第五話 止まった風
「エルナか、アーデルを呼んで。今夜は、この階の扉を全部開けた方がいい」
兵士は理人と蝋燭を見比べたものの、すぐには動かなかった。
「扉を開ければ、ほかの部屋まで広がるんじゃないのか」
「もう廊下にも出てる。ここで話してる間にも吸ってるよ」
そう答えた自分の声が、わずかに遠く聞こえる。疲労のせいか、空気のせいか。頭痛は《熱流眼》を使った後から続いており、吐き気も事情聴取の途中で始まっている。症状だけでは区別がつかない。
「窓は?」
「窓?」
兵士の反応で、聞くまでもなかったと気づく。ここは地下だ。壁の向こうに外気があるという思い込みが、まだ身体のどこかに残っていた。
「この階から、広い通路へ直接出られる場所は」
「突き当たりの階段だ」
「じゃあ、そこを開ける。それから人を起こして、下へ出す。走らせないで。具合が悪い人間は支えて」
命令する立場ではない。それでも兵士は反論せず、槍の石突きで向かいの扉を叩いた。
「起きろ。扉を開けろ!」
部屋の中から、寝ぼけた返事が聞こえる。隣も、その隣も、叩けば声が返ってきた。五つ目の扉だけが沈黙した。
兵士はもう一度叩き、取っ手を引く。鍵はかかっていない。扉が拳一つ分ほど開いたところで、押し返されるように止まった。
「何か倒れてる」
「無理に押すな。隙間を広げられる?」
兵士が肩を差し込み、床を擦るものを少しずつ奥へ押した。開いた隙間から、ぬるい空気が流れ出す。油と汗、それに古い炉のそばで嗅いだことのある、鼻の奥を乾かす臭い。
床に男が倒れていた。扉にもたれていたらしく、腕が不自然に曲がっている。奥の寝台にはもう一人いる。こちらも呼びかけに応じない。
理人は口元を袖で覆い、身を低くして中へ入った。何が混じっているのか不明な空気に、布一枚で意味のある防護ができるとは思えない。それでも、顔をむき出しにして入る気にはなれなかった。
扉際の男は呼吸している。浅いが、胸は動いていた。首に指を当てると脈にも触れる。寝台の男は大きないびきをかき、揺さぶると腕を払うような動きを見せた。
「二人とも生きてる。先に入口の人を出して」
兵士が男の脇へ腕を入れ、後ろ向きに引きずり出す。理人は寝台の男を起こそうとしたが、身体が重い。肩を抱えたところで自分の膝が揺れ、石床へ片手をついた。
まずい、と考えても、何がまずいのかを整理できない。視界の端が暗くなる。息を吸おうとしているのに、肺へ入る量が足りない。
背後から伸びた腕が、寝台の男の腰をつかんだ。
「離せ。私が運ぶ」
エルナだった。
彼女は理人を押しのけると、男の上体を背負い、ほとんど一人で部屋から引き出した。廊下には扉を開けられた住人が集まっている。寝間着姿の者もいれば、作業服のまま眠っていたらしい者もおり、誰も事情を理解していなかった。
「階段を下りて中央通路へ出ろ。荷物は持つな」
「何があったんです」
「あとで説明する。子供と歩けない者を先に」
エルナが声を張ると、人々はようやく動き始めた。不満げな声は残っていたが、彼女の剣と近衛の徽章には、それを押し流すだけの効き目がある。
理人は壁へ背を預け、浅く呼吸を繰り返した。エルナの後ろから来たアーデルが、手にした灯石を理人の顔へ近づける。
「顔色が悪い」
「鏡がないから、比較できない」
「口だけは動くのね」
アーデルは理人の返事を待たず、蝋燭の燃えている部屋へ入った。通気口の下へ立ち、炎の傾きと煤を確かめる。壁に掌を当てたあと、腕に刻まれた赤い線を指でなぞった。
線の一本が明るさを増す。
「風路に流れがない。正確には、逆向き。どこで気づいたの?」
「炎と紙。あと臭い。二人は広い場所へ運んで、横向きに寝かせて。吐いたとき詰まる」
「原因は」
「燃焼したあとのガスが入り込んでる可能性が高い。酸素も減ってると思う。どちらにしても、ここに置いておけない」
アーデルは廊下へ顔を出した。
「フィアを起こして。検気箱を持ってこさせて。第五換気塔の当直にも知らせて」
兵士の一人が階段を駆け下りようとする。
「走るな」と理人は止めた。「息が増える」
兵士は足を緩めたが、理人を見る目には苛立ちが混じった。自分たちの街で、来たばかりの男から呼吸の仕方まで指図されている。その苛立ちはもっともだった。
もっともだからといって、黙るわけにもいかない。
住人を外へ出す間、理人たちは階段口と廊下を結ぶ防火扉をいっぱいまで開いた。中央通路から流れ込む空気によって蝋燭の炎は持ち直したものの、天井付近には濁った臭いが残っている。理人は椅子へ上がり、通気口の格子へ紙片を近づけた。先ほどより弱いが、やはり部屋側へ押されていた。
「三年前から第五換気塔は調子が悪い」
アーデルが格子を見上げた。
「止まっていたの?」
「完全には止まっていない。古い翼車だから、導力が落ちると回転が乱れる。昼間は工房の炉が動いていて上昇流ができるから、機械が弱っても風は抜ける。夜になると流れが細くなるけれど、逆流するほどではなかった」
「今夜、何か大きな負荷を増やした?」
尋ねた途端、二人の視線がぶつかった。
第七揚水所の二号機。
理人の胃が縮む。先ほどまで感じていた吐き気とは別のものだった。
「揚水機と換気塔は、同じ動力源を使ってる?」
「幹線は同じ。ただし枝が違うし、配分石が自動で調整するはずよ」
「その配分石は、いつ点検した」
アーデルは答えなかった。
その沈黙だけで足りた。
揚水所で二号機を動かしたとき、理人が見ていたのは水と配管とポンプだけだった。吸込側の閉塞を取り除き、壊さずに回すことへ集中していた。動力がどこから来るのか尋ねはしたが、魔導炉という答えを聞いて、それ以上は踏み込まなかった。
電力系統なら、起動電流と設備容量を確認する。ほかの機器への影響も見る。それをしなかったのは、この世界の動力を理解できないから仕方がない、とどこかで切り分けたせいだ。
知らない設備へ触れるなら、分からない範囲こそ確かめなければならなかったのに。
「二号機を止める」
理人が言うと、アーデルはすぐ首を振った。
「下層がまた浸水する」
「今は人が倒れてる。換気が戻るか確認する方が先だ」
「止めて戻らなかったら、水位だけが上がるわ」
「それでも原因を一つ除ける。ほかに、すぐ試せることはある?」
アーデルは腕の線へ視線を落とした。技師長代理として別の答えを探しているのが分かる。可能性を並べ、失敗したときに失うものを数え、それでも決めなければならない。
理人は急かさなかった。自分なら早く決められるとも思わない。揚水機の停止で下層の水位がどれだけ上がるのか、換気塔の回転が戻る保証はあるのか、判断に必要な数字が何一つない。
「二号機を止める。第一機は?」
「取水口を逆洗したから、さっきよりは流量が出るはずだ。下層の水位上昇は遅らせられる」
「はず、ね」
「確認する時間がなかった」
「今もないわ」
アーデルは階段口にいた兵士を呼び止めた。
「揚水所へ行って。二号機を停止、第一機だけで運転。ガルドには私の命令だと伝えて」
兵士が階段を下りていく。理人は壁際に座らされた二人の男へ目を向けた。扉のそばに倒れていた方は、まだ意識が戻らない。エルナが外套を丸めて頭の下に置き、呼吸を見ている。
「僕が二号機を動かした」
「決めたのはガルドだ」
「方法を出したのは僕だ」
「それで?」
エルナは男の顎を少し持ち上げ、気道を確保してから理人を見た。
「お前を責めれば、この男が起きるのか」
返せる言葉がない。だからといって、胸に引っかかったものが消えるわけでもなかった。
責任を認めることと、自分を責めることは違う。そんな説明を以前、事故後の面談で聞かされた覚えがある。意味は理解できたが、どこで分ければよいのかは教えられなかった。
階下から軽い足音が近づいてきた。現れたのは、革の箱を胸に抱えた若い女だった。赤茶色の髪を片側だけ雑に編み、白い前掛けの下には寝間着らしい薄手の服がのぞいている。急いで起きたのか、右足と左足で靴が違っていた。
「アーデルさん、検気箱。どこから採ればいいですか」
「この階の奥と、通気口。それから倒れた二人の部屋」
女は返事をしながら床へ箱を置いた。中には小瓶が六本、革製の手押しポンプ、透明な管、色の付いた紙片が収められている。
理人が近づくと、彼女は箱を抱え込むようにして身を引いた。
「誰ですか」
「地上から落ちてきた男。リヒトよ」
「説明が乱暴すぎない?」
「違うの?」
女は理人の濡れた服と包帯を眺め、アーデルへ顔を戻した。
「落ちてきた人って、揚水所を直した人ですよね」
「直したせいで換気塔を止めたかもしれない人でもある」
遠慮のない紹介だった。
女は一度口を開き、何を言うか迷った末、検気箱へ向き直る。
「フィアです。錬成院の見習いで、気体と水質の検査をしています。話はあとで」
手押しポンプに管をつなぎ、通気口から空気を吸い込む。送り込まれた小瓶には薄い紫色の液体が入っており、泡が通るたび濁った赤へ変わっていった。
「炉気が入ってます。濃さは……三段より上。四段まではいかないくらい」
「炉気って何を指してる?」
理人が尋ねると、フィアは瓶を灯りへかざしたまま答える。
「炭や油を不完全に燃やしたときに出るものです。たくさん吸うと、頭が痛くなって、吐いて、眠ったまま死にます」
「検気液は、何と反応してる?」
「何と、というのは?」
「炉気の中の、どの成分を測ってるのか知りたい。炭が燃えたあとの空気には、何種類も混じるから」
フィアは初めて理人を正面から見た。警戒より先に、答えを探す顔になる。
「赤錆塩と反応して色が変わる、と教わりました。詳しい仕組みは師匠に聞かないと。酸欠気には反応しません。たぶん」
「それだけ分かれば助かる」
炉気が一酸化炭素を含むなら、臭いの有無で安全を確かめることはできない。二酸化炭素やほかの燃焼生成物も混じっているだろう。液の発色が消えたとしても、その場所で呼吸できるとは限らなかった。
「中央通路の空気も採って。比較したい」
「分かりました」
フィアは小瓶を交換し、階段を下りていく。質問へ不快感を示さなかったことに、理人はわずかに救われた。知識の前提が違っても、測って比べる手順は共有できる。
廊下へ戻ると、倒れていた男が咳き込んだ。身体を横へ向けた途端、石床へ胃の中身を吐く。エルナが肩を支え、兵士に水を持ってくるよう命じた。
「水はまだ飲ませないで。意識がはっきりしてから」
「聞こえるか」
エルナが呼びかけると、男の瞼がわずかに動く。
「……仕事は」
「今は夜だ。お前は部屋で倒れていた」
「酒は、飲んでない」
掠れた声だった。
「分かっている。喋らなくていい」
エルナはそう答えたが、理人は男が最初に口にした弁明を忘れられなかった。先月死んだ二人も、酒のせいだと言われている。今日この男まで死んでいれば、同じ理由で片づけられたのだろうか。
異常を異常として扱うには、正常な状態を知る必要がある。この街では、その基準そのものが長い年月をかけて崩れている。頭痛も、臭いも、止まりかけた機械も、暮らしの一部になれば記録からこぼれる。
通路の奥で、低い唸りが途切れた。
それまで意識していなかった音だった。石壁の内側を震わせていた周期的な響きが消え、数秒後、通気口から細い風が流れ始める。理人が紙片を近づけると、今度は格子へ向かって吸い寄せられた。
「二号機が止まった」
アーデルが腕の赤い線を確かめる。先ほどより発光が強い。
「導圧が戻っている。第五換気塔の翼車も回転を上げた」
「原因は揚水機の起動で間違いなさそうだね」
「配分石が正常なら起きない。揚水所だけの問題ではないわ」
言い方は冷静だったが、アーデルの親指は人差し指の側面を繰り返し擦っていた。腕の刻印を読むときには見せなかった動きである。
しばらくして、ガルドが階段を上がってきた。上着の前を留めておらず、灰色の髪には寝癖が残っている。その後ろに、命令を伝えに行った兵士が続いていた。
「二号機は止めた。第一機だけで、流入量とほぼ同じだけ吐けてる。水位は上がってるが、指一本分に一刻はかかる」
理人は頭の中で換算しようとしたが、この世界の一刻と指一本の正確な値が分からない。少なくとも、今すぐ下層が沈む速さではなさそうだった。
「ガルド、配分石の点検記録は?」とアーデルが聞く。
「第七揚水所のか」
「幹線側。二号機を動かして、第五換気塔の導圧が落ちた」
ガルドの視線が通気口へ向き、次いで壁際の男たちへ移る。状況を飲み込むまでに、長い説明は要らなかった。
「最後に替えたのは十二年前だ」
「耐用年数は」
理人が尋ねると、ガルドは眉間へ皺を寄せた。
「古王国の部品に、そんなものはない。動けば使う。壊れたら、似た物を削って入れる」
「定期的な点検は?」
「蓋を開けたせいで壊れる機械もある」
乱暴な理屈に聞こえたが、保守部品も設計図もない設備なら、理解できなくはない。開放点検で封止材が崩れ、二度と密閉できなくなることもある。触らずに延命する判断は、怠慢とばかりは言えない。
「第二機は当面、第一機の流量が落ちたときだけ動かす。その間、第五換気塔の導圧を監視する」
ガルドはアーデルへ言い、理人の方を向いた。
「これでいいか」
「夜間の流入量が今と同じなら。でも雨や、地上の何かで増えるなら足りなくなる」
「地下に雨は降らん」
「地下へ流れ込む水は、地上の天候と無関係?」
ガルドの口が閉じる。完全に無関係ではないらしい。
「水位と導圧を一緒に記録した方がいい。できれば時間ごとに。二号機を動かす条件を先に決めておかないと、当直ごとに判断が変わる」
「人手が要る」
「二人死ぬよりは少なく済む」
ガルドの顔から、反論しようとする気配が消えた。
床に座っていた男が、また咳をする。彼の同室者も意識を取り戻し、ぼんやりと周囲を見回していた。
「先月死んだ二人というのは、ここの住人?」
ガルドはエルナを見た。
「同じ階だ」と彼女が答える。「一人は炉の番人で、もう一人は荷運びだった。朝、部屋で冷たくなっていた。空の酒瓶があった」
「今夜と同じ臭いは」
「死臭と吐瀉物の臭いで、分からなかった」
「検気はしなかったの?」
フィアが戻ってきたところだった。問いかけを聞いて足を止め、箱の取っ手を両手で握る。
「呼ばれていません。眠っている間に死んだなら酒か心の臓だと、衛生局が」
最後の方は声が細くなった。自分が責められていると思ったのかもしれない。
「フィアの責任だと言ってるんじゃない。ただ、同じ場所で続いてるなら、死因を見直した方がいい」
「墓を掘り返すのか」とガルドが言う。
「埋葬の方法にもよる。でも、まず当時の記録と、部屋の位置、換気塔の運転状況を比べたい。今夜だけ偶然壊れたとは限らないから」
自分が二号機を動かす前から、ここでは人が死んでいる。その事実に安堵しかけた自分を、理人は認めたくなかった。今夜の逆流を悪化させた可能性は残る。それでも全部が自分のせいではないと分かっただけで、呼吸が少し楽になる。
そんな身体の正直さが、ひどく卑しく思えた。
フィアが中央通路で採った小瓶を掲げる。液体は薄紫のまま、ほとんど変色していない。
「下の空気は大丈夫です。ここの検気も、さっきよりかなり薄くなっています」
「扉は朝まで開けておこう。住人は別の場所で寝かせる」とエルナが決めた。
「僕の寝床も?」
「当然だ」
彼女の返事があまりに早く、理人は部屋に置いた社員証と腕時計を思い出す。
「荷物を取ってくる」
「私が行く」
「置き場所を説明するより早いよ」
「では私も行く」
エルナは譲らなかった。
二人で部屋へ入り、棚の上の私物と紙を回収する。空気はすでに入れ替わり始めていたが、枕には先ほどの臭いが染みついている。あのまま異変に気づかず眠っていたら、朝まで起きなかったかもしれない。
初日に蒸気で死にかけ、昇降機から落とされ、二日目を迎える前に寝床で中毒死する。運が悪いという言葉では雑すぎる。むしろ、この街では、何も起こらず朝を迎える方に理由が必要なのではないか。
廊下へ戻ると、ガルドとアーデルが第五換気塔へ行く相談をしていた。
「理人も連れていく」とアーデルが言う。
「今日はもう目を使わせない方がいい」とエルナ。
「目ではなく、頭を借りる。配分石を開ける前に、見るべき場所を聞いておきたい」
「本人に聞け」
三人の視線が理人へ集まる。
身体は休めと訴えている。背中は疼き、頭痛も消えていない。今から設備を見たところで、判断を誤る可能性の方が高い。そう伝えるべきだった。
「換気塔には行かない」
口にすると、アーデルが小さく顎を引いた。断られるとは思っていなかったらしい。
「今の状態で現物を見ても、まともに考えられない。それより、揚水所と換気塔の接続が分かる図面が欲しい。ほかに同じ幹線から動力を取っている設備も」
ガルドが腕を組んだ。
「全体をまとめた図面はない」
「部分図は?」
「年代ごとにある。今もその通りかは知らん」
「改修した記録は」
「残っている物もある」
見なければならない紙の量が、答えるたびに増えていく。
アーデルは理人の顔を見て、少し考えた。
「資料庫は詰所の一階。寝台も置けるわ」
「それは寝かせる気がある人の提案?」
「眠くなったら寝ればいいでしょう」
フィアが検気箱を閉じながら、遠慮がちに口を挟む。
「資料庫は黴がひどいです。寝るなら閲覧室の方がいいと思います。お茶も沸かせますし」
「じゃあ、そこへ案内して」
「私は検査の片づけが」
「終わってからでいい」とアーデルが言う。「あなたにも記録を手伝ってもらうから」
フィアの顔に、寝床へ戻れると思っていた人間の落胆が浮かんだ。それを隠そうとしないところに、理人は少しだけ親しみを覚える。
閲覧室には、壁の半分を埋める木棚と、六人が座れる長机があった。紙束は革紐でまとめられ、棚ごとに色の異なる粘土札が下がっている。古いものほど変色がひどく、触れただけで端が崩れそうな図面もあった。
アーデルは灯石を三つ点け、揚水、換気、導力と記された束を机へ積んでいく。積み上がった量を見て、理人は椅子へ座る前から目を閉じたくなった。
「全部読む必要はない」と彼女は言う。「今夜必要なものだけ探す」
「どれが必要かを知るために、目録が要る」
「目録ならあるわ」
差し出された冊子を開くと、途中から筆跡が変わり、番号の重複や欠番が並んでいた。余白には別の時代の文字が書き足され、消された棚番号の上から新しい番号が振られている。
「これを目録と呼ぶなら、僕の知ってる言葉と意味が違う」
「読めないでしょう」
「乱れてることは分かる」
アーデルは反論せず、隣の椅子へ座った。フィアが湯を沸かし、黒っぽい根を削って入れる。差し出された椀からは、焦がした穀物に似た香りがした。
理人は一口飲み、苦さに顔をしかめながら、白紙を机の中央へ置く。
「まず、今動いている設備だけでいい。第七揚水所の一号機と二号機、第五換気塔。それぞれがどの幹線につながっているか。ほかに同じ線を使うものが分かれば、ここへ足す」
「街の全設備を調べるつもり?」
「今は、この三つだけ」
答えながら、油性ペンの蓋を外す。黒い線を一本引き、その端に第七揚水所と書いた。こちらの文字はまだ書けないため、日本語のままである。アーデルには読めないが、自分の思考を留めるには十分だった。
少し離して第五換気塔と記し、二つの間に導力幹線を置く。揚水所の二号機から線を伸ばしかけ、理人は手を止めた。
「同じ幹線だと言ったけど、途中の分岐はどこ?」
「中央配分所。そこから北の旧坑を通っているはず」
「はず、というのは?」
「八年前の崩落で旧坑は塞がった。今は別の経路へつなぎ替えている」
「その図面は」
アーデルとフィアが同時に、別々の棚を見た。
理人は引きかけた線を消せず、先端だけを空白のまま残した。今夜見つかったのは故障した換気塔ではなく、どこにつながっているか誰も把握していない設備群だった。
フィアが奥の棚から新しい紙束を取り出し、机へ置く。舞い上がった埃が灯石の光を横切り、理人は椀を手で覆った。
「これが八年前の工事記録だと思います。表紙には南迂回路とあります」
革紐を解くと、折り畳まれた図面の間から、乾いて褐色になった小さな葉が落ちた。誰かが栞として挟んだものらしい。
アーデルが図面を広げ、読めない文字を指で追う。理人は空白にしていた線の先へ、彼女が読み上げる設備名を書き足していった。
共同浴場、精錬工房、第二医療院、旧坑排水門。第五換気塔と同じ線へ、予想以上の数がつながっている。
最後にアーデルが読み上げた名称だけ、フィアが聞き返した。
「上層熱受け槽? そんな設備、今もありましたか」
「私は知らない」とアーデルが答える。「図面では、この先につながっている」
指先が示した線は、街の上方へ伸び、紙の端で途切れていた。接続先は別紙と記されているが、その番号は汚れで読めない。
理人はその箇所を囲み、余白に小さな疑問符を付ける。
時計を見る。針は動いていたが、こちらの鐘と合わせていないため、時刻には意味がない。椀の中の苦い茶はすでに冷め、フィアは向かいの席で欠伸を噛み殺している。
理人は新しい紙を一枚取り、左上へ日付の代わりに「揚水所修理後の夜」と書いた。その下へ、二号機の起動、第五換気塔の導圧低下、居住区への炉気逆流、二名昏睡と、起きた順に記していく。
経緯を書き終えて顔を上げると、アーデルは「上層熱受け槽」の文字へ指を置いたまま、図面の余白に残された番号を調べていた。フィアも欠伸をこらえながら椅子を立ち、次の紙束を探しに棚へ向かう。
「その番号なら、北側の記録かもしれません」
フィアが棚の下段から分厚い帳面を引き出した。舞い上がる埃を避けて、理人は冷えた茶を端へ寄せる。
帳面が机に置かれると、アーデルは最初の頁を開いた。理人も手元の紙を裏返し、空いている面を上にした。




