、砂時計の半分以上を使っている。
「一回で、この槽の一割近くです」
フィアが記録を見せる。
「大きい沈殿槽が六つあるなら、数回で満杯にはならない。ただ、一日に何回来るか分からない」
「少なくとも今夜は持つ」
ガルドは煉瓦壁を見た。
「先に仮管をつなぐ。圧を測るのは後だ」
理人は反対しかけたが、集水槽の水位を見てやめた。取水口を閉じたままでは中央泉の水も使えない。次の脈が来る前に、排液の行き先を分ける必要がある。
「仮管へ切り替える作業中に脈が来たら危険です。上層の見張りと連絡を取って、受熱槽の圧が下がっている間に始めましょう」
「ダリオを走らせます」
エルナが若い兵士を呼び、伝言を託した。
「受熱槽の計器を見て、圧が上がり始めたら同じ鐘を鳴らせ。作業中止の合図も決めておけ」
ダリオが坑道を駆けていく。
避難を解き、職人たちは荷車を集水室へ戻した。ガルドが作っていた検圧用の継ぎは、栓へ合うところまで削られている。小さな弁を挟み、さらに細い鋼管をつなぐ。
「まず点検室の圧を抜く」
ガルドは石板の下へ梯子を立てた。
今度は理人も止めなかった。ただし弁の出口には長い管を取りつけ、先を集水槽へ向ける。栓を回す工具にも縄を結び、梯子から降りた状態で操作できるようにした。
全員が壁際から離れる。
ガルドが縄を引いた。
栓が四分の一回転する。最初は何も起きなかった。もう一度引くと、鋼管の先から白い蒸気が噴き出した。
弁の手前で継ぎが震える。職人が反射的に押さえようとしたが、ガルドが怒鳴って止めた。
蒸気は細いまま続き、やがて透明な液へ変わる。圧力で押し出された水が集水槽を叩き、熱い飛沫を上げた。
「継ぎから漏れています」
理人が指した箇所では、樹脂を含ませた詰め材が少しずつ膨らんでいる。
「締め直すな。圧が抜けるまで待て」
ガルドは工具を持ったまま動かなかった。
水の勢いが落ちたあと、弁を閉じる。継ぎを外してみると、詰め材の片側だけが黒く焼けていた。
「締め方が偏っていた」
ガルドが職人へ言った。
「俺がやりました」
「次は目印を合わせろ。力で潰せば塞がると思うな」
職人は顔を強張らせていたが、ガルドはそれ以上責めなかった。新しい詰め材を渡し、左右の締め具へ炭筆で線を引く。
理人は焼けた詰め材を拾った。
地球の工場でも、漏れを見つけた作業員が運転中のボルトを増し締めし、かえって破断させる事故がある。圧力のかかった設備へ触れたくなる衝動は、世界が違っても同じらしい。
詰め直した継ぎからは漏れなかった。
点検室の圧力が外とほぼ同じになったことを確かめ、天井の石板へ移る。固まった目地を少しずつ削り、蓋を持ち上げた。
熱気は出たが、蒸気が吹き上がることはなかった。
灯石を吊した縄を先に入れる。内部の空気が悪ければ火は弱くなるはずだ。光は消えない。フィアが検気管を差し込み、炉気や鉱気がないことも確認した。
それでも最初に入ったのはエルナだった。
「足場はあります。奥の天井が落ちていますが、点検室までは進めそうです」
穴の中から声が返ってくる。
ガルドが続き、理人も梯子へ足をかけた。脇腹を曲げるたび痛んだが、下から押し上げられる方がつらい。自分の力で上り切り、石板の縁へ身体を滑り込ませた。
点検室は、人が二人並べば肩が触れるほど狭かった。
黒い排水管が頭上を通り、奥の壁で二つに分かれている。左は閉塞した外縁廃水路。右が取水所へつながる枝管だった。
枝管の弁は、丸い蓋が片側へ開く構造になっている。本来は一定以上の圧力がかかったときだけ水を逃がし、廃水路が流れ始めれば閉じるものらしい。いまは腐食した軸が固まり、開いた位置から戻らなくなっていた。
ガルドが軸へ工具を当てる。
「これは直せる。ただ、閉じれば全部奥へ溜まる」
「仮管をつないでからです」
「分かっている」
点検室の床には、使われていない接続口が一つ残っていた。蓋を外せば、枝管を切らずに仮管を取りつけられる。問題は口径だった。荷車で運んだ鋼管一本では、先ほどの最大流量を通しきれない。
「二本並べます」
理人は図面の余白へ断面を描いた。
「この太さを一本にするより、いまある管を二本使った方が早い。片方を整備している間も、もう片方を残せます」
「分ける継ぎを作るのに時間がかかる」
「まっすぐ沈殿槽へ行く管と、手前の空き槽へ逃がす管に分けられませんか」
ガルドは接続口と床の勾配を確かめた。
「できる。だが空き槽は小さい」
「緊急用です。二本とも開けておいて、沈殿槽側が詰まったときだけ使う」
「弁が一つ余るな」
「荷車にありましたよね」
ガルドが理人を見る。
「人の荷物をよく見ている」
「使えるものが少ないので」
ガルドは返事をせず、穴の外へ向かって必要な部品を叫んだ。
仮管の敷設には四刻近くかかった。
点検室から管を下ろし、集水室の壁に沿わせる。坑道の隅を通して旧選鉱場へ延ばした。接続部ごとに支えを置き、温度変化で管が伸びても壁を押さないよう、途中へ緩い曲がりを一つ設ける。
理人は重い管を持てなかった。
職人たちが汗を流している横で、傾斜を確認し、図面へ寸法を書き込む。役割が違うと分かっていても、自分だけ手を汚していないような落ち着かなさが残った。
一本目の管を持ち上げようとして、右脇腹へ痛みが走る。
「置け」
エルナの声が背後から来た。
「軽い方です」
「いま落とせば、下にいる職人の指が潰れる」
理人は管から手を離した。
正しい指摘ほど腹が立つ。反論できないため、なおさらだった。
「動けないなら、せめて食べろ」
エルナは布に包んだ黒パンを差し出した。間に塩漬けの茸が挟まっている。
「いつ用意したんですか」
「お前が壁を見ている間だ」
「エルナは食べた?」
「食べた」
即答が少し早かった。理人が布包みを半分に割って差し出すと、彼女は嫌そうな顔をした。
「食べたと言った」
「僕も持てると言いました」
「それとこれに何の関係がある」
「お互い、申告を信用していないという話です」
エルナはしばらく黙り、半分を受け取った。
二人は作業の邪魔にならない壁際へ立ち、黒パンを食べた。塩気が強く、噛むほど茸の酸味が広がる。水を飲むと、唇に残った傷が染みた。
集水室へ戻る途中、エルナが足を止めた。
坑道の木柱へ、幾つもの名前が刻まれている。前を通ったときにも、彼女は同じ場所を見ていた。
灯石の下で、アルノー・ヴァイスという文字が読めた。
「十八年前の崩落ですか」
理人が尋ねると、エルナはパンを包んでいた布を畳んだ。
「父だ。当時は冷却廊の巡回をしていた」
それだけ言い、指で文字をなぞることもなく歩き出す。
「排水路が詰まった事故で?」
「崩落の原因は記録されていない。遺体も出なかった」
「だから、さっき先に入ったんですか」
エルナは前を向いたまま答えなかった。
理人も追って尋ねなかった。父親の死を確かめるために危険な場所へ入ったのか、部下を先へ行かせたくなかっただけか。どちらかに決める必要はないように思えた。
旧選鉱場の沈殿槽は、予想より状態がよかった。
六基あるうち三番槽には亀裂が走っている。残る五基は焼き煉瓦の内張りが保たれていた。フィアが内壁の付着物を採って検査したところ、以前使われていた鉱石の残留物はあったものの、水へすぐ溶け出す反応は出ない。
「全部使う前に、一番槽へ少し入れて様子を見ます」
フィアは槽の底へ降り、亀裂と排出口を確認した。
「底に泥が残っています。排液と混ざるので、最初の分は別に採った方がいいです」
「洗えないか」とガルド。
「黒湖の水を使えば。でも洗った水も、飲料水路へ戻せません」
マルタが隣の小槽を示した。
「洗浄水はあそこへ溜める。昔もそうしてたよ。乾かして泥だけ掻き出せる」
使われなくなった設備にも、当時の作業を支えた構造は残っている。新しい装置を考えるより、用途を変えて使えるものの方が多かった。
一番槽の洗浄が終わるころ、伝令に出ていたダリオが戻ってきた。
「受熱槽の圧は下がっています。次の上昇はまだありません。アーデル技師から、試験を始めてよいとの伝言です」
点検室に残した枝管の弁を閉じ、仮管側を開く。
最初は何も流れなかった。
ガルドが管を叩き、接続部へ耳を寄せる。奥から空気の移動する音が近づいてきた。やがて仮管の先から、点検室に残っていた水が吐き出される。
受けた桶には錆と黒い粒が混じっていた。フィアが試料を採り、残りは一番槽へ流す。
「接続部に漏れはない」
職人が順番に管を確認していく。
一本目の途中で、詰め材が濡れている箇所が見つかった。滴になるほどではない。ガルドは炭筆で印をつけ、運転を止めたあとで締め直すよう伝えた。
理人は槽の水位標を見た。
いま流れているのは残留水だけだ。本番は次の脈が来たときになる。
待つ時間が始まった。
フィアは槽の脇へ検査台を作り、腐水性と魔晶残滓を測る試薬を並べた。マルタは第三浄水所へ戻り、仮設処理の状態を確認する。ガルドは職人と一緒に管の支えを見直していた。
エルナは坑道の入口に立ち、交代する兵士へ退避経路を説明している。
理人だけが仕事を失った。
図面はすでに直した。試験手順も書いた。あとは待つしかない。壁へ腰を下ろすと、身体の痛みがまとめて戻ってくる。
油性ペンを持ったまま、意識が途切れそうになった。
「眠るなら横になってください」
フィアに言われ、理人は顔を上げた。
「寝てない」
「さっきから同じ行を三回なぞっています」
メモ帳を見ると、仮管一号という文字だけが不自然に濃くなっていた。
「鐘が鳴ったら起こして」
「その前に医療院へ戻った方がいいと思います」
「試験が終わってから」
フィアは何か言いたそうにしたが、検査台へ戻った。
理人は壁へ頭を預けた。目を閉じると、遠くの水音が近くなる。試験棟で夜勤をしたときも、ポンプの音を聞きながら椅子で眠ったことがある。あのときは交代要員が来た。ここでは、自分がどの交代枠に入っているのかさえ分からない。
眠りへ落ちる前に、鐘が鳴った。
短く二度。長く一度。
理人は立ち上がった。急に動いたせいで視界が暗くなる。壁へ手をついて耐えている間に、ほかの者たちは持ち場へ移っていた。
「受熱槽、圧力上昇!」
伝令の声が坑道を走る。
点検室へ続く枝管が閉じていることを確認する。仮管は二本とも開いている。緊急用の小槽へ向かう弁だけを閉め、一番沈殿槽へ流れを集めた。
最初に届いたのは振動だった。
管の支えが小さく鳴り始める。接続部を結ぶ鋼管が熱を持ち、表面の水滴が消えていった。
「来ます」
理人の声とほぼ同時に、仮管の出口から白い蒸気が上がった。
熱い排液が沈殿槽へ流れ込む。
勢いは集水槽で見たものより強かった。二本へ分けても、片方の管が細かく震えている。職人たちは近づかず、支柱の動きと継ぎ手の漏れを離れた位置から見ていた。
槽の水位が上がる。
第一標。第二標。
フィアが砂時計を返し、時刻を記録した。理人も前回の流入量と比べる。管を二本使ったことで詰まりは起きていない。緊急用の小槽へ回す必要もなさそうだった。
「取水所は?」
エルナが伝声役の兵士へ尋ねる。
兵士が坑道の奥へ声を送り、返答を待つ。
「排水穴からの流入、ありません! 中央泉の取水は継続しています!」
その報告で、周囲の職人から息が漏れた。
まだ成功したとは言えない。仮管が熱を受け続ければ伸びる。詰め材も劣化する。沈殿槽には限界があり、中身の処理方法も決まっていない。
ただ、いま流れている排液は、飲み水へ入っていなかった。
流量が頂点を越える。
管の震えが少しずつ弱まり、沈殿槽の水位も第三標の手前で止まった。前回の測定と大きくは違わない。
フィアが長柄の採水器を使い、槽から試料を取る。冷水で温度を揃えたあと、三種類の試薬を順番に加えた。
腐水性は強い。金属への反応は少ない。魔晶残滓の試薬では、銀色の濁りが生じた。
「集水室で採ったものと、ほとんど同じです」
「中央泉の水も確認しよう」
二人は南取水所へ戻った。
集水槽には冷たい湧水だけが流れている。煉瓦壁の下にある排水穴は湿っていたが、新しい流入は見られない。
中央泉から試料を採る。腐水性は色見本の範囲内。魔晶残滓の反応も、自然の霊脈に含まれる程度だった。
フィアは二つの瓶を並べた。片方は透明に近く、もう一方には銀色の膜が浮かんでいる。
「分けられましたね」
「今回は」
理人が答えると、フィアは笑いかけた。すぐに真顔へ戻り、記録へ今回という条件を書き加える。
集水槽の取水口が開かれた。
冷たい水が飲料水路へ吸い込まれていく。先ほどまで混じっていた温かな筋は、もう見当たらない。
第三浄水所へ戻ると、マルタが共同水栓の試料を並べて待っていた。
「金属の反応が下がってる。酸性も上層水とほぼ同じだよ」
「給水管に残っていた分が抜ければ、もう少し安定すると思います」
「仮設の白灰石は減らせそうだね」
「急には減らさないでください。原水の記録を見ながら少しずつ」
「分かってるよ」
マルタは言ったあと、自分で苦笑した。
「その言葉を嫌うんだったね」
「確認してくれるなら大丈夫です」
水栓の前には、昨日より少ない列ができていた。住民たちはまだ水を嗅ぎ、指先で確かめてから桶へ入れている。
幼い子供を抱いていた女性もいた。理人と目が合うと、礼を言うでも責めるでもなく、満たした瓶へ蓋をした。昨日の質問に対する答えを、理人はまだ持っていない。
視線を外す理由も見つからず、女性が去るまでそこに立っていた。
「リヒト」
ガルドが背後から呼んだ。
技師長は沈殿槽の記録板を持っていた。排液量から計算すると、五つの槽で二十回から三十回ほど受けられるらしい。一日の脈がこれまでの最大回数で続いた場合、猶予は四日から六日。
「ずいぶん短いですね」
「一時しのぎだからな」
「四日以内に、処理方法か別の保管場所を決める必要があります」
「外縁廃水路も調べる。だが、下へ流すだけで済ませるなと言ったのはお前だ。中身の始末も考えろ」
「一人で?」
「フィアとアーデルを使え。必要なら錬成院から人を借りる」
ガルドは記録板を理人へ押しつけた。
「それから、明朝の整備会議へ来い。王命札を見せる必要はない。遅れたら置いていく」
「技師組合の会議ですよね」
「そうだ」
「僕は技師ではないと、王に念を押されました」
「なら、黙って端へ座っていろ。必要になれば話させる」
招かれたのか、監視しやすい場所へ置かれただけなのか分からない。それでもガルドは、理人が出席することをすでに決めていた。
「朝は何刻ですか」
「最初の鐘だ」
「起きられなかったら?」
「寝台ごと運ぶ」
ガルドは冗談を言った顔をしていなかった。
離れていく背中を見送り、理人は記録板へ目を落とした。沈殿槽の残り容量、仮管の漏れ、排液の検査結果。最下段には、次回の脈までに確認すべき項目が並んでいる。
その下へ、フィアの字で一行だけ追加されていた。
――試料瓶を嗅がない。
理人は油性ペンで丸をつけ、記録板を閉じた。




