第三話 水は火がなくても沸く
「責任を取れるとは言いません。ただ、この音は石じゃない。ポンプの中で水が沸騰している音です」
理人の言葉を遮るように、一号機が激しく震えた。
回転軸を支える台座から低い唸りが伝わり、太い吐出管の継ぎ手から濁った水が噴き出す。周囲にいた職人たちは顔を背けたものの、中央に立つ老人だけは動かない。白髪交じりの髭から水を滴らせながら、片目につけた鉱石板越しに理人を見ている。
「ガルド・バルガス。この国の技師組合を預かっている」
名乗りはしたが、手を差し出す気はないらしい。
「地上の学者先生。水が沸いているというなら、どうすればこいつを壊さず、街も沈めずに済むのか。そこまで話してみろ」
挑発に乗って、すぐ答えを出したくなる。
その衝動へ気づいた理人は、動いている一号機と、停止した二号機を見比べた。自分を役立たずと決めた地上人とは違う。目の前の老人は、理人が何者だろうと関係なく、設備を止める根拠と代案を求めている。
ここで必要なのは、知識を披露することではない。浸水を止めながら、二基のポンプを失わない方法である。
「先に設備を見せてください。吸水口から吐き出し側まで。それと、普段の水位と水温、回転速度を変えられるかどうかも知りたい」
「直せるんじゃなかったのか」
「直せるとは言っていません」
ガルドの太い眉が持ち上がる。周囲の職人たちも手を止めたが、理人は言葉を継いだ。
「原因を調べることならできると答えました。構造も知らない機械について、それ以上を約束するつもりはありません」
言い切ったあとで、胸の内側が硬くなる。
相手を怒らせたかもしれない。もう少し柔らかい言い方もあったはずだ。しかし王城で役立つ人間だと思われたくて、不自然な装備の昇降機へ乗ったばかりである。同じ欲に判断を譲れば、今度は自分だけでなく、下層街の人間まで巻き込む。
ガルドはしばらく理人を見ていたが、やがて鼻から息を出した。
「口だけは一人前らしい。ついてこい」
背を向けた老人を追おうとすると、右脚の傷が痛んだ。理人の身体がわずかに傾き、隣にいたエルナの手が肘を支える。
「無理なら残れ」
「歩けます」
「それは三度目だ。次は信じんぞ」
理人は返事をせず、濡れた床へ足を置いた。
第七揚水所は、二基のポンプを中心として縦長に造られている。正面から見えた巨大な円筒は装置の一部にすぎず、奥には回転軸を駆動する魔導機関、床下には吸水槽、上階には吐出管と制御設備が配置されていた。
設備そのものは地球のものと大きく異なる。
動力源は電動機でも蒸気タービンでもなく、青い鉱石を円筒状に並べた魔導機関。軸受には油ではなく、粘り気のある銀色の液体が使われている。配管の接合部もボルト締めではなく、金属同士が溶け合ったように一体化していた。
一方、ポンプがしている仕事は理解できる。
低い場所の水を吸い上げ、高い場所へ送り出す。羽根車の回転で水へ速度を与え、それを圧力へ変換する。材料と動力が未知でも、水まで別の法則で動くわけではないらしい。
「吸水槽は床下か」
「そうだ。南水路から流れてきた水が槽へ入り、この二本で吸い上げる」
ガルドが床を貫く二本の太い管を指す。
「普段の水面は?」
「床下、四長ほどだ」
単位の正確な長さは分からない。ガルドが壁の目盛りを指したため、理人は視覚的に距離を把握する。現在の水面は通常位置より高く、すでに床下二メートルほどまで迫っているようだった。
「水が増えてるなら、吸い上げやすくなるはずじゃないですか」
若い職人が口を挟んだ。年齢はフィアと呼ばれる見習いと同じくらいだろうか。濡れた前髪を額へ貼りつかせ、理人を試すように見ている。
「普通ならそうです。吸水口にかかる圧力が増えるので」
「だったら、なんで止まる」
「水が普段より熱いことと、吸水側のどこかで圧力を余分に失っていること。その二つが重なっている可能性があります」
理人はしゃがみ込み、床を通過する吸水管へ手を近づけた。直接触れなくても、管の内部を流れる熱が橙色の筋として見える。一号機側では流れが細かく途切れ、羽根車へ近づくにつれて無数の明滅へ変わっていた。
「水が熱いと、なぜ圧がなくなる」
ガルドの問いに、理人は答えを組み立てる。
「水は、火にかけたときだけ沸くわけではありません。周囲の圧力が低くなれば、温度がそれほど高くなくても沸騰します。高い山の上では、地上より低い温度で湯が沸く。ここに山があるかは知りませんが、原理は同じです」
「ここは山の下だぞ」
「場所の高さの話ではなく、管の中の話です。ポンプが水を吸い上げると、吸水管の内部では圧力が下がる。そこへ普段より熱い水が入れば、羽根車へ届く前に一部が蒸気へ変わります」
若い職人の顔には、納得より疑いが強く残っている。
「蒸気なら、そのまま上へ抜けるんじゃないのか」
「大きな泡なら。ただ、ここで生まれているのはもっと細かい気泡です。羽根車へ吸い込まれ、圧力の高い場所へ入ったところで潰れる。そのたびに、水が金属を叩く」
理人は一号機の外殻へ手を当てた。硬い振動が掌から腕へ伝わり、一定の回転音へ、不規則な高い衝撃音が重なっている。
「地球ではキャビテーションと呼んでいました。続けば羽根車の表面が削られます。二号機が止まったのも、そのせいかもしれない」
ガルドは黙ったまま、作業台へ向かう。そこには交換された古い羽根車が置かれ、青銅に似た表面へ、虫食いのような小さな穴が無数に開いていた。
「これは砂の傷だと教わってきた」
「砂も混じっていたと思います。ただ、気泡が潰れても似た傷になります」
「見たのか」
「地球で。規模はもっと小さいですが」
ガルドが指先で穴をなぞる。長年、何度も見てきた傷なのだろう。簡単に信じた様子はないが、先ほどまでのように鼻で退けることもなくなっていた。
エルナが一号機を見上げる。
「原因がそれだとして、どうする」
「まず回転を落としたい。吐き出す量は減りますが、気泡の発生も抑えられるはずです」
「どこまでだ」
「音と振動を見ながら決めます。回転速度は変えられますか」
ガルドが制御盤を指した。
六枚の鉱石板が扇状に並び、それぞれ異なる明るさで発光している。職人が金属棒を差し替えることで、魔導機関へ流す力を段階的に変える仕組みらしい。
「六段階だ。いまは五段目。三段まで落とせば、排水は半分以下になる」
「一度、四段へ落としてください」
「命令するな」
「試させてください」
ガルドは制御盤の前に立つ職人を見る。老人が二本の指を下げると、職人は金属棒を一段下へ差し替えた。
魔導機関の光が弱まり、回転音も低くなる。
理人は一号機へ意識を集中した。吸水管内の明滅が減り、羽根車へ流れ込む圧力の乱れも小さくなる。それでも完全には消えず、金属を叩く音が間を空けて続いていた。
「少し減った」
若い職人が機械へ耳を寄せる。
「だが、まだ鳴ってる」
「熱だけが原因ではありません。吸水口か管の中で、流れを妨げているものがある」
「南水路の崩落で、石が入ったか」
「可能性はあります。吸水口に格子や網は?」
「ある。だが、槽はもう人が入れる温度じゃない」
ガルドは床下を指した。
「水を止めて冷えるのを待てば、下層街が先に沈む」
理人は設備全体へ目を向けた。
一号機から上階へ延びる吐出管。停止している二号機。その二本をつなぐ細い配管が、天井近くを横切っている。通常運転では流れていないらしく、内部の温度は周囲とほとんど変わらない。ただ、一号機側の根元だけが温かく、管の途中には大きな弁が設けられていた。
「あの横管は何ですか」
「知らん」
ガルドは不機嫌そうに答える。
「古代から残っている。両方の吐出管につながっているが、弁は何十年も開けていない。動かす必要がなかった」
「吸水側にもつながっていますか」
「二号機側は、途中で床下へ下りている」
理人は階段を上り、配管の行き先を確かめた。横管は一号機の吐出側から分岐し、二号機の吸水管へ接続されている。途中には流れの方向を制限する構造も見えた。
予備機へ水を満たすための注水管か、吸水口を逆洗するための配管かもしれない。
正しい用途を示す文字は摩耗し、図面もない。ここでも確証は得られなかったが、少なくとも接続には意味がある。
「一号機の吐出を、この管から二号機の吸水側へ送れます」
「何のために」
「二号機側へ逆向きに水を流す。吸水格子に石や泥が詰まっているなら、水路側へ押し戻せるかもしれません。そのあと一号機を止め、二号機を低速で動かす」
「かもしれない、ばかりだな」
「図面がないので」
ガルドは舌打ちしたが、否定はしなかった。
「逆に流した水はどこへ行く」
「吸水槽へ戻ります。槽の水位は上がりますが、水位が高いほど吸水側の圧力は増える。今はむしろ都合がいい」
「下層街を沈める水を、わざと増やすのか」
エルナの声に責める響きはない。ただ、判断に必要な危険を確認している。
「短時間だけです。一号機を壊さず回しながら、二号機を復旧させるには、それが一番可能性が高い。ただし、横管の弁が開くことと、圧力に耐えられることが前提です」
全員の視線が天井近くの弁へ集まる。
弁の表面は錆と鉱物質で覆われ、ハンドルも半ば固着している。何十年も動かしていないという話が正しければ、無理に開けば軸が折れるか、詰め物が破れて高圧水が噴き出す恐れもあった。
「技師組合長」
監視所から来た兵士が駆け込んでくる。
「水位が第三標に達しました。染料区画の避難を始めています」
ガルドの視線が壁の水位計へ向く。下から押し上げられた浮きが、赤い線へ近づいていた。
残された時間は少ない。
理人の案が間違っていれば、横管を破損させ、使える一号機まで止めることになる。何もしなくても一号機は壊れる可能性が高いが、それは推測でしかない。
決めるのは自分ではない。
そう考えた途端、肩から力が抜けそうになった。判断をガルドやエルナへ渡せば、失敗しても理人一人の責任にはならない。
その安堵へ逃げる前に、口を開く。
「私なら試します」
ガルドの片目が理人へ向く。
「成功する保証はありません。ただ、このまま一号機を回し続ければ損傷は進む。二号機を復旧させるなら、まだ一号機が動いている今しかない」
「横管が破れれば、両方止まるぞ」
「その危険もあります。だから弁を一気に開けず、内部の圧力を確認しながら少しずつ動かす。漏れが出たら閉じる。二号機へ水が届かなければ、別の方法を考えます」
「失敗したら?」
ガルドの問いは短い。
理人は答えを探したが、都合のよい言葉は見つからなかった。
「次の方法を考えます。それまで街が持てば」
職人たちの間に苛立ちが広がる。自分たちの家や家族が水に追われているのだから、当然だった。
ガルドは彼らの顔を見渡したあと、作業台から大きな工具を取る。
「一号機は四段運転を維持。二号機の吸水弁を閉じろ。横管を開ける準備をする」
「組合長!」
「地上の学者に従うんじゃない。こいつの話を聞いたうえで、俺が決めた」
職人たちの声が止まる。
ガルドは理人を振り返らず、工具を肩へ担いだ。
「勘違いするなよ。失敗したら、お前だけの責任にはしてやらん」
その言葉は責任から解放するものではなかった。逆に、一人で背負ったつもりになって逃げることを許さない響きがある。
理人は何も返せず、ガルドの後を追った。
横管の弁へ上る足場は、水と油で滑りやすくなっている。エルナは負傷した理人を下へ残そうとしたが、弁の温度と圧力を見なければ開閉の判断ができない。
「登れます」
「落ちたら拾わんぞ」
「下に水があるので、二度目は少し安全です」
「冗談が下手だな」
エルナが先に梯子へ足をかける。理人が続き、その後ろからガルドと二人の職人が上った。
弁へ近づくと、一号機側の配管には高い圧力がかかり、橙色の流れがハンドル直下まで達している。二号機側は冷たいままだが、管の低い部分にだけ水が残っていた。
「いきなりハンドルを回さないでください」
「では、どうする」
「弁の下に小さい抜き口はありませんか。内部が両側から固まっているなら、先に圧力を逃がしたい」
ガルドが鉱石板を重ねた片眼鏡で弁を調べ、付着物の下から指二本ほどの栓を見つける。
「こんなもの、図面にもなかったぞ」
「図面が残っているんですか」
「読めん図面なら山ほどな」
栓の周囲を清掃し、工具をかける。ガルドが力を込めても最初は動かなかったが、職人が柄へ延長棒を差し込み、二人で押すと、固着した金属が低い音を立てた。
「待って」
理人の視界で、栓の根元へ圧力が集まる。
「一度止めて。そこから噴きます。布か板で正面を塞いで、身体を横へ」
職人たちは理人を見たものの、ガルドが先に位置を変えた。厚い革布を栓の前へ垂らし、全員が配管の陰へ入ってから、もう一度工具を回す。
栓が外れた途端、高圧の水が革布へ突き刺さった。
布が激しく膨らみ、足場の外へ熱水を撒き散らす。何も知らず正面に立っていれば、顔か胸へ受けていただろう。
「これも見えたのか」
エルナが尋ねる。
「圧力の集中だけです」
「相変わらず、それだけと言うな」
水の勢いが弱まるまで待ち、横管の大弁へ工具をかける。今度はハンドルがわずかに動いた。
一号機の吐出水が横管へ入り、長く冷えていた金属を温めながら二号機側へ進んでいく。理人の視界では、橙色の帯が暗い管内を少しずつ塗り替えていた。
「もっとゆっくり。まだ二号機側へ届いていません」
ガルドがハンドルを少しずつ回す。
横管が軋み、足場へ振動が伝わる。理人は流れの先端を追いながら、接合部ごとの温度を確認した。途中の一か所で熱が滞留しかけたものの、すぐ先へ抜けていく。
「二号機側へ入りました。いったん、ここで止めて」
下階から職人の声が上がる。
「吸水管が鳴ってる!」
低い振動が床下から届き、二号機の吸水管を逆向きに水が走った。数秒後、吸水槽の側から石同士がぶつかる音が続き、濁った水が点検口より噴き上がる。
「格子の詰まりが抜けた!」
若い職人が叫ぶ。
安堵しかけた理人の視界で、横管の継ぎ手が急に明るくなった。細い熱が外側へ漏れ始めている。
「閉めてください。継ぎ手から漏れてる」
「まだ洗い足りん」
「管を破るよりはいい。いったん閉めて状態を確認します」
ガルドは迷わずハンドルを戻した。流れが止まり、継ぎ手の熱も徐々に薄くなる。
下へ降りて二号機の吸水管を点検すると、管内は水で満たされていた。吸水槽の水位も通常より高く、ポンプへ入る圧力は先ほどより確保されている。
「二号機を一段で動かします」
「最低でも二段は要る」
「最初は一段。音が安定してから上げます」
ガルドは一度だけ理人を見て、制御盤へ合図した。
青い鉱石が淡く光り、停止していた回転軸が動き始める。低い唸りとともに羽根車へ水が入り、理人の視界では橙色の流れが円を描いた。
気泡の明滅はある。ただ、一号機ほど多くない。
「二段へ」
回転が上がる。
砂利を噛む音は、まだ聞こえない。
「三段」
二号機全体が震え、吐出管へ水が押し上げられる。継ぎ手から細かな水滴が落ちたものの、圧力は安定していた。
職人の一人が上階の流量計を確認する。
「吐出、上がっています。平常の六割……七割!」
揚水所を満たしていた緊張が、形を変える。声を上げる者はいないが、何人かの肩が下がり、若い職人は濡れた額を袖で拭った。
理人は二号機の外殻へ手を置く。
回転の振動が掌へ伝わってくる。一定の周期を持ち、異物を噛む高い音も、気泡が潰れる不規則な衝撃もない。試験設備で何百回と聞いてきた、正常に水を送るポンプの音だった。
それを聞いた途端、試験棟の制御室が記憶へ戻る。
自分が消えたあと、あの設備は止まったのだろうか。
先輩や運転員は無事なのか。
正常な機械音へ安堵しているのに、同じ音が、帰れない場所との距離を思い出させる。理人は外殻から手を離し、作業手袋に残った水を握り込んだ。
「水位が下がり始めました!」
上階から報告が届く。
二号機を三段で維持し、一号機を停止させる。今度は二号機の吐出を使って一号機側を逆洗し、吸水格子の詰まりを除く。作業の手順はすでに職人たちが理解しており、理人が口を出す場面は急速に減っていった。
ガルドが一号機の停止音を聞きながら、理人の隣へ立つ。
「キャビ……何と言った」
「キャビテーションです」
「覚えにくい。砂噛みでいい」
「原因を区別できるなら、呼び方は何でも」
ガルドは髭に溜まった水を絞り、壁の水位計を見上げる。浮きは赤線から離れ、ゆっくり下へ戻っていた。
「お前、地上では何をしていた」
「プラント設備の研究と設計です。熱や化学反応を扱う工場で、ポンプや熱交換器の試験をしていました」
「地上王国の技師か」
「違います。もっと遠いところから、勝手に呼ばれました」
「それで捨てられた?」
理人は返答をためらう。昇降機の綱が焼かれていた以上、事故ではない。しかし、なぜ自分が殺されかけたのかについては推測しか持っていなかった。
「戦える能力がなかったからだと思います」
「それだけなら、地上で荷物でも運ばせればいい」
ガルドの指摘は、理人も考えないようにしていた部分へ触れる。
「魔法で出した熱が、どこへ行くのか尋ねました」
老人の片眼鏡が、かすかに光を反射する。
「誰に」
「神務卿セヴランという人です」
ガルドの手が髭の途中で止まった。
エルナも会話を聞いていたらしく、離れた場所からこちらへ視線を向けている。
「その名を、ここで軽々しく口にするな」
ガルドは周囲の職人を確かめてから、声を落とす。
「どうしてですか」
「知らないなら、いまは知らないままでいろ。お前が本当に異界から来たのか、地上が送り込んだ間者なのか、それすら決まっていない」
「間者なら、ポンプを止めようとはしないでしょう」
「信用を得るために一つ直し、あとで十壊すかもしれん」
反論しようとして、理人はやめた。
地上王国で同じことを言われれば、理不尽だと感じただろう。だが、自分を殺そうとした者たちと、この地下王国が敵対している可能性は高い。疑うなと言える立場ではない。
「では、どうします」
「まず、お前を王都へ連れていく。本来なら牢へ入れ、審問官へ渡す」
ガルドは動き始めた二基のポンプへ目を向ける。
「だが、その前に見せたい設備がある。今日と同じ音がしている機械が、ほかにもあるのでな」
「何基ですか」
「数えたことはない」
ガルドが歩き出し、理人はその背中を見送った。
問いの意味を理解するまで、少し時間がかかる。数えられないほど多いのか、数えることを諦めたのか。どちらにせよ、この揚水所だけで終わる話ではない。
エルナが隣へ来て、理人の右脚へ目を落とす。
「今夜は休ませる。これ以上歩かせれば、治療した者に私が怒られる」
「牢で?」
「少なくとも、下層街が沈まなかった礼に、寝台くらいは用意させる」
理人は返事をせず、揚水所の入口から外を見た。
水路の水位は下がり始めている。避難していた住民たちはまだ戻らず、空になった下層街の灯りだけが、水面に細長く揺れていた。その上を無数の配管が横切り、熱流眼には、場所ごとに異なる色と速さを持つ流れとして映っている。
一つのポンプを動かしただけで、見える異常が減ったわけではない。
むしろ正常な流れを知ったことで、街の至るところに滞留している熱や、途切れかけた圧力の筋が目につくようになっていた。どれが今夜壊れ、どれが一年持つのか、まだ区別すらできない。
理人は目の奥に生じた痛みをこらえ、地の底に広がる王国を見続けた。




