第二話 地の底の灯
「岩そのものが透けて見えるわけじゃない」
理人は女の肩を借りたまま答えた。脇腹を庇うせいで呼吸が浅い。長く話せば、それだけ声の震えを隠しにくくなる。
「見えるのは熱の差と、圧力が動く方向です。さっきの壁の奥には、周囲より熱いものがあった。坑道側へ圧力が集中していたから、破れる可能性があると思いました」
「分かるように話せ」
「何が熱いか、どちらへ流れようとしているか。それだけです」
「それだけで、あれが起きると分かったのか」
「今回は」
理人は白い蒸気に塞がれた坑道へ目を向けた。熱水が流れ込んだ区画では、赤い熱がまだ複雑に渦を巻いている。最初の破裂で圧力の逃げ道ができただけで、岩盤内部の熱源まで消えたわけではないらしい。
「次も分かるとは限りません。岩の種類も、この土地の地下水も知らないので」
女の眉がわずかに動いた。断言しないことを不満に思ったのか、それとも別の理由か、理人には読めない。
「隊長、ここを離れるべきです」
額を切った兵士が、拾った兜を小脇へ抱えている。先ほど理人を地上の間者と呼んだ年嵩の男だった。
「二度目が来ない保証はありません。こいつの尋問も、詰所へ戻ってからでよろしいかと」
「珍しく意見が合ったな、ボルグ」
「私は最初から退避に反対していたわけでは――」
「歩ける者から第三隔壁へ向かえ。ダリオは先行し、監視所へ熱水噴出を報告。第四坑道と下層連絡路を閉鎖させろ」
若い兵士が返事をして駆け出した。残る三人も、周辺へ散った装備を拾い始める。命令から行動へ移るまでが速く、理由を尋ねる者はいない。
理人は肩を借りたままでいることが急に気まずくなり、女から離れようとした。右脚へ重心を移した途端、脛の傷が開き、膝から力が抜ける。
「無理に立つな」
「歩けます」
「さっきも聞いた」
女は理人の腕を自分の肩へ戻した。動かし方は遠慮がないのに、添えた手は負傷した脇腹を避けている。
「私はエルナ・ヴァイス。ヴァルグラート王国近衛騎士団、坑道巡回隊の副長だ。呼ぶならエルナでいい」
名乗ることが、この場所でどれほどの意味を持つのかは分からない。ただ彼女の中で、理人が「地上人」から、名前を交換してもよい相手へ変わったことだけは感じ取れた。
「近衛騎士が、坑道を巡回するんですか」
「地上では、王の椅子でも磨いているのか?」
「近衛と聞けば、王や宮殿を守るものだと思っていました」
「坑道が破られれば、その先に王都がある。なら、ここも宮殿の門と変わらん」
エルナは当然のこととして言い、理人を支えたまま歩き始めた。
王都。
閉鎖された坑道の先に、都市がある。
地下で武装した巡回隊と出会った以上、近くに生活圏がある可能性は考えていた。それでも、王国という規模までは想像していない。
セヴランは王都の地下に古代遺跡があり、調査隊が待っていると話した。ここに別の国があることを知らなかったのか、それとも承知したうえで理人を落としたのか。
後者なら、殺すだけでなく、死体が落ちる先まで選んだことになる。
考えがそこへ及び、エルナの肩へ預けた腕が強張った。
「どうした」
「何でもありません」
「地上人は、何でもないときに死人のような顔をするのか」
返事に詰まり、理人は足元へ意識を戻した。
坑道は緩やかに下りながら、左へ曲がっている。壁面には一定の間隔で青い鉱石灯が埋め込まれ、その周囲だけ岩が温まっていた。灯りから生じた熱は天井へ昇り、細い溝へ吸い込まれていく。換気を意図した構造なのだろう。
《熱流眼》を意識すると、通常の視界へ色の濃淡が重なった。
エルナの首筋と指先は橙色に見え、鎧に覆われた部分は外気に近い暗い色をしている。歩いたあとには靴底の熱が足跡として残り、時間とともに輪郭を失っていった。
使える力ではある。ただ、見える情報が多すぎた。
頭上へ逃げる体温、岩壁の奥を流れる地下水、鉱石灯から漏れる熱、兵士たちの呼吸。意識を向けたものがすべて色と動きを持ち、互いに重なり合う。どこまで見るべきで、何を無視してよいのか分からない。
数分もすると、目の奥に鈍い痛みが生じた。
理人は一度目を閉じる。瞼の裏にも、赤と青の残像が残っている。
「目を負傷したのか」
「使い方が分かっていないだけです。たぶん」
「役に立つ力なら、使い方を書いた札も一緒についてきそうなものだが」
「説明書はありませんでした」
冗談のつもりではなかった。エルナの口元がわずかに動いたように見えたものの、確かめる前に横を向かれてしまう。
前方に、坑道を塞ぐ金属扉が現れた。
高さは三メートルを超え、周囲の岩盤へ深く埋め込まれている。中央には大きな円形ハンドルがあり、左右へ延びた金属棒が壁内の閂へつながっていた。表面には緑青と黒い腐食跡が浮いている。
「第三隔壁、開門!」
エルナが声を張ると、扉の向こうから短い鐘が二度返ってきた。内部で歯車が動き、中央のハンドルがゆっくり回り始める。
扉の隙間から流れてきた空気に触れ、理人は足を止めた。
炭と油、それに発酵した菌類のような臭いが混じっている。坑道側より温かく、湿度も高い。自然洞窟の空気ではない。大勢の人間が暮らし、火を使い、何かを生産している場所の臭いだった。
「どうした。歩けないのか」
「この扉は、熱水を止めるためのものですか」
「それもある。坑道から魔物が入ったときにも閉める」
「閉め切ったら、こちら側に残った人は?」
エルナは開きつつある扉の隙間を見た。
「戻れない」
声の調子は変わらなかった。その答えを口にした回数までは分からないが、初めてではないのだろう。
隔壁の向こうには監視所があり、十人ほどの兵士が詰めていた。
熱水噴出の報告を受け、壁から坑道図を外す者、鐘を鳴らす者、閉鎖区画を木札へ書き込む者が動き回っている。理人の姿を見た途端、その手がいくつも止まった。
「地上人?」
「なぜ、ここに」
「詮索は後だ。治療のできる者を呼べ」
エルナが理人を木製の長椅子へ座らせる。駆け寄ってきた若い男は、鎧ではなく革の前掛けを着けていた。腰の袋から布と小瓶を取り出し、脛の傷を確かめる。
「洗います。少し染みますよ」
小瓶の液体が傷へ触れた途端、焼けるような痛みが走った。
「少し?」
「泣かなかったので、少しです」
男は真顔のまま答え、手際よく布を巻いていく。薬液には強い酒精臭と、樹脂に似た甘い香りがあった。消毒に使うものだろうが、成分も濃度も分からない。異世界へ来て最初に身体へ入る薬品が、正体不明の液体になるとは思わなかった。
痛みから気を逸らすため、理人は監視所の設備を眺めた。
天井近くには太い配管が三本通り、壁の奥へ延びている。一番上は熱く、中央は人肌程度、下の一本だけが冷たい。温水、排気、給水。用途を考えているうちに、上段の継ぎ手から細い熱の筋が漏れていることへ気づいた。
「上の配管、漏れてます」
治療中の男が顔を上げる。
「何がです?」
「中身までは分かりません。あの継ぎ手の右側から、熱が外へ逃げてる」
理人が指すと、男は椅子へ上がった。配管へ耳を寄せ、手を近づけ、爪先ほどの湿った跡を見つける。
「本当だ。蒸気管から少し」
監視所の者たちが理人を見る。
先ほどまでの敵意とは違うものが、その視線に混じっていた。能力を示せば扱いは変わる。王城で望んでいたはずの変化なのに、セヴランの顔を思い出すと、価値を認められることが安全につながるとは思えなかった。
「応急材を巻いておけ。交換は交代班が来てからだ」
エルナは配管を見上げ、それ以上の反応を見せなかった。
「立てるなら来い。お前の扱いを決める者のところへ連れていく」
「牢ではなく?」
「希望するなら用意させる」
「ほかの選択肢を見てからにします」
治療を終えた男に礼を言い、理人は長椅子から立ち上がった。右脚へ体重をかけると痛むものの、歩けないほどではない。脇腹はむしろ、座っていた間に固まり、身体を伸ばす方がつらくなっている。
監視所の奥にある、もう一枚の扉を抜ける。
坑道の圧迫感が薄れ、遠くから金属を打つ音と、多数の話し声が届いてきた。
通路の先は、岩壁から張り出した露台になっている。
その縁まで進んだ理人は、足の痛みを忘れて立ち尽くした。
巨大な空洞が広がっていた。
対岸の壁は遠く、天井は青い闇へ溶け、鉱石灯の光では全体を照らしきれない。岩壁には何層もの街路が刻まれ、石造りの建物が階段状に並んでいる。窓から漏れる橙色の灯が、高さの異なる帯となって空洞を囲んでいた。
中央には黒い湖があり、そこから何本もの太い水路が市街地へ延びている。湖岸には歯車と煙突を備えた施設が集まり、周期的な機械音が空洞全体を低く震わせていた。
美しいと感じるより先に、理人の目は設備の状態を拾う。
天井近くを横切る配管の一部だけが異常に熱い。湖岸の施設から出た排気は上昇途中で滞留し、空洞上部へ大きな熱溜まりを作っている。街区ごとの温度差も大きく、下層の一角は周囲より冷え、灯りの数まで少なかった。
都市全体が、一つの巨大な設備に見えた。
どこか一か所が故障しているのではない。長い間、応急処置を重ね、本来なら止めて直すべきものを、止められないまま動かし続けている。
勤務先に残っていた古い実証設備を思い出す。予算がつかず、交換部品も届かず、現場の工夫だけで延命していた装置。似ているのは規模ではなく、傷み方だった。
「初めて見るか」
隣へ立ったエルナが尋ねた。
「地下に都市があるとは聞いていませんでした」
「地上人は、石の下を空だと思いたがる」
「何人が暮らしているんですか」
「前回の人口調査では、三万一千六百八十二人」
理人はもう一度、空洞を見渡した。
三万人。
セヴランがこの都市を知っていたなら、理人一人を殺すためだけに落としたわけではないのかもしれない。《熱流眼》がこの場所へ届くこと自体を避けたかった可能性もある。
考えが大きくなりすぎているとも思う。王国側には、役立たずを処分するだけの単純な事情があったのかもしれない。どちらにせよ、判断するには材料が足りなかった。
低い鐘が鳴った。
空洞の壁を伝い、腹へ響く音が三度。短い間を置いて、さらに二度続く。
エルナの表情が変わる。
「下層排水所だ」
露台へ続く階段を、全身ずぶ濡れの男が駆け上がってきた。灰色の作業服には泥がこびりつき、左手の手袋を失っている。
「副長! 第七揚水所、二号機が停止。一号機も吐出が半分まで落ちています。南水路の水位が第二標を越えました」
「作業員は」
「全員退避済みです。ただ、下層街へ水が回り始めています。このままなら、一刻もせず染料区画まで届きます」
「停止原因は」
「分かりません。吸水管を満たして再起動しても、石を噛んだような音がして圧が上がらない。回すほどひどくなります」
理人は男の説明へ反応した。
「水温は?」
濡れた男が、初めて理人の存在に気づく。
「誰だ、こいつ」
「普段より温かいですか。それとも、いつもと同じ?」
「副長、地上人がなぜ――」
「質問に答えろ」
エルナに促され、男は不審そうな目を理人へ向けたまま答える。
「温かい。南坑道から熱水が入ったせいで、いつもの倍はある」
「吸水管から、金属へ小石を当てるような音が聞こえませんか」
「石を噛んだ音だと言っただろう」
装置を見なければ断定できない。ただ、高温になった吸水、上がらない圧力、砂利を噛んだような連続音には覚えがあった。
吸水側の圧力が下がり、水が局所的に沸騰しているのかもしれない。生まれた気泡が羽根車の内部で潰れれば、砂利を巻き込んだような音が出る。地球のポンプと同じ原理で動いているなら、キャビテーションの可能性がある。
そこまで考え、理人は口を閉じた。
先ほどの警告で人が助かった。その直後だからこそ、周囲は理人の言葉を必要以上に信じるかもしれない。報告だけで原因を決めつければ、別の故障を見落とす。
「何か分かるのか」
エルナが尋ねた。
「水が、機械の中で沸いている可能性があります」
濡れた男が眉を寄せる。
「火なんか使ってないぞ」
「火がなくても水は沸きます。圧力が下がれば」
「さっきはいつ破れるか分からないと言っていたのに、今度は見てもいない機械のことが分かるのか」
「原因を一つに決めたわけじゃありません。条件が似ているだけです」
「直せるか?」
エルナの問いへ、すぐ頷きたい自分がいた。
役に立つと証明できる。牢ではなく、技術者として扱われるかもしれない。セヴランに捨てられた直後でさえ、その欲求は消えていなかった。
だからこそ、理人は一度呼吸を置く。
「見てもいない装置を、直せるとは言えません。原因を調べることならできます」
エルナは数秒、理人の顔を見ていた。答えを値踏みするというより、どこまで任せてよいか測っている目だった。
「なら、調べろ」
「僕を信用するんですか」
「していない。だが、お前の目が使えることは確認した」
エルナは濡れた作業員へ向き直る。
「第七揚水所へ戻る。技師組合長にも知らせろ。二号機は、私が着くまで動かすな」
「止めれば水位が――」
「壊せば二度と動かせん。走れ」
作業員が階段を駆け下りる。
エルナもあとを追おうとしたが、理人の足を見て歩調を緩めた。
「ついてこられるか」
治療を受けたばかりの脚は、脈打つように痛んでいる。身体は休息を求めていた。安全な場所で事情を聞き、食事を取り、状況を整理したい。得体の知れない機械の故障へ近づくことが、身体のためになるはずもない。
それでも、遠くから響く鐘を聞きながら、下層街へ水が流れ込む様子を想像すると、ここへ残るとは言えなかった。
「走るのは無理です。急ぎ足なら」
「十分だ」
階段を下り、湖岸の施設へ向かうにつれて、空気はさらに湿り気を増した。
下層へ続く通路では、住民たちが逆方向へ移動している。道具箱を抱えた職人、子供の手を引く母親、荷車へ商品を積む商人。狭い坂道で互いの肩をぶつけながら、上層を目指していた。
理人は壁へ身を寄せ、彼らを先へ通す。
買い物袋を抱き締めていた女性の姿が記憶へ戻った。彼女は王城の部屋にいるはずだ。五歳の娘を残したまま、いま何をしているのだろう。理人には助ける方法がない。
目の前を通り過ぎる地下の人々についても、まだ何も知らない。名前も、暮らしも、地上との関係も分からない。
ただ、浸水が迫っていることだけは分かる。
第七揚水所は、湖岸から一段低い窪地に建っていた。
入口から水が流れ出し、階段の半ばまで濡らしている。内部では二基の巨大な機械が並び、一号機だけが不規則な振動を繰り返していた。
形は、理人の知る遠心ポンプに近い。
太い吸水管が床下から立ち上がり、渦巻き状の胴へ接続されている。反対側には吐出管が伸び、頭上の水路へ向かっていた。羽根車を回す軸の先には、青い鉱石を幾重もの金属環で囲んだ駆動部がある。
作動原理までは分からない。それでも、水を吸い上げて羽根車で加速し、圧力へ変える構造なら、地球のポンプと大きくは違わない。
運転中の一号機から、砂利を鉄板へ叩きつけるような音が続いている。
停止した二号機の周囲には作業員が集まり、蓋を開けるための工具を準備していた。中央にいる大柄な男だけが、濡れた床へ膝をつかず、腕を組んで機械を睨んでいる。
白髪交じりの髭には油が染み込み、片目には透明な鉱石板を何枚も重ねた器具をつけていた。
「組合長」
エルナの呼びかけに、男が振り向く。
「二号機は止めたままだ。一号機も長くはもたん。そいつが、岩壁の破裂を見抜いた地上人か」
「宮坂理人だ。揚水機の中で水が沸いている可能性があると言っている」
男の視線が、理人の作業着から包帯を巻いた脚へ移る。怪我人として気遣う様子はない。代わりに、泥の付着した安全靴と作業着の縫い目を、時間をかけて確かめていた。
「ガルド・バルガス。この国の技師組合を預かっている」
名乗っても、手は差し出さない。
「お前は技師か」
「化学プラントの研究開発をしていました」
「何を作る技術だ」
「液体や気体を、温度と圧力を管理しながら扱う技術です」
「水車職人ではない」
「違います」
「揚水機を直した経験は」
理人は一号機の音を聞く。答え方を選べば、少しは頼れそうな人間に見せられるかもしれない。しかし、ここで知ったふりをすれば、実物へ触れた時点で露見する。
「同型のものはありません。似た原理のポンプなら扱いました」
「似ているだけか」
「いまのところは」
ガルドは鼻を鳴らし、運転中の一号機へ顔を向けた。
「水が沸いていると言ったな」
「可能性がある、と言いました」
「言い方はどうでもいい」
機械がひときわ大きく震えた。配管の内側で硬いものが弾けるような音が重なり、継ぎ手から濁った水が飛ぶ。作業員の一人が反射的に顔を背けた。
ガルドは飛沫を袖で拭い、理人へ向き直る。
「水が沸いているというなら、どうすればこいつを壊さず、街も沈めずに済むのか。そこまで話してみろ」




