第七話 仮の目盛り
「その紙を濡らすなよ」
封鎖扉をくぐるなり、ガルドが理人の手元を見た。
記録板から写し取った紙は、炭の粉が落ちないよう内側へ二つ折りにしてある。紋章の輪郭を擦った箇所だけ紙が薄くなり、光へかざせば向こう側が透けそうだった。
「濡らしたくて持ってるように見えます?」
「お前は昨日から、見ていて不安になることばかりする」
「それは僕も同じです」
言い返してから、理人は鉄格子の脇へ寄りかかった。上層熱受け槽から離れ、空気の冷たい坑道へ戻ったことで、張り詰めていた力が抜けていく。膝を曲げると、そのまま座り込みそうだった。
目を閉じても、白く染まった受熱管の残像が残っている。上から熱が流れ込み、円筒の中へ蓄えられ、冷却のために導力を奪う。第七揚水所の二号機を動かしたことは、換気塔を止めた唯一の原因ではなかった。限界に近かった系統へ、最後の負荷を加えたのだ。
それで責任が軽くなるわけではない。一方で、受熱槽の存在を知らないまま避けることもできなかった。
理人はどちらへ考えても、自分に都合のよい言い訳を探しているような気がした。
「座れ」
エルナが言った。
「平気です」
「それを決めるのはお前ではない」
「誰が決めるんですか」
「少なくとも、今の顔色を見られる人間だ」
エルナは坑道の壁際にある資材箱を指した。理人が従わないと見ると、肩へ手をかけて押し下げる。
箱へ腰を下ろした途端、右脇腹が痛んだ。息を詰めると、エルナの眉間へ皺が寄る。
「痛むなら先に言え」
「ずっと痛いから、変化があったときだけ言おうかと」
「その基準は捨てろ」
彼女は理人の返答を待たず、ダリオを呼んだ。
「医療院へ連れていけ。途中で倒れたら、そのまま運べ」
「受熱槽はどうするんです」
「お前が倒れれば、あれが冷えるのか」
昨夜も似たようなことを言われた。言い方は違っても、エルナは理人が自分を責め始めたときだけ、返答を必要としない問いを寄越す。
その意図を認めるのは居心地が悪く、理人は折り畳んだ紙を彼女へ差し出した。
「これは、エルナが持っていてください。王へ報告するなら必要になる」
「お前は来ないのか」
「行けと言われれば行きます。ただ、いま連れていっても、途中で寝るかもしれない」
「それは困るな」
エルナは紙を受け取り、革の書類入れへ収めた。
「先に私が報告する。お前についても話すことになるが、都合の悪いことはあるか」
「召喚されたことと、落とされたことは隠さなくていい。熱の流れについては、まだ断定していないと伝えてください」
「神殿庁の印がある」
「四十一年前に管理していた証拠です。いま地上から流れている熱が、神殿庁の魔法によるものだとまでは証明できない」
「疑っているのに、言い切らないんだな」
「疑っているからです」
エルナは理人を見ていたが、それ以上は尋ねなかった。彼女が書類入れを腰へ留めるのを確かめてから、理人はダリオの肩を借りて立つ。
来たときより、帰りの坑道は長く感じられた。
封鎖区画を出たところで、理人は一度振り返った。歪んだ鉄格子の向こうには、青い鉱石灯の光が続いている。その先で、四十一年間も記録されずに動き続けた機械が、いまも地上から熱を受け取っている。
見張りとして残された兵士が、二人がかりで格子を引いた。錆びた下端が床を擦り、細い隙間を残して止まる。
「閉まらないな」とダリオが言った。
「扉も直すものの一覧に入れておいて」
「一覧があるんですか」
「これから作る」
ダリオは何か言おうとしたが、理人が本気だと分かると口を閉じた。
*
目を覚ましたとき、頭上に見覚えのない管が三本並んでいた。
一番上から湯気、中央から水音、下の一本からは冷たい空気が漏れている。理人は横になったまま継ぎ目を目で追い、漏れがないことを確かめてから、自分が医療院にいるのだと気づいた。
岩壁を白い布で覆っただけの細長い部屋に、寝台が八つ並んでいる。隣の寝台は空で、その向こうには、第五換気塔の逆流で倒れていた男が眠っていた。呼吸は落ち着いており、顔色も昨夜より戻っている。
理人が身体を起こすと、脇腹へ巻かれた布が引きつった。作業着の上着と耐熱ジャケットは脱がされ、椅子の背へ掛けられている。腕時計を探すと、枕元の小机に置かれていた。
針は動いている。日本時間では午前八時を少し過ぎたところだったが、こちらの鐘と合わせていないため、何時と呼べばよいのか分からない。
「四刻ほど寝ていました」
足元から声がした。
フィアが丸椅子へ座り、革表紙の本を膝に載せている。昨日とは違い、左右の靴は揃っていた。赤茶色の髪も編み直されているが、目の下には薄い隈が残っている。
「見張ってたの?」
「アーデルさんに、起きたら連れてくるよう言われました。何度か呼びましたけど起きなかったので、仕方なく本を読んでいました」
「起こしてくれてよかったのに」
「肩を揺すったら、手を払われました」
「ごめん。覚えてない」
「かなり強かったです」
フィアは不満そうに右手首を擦った。赤くはなっていない。理人は謝り直し、寝台から足を下ろした。
脛の包帯も新しいものへ替えられている。立つと傷は痛んだが、膝から力が抜けるほどではなかった。
「受熱槽に変化は?」
「二度、熱が入りました。大きいのが一度と、小さいのが一度。見張りの人が計器を確認しています」
「槽内圧は」
「最初の大きい方で赤い範囲に入りました。漏れは増えていないそうです」
赤い範囲。それでは、どれほど危険なのか比較できない。
「大きいって、どれくらい?」
「大きいものは大きいです」
「計器の針がどこまで動いたか、記録は?」
「赤い目盛りの二つ目まで」
「前回と同じ?」
フィアは答えられず、膝の本へ視線を落とした。
「責めてるわけじゃない。必要な記録の取り方を決めてなかった僕たちの問題だよ」
「同じ赤でも、違うんですか」
「違う。赤い範囲に入っただけで危険なら、入口で逃げる判断はできる。でも、悪化しているかを知りたいなら、針の位置と時間を同じ方法で残す必要がある」
「時間は鐘で分かります」
「鐘の途中で起きたら?」
「砂時計を使います」
「砂の落ち方は、どれも同じ?」
フィアが顔を上げた。
「違うんですか」
「作り方が違えば、少しはずれると思う」
言いながら、理人は自分がまた測定器の誤差を増やそうとしていることに気づいた。槽内圧を知るために計器の精度が必要で、その変化を比べるには時計の精度まで必要になる。掘れば掘るほど、分からないものが増えていく。
地球の実験室では、校正された圧力計も温度計も、正確な時計も、棚から取り出せた。使えることを前提にしていた道具が一つ欠けるだけで、数字は簡単に根拠を失う。
「まずは同じ砂時計を使おう。ずれがあっても、毎回同じなら比較には使える」
「正しい時間じゃなくてもいいんですか」
「いま必要なのは、正しさより変化だから」
フィアは少し考え、膝の本を閉じた。
「そういう言い方をすると、アーデルさんが喜びそうです」
「どうして?」
「直せないものを、使える状態にするのが好きなので」
それはガルドの仕事ではないかと思ったが、まだ二人の役割の違いを理解していない。理人は作業着へ袖を通し、上着を着る前に脇腹の包帯を確かめた。
「どこへ行けばいい?」
「第二工房です。ガルドさんは、あなたが起きなければ寝台ごと運ぶと言っていました」
「起きてよかった」
「私は少し見たかったです」
冗談なのか分からない顔で、フィアは先に歩き出した。
第二工房は、湖岸へ続く大通路の下にあった。
天井から吊された鉱石灯は半分ほどしか点いておらず、作業台ごとに小さな油灯が置かれている。壁際には旋盤に似た足踏み式の工具、炉、万力、金属板を切るための鋸。棚には歯車や弁、用途の分からない鉱石片が、籠ごとに分けられていた。
工作機械の精度は判断できないが、手工具の種類は多い。金属加工だけでなく、細い硝子管や薬瓶まで揃っている。
理人が見回していると、作業台の下からガルドが顔を出した。
「遅い」
「寝かせたのはそちらでしょう」
「四刻も寝ろとは言っておらん」
「起きなかったそうです」
「知っとる。二度見に行った」
ガルドは床から立ち上がり、作業台へ置かれた金属板を指した。
「熱受け槽の見張りをつけた。半刻ごとに計器を読む。圧が赤の三つ目を越えたら封鎖区画から退避。四つ目に入れば、第三隔壁まで閉じる」
「三つ目と四つ目が、実際にどれくらいの圧力かは?」
「知らん。計器がそういう印になっている」
「壊れたことは」
「今朝までは動いていた」
理人はガルドの顔を見た。
「動いていることと――」
「安全なことは違う、だろう。昨日聞いた」
先回りされ、理人は口を閉じた。
作業台の端では、アーデルが二本の硝子管を並べていた。片方は髪ほどに細く、もう片方は指一本ほどの太さがある。そばには透明な油の入った瓶と、赤い粉末、素焼きの器。
「計器を信用しないなら、別の物を作る」
アーデルは太い硝子管を持ち上げた。
「フィアから聞いた。液体は、温めると膨らむのでしょう」
「多くの場合は。ただ、種類によって膨らみ方が違う。水みたいに、温度によっては逆の動きをするものもあります」
「面倒ね」
「自然現象に言ってください」
理人は硝子管と油の瓶を確かめた。油は淡い黄色で、灯りへ透かすと細かな濁りがある。
「これは何の油?」
「黒実油。灯火にも使うけれど、これは三度蒸留してあるから燃やすには高い」
フィアが答えた。
「熱すると、どのくらいまで液体でいられる?」
「炉の脇へ置いても沸きません。強く焼けば煙が出ます」
「凍る温度は?」
「冷蔵庫へ入れれば濁りますが、固まるところまでは見たことがないです」
「冷蔵庫があるの?」
「冷却石を使う箱です。食料庫にあります」
魔法の存在へ慣れたつもりはない。それでも、冷蔵庫という単語が翻訳されて頭へ届くと、その不釣り合いさに少しだけ気が抜けた。
理人は細い硝子管の端を持ち上げる。
「これと油があれば、温度の変化を見るものは作れる。正確な温度を測るには基準が要るけど、昨日より上がったか、どれくらい戻ったかを比べるだけなら使えると思う」
「細い管に油を入れるの?」とフィア。
「先に下へ溜まりを作って、そこから管を伸ばす。油が温まって膨らめば、管の中を上がる。細いほど変化を大きく見せられる」
理人はメモ帳を開き、油を入れる球状の部分と、そこから伸びる毛細管を描いた。アーデルとフィアが左右から覗き込む。
「硝子をこの形にできる?」
「フィアなら」とアーデル。
「私ですか」
「昨日、検気瓶の首をつなぎ直していたでしょう」
「あれより細いです」
「できない?」
フィアは図と硝子管を見比べた。
「三本くらい割ってもいいなら」
「五本まで使え」とガルドが言う。「それ以上割ったら、六本目から給金より引く」
「最初から成功する前提で数えないでください」
フィアは不満を言いながらも、炉の前へ移動した。足踏み式の送風器を動かし、青い炎へ硝子管をかざす。管を回す指は慎重だったが、熱して柔らかくなった箇所を引き伸ばす動きには迷いがない。
一本目は途中で潰れ、二本目は球の部分へ小さな泡が残った。三本目で、親指の先ほどの膨らみと、細く均一な管がつながる。
「できました」
フィアは赤くなった指先を冷水へ入れながら、ガルドを見た。
「三本で済みました」
「二本割った」
「三本使っただけです」
「壊した二本を数えない理屈がどこにある」
二人が言い合う横で、理人は冷えた硝子へ黒実油を入れた。赤い粉を少量混ぜると、油は暗い橙色へ変わる。気泡が残らないよう管を傾け、開口部をフィアに焼き封じてもらった。
温める前の液面へ、炭筆で仮の線を引く。
「それが零?」
アーデルが尋ねた。
「まだ数字はつけない。工房の温度で、この位置だったという印です」
「沸かした水へ入れて、もう一つ印をつければいいのでは?」
「使える。ただ、水が沸く温度は、周囲の圧力で変わります」
「火の強さではなく?」
「強く熱すれば早く沸くけど、沸き始める温度はほとんど変わらない。液体の中から蒸気が出ようとする圧力と、外から押す圧力が釣り合ったところで沸騰するから」
フィアは炉にかけた鍋を見た。
「地下の方が、地上より沸きにくいということですか」
「空気の圧力が高ければ。ここが地上とどれくらい違うかは測ってみないと分からない」
「では、沸騰を基準にしても正しい温度にはならない?」
「地上と共通の目盛りにはならない。でも、この街の中で同じ条件を使うなら比較できる」
フィアは鍋の水面へ顔を近づけ、まだ泡の出ていない底を眺めた。
「いままで、火を強くすれば水も熱くなると思っていました」
「沸くまでは上がる。沸き始めたあとは、火を強くしても水の温度はあまり上がらない。蒸気になる量が増える」
「蓋を閉めたら?」
「圧力が上がるから、もっと熱くなる。閉め方が悪いと破裂する」
フィアが鍋の蓋へ伸ばしかけた手を引っ込める。
「今日はやめておきます」
「そうして」
水が沸くまでの間に、ガルドは薄い金属板を切り、硝子管を固定する枠を作った。アーデルは油面の位置を読み取りやすいよう、背面へ白い陶板を取りつける。
それぞれが迷わず手を動かしている。理人が持ち込んだのは構造の考え方だけで、形にする技術は彼らの側にあった。
地上の召喚殿では、温度計と呼ばれて笑われた。ここでは温度計そのものを作ろうとして、三人が朝から炉を囲んでいる。
満足してよい場面なのだろう。
ただ、理人の中には、道具を作ることへの高揚と、それを必要としている設備が街の頭上で傷み続けていることへの焦りが同居していた。片方だけを選べれば楽なのに、油面が動くのを待つ数分さえ惜しく感じる。
鍋の底から泡が増え、やがて水面全体が揺れ始めた。
試作した温度計を湯へ入れると、橙色の油が細い管を上がっていく。途中で止まるかと思ったが、液面は陶板の上半分まで達し、ほぼ同じ位置で落ち着いた。
理人はそこへ二本目の線を引いた。
「間をいくつに分ける?」とアーデル。
「十でも百でもいい。いまは細かくしすぎない方がいいと思う。管の太さが一定とは限らないし、油が温度に比例して膨らむ保証もない」
「では十」
アーデルは定規を当て、二本の線の間を等分していった。フィアが数字を書き込み、ガルドは完成した枠を裏返して留め具の強度を確かめる。
「受熱槽のどこへ置く」
「槽そのものには近づけない。戻り側の冷却管で測りたい。循環して戻ってくる液が熱くなれば、冷却が追いついていないことが分かる」
「内部の温度とは違うぞ」
「違っていい。変化を見るための仮の目盛りです。受熱槽の計器と同時に記録すれば、どちらが先に動くかも分かる」
ガルドは温度計を作業台へ戻した。
「一つでは足りんな」
「入口側と戻り側に一本ずつ。それと工房に基準用を一本。できれば同じ油、同じ太さで作りたい」
フィアが残った硝子管を見る。
「あと二本ですね」
「予備も入れて三本だ」とガルド。
「今度は、壊す分を最初から数えていますよね」
「技師は失敗する数まで用意してから始める」
フィアは口を尖らせたが、再び炉へ向かった。
完成した二本目を冷水へ入れていると、工房の鉱石灯が一斉に暗くなった。
足元を走る振動も弱まる。
ガルドとアーデルが、ほぼ同時に天井を見た。
「受熱槽だ」
アーデルは配分盤へつながる壁の表示器を確認する。三枚の金属片のうち、北側を示す一枚だけが大きく振れていた。
理人は作業台の温度計をつかみ、工房の外へ出る。受熱槽から戻る管は、上層へ向かう階段の途中で壁から露出していた。黒い被覆材へ手を近づけると、先ほどより明らかに温かい。
「ここへ固定する」
ガルドが工具箱を持って追いついた。被覆材の一部を外し、露出した金属管へ温度計の球部を押し当てる。上から断熱材を巻き、金属枠ごと締めつけた。
橙色の油面が上がり始める。
工房の温度を示していた最初の線を越え、一つ、二つと目盛りを通過した。三つ目の手前で速度が落ちたものの、止まらない。
「時間」
理人が言うと、フィアが砂時計を返した。アーデルは壁の表示器を見ながら、導圧の変化を紙へ書きつける。
やがて工房の鉱石灯が明るさを取り戻した。表示器の振れも小さくなり、温度計の油面は三つ目をわずかに越えた位置で止まる。
「下がるまで記録する」
理人は陶板へ炭筆で短い線をつけ、砂時計の残りを見た。
これで熱の正体が分かるわけではない。どこから送り込まれ、誰が何のために流しているのかも不明なままである。
それでも、次に同じことが起きたとき、前より大きいか小さいかは比較できる。理人が《熱流眼》を使わなくても、ここにいる誰かが変化を見つけられる。
階段の下から、鎧の足音が近づいてきた。
エルナではない。紺色の外套を着た男が、二人の近衛兵を伴って現れる。工房の入口で足を止め、泥と油に汚れた理人の姿を確かめた。
「宮坂理人殿」
王城で聞いたものに近い、整った発音だった。
「ヴァルグラート国王陛下がお会いになる。上層熱受け槽の記録とともに、ただちに王宮へ出頭されたい」
理人は自分の作業着を見下ろした。乾きかけた泥、脛の包帯、袖に残った黒実油。着替えを持っていないことを思い出す。
「この格好で?」
使者は理人の服装をもう一度見た。
「そのままでよいとの仰せだ」
温度計の油面は、三つ目の線の上でまだ震えていた。理人はその位置を紙へ写し、時刻の代わりに砂時計の残りを書き込んだ。
炭筆をフィアへ返す。
「下がり始めた位置も残しておいて。次の脈が来たら、同じ砂時計を使って」
「分かりました」
理人は椅子へ掛けていた耐熱ジャケットを取り、汚れを払う。ほとんど落ちなかった。
使者は急かさずに待っている。
理人は前を閉じるのを諦め、油の染みた作業着のまま、二人の近衛兵の間へ入った。




