第六話 図面の外から来る熱
「触るな」
ガルドの声に、理人は配分盤へ伸ばしかけた手を止めた。
厚い石板の中央に、拳ほどの乳白色の結晶が埋め込まれている。結晶から放射状に延びた溝には赤銅の細線が敷かれ、そのうち二本が、夜のあいだに調べた第七揚水所と第五換気塔へつながっていた。
表面には埃が積もっている。触れられることを前提とした機器なら、もう少し手入れされているはずだ。
「危ない?」
「分からん。だから触るな」
「納得できる理由だ」
「お前、言葉ほど納得した顔をせんな」
理人はしゃがんだまま手を引っ込め、配分盤を斜めから眺めた。
第五換気塔の基部にある導力室は、立っているだけで歯の根が振動する。壁の向こうでは、昨夜止まりかけていた翼車が回り続けていた。回転音は均一に聞こえるものの、床から伝わる振動には、ごく短い間隔で強弱がある。
睡眠は二時間ほどしか取れなかった。閲覧室の長椅子へ横になったころには鐘が十一回鳴り、起こされたときには二回鳴っている。こちらの一日が何時間で区切られているのかも、まだ聞いていない。
首を動かすと、背中の打撲が鈍く疼く。目の奥には砂粒が残っているような違和感があり、焦点を合わせるのにも普段より時間がかかった。
それでも、眠っている間に設備の状態が変わる方が気になった。昨夜の判断が正しかったのか。二号揚水機を止めたことで、別の場所へ負担が移っていないか。朝まで何も起きなかったことは、安全の証明にならない。
「導力は、この結晶から出ているの?」
ガルドの隣で、アーデルが腕の術式を配分盤へかざしていた。赤い線が灯り、指先へ向かって脈打っている。
「出ているわけではない。中央導炉から送られた力を、必要な量に分けているの。水を分岐させる弁に近いと思えばいい」
「機械側の負荷が増えたら、配分も自動で変わる?」
「変わる。少なくとも、古い記録にはそうある」
「昨日は変わらなかった」
「変わったから、換気塔の分が減ったのよ」
言葉の向きが違っている。理人は一度考え、床に広げた写し図へ目を落とした。
「配分盤が故障して、換気塔への供給を保てなかったんじゃなく、正常に配分した結果として換気塔が止まりかけた?」
「その可能性が高い」
「どうして居住区の換気より、揚水機を優先する設定になってるんだ」
「昔の人間に聞いて」
アーデルは術式を消し、配分盤の下部にある三つの窓を順に覗き込んだ。内部では、細い金属片が振り子のように動いている。
「第七揚水所を優先したとは限らない。二号機を動かしたとき、別の設備が導力を要求して、足りない分を換気塔から取ったのかもしれない」
「その別の設備が、上層熱受け槽?」
「記録が正しければ」
彼女自身、口にしながら確信を持てていない。
昨夜見つけた図面によれば、上層熱受け槽は中央配分所から北の旧坑を経て、街の上部へつながっていた。ところが約六十年前の設備一覧には名称がなく、四十一年前の修繕記録には「接続停止」とだけ書かれている。停止理由も、機器を撤去したかどうかも残されていなかった。
それより新しい図面には、熱受け槽そのものが描かれていない。
なくなった設備なら、動力を消費するはずがない。ただし、図面から消えたことと、現物が消えたことは別だった。
「この盤で、どの枝がどれだけ使ってるか測れない?」
「導圧なら分かる。流量は無理よ」
「圧力だけあっても、仕事量は出ない」
「シゴト?」
「あとで説明する。今は、それぞれの線がどれくらい熱を持ってるか見たい」
アーデルの視線が理人の目元へ移る。
「使わない方がいいんじゃなかったの」
「短時間なら試せる」
「試せる、では困る。昨日みたいに倒れられると運ぶ人間が要る」
「倒れる前にやめる」
「倒れる人は、だいたいそう言うわ」
理人は反論しかけ、やめた。設備の限界には慎重な人間が、自分の身体についてだけ根拠のない運転継続を主張している。
「十数える間だけ。変化があったら、すぐ切る」
「五つ」
「短すぎる」
「なら、見なくていい」
譲る気はなさそうだった。
理人は壁へ片手をつき、呼吸を整えてから《熱流眼》を開いた。
石室の色が沈み、配分盤の内部に埋め込まれた線が浮かび上がる。赤銅の筋は一様ではない。揚水所へ向かう枝は淡い黄色、換気塔へ向かうものはそれより暗く、三本目だけが細いにもかかわらず橙色に焼けていた。
「一」
アーデルが数え始める。
三本目の線は、北壁へ入っている。図面では途中で廃止されているはずの旧坑路だ。
「二」
結晶の周囲から、熱が三本目へ集まっていた。流れそのものは魔力であり、理人には見えていないのかもしれない。ただ、導体や接続部で失われる熱を追えば、負荷の大きい方向は推測できる。
「三」
橙色の筋が一度、強く明滅した。直後、換気塔側の線が暗くなる。
「もういい」
五つまで待たず、アーデルが理人の目を手で塞いだ。
「まだ三つだ」
「顔を見れば十分。何が見えた?」
手を外されると、視界の中央に白い円が残った。吐き気はない。頭痛も昨日ほどではないが、奥歯へ響くような痛みがある。
「北へ行く線が一番熱い。脈を打つみたいに負荷が増えて、そのとき換気塔の線が冷えた」
アーデルは配分盤の三つ目の窓を覗き直す。
「北側の導圧が上がっている。上層熱受け槽は、まだ動いてる」
ガルドが低く唸った。
「北の旧坑は八年前に潰れた。途中から別の線へつなぎ替えたと記録にあっただろう」
「接続先は分かってる?」と理人。
「昨夜の図面では、上層の貯水区画を通っていた」
「行けるのか」
ガルドは返事をせず、入口に立っていたエルナを見た。
彼女は夜の事情聴取からほとんど休んでいないはずなのに、鎧を着直し、剣も腰へ戻していた。顔に疲れは出ていない。ただ、普段ならすぐ返す答えに、わずかな間が空く。
「貯水区画の北側は封鎖区域だ。四年前、天井の一部が落ちた。巡回も入口までしか行わない」
「熱受け槽の存在は知っていた?」
「知らない。あの先にあるのは、使われていない貯水槽だけだと聞いている」
「誰から?」
「前任の副長だ。その前任者が誰から聞いたかまでは知らん」
理人は床の図面を折り畳んだ。
「現物を見たい」
「お前は休むと言ったばかりだろう」とガルド。
「換気塔の機械を見るのは断った。接続先を確認しないとは言ってない」
「同じだ」
「違う。触らずに済む」
ガルドの眉間の皺が深くなる。アーデルは口を挟まず、二人を見比べていた。
理人自身、理屈が苦しいことは分かっている。今すぐ調べなくても、第五換気塔は動いており、揚水所も一号機だけなら安定している。今日一日、身体を休めてから向かう選択もある。
それでも、配分盤の線が明滅する像を見たあとでは、長椅子に横たわっていられる気がしなかった。次に負荷が増えたとき、換気塔から導力を奪うだけで済む保証はない。医療院や排水門まで同じ幹線につながっている。
自分が原因を見つけたいという欲もあった。人を救うため、という言葉だけで覆うには、熱い線を追った先を確かめたい気持ちが強すぎる。
「入口までだ」
エルナが言った。
「封鎖扉の状態を確認する。中へ入れるかは、そこで私が決める」
ガルドは不服そうだったが、止めなかった。
北側の貯水区画へ通じる階段は、街の居住層からさらに上にあった。
百段ほど上ったところで、整えられた石壁が途切れる。先は岩盤を削っただけの坑道となり、天井を支える木組みには白い菌糸が広がっていた。足元には細い水路があるものの、水は流れていない。代わりに、乾いた泥のひび割れだけが残っている。
先頭をエルナ、その後ろをガルドが歩き、理人、アーデル、検気箱を持ったフィアと続く。フィアは同行を命じられたとき、一度だけ眠そうに目を擦ったが、坑道へ入ってからは足元と壁の変色を交互に見ていた。
「空気は大丈夫?」
理人が尋ねると、彼女は検気箱の肩紐を持ち上げた。
「今のところ、炉気も鉱気も出ていません。検査紙も変わっていないです」
「酸素は」
「それは測れません」
「火を持ってる?」
フィアは腰の小さな灯具を示した。油を使うものらしく、硝子筒の内側で細い炎が揺れている。
「炎が細くなったら、すぐ教えて。僕の様子は目安にしないで」
「具合が悪いんですか」
「昨日から頭痛も眠気もある。空気が悪くなっても、気づくのが遅れるかもしれない」
フィアは理人の顔を確かめ、今度は灯具を持つ位置を胸元まで上げた。
「分かりました。炎は私が見ます」
封鎖区域の入口には、鉄格子が二重に設けられていた。外側の錠は新しい。内側は赤錆に覆われ、エルナが鍵を回すと、内部で何かが折れる音がした。
「開かない?」
「鍵は開いた。扉が歪んでいる」
ガルドが格子をつかんで引く。金属の軋みとともに、下端が石床を擦った。拳一つ分の隙間ができたところで、内側から温かい空気が漏れ出してくる。
フィアがすぐ検気用の管を差し込んだ。液体の色は変わらない。灯具の炎にも異常は見えなかった。
「入る」
エルナが隙間へ身体を滑り込ませる。ガルドが続き、理人も横向きになって通り抜けた。背中が鉄格子へ触れ、打撲した箇所に痛みが走る。声を出すほどではなかったが、息が止まった。
「平気か」とエルナが振り返る。
「格子の幅が狭いだけ」
「お前の背中が腫れている」
「どっちも事実だよ」
封鎖扉の先は、図面にあった貯水区画ではなかった。
坑道の左右へ、太い金属管が二本ずつ走っている。表面は黒い被覆材で覆われ、一部が剥がれた箇所には緑青が浮いていた。床の中央には、円筒形の器具が一定の間隔で並び、その上部から透明な管が伸びている。中には濁った液体が半分ほど溜まっていた。
「これ、貯水槽の配管じゃない」
ガルドが被覆の裂け目へ灯石を近づける。
「水管にしては壁が厚すぎる。継ぎ目の構造も違う」
「触らないで」
理人が止めると、ガルドの手が配管の寸前で止まった。
「さっきのお返しか」
「表面が温かそうに見える。被覆があるから、内部はもっと高いかもしれない」
今回は《熱流眼》を使っていない。被覆の裂け目から上がる空気が、灯石の光をわずかに揺らしている。ガルドは手袋を外し、配管へ触れる代わりに掌を近づけた。
「熱いな」
「どちらへ流れてるか調べたい。少し先まで行こう」
坑道は緩やかに上り、やがて石造りの広間へ出た。壁面は古い煉瓦で補強されている。中央には、三階建ての家ほどもある黒い円筒が据えられ、その上端は岩盤へ食い込んで見えなくなっていた。
円筒の周囲を何本もの管が取り巻き、床下へ潜っている。使われていないどころか、低い振動音を立てながら動き続けていた。
ガルドが近くの計器盤へ灯石を向ける。曇った硝子の奥に、三本の針があった。二本は中央付近で小刻みに震え、残る一本は右端近くまで振れている。
「赤い範囲に入ってるんじゃないの?」
理人が訊くと、アーデルが計器の下に刻まれた文字を指で拭った。
「上から槽内圧、下部温度、導力消費。右端のは導力ね。上限に近い」
「いつから?」
「誰も見ていなかった設備に聞かないで」
言葉は素っ気ないが、アーデルの視線は計器から離れない。腕の術式も、配分室にいたときより強く光っていた。
フィアが円筒の基部にしゃがみ、床の窪みを見つける。
「液が漏れています」
窪みには、油に似た透明な液体が薄く溜まっていた。フィアは硝子棒の先へ一滴だけ取り、検査紙へ落とす。紙は灰色から青へ変わり、端がゆっくり縮れていった。
「強い塩性。水ではありません。素手で触らない方がいいです」
「冷却液かもしれない」
理人は円筒から延びる管を目で追った。基部から出た二本は街の下方へ向かい、上部の一本だけが岩盤の中へ消えている。図面上で接続先が途切れていた線だ。
「熱受け槽という名前なら、何かから熱を受け取って、別の場所へ逃がしているはずだ。下へ延びる二本が循環路なら、上の管から熱が入ってる」
「岩の中から?」とフィア。
「見る」
アーデルが何か言う前に、理人は円筒から十分に距離を取り、壁へ背をつけた。
「三つだけでやめる」
「今度は私が数える前に閉じなさい」
視界を切り替える。
円筒全体が、暗い広間の中で赤く浮かび上がった。下部から出る二本の管には、熱の流れがある。一方が円筒から遠ざかり、もう一方が戻ってきていた。循環している。ただし戻り側の温度が十分に下がっておらず、熱は槽内へ少しずつ蓄積している。
上部の管は、さらに明るい。
岩盤の奥から円筒へ向かって、橙色の流れが降りている。
逆ではない。地下の熱を地上へ逃がしているのではなく、上から熱が送り込まれていた。
理人は能力を閉じようとした。
その直前、上部の管が白く染まる。
腹の底へ響く振動が走り、円筒の内部で液体の沸き立つ音がした。計器盤の針が跳ねる。導力消費の針は右端へ張りつき、槽内圧の針も赤い範囲へ入った。
「離れろ!」
誰が叫んだのか分からない。エルナに肩をつかまれ、理人は壁際へ引かれた。
円筒の継ぎ目から白い蒸気が噴き出す。噴流は長く続かず、床へ数滴の液体を撒いて収まった。落ちた場所から薄い煙が上がり、石が黒く変色している。
フィアが検気箱を抱えたまま後退した。
「今のは何ですか」
アーデルが計器盤を確かめる。槽内圧の針は赤い範囲から戻りつつあるが、導力消費は上限の近くで震え続けていた。
「熱が入った。上の管から、一度に」
「地上からか?」
ガルドの声は低かった。
理人は目を押さえながら頷く。
「少なくとも、僕たちがいる場所より上から。熱は下向きに流れてた」
「火山の熱が下りてきている可能性は?」とアーデル。
「ある。ただ、今の変化は急すぎる。自然現象なら、直前に別の兆候があってもいい」
そう言いながら、理人は召喚殿を思い出していた。
火を操る能力を与えられた若者。兵士たちの歓声。彼の掌に生まれた炎は、儀式の間を一瞬で明るくした。あのあと地上で何をさせられているのか、理人には知る術がない。
推測だけで結びつけるには早い。分かっていても、円筒へ落ちてきた熱の脈と、若者の得意げな顔が重なった。
「戻ろう」
エルナが言う。
「漏れがある。この部屋に長居はできない」
ガルドは計器盤から離れようとしなかった。
「こいつを止めれば、換気塔へ導力が戻る」
「止めたら、上から来る熱がどこへ行く?」
理人が尋ねると、ガルドは円筒を睨んだまま黙った。
行き先が変わるだけだ。流入そのものが止まらないなら、管の途中か、地上側の設備に溜まる。圧力が上がれば、どこかが破裂する。
「今は触らない方がいい。漏れた量と圧力の変化を記録して、入口を封鎖する。外から計器を読めるようにもしたい」
「その間、二号揚水機は使えんぞ」
「一号機の流量が落ちれば使うしかない。そのときは第五換気塔を人力で回す準備が要る」
「人力で、あの翼車を?」
「直接回す必要はない。予備の駆動軸か、減速機につながる場所があれば」
「ある」とガルドが答えた。「四人掛かりの踏み車だ。使ったことはない」
「何年前から?」
「記録にある限り、一度も」
理人は額から手を離した。視界の輪郭は戻っているが、白い残像が中央に残っていた。
「動くか確かめよう。今度は、必要になる前に」
広間を出る前に、アーデルが壁際の記録板を見つけた。厚い埃の下に、細かな文字と数字が何列も刻まれている。表の上部には上層熱受け槽、下部には地上側受熱路とあった。
フィアが布で表面を拭う。古い日付の横には、一日一度か二度、小さな数値が並んでいる。下へ行くほど回数は増え、最後の数行では一日に五度、六度と記録されていた。
最終記入は四十一年前。その日の欄には、七回分の数値がある。
「記録をやめたのは、接続を止めたからじゃない」
アーデルが表の末尾へ指を置いた。
文字は急いで刻まれたらしく、ほかより浅く、右へ傾いている。
「『地上側の要請により、受熱量の記録を中止。槽の運転は継続する』」
「要請した相手は?」
「この文には書かれていない」
「四十一年前も、この真上はルドニア領だったのか」
エルナの問いに、アーデルは頷いた。
「国境は今とほとんど変わっていない。ただ、この記録板を設置した組織なら、下に刻印があるはずよ」
アーデルが板の端を指で拭う。厚い埃の下から、細長い塔を七枚の翼が囲む意匠が現れた。翼の形こそ違うが、召喚殿の床に刻まれていた紋章と構図が同じだった。
「ルドニア王国神殿庁の旧印章よ。この受熱路を管理していたのは、地上の神殿庁で間違いない」
円筒の奥で、液体が低く鳴った。
理人は記録板へ紙を押し当てた。フィアから炭筆を借り、紋章と最後の一行を擦り取っていく。
薄い紙の上に、七枚の翼が少しずつ浮かび上がった。




