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第四話 客人でも、囚人でもなく

 目を閉じても、街の熱は消えなかった。

 橙色の筋が瞼の裏を這い、枝分かれし、見えない機械の輪郭を描いている。揚水所を出てから何度か瞬きを繰り返したものの、残像は薄くなるどころか、暗い通路へ入るたび鮮明になった。

「足元、段差だ」

 エルナの声に遅れて、靴の先が石の縁へ当たる。転びはしなかったが、彼女の手がすぐ肘をつかんだ。

「見えていないのか」

「見えすぎてる」

「同じ意味には聞こえないな」

 理人は返事をせず、目頭を指で押さえた。眼球の奥に、細い針を束ねて差し込まれたような痛みがある。《熱流眼》を使う時間が長すぎたのだろう。能力に取扱説明書が付いていない以上、どこからが危険なのかも分からない。

 わずかな好奇心は残っていた。この目でどこまで見えるのか。圧力と温度以外に何を拾うのか。見え方を測定値へ換算する方法はあるのか。条件を変え、比較対象を置き、再現性を確かめたい。

 けれど、それは実験室に戻れた人間の考え方だ。ここには予備の目も、医務室へ提出する試験計画書もない。視力を失えば、異世界へ連れてこられた化学屋に残るのは、言葉の通じる無職という肩書だけである。

「少し休めば戻ると思う」

「思う、か」

 エルナは肘から手を離したものの、歩調を落とした。信用されてはいない。それでも、倒れた場合に引きずる手間までは避けたいらしい。

 揚水所から上層へ向かう通路には、一定の間隔で青白い灯石が埋め込まれている。光量は地上の召喚殿より乏しく、壁際の配管や、天井から垂れる黒ずんだ布までは照らさない。布は結露水を受けるためのものらしく、先端に吊された素焼きの壺へ、鈍い間隔で雫を落としていた。

 通路を行き交う者は、誰もがエルナの姿を認めると端へ寄った。荷籠を背負った男、煤のついた作業服の女、鍋を両手で抱えた子供。視線はその隣にいる理人へ集まり、濡れたシャツや血のにじんだ包帯を確かめたあと、顔へ戻ってくる。

 助けを求める顔ではない。珍しい獣が、檻に入れられないまま歩いているのを見る目つきだった。

 地上では、役立たずと判じられるまで半日もかからなかった。地下では、ポンプを一台動かしただけで見物されている。評価の振れ幅が大きすぎて、自分という人間の値札が、会う相手によって貼り替えられていくように思える。

 そんなものは昔からだ、と理人は考え直す。十七で大学へ入れば天才と呼ばれ、実験設備の前で判断を誤れば、年齢だけ先走った学生になる。会社では若いのに詳しいと言われ、会議で上司の想定を否定すれば、現場を知らない研究上がりと扱われた。

 事実は同じでも、使う側の都合で名称が変わる。

「寝床は、もう少し先?」

「その前に寄る場所がある」

 歩調を落とした理由は、体調への配慮だけではなかったらしい。右へ折れた先に、鉄板を鋲で留めた扉が見える。両脇には槍を持った兵士が一人ずつ立ち、エルナへ短く敬礼した。

「事情聴取だ。寝かせるとは言ったが、何も聞かずにとは言っていない」

「そういう契約書の但し書きみたいな話し方、嫌われない?」

「好かれようとして言葉を選ぶと、あとで死人が増える」

 扉へ手をかけた彼女の横顔に、冗談を受け取った様子はなかった。理人は口を閉じる。

 中は六畳ほどの石室で、机を挟んで椅子が二脚。壁に窓はなく、天井近くに設けられた細長い通気口から、かすかに油の臭いが流れ込んでいる。机の上には、異世界へ来たとき身につけていた物が並べられていた。財布、社員証、鍵、油性ペン、傷だらけの腕時計。電源の入らないスマートフォンまである。

 拾われたときに回収されたのだろう。並べ方は几帳面で、硬貨は額面ごとに分けられ、名刺は四隅をそろえて重ねてあった。

 椅子の一つには女が座っている。

 年齢は三十前後に見えた。灰色がかった金髪を後ろで無造作に束ね、袖を肘までまくった腕には、青と赤の細い線が何本も引かれている。刺青ではない。灯石の明滅に合わせ、皮膚の下で弱く発光していた。

 女は挨拶もせず、スマートフォンの側面を爪で押した。反応がないと分かっているはずなのに、押す位置を少しずつ変えている。

「それ、返してもらえる?」

「光る板だと聞いた」

「今は光らない」

「壊れている?」

「電気がない」

「デンキ」

 女は初めて顔を上げた。片方の眉だけがわずかに高い。

「それがあれば光るのね」

「条件が合えば」

「では、壊れているかどうかは分からない」

「そうなる」

「ずいぶん慎重なのね。さっきは見たこともない揚水機に水を逆流させたのに」

 理人がエルナを見ると、彼女は扉を閉め、背を預けた。退出するつもりはないらしい。

「宮坂理人。こちらはアーデル・クライネ。導律院付きの魔導技師だ」

「一応、技師長代理。正式な技師長は半年前から寝たきりだから、実務上は私が技師長。面倒なので好きな方で呼んで」

 アーデルは油性ペンを持ち上げ、蓋の端を嗅いだ。次いで軸の文字へ目を寄せる。

「読めない。材質も分からない。軽いのに木ではなく、骨でもない。あなたの国では、これを何に使うの?」

「字を書く」

「冗談なら、もう少し寝たあとで聞くわ」

 理人が手を差し出すと、彼女は迷った末にペンを渡した。蓋を外し、机の端に置かれた粗い紙へ線を引く。黒いインクが繊維の溝へにじみ、アーデルの目が細くなる。

 彼女は紙に残った線を指先でこすった。すでに乾いたインクは皮膚につかない。

「分からないことを、よく分からないと言うのね」

「決めつけて外すよりはいい」

「その割に、揚水所では見たこともない機械に手を入れた」

「分かるところまで確認してから触った」

 アーデルは油性ペンを机へ戻した。納得した様子はないが、先ほどまでとは見方が変わっている。珍しい道具の持ち主ではなく、扱いの難しい同業者を値踏みする目だった。

「座ってくれ」

 エルナに促され、空いた椅子へ腰を下ろす。身体が止まった途端、疲労が重さを取り戻した。背中の打撲は心臓の拍動に合わせて疼き、喉には乾いたパンの粉がまだ張りついている気がする。それでも机へ肘をつくのは避けた。弱っている姿を隠す意味などないが、見せたところで何かが有利になるとも思えない。

 アーデルは紙を一枚引き寄せる。

「地上から来たという話は聞いている。ルドニアの間者なら、もっとましな服を用意するでしょうし、昇降路から落として骨を折らせる必要もない。けれど、向こうのやることは合理的とは限らないから、確認はする。あなたを地下へ送ったのは誰?」

「セヴランと名乗っていた。神務卿だと」

 ペン先が紙へ触れたまま止まる。アーデルはエルナを見なかった。反対にエルナも動かず、扉の脇に立っている。

 何も起きていないように見せる沈黙だった。

「人相は?」

「痩せていて、四十代後半くらい。髪は灰色。右手に青い石の指輪をしていた」

「ほかには」

「質問に答えない」

 アーデルが鼻から短く息を出す。

「それは人相ではないわね」

「でも、一番よく覚えてる」

 召喚殿で理人が廃熱の行き先を尋ねたとき、セヴランは目を細めた。意味の分からない質問を聞いた顔ではなかった。面倒な場所へ指を差された者の反応。あの場では、そこまで言葉にできなかったし、仮にできたとしても、根拠のない印象にすぎない。

 今は違う。地下に広がる熱の筋と、地上の魔法文明。その二つを結びつける仮説は、すでに理人の中で形を取り始めている。

 口に出せばどうなる。

 ここにいる者たちが、地上に捨てられた熱で苦しんでいるのなら、憎しみを向ける先は明確になる。けれど証拠がなければ、彼らが欲しがっている敵の姿を、自分の推測で描くことになる。会社の事故調査で最初に教わったのは、結論へ似た事実だけを拾うな、ということだった。

 正しい警告を遅らせた記憶と、早すぎる断定を恐れる癖が、同じ場所で引き合っている。

「召喚されたのは、あなただけ?」

「七人。僕を含めて」

「残りの六人は」

「地上に残された。少なくとも、僕が地下へ送られるまでは」

 制服姿の少年と、白衣の女。眠る娘を抱えていた母親。能力を告げられるたび、召喚殿の空気は彼らを一人ずつ飲み込んでいった。理人が昇降機へ向かうとき、声をかけた者はいない。

 責めるのは簡単だ。自分が彼らの立場なら止められたかと考えると、答えは途端に濁る。知らない世界で武器を持つ兵に囲まれ、娘の頭を抱えていた母親へ、見ず知らずの男を助けろとは言えない。剣聖と呼ばれた少年は、目を合わせることさえできなかった。

 それでも、誰か一人くらいは、と考えてしまう自分がいる。理屈で免責したあとにも残る、小さくみっともない期待だった。

「全員、異能を与えられたの?」とアーデル。

「そう説明された」

「あなたは熱と圧力を見る。ほかの者は?」

 理人は覚えている範囲で答えた。《剣聖》《聖癒》《金剛》《炎帝》《豊穣》《統率》。口にするほど、地上に残された者たちの能力と自分のものとの差が露骨になる。火を生み、傷を癒やし、人を従わせる力。その横に温度計と圧力計が並べば、セヴランが笑わなくても兵士たちは笑っただろう。

 アーデルは最後まで遮らずに書き取り、紙を裏返した。

「《熱流眼》を使っているとき、熱は何色?」

「決まってない。周囲との差で変わるみたいだ。流れは筋か、矢印に近いものとして見える。たぶん絶対温度じゃなく、勾配を強調している」

「コウバイ」

「どちらへ、どれくらい偏っているか」

「数は読める?」

「読めない」

「石の向こう側は?」

「厚さと材質による。たぶん」

「金属の種類は?」

「見分けられない。表面温度の違いから、熱の伝わりやすさを推測できる場合はある」

「毒は?」

「温度も圧力も周囲と同じなら見えないと思う」

「魔力は?」

「そもそも、魔力が何か知らない」

 返答を重ねるうち、アーデルの筆記が少しずつ速くなる。彼女が求めているのは万能の眼ではない。どこで誤る能力なのか、その境界を探っている。

 理人はその態度に覚えがあった。測定器を導入するとき、仕様書の最大値より先に確認するのは、精度の落ちる条件と故障時の出力だ。何でも測れる装置は存在しない。限界の分からない測定器ほど危険なものもない。

「試していい?」

 アーデルは足元から、蓋の付いた小さな鉄箱を持ち上げた。いつから置いてあったのか、机の陰で気づかなかった。

「危険なもの?」

「答えたら試験にならない」

「その理屈は、試される側が同意してから使うものだよ」

 理人が断ると、アーデルは怒るでもなく箱を引っ込めた。

「では、何が入っているかは言わない。危険ではないと私が保証する。開けずに、分かることだけ答えて」

 保証する根拠を聞きたかったが、拒み続ければ能力の証明ができない。証明できなければ、彼らにとって理人は、偶然ポンプの扱いを知っていた不審者のままだ。

 椅子から立ち、鉄箱へ右手を近づける。表面は冷たい。目を閉じてから開くと、視界の色が抜け、箱の輪郭に淡い青がにじんだ。内部には細長いものが二本。片方は周囲より温かく、もう片方には目立つ差がない。

 焦点を合わせようとした途端、眼窩の奥で痛みが跳ねる。

 理人は反射的に顔をそむけ、机へ手をついた。吐き気が喉の手前までせり上がり、汗が首筋を流れていく。

「もういい」

 エルナの声と同時に、箱が視界から消えた。アーデルが引き寄せたらしい。

「二本入ってる。片方は温かい。形は棒みたいだけど、それ以上は無理だ」

「十分よ。中身は鉄の棒が二本。一方だけ、握って温めておいた」

 アーデルは箱を開き、布に包まれた二本を見せる。能力が嘘ではないと示せた安堵より、見えるという事実を他人の前で確定させてしまった感覚の方が強い。今までは、理人自身も頭を打って幻覚を見ている可能性を捨て切れていなかった。

 これで、自分は本当に以前の身体ではなくなった。

 喜ぶべきなのかもしれない。地上で与えられた能力の中では見劣りしても、この街では価値を持つ。役に立てると示せるなら、食事と寝床を得られるだろう。

 同時に、価値が目に宿っているという事実は、ひどく頼りなかった。彼らが欲しいのは宮坂理人ではなく《熱流眼》であり、その二つを分ける方法が見つかれば、扱いも変わる。セヴランが自分の問いを聞いたあと、地下行きを決めたように。

「最後に一つ」

 エルナが扉から背を離し、腰の革袋から短い縄を取り出した。黒く変色し、片端が固く縮れている。

「昇降機から回収した。お前を吊っていた縄の一部だ」

 机へ置かれた途端、鼻に油の臭いが届いた。召喚殿から昇降機までの間、滑車にも似た臭いが付着していたのを思い出す。

「刃物で傷を入れた跡があった。油も染み込ませてある。偶然切れたものではない」

 分かっていたつもりだった。落下の途中で縄を見たときから、自然な破断ではないと考えていた。それでも、現物を前にすると、仮説だった殺意に重さが生まれる。セヴランは役立たずを追い払ったのではない。地下へ届く前に死ぬよう、手を加えていた。

 理人の指が、無意識に社員証の縁をなぞる。硬い樹脂の角は、よく知っている感触だった。そこに印刷された顔写真は、今朝までの自分へつながっているはずなのに、縄を挟んだ向こう側へ置かれている。

「これを見せて、何を聞きたい?」

「お前が殺される理由だ」

「僕も知りたい」

「セヴランに何を言った」

 理人は呼吸を整えた。口の中に金属に似た味が残っている。

「魔法を使ったとき、出た熱はどこへ行くのかと聞いた」

 アーデルの指から筆記具が滑り、紙の上を転がった。

 今度の沈黙は、隠し方が足りなかった。

「何か知ってるんだね」

「質問をしているのはこちらだ」とエルナが返す。

「それは質問じゃない。僕の答えを使って、二人で何を隠すか決めてる」

 声を荒らげたわけではない。それなのに、室内の空気が急に狭く感じられた。エルナの右手は剣へ伸びていないが、伸ばさずに済む距離を保っている。アーデルは転がった筆記具を拾わず、理人の顔を見ていた。

 ここで黙れば、寝床は得られるかもしれない。与えられた仕事だけをこなし、地下の事情へ踏み込まなければ、少なくとも今夜は安全だ。

 そうやって、確信が得られるまで口を閉じた結果を、理人は一度知っている。試験設備の温度計がわずかにずれ、先輩が「範囲内だ」と笑ったとき、理人は配管の振動との関連を疑いながら、停止を主張できなかった。異常だと断定するデータが揃っていなかったからだ。

 数分後にシールが抜け、噴き出した蒸気で先輩は腕を焼いた。会社の調査報告書には、理人が異常の可能性を認識していた時刻まで記録されている。

 あれ以来、確かでないことを口にする怖さと、口にしない怖さは、どちらも小さくならない。

「断定はできない。でも、この街には、ここで生まれたとは思えない熱が流れ込んでる。上の国が魔法を使い、出た熱や圧力を地下へ逃がしているなら、揚水所の温度が高いことも、セヴランが僕の質問を嫌がったことも説明できる」

 言ってしまうと、仮説は想像していたより粗末に聞こえた。測定記録も配管図もない。あるのは能力で見た熱と、相手の表情、自分を殺そうとした縄だけである。

 アーデルはようやく筆記具を拾ったものの、何も書かなかった。

「同じことを考えた人間は、過去にもいたわ」

「証拠は?」

「ない。調べに行った者が戻らなかったから」

「何人?」

「公的には、ゼロ」

 公的には。その言い方が示す数を、彼女は続けなかった。

 エルナが机の縄を革袋へ戻す。

「お前を客人として迎えることはできない。地上から来た経緯も、能力のすべても確認できていないからだ。かといって牢へ入れれば、今夜直した揚水機が明日また壊れたとき、助言を得るために鍵を開けることになる」

「効率が悪いね」

「そうだ。だから、ガルドと話をつけた。お前を技師団預かりの協力者とする。移動には監視が付き、地上へ通じる区画には入れない。作業への参加は、ガルドかアーデルの許可がある場合に限る」

 理人は机の上の私物を見る。返還されるとは、まだ言われていない。

「拒否したら?」

「牢と食事は用意する」

「拷問は」

「必要がなければしない」

「安心させる気がまったくないな」

「嘘をついて安心させるよりはいい」

 エルナの答えには迷いがなかった。その率直さを信用してよいのか、単に脅しへ慣れているだけなのかは判断できない。ただ、地上の召喚殿で聞かされた美辞麗句より、条件としては理解しやすかった。

 協力すれば使われる。拒めば閉じ込められる。自由な選択とは呼びにくいが、どちらにも危険があるなら、自分で確かめられる方を選びたかった。

「条件がある」

 エルナの目が細くなる。

「言ってみろ」

「設備の図面と修理記録を見せてほしい。分からないものを分かったふりはしないし、安全だと思えない作業は断る。あと、紙と書くもの。できれば、目盛りを作れる定規も」

「牢の方が寝る時間は増えるわよ」とアーデルが言う。

「眠る場所の真下で配管が破裂しないなら考える」

 アーデルはしばらく理人を眺め、それから机上の紙を一枚抜き取った。

「図面は私の許可したものだけ。記録の持ち出しは禁止。あなたが作る測定器は、技師団にも構造を開示する。これならガルドを説得できる」

「測定器を作るとは言ってない」

「作らないの?」

 問い返されると、否定できなかった。数字の読めない能力を、そのまま使い続けるつもりはない。基準となる温度差を用意できれば、見え方との対応を取れるかもしれず、圧力についても既知の水柱があれば校正の手がかりになる。

「では、明朝まで考えて。必要になりそうな材料は、こちらで揃えておく」

 断る余地を残しながら、断るとは少しも考えていない口ぶりだった。理人は反論を諦め、椅子の背へ体重を預けた。

 私物のうち、財布と社員証、腕時計、油性ペンは返された。スマートフォンはアーデルが預かると言い張ったが、理人が拒むと、技師団の保管庫へ封印することで落ち着く。電池が尽きた黒い板に実用的価値はない。それでも手放したくなかったのは、写真と連絡先が入っているからだけではない。電源が入らなくなっても、それは元の世界が存在した証拠だった。

 石室を出たころには、街の鐘が九回鳴っていた。地上と同じ一時間ごとなのかは分からない。通路を歩く人影は減り、家々の小窓から漏れる灯石の光も、ところどころ落とされている。

 案内された寝床は、技師団詰所の二階にある空き部屋だった。幅の狭い寝台、毛布、洗面用の桶。壁には古い棚が一つあり、隅に置かれた燭台には、短くなった蝋燭が刺さっている。

「扉の外に兵を置く」

 エルナはそう告げ、革袋から小さな木札を渡した。表には見慣れない文字、裏には三本の切り込みがある。

「協力者の証だ。なくすな。許可のない区画で見つかれば、警告より先に拘束される」

「エルナは僕を信用してる?」

 彼女は答えるまでに、わずかな間を置いた。

「崩落の前に退けと言ったお前と、揚水所で弁を閉じろと言ったお前は信用している。それ以外は、まだ知らない」

 理人には、その区別が妙にありがたかった。善人か悪人かを決められるより、したことだけを見られる方が耐えやすい。

「おやすみ、でいいのかな」

「こちらでも、その意味で使う。休め」

 扉が閉まり、錠の音はしなかった。代わりに、廊下で兵士が壁へ槍の石突きを当てる音がする。監視がいると知らせるためだろう。

 理人は濡れたシャツを脱ぎ、毛布へ腰を下ろした。横になればすぐ眠れると思っていたのに、身体は休み方を忘れている。目を閉じると昇降機の落下が戻り、開けば知らない石の天井がある。耳には揚水機の回転音が残り、縄の焼けた臭いまで鼻の奥に蘇った。

 帰りたいのか、と自分へ問いかけてみる。

 帰れるなら帰りたい。病院で検査を受け、会社へ事故報告を出し、三日ほど眠ってから、なぜ非常停止が働かなかったのか調べたい。自宅の冷蔵庫には賞味期限の近い卵が六個あり、研究室時代の友人から来たメッセージにも返事をしていない。

 けれど、帰るためにもう一度セヴランの前へ出るのかと考えると、指先が毛布を握り込んだ。今度は昇降機では済まないだろう。地下へ熱を捨てているという仮説が正しければ、理人は地上にとって、役立たずではなく余計なことに気づいた人間になる。

 横になる前に、蝋燭へ火をつけた。火打ち道具の扱いに手間取り、三度目で芯に小さな炎が移る。灯石より頼りない色だが、見慣れた燃焼だけで少し息が楽になった。

 棚へ社員証と腕時計を置き、油性ペンで紙に覚えていることを書き出す。七人の名前と能力、召喚殿の構造、セヴランの指輪、昇降機までの経路。次に揚水所の配管を描こうとして、手が止まる。

 蝋燭の炎が、通気口とは反対の方向へ傾いていた。

 扉の隙間から入った風だと思い、理人は紙片を細く裂いて掲げる。紙は通気口へ吸われず、弱く部屋側へ押し戻された。天井近くの穴から、温かい空気が逆流している。

 椅子を通気口の下へ移し、上に立つ。油の臭いに混じって、鼻の粘膜を刺すものがあった。硫黄とも溶剤とも違う。知らない物質なら、臭いだけで有害性を判断するのは危険である。

 《熱流眼》を使わずとも、炎の挙動は見える。火は次第に細くなり、芯の周囲へ橙色の煤をまとい始めていた。酸素が足りないか、燃焼を妨げる気体が入っている。

 理人は椅子から降り、扉を開けた。

 外にいた兵士が槍を持ち直す。

「部屋から出るなと言われている」

「寝る前に一つだけ確認したい。この階で、朝になっても起きてこなかった人はいる?」

 兵士の顔から、煩わしそうな色が薄れた。

「なぜ聞く」

「空気の流れが逆だ。何が混じってるかは分からない。このまま扉を閉めて寝たくない」

 また、分からないと言った。それでも今回は、その先を黙らずに済んだ。

 兵士は通路の奥へ目をやり、槍の柄を握り直した。

「先月、二人。酒のせいだと聞いた」

 理人は部屋の蝋燭を見る。開いた扉から空気が入り、細かった炎は、何事もなかったように太さを取り戻しつつある。

「エルナか、アーデルを呼んで。今夜は、この階の扉を全部開けた方がいい」

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