第一話 岩の向こう
宮坂理人の右手は、そこにあるはずの非常停止ボタンを押し損ねた。
伸び切った指先が空をかき、前へ出た身体を安全靴の踵でどうにか支える。靴底から返ってきたのは、試験棟の鋼製グレーチングではない。磨かれた石の、硬く滑らかな感触だった。
警報が消えている。
高圧ポンプの振動も、背後で運転員が読み上げていた圧力値も聞こえない。鼻の奥には焼けた保温材と機械油の臭いが残っているのに、白い蒸気を噴いていた試験配管はどこにもなかった。
理人は右手を上げたまま、周囲を見回す。
最後に見た圧力計の針は、警報設定値の手前で細かく振れていた。配管の継ぎ目から蒸気が漏れ、理人は試験中止を判断してボタンへ手を伸ばした。その指が届いたのか、届く前にここへ移されたのか、記憶は一秒にも満たない箇所で途切れている。
止められなかったかもしれない。
右手を下ろすと、指先がわずかに震えていた。周囲から聞こえるのは、浅い呼吸と衣擦れ、それに誰かが歯を鳴らす音。試験棟へ戻る手がかりはない。
「触らないで!」
女の声が、高い天井へ跳ね返った。
買い物袋を提げた女性が、制服姿の少年に腕をつかまれている。転びかけたところを支えられたらしい。袋から長葱が一本こぼれ、白い床を滑っていった。
「違う、転びそうだったから」
少年はすぐ手を放し、何も持っていない両手を胸の前へ上げた。女性は礼も言わず、買い物袋を抱き寄せる。少年を疑っているというより、見慣れた物を身体から離したくないのだろう。
理人も作業着を探った。胸ポケットには油性ペンと小さなメモ帳、腰には財布と鍵。試験前に時刻を確認したスマートフォンも入っていたが、電源ボタンを押しても画面は黒いままだった。
測定器も工具もない。紺色の作業着に耐熱ジャケット、安全靴。高圧試験の現場から、人間だけを抜き取ったような格好である。
周囲には六人いた。
制服姿の少年、買い物袋の女性、スーツを着た男、白衣姿の若い女、ジャージ姿の大男、それからスマートフォンを握った大学生くらいの青年。年齢も服装もばらばらで、互いの顔を見ても知人を見つけた反応はない。
誰かが撮影か何かだと言い出せば、少しは楽になったかもしれない。ただ、理人には冗談を口にする余裕がなかった。笑ってしまえば、そのあと何を確認すればよいのか分からなくなる。
正面には三段ほど高くなった壇があり、金糸を織り込んだ衣服の男女が並んでいる。その周囲を白い法衣の老人たちが囲み、頭上では青白い火が等間隔に浮かんでいた。
燃料も支持具も見えない。炎だけが空気の動きに合わせ、細く身をよじっている。
床には幾何学模様が刻まれていた。溝の内側で淡い光が衰え、ところどころに髪ほどの亀裂が走っている。
理人の視線は、自然とその亀裂を追った。人の表情より、傷んだ構造物の方がまだ見方を知っている。
「成功した……七人も」
法衣の老人が呟く。
耳に入った音には、知っている単語が一つも含まれていなかった。それなのに意味だけは、日本語と変わらない速さで頭へ届く。音と理解のずれへ気づくと、背中に汗が浮いた。
壇上の男が一歩進み出る。
五十歳には届かないだろう。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、右手には青い石の指輪。穏やかな顔立ちをしているが、理人たちを見る視線には、到着した品物の数と状態を確かめるような慎重さがあった。
「異界よりお越しくださった勇士の皆様。突然の召命を、どうかお許しいただきたい」
異界。召命。勇士。
言葉ごとの意味は理解できても、一つの状況としてはうまく結びつかない。
理人は左手首へ指を当てた。脈は速いが、間隔は揃っている。薬物による幻覚、集団催眠、撮影用の施設。思いついた可能性を並べてみるものの、どれも目の前の青い火と、意味だけが伝わる言葉を説明できなかった。
「召命って、何ですか」
買い物袋の女性が前へ出る。床の長葱を踏みかけ、寸前で足を止めた。
「ここ、どこなんですか。私、買い物の途中で……娘が家にいるんです。まだ五歳で、一人で待ってるんです」
娘という言葉に、理人は両親を思い出した。
週末に帰ると連絡したまま、三週間顔を見せていない。母親から来た催促にも、仕事が忙しいからまた今度、と短く返した。成人した息子が一人いなくても両親は生活できる。そう考えた直後、自分を安心させるために、五歳の子供と両親を比べていることへ気づいた。
胸ポケットのメモ帳を握る指に力が入る。
壇上の男は女性ではなく、床へ落ちた長葱を見た。ほんの一拍。それから、相手をなだめるように両手を広げる。
「ご心痛はもっともです。神殿は皆様を見捨てません。使命を終えられた暁には、必ず故郷へお送りするとお約束しましょう」
「いつ終わるんですか」
「まずは事情をご説明いたします」
声は柔らかく、言葉も整っている。ただし、女性が尋ねたことには答えていない。
理人の勤務先にも、同じ話し方をする管理職がいた。会議を荒らさず、約束もせず、相手が諦めるまで丁寧な言葉を重ねる人間だ。
女性はさらに問い詰めようとしたが、制服姿の少年が長葱を拾って差し出した。彼女は黙って受け取り、萎れかけた葉先を親指で撫でる。
ここはアルディア大陸西部のルドニア王国。北方で魔物が増え、国境近くの町がいくつも失われたため、王国は女神の神託に従い、異なる世界から勇士を招いた。
壇上の男の説明を要約すれば、そういうことだった。
「異世界召喚ってやつか」
制服姿の少年が呟く。
スマートフォンを握った青年は「マジかよ」と笑ったものの、誰も応じなかったため、すぐ画面へ目を落とした。圏外らしく、何度か指を滑らせたあと、電源ボタンを長押ししている。
理人には笑えなかった。
集団誘拐なら、これほどの施設と人員を用意する目的が見えない。空中の炎も、言語の問題も説明できない。だからといって、異世界という言葉一つで疑問を片づける気にもなれなかった。
理解できないことが多いなら、分かる範囲を切り分けるしかない。
試験設備に異常が出たときも、そうしてきた。
あの白い蒸気は止まったのか。自分が消えたあと、誰かが非常停止を押したのか。漏れた流体は可燃性の区画へ達していないか。確かめる手段がないまま、悪い想像だけが条件を変えて繰り返される。
「帰還方法を確認させてください」
スーツ姿の男が言った。声を荒らげてはいないが、身体の前で組んだ手は、指の関節が白くなるほど強く握られている。
「使命を終えれば帰れる、ではなく、どのような方法で帰すのか。すでに成功した例はありますか」
壇上の男は、青い指輪を親指で撫でた。
「皆様に女神の恩寵が宿っていれば、帰還の道もまた開かれます。まずは、その確認を」
また、答えを横へ滑らせる。
理人は指輪へ目を留めた。石の奥を青い光が巡っている。答えにくい質問を受けたときだけ触れる癖なのか、指輪自体に何かの機能があるのか。まだ判断はできない。
左右の神官が、布をかけた台を運んできた。
布の下から現れたのは、両腕で抱えるほどの透明な結晶だった。内部には煙に似た光が漂い、近づいた神官の指先へ引かれるように揺れている。
最初に触れた制服姿の少年のとき、結晶は白く輝いた。
「《剣聖》。特級恩寵です」
神官の声が上ずる。
広間を満たしていた警戒が、別の熱を帯びた。槍を構えていた兵士たちが膝をつき、壇上の者たちも身を乗り出す。少年は掌を結晶へ載せたまま、自分が何をしたのか分からない顔で背後を振り返った。
白衣の女には《聖癒》。ジャージ姿の男には《金剛》。
スマートフォンの青年に《炎帝》が現れ、結晶が赤く染まると、青年の肩から目に見えて力が抜けた。
「炎帝って、強いやつですか」
「王国の歴史にも、数えるほどしか現れておりません」
「そっか。じゃあ、まあ……何とかなるか」
誰に向けたのでもない呟きだった。
その安堵が、理人には少し羨ましかった。強い力があれば帰還できると決まったわけではない。それでも、自分はただ連れてこられただけではなく、ここで何かを選べるのだと思えるのだろう。
買い物袋の女性には《豊穣》、スーツ姿の男には《統率》が与えられた。二人とも喜びはしなかったが、王国側から失望されなかったことへ、わずかに肩の力を抜いている。
理人の順番は最後だった。
結晶へ触れると、掌に生温いものがまとわりつく。内部の煙が集まりかけ、橙色に二度、三度と明滅した。剣聖や炎帝の輝きとは比べようもない。試験装置の表示灯なら、まず接触不良を疑う光り方である。
神官が結晶の底を覗き込み、浮かんだ文字を指でなぞった。
「ミヤサカ・リヒト。恩寵は《熱流眼》」
広間は静かなままだった。
「等級は」
壇上の男が尋ねる。
「測定不能です。ただ……熱の高低と、圧の流れを視覚として捉える力のようです」
「戦闘への転用は?」
「記述がございません」
炎帝の青年が肩をすくめた。
「温度計か。工場の人には似合ってるけど」
悪意より、自分は当たりを引いたと確かめたい響きの方が強い。それが分かるぶん、理人は言い返せなかった。
熱と圧力を見る。神官の説明どおりなら、温度計という評価はさほど間違っていない。ただ、知らない人間に数秒で自分の価値を決められたことが、皮膚の内側へ小さく引っかかった。
十七で大学へ飛び入学したときも、三年で卒業したときも、周囲は理人へ何かを期待した。期待されることを煩わしく思い、普通に扱ってほしいと何度も願ったくせに、最初から何も求められないと落ち着かない。
自分はもっと使える。
そう証明したくなっていることを認める方が、笑われたことより居心地が悪かった。
「魔法で発生した熱も見えるんですか」
神官は怪訝そうに眉を寄せる。
「恩寵を得たのはあなたです。私に尋ねられても分かりかねます」
「そうですね。質問を変えます」
理人は頭上の青い火を指した。
「これは、火の魔法ですか」
壇上の男が代わりに答える。
「神殿へ魔力を供給する霊脈から力を引き、灯火へ変えている」
「使った魔力は、全部この光と熱になるんですか」
「何を聞きたい?」
「収支です。光にならなかった分や、周囲へ出た熱はどこへ行くのか。別の場所から熱を移しているなら、移された側は冷えるはずだし、魔力そのものが変化するなら、使ったあとに何が残るのか知りたい」
神官の一人が露骨に顔をしかめた。
「女神の御業を、異界の尺度で量るつもりか」
「量れるかどうかを確かめたいんです」
言いながら、いま優先すべき質問ではないと分かっていた。帰還方法も、この国の状況も、自分たちの扱いも曖昧なままである。それでも、入力と出力が合わないものを前にすると、理人は問いを後回しにできなかった。
舌の裏に、古い金属の味が蘇る。
勤務先の試験棟。焦げた保温材と床を流れた透明な液体。警報値は超えておらず、誤差の範囲内だと結論づけられた会議で、理人は最後まで試験中止を押し通せなかった。
二週間後、先輩が右腕に火傷を負った。
誰も理人を責めなかった。若手一人の判断で止められる状況ではなかったと、むしろ慰められた。その言葉へ頷くたび、事故の前に覚えた違和感まで、自分でなかったことにしているような気がした。
「リヒト殿」
壇上の男に名を呼ばれ、理人は顔を上げる。
「私は神務卿セヴラン。この召命を預かる者だ。あなたの世界に魔法が存在しないことは承知している。我々も、異界の学問を軽んじるつもりはない」
穏やかな返答だった。否定されてはいない。ただし、熱の行き先には一言も触れていなかった。
ここで食い下がれば、扱いづらい人間と思われる。すでに役に立たないと判定されたうえ、協調性まで疑われたくはない。使える人間だと認めさせたい気持ちが、かえって舌を押さえ込んだ。
「分かりました」
頭を下げる。
また黙った、という声が、胸の内側に残った。
セヴランは神官の手元を覗き込み、《熱流眼》と記された箇所を確かめている。右手の指輪を回す動きは、先ほどより速かった。
*
ほかの六人には王城内の居室が用意され、翌日から訓練が始まるという。
理人だけは、その日のうちに地下施設の調査を命じられた。
「地下なら、熱を見る力が役立つということですか」
「王都の下には、建国以前の遺構が眠っている。技師たちも調査を続けているが、内部には作動原理の分からぬ装置が多い」
廊下を進むセヴランは、理人に歩調を合わせようとしなかった。左右には槍を持った兵士がつき、少し先を法衣の男が歩いている。
仕事を与えられた。その事実に安堵していることを、理人は認めたくなかった。
戦えないなら設備を見る。能力に応じた配置であり、厄介払いとは限らない。未知の装置があるという話にも興味を引かれる。役に立つ機会を与えられたのなら、拒む理由はない。
そう考えるたび、足元にある違和感を、自分から意識の外へ押しやっている気がした。
「調査隊は下にいるんですね」
「そう聞いている」
誰から、と尋ねかけてやめる。
細かいことばかり訊けば、また面倒な人間だと思われる。その恐れが判断へ混じっていると気づきながら、理人は歩き続けた。
渡された革鞄には、水筒、固いパンが三つ、小型のランタンが入っている。日帰りなら食糧が多く、泊まりなら装備が足りない。地図も、調査用の筆記具も、保護具さえ入っていなかった。
疑う理由を探しているだけかもしれない。
笑われた直後だから、悪い方へ考えているのではないか。
階段を下りるほど、そう言い聞かせるのは難しくなった。壁を飾っていた彫刻が消え、磨かれた床も、やがて湿った岩へ変わる。油と錆の臭いが濃くなり、左右にいる兵士は一度も理人と目を合わせなかった。
最下層には、巨大な縦穴が口を開けていた。
内壁に二本の金属製レールが走り、その間へ鉄の昇降箱が吊られている。巻上機には歯車と発光する鉱石が組み合わされ、軸受から黒い粘液が垂れていた。
理人は足を止める。
設備を見たことで、形のなかった不安に輪郭ができた。左右のブレーキシューは減り方が違い、右側の軸受だけに黒い粉が付着している。巻上機全体も、水平に対してわずかに傾いていた。
現場でこの状態を見れば、まず使用を止める。最低でも無負荷試験。人を乗せるのは、そのあとだ。
「乗れ」
後ろの兵士が、槍の柄で理人の肩を押した。
「この昇降機、最後に点検したのはいつですか」
「何の話だ」
「軸がぶれている。ブレーキも片側だけ減ってます。先に無人で動かした方がいい」
兵士は装置を見ようともせずに答えた。
「動いている。問題はない」
奥歯に力が入る。
動いていることと、安全であることは違う。説明を始めれば長くなるし、言葉が通じている以上、相手には理解する気がないのだろう。
乗るべきではない。
頭では、はっきり分かっていた。ここで拒めばどうなるのかを考えた途端、足が動かなくなる。
戦えないうえ、命じられた調査にも行けない。王国に使い道がないと判断されれば、帰還について話し合う機会さえ失うかもしれない。
自分は役に立つと証明したい。その見栄が安全判断へ混じっている。
分かっていながら、理人は鉄箱へ足を踏み入れた。
内部は、大人四人が立てるほどの広さだった。壁には三本のレバーがあるものの、文字は摩耗して読めない。床の隅には赤黒い染みが残り、金属板の一部が腐食している。
セヴランは乗ろうとしなかった。
「下で技師が待っている。装置には、彼らの許可なく触れぬように」
「調査が終わったら、これで戻るんですか」
「迎えを寄越す」
「いつ頃になります?」
セヴランの視線が、理人の肩越しにある巻上機へ移る。
「長くは待たせない」
鉄格子が閉じられ、その言い方だけが耳に残った。
誰を、何のために待たせないのか。
問い返そうとしたときには留め金が下り、歯車の噛み合う音とともに昇降箱が沈み始めている。
開口部に立つセヴランの姿が遠ざかった。十メートルほど下りると、王城側の明かりは円形に切り取られ、さらに進めば手のひらほどになる。
理人は上を向いたまま、戻せと叫ぶべきか迷っていた。いまなら、まだ声が届くかもしれない。
ただ、何を根拠に止めさせるのか。食糧の量がおかしい。設備の状態が悪い。セヴランの言い方が曖昧だった。どれも疑いであって、危険を断定できる測定値は一つもない。
確証がない。
その言葉を、理人は何度も使ってきた。慎重であるためにも、判断を先へ延ばすためにも。
レールの継ぎ目を車輪が踏むたび、箱が左右へ揺れた。間隔は一秒半ほど。降下速度から考えれば、継ぎ目は三メートル前後だろう。数を数え、構造を考えている間だけ、引き返さなかった自分への疑いを脇へ置ける。
十二回目の振動を数えたところで、焦げ臭さが混じった。
見上げる。
箱を吊るす綱の一部が、橙色に浮かんでいた。
実際に発光しているわけではない。細い繊維の一本一本が、周囲より高い温度として見えている。熱は同じ箇所へ集中し、油を染み込ませた綱へ、上から火をつけたような分布を作っていた。
恐怖より先に、納得が来る。
やはり、自分の疑いは正しかった。
その事実に安堵しかけたことへ気づき、胃の奥が冷えた。殺されようとしているのに、自分が間違っていなかったことを喜んでいる。
理人が壁のレバーへ手を伸ばしたとき、頭上から短い破裂音が聞こえた。
身体が浮く。ランタンが天井へぶつかり、青い光を回転させた。
昇降箱が落下を始める。
床へ膝を打ちつけながら中央のレバーをつかむが、錆で固着して動かない。死という言葉が頭へ浮かんだあと、両親へ連絡しなかったこと、試験設備を止めきれなかったこと、セヴランへ問いたださなかったことが、順序もなく押し寄せてきた。
いま考えることではない。
左のレバーは巻上機への信号。右は扉。中央だけが、箱の外側へ伸びた連結棒につながっている。
非常制動だと断定できる材料はそれしかない。それでも、迷っている時間は残されていなかった。
両足を壁へ突っ張り、レバーを両手で握る。腕では動かない。膝を曲げ、腰を落とし、全身の重さを後ろへかけた。
固着した軸が、耐えかねたように回る。
箱の左右から、金属を削る音が噴き上がった。制動爪がレールへ食いつき、火花と熱が線になって視界を流れる。
落下速度はいくらか緩んだものの、箱は止まらない。爪が一本折れるたびに大きく跳ね、理人は右肩を壁へ叩きつけられた。次の衝撃では、肺から空気が抜ける。
最後に見えたのは、暗闇の中で広がった白い熱の輪だった。
*
口の中に鉄の味が広がっている。
理人は頬を床へつけたまま、少量ずつ空気を吸った。右脇腹に痛みがある。深く吸うと増すが、片方の肺だけが膨らまない感覚はない。右脚の脛から血が流れているものの、足首も膝も動かせる。
一つずつ確かめている間だけ、自分の身体を他人の設備として扱えた。傷の位置、呼吸、出血、意識の濁り。点検を終えたところで、身体の震えが遅れて始まる。
帰れるという言葉を、完全に信じていたわけではない。それでも、与えられた仕事をこなせば、話し合いの席くらいには着けると思っていた。自分の知識が役立つと示せば、相手も相応に扱うはずだと期待していた。
正しい答えを出せば、相手も正しく応じる。
それを、相手の都合を確かめる前に信じてしまった。
鞄は肩に残っている。水筒の蓋が割れ、中身の半分ほどが床へ漏れていた。パンは潰れただけで食べられそうだが、ランタンは青い鉱石ごと砕けている。
灯りを失っても、完全な暗闇にはならなかった。
自分の手が黄色と橙色の濃淡で浮かんでいる。指先から逃げた熱は細い糸となって冷たい床へ吸われ、吐いた息は顔の前で広がり、緩やかに頭上へ昇った。箱の外から流れ込む空気は青く、その中に脈打つ圧力のむらまで見分けられる。
これが《熱流眼》なのだろう。
怖いと思う一方で、見続けたいという欲も湧いた。どこまで届くのか。固体の内部をどの程度透過するのか。温度差が小さい場合にはどう見えるのか。色を数値へ換算できれば、測定器として使えるのではないか。
殺されかけた直後に測定条件を考えている自分を、まともだとは思えない。それでも、この異常な視界だけが、いま手元にある道具だった。
理人は歪んだ鉄格子の隙間から外へ這い出した。
昇降箱は縦穴の底まで落ちたのではなく、途中へ張り出した岩棚に衝突している。非常制動がなければ、ここも通り過ぎていただろう。縦穴の下へは冷たい空気が沈み、視界の届かない深さまで流れ落ちていた。
頭上から垂れた綱の先を確かめる。
断面の中心部は黒く炭化し、周囲には油の焼けた跡があった。摩耗による断線ではない。自然発火とも考えにくい。誰かが燃えやすいものを染み込ませ、降下を始めてから着火したと見る方が筋は通る。
手袋へ付着した炭を見ているうちに、怒りが追いついてきた。腹の底へ重く溜まり、脇腹の痛みと区別がつかなくなる。
なぜ自分だったのか。
役に立たないからか。熱の行き先を質問したからか。ほかの六人は無事なのか。自分が落とされたことも知らされず、明日から訓練を始めるのだろうか。
炎帝の青年が、温度計と笑った顔を思い出す。彼を恨む理由はない。それでも、王城の安全な部屋にいる姿を想像すると、すぐには押し込められないものが残る。自分だけが外れだったという羞恥と、だから捨てられたのだという屈辱が、セヴランへの怒りへ混じっていた。
理人は綱から手を離した。整理するのは、生き延びたあとでいい。
岩棚の奥には横穴が続いている。青く見える空気が一定方向から流れている以上、どこか広い空間へ通じているはずだ。
残った水を確かめ、理人は右脚を引きずりながら歩き始めた。
脛の傷は足を着くたびに熱を持ち、脇腹を庇えば姿勢が崩れて壁へ肩をぶつける。助けがある保証はない。人がいたとしても、味方とは限らない。それでも、潰れた箱の中で待つより、自分で選んで進む方が耐えられた。
しばらくすると、複数の足音が聞こえてきた。
硬い靴底が岩を踏む音に、金属の触れ合う響きが混じっている。
人間とは限らない。
魔物という言葉を思い出し、足が止まる。引き返して隠れるべきか。声をかければ敵に居場所を知らせることになり、黙っていれば助けを得る機会を失う。負傷した状態で、土地勘のある相手から逃げ切れるとも思えなかった。
「誰かいるのか」
自分の声は思ったより弱く、岩壁へ吸われていく。
足音が止まった。
青い光が一つ現れ、続いて四つに増える。黒い金属鎧を着た一団が坑道の奥から姿を見せ、手にした短槍の穂先を理人の胸へ向けた。
人間だったことへ安堵し、武器を向けられたことで同じだけ後悔する。
先頭の女だけは剣を抜いていた。濃い藍色の髪を後頭部で束ね、左の眉には古い傷が走っている。ほかの兵士より軽装だが、彼女が指揮官であることは、後ろの者たちが一歩も前へ出ない様子から分かった。
「両手を見せろ」
低く、よく通る声だった。
理人は壁から手を離す。左手は上がったが、右は肩の痛みで胸元までしか届かない。
「武器は持っていない」
「地上の人間が、なぜ閉鎖坑道から出てくる」
地上人という呼び方に、ルドニア王国とは別の集団なのだと気づく。敵対関係にあるなら、召喚されたと話した時点で拘束されるかもしれない。
「上から落とされた。昇降機ごと」
兵士の一人が鼻を鳴らした。
「あれは百年前に死んだ昇降路だ」
「今日は動いた」
「ずいぶん都合のいい話だな」
女は笑わず、剣を理人へ向けたまま、背後の若い兵士へ顎を振る。兵士は理人の横を通り、落下した箱を確かめに向かった。
「名前は」
「宮坂理人。宮坂が姓で、理人が名前」
「所属を聞いている」
王国に召喚されたと正直に話すべきか、調査隊の一員だと偽るべきか。会社名を答えたところで意味はない。嘘をつけば、あとで必ず綻ぶ。
返答を迷っているうちに、視界の右端で色が動いた。
女たちの横にある岩壁は、表面こそ周囲と同じ青黒さを保っている。ところが、その奥には太い赤の流れがあった。高温の液体が岩盤内部で脈打ち、周囲へ熱を広げている。壁面へ向かう圧の線が一点へ集まり、脈動の間隔も少しずつ短くなっていた。
理人は口を開きかけ、閉じた。
ここで警告すれば、質問から逃げたと思われる。根拠を話すには能力の存在まで明かす必要がある。見間違いなら、わずかに残った信用も失うだろう。
温度差は見えても、数値は分からない。岩盤の厚さも材質も不明で、破壊までの時間を計算できる情報は何一つ揃っていなかった。
確証がない。
包帯を巻いた先輩の右腕が、記憶へ戻ってくる。
事故の前も、基準値を超えた測定結果はなかった。危険だと断定できる証拠がなく、理人は最後まで試験中止を主張しきれなかった。先輩は笑って、大丈夫だと言った。理人も、もう少し様子を見ましょうと答えた。
同じ状況ではない。ここで黙っても、誰も理人を責めない。素性を疑われ、武器を向けられている最中なのだから、自分の安全を優先して当然だ。
そう考えた直後、岩壁の赤い領域がひと回り広がった。
「そこを離れてくれ」
女の剣先がわずかに上がる。
「質問に答えろ」
「答える。その前に、右の壁から離れた方がいい」
兵士たちが槍を握り直し、若い一人だけが壁を振り返った。
「何がある」
「熱い液体だ。水だと思う。内部の圧力が上がってる」
「岩の中が見えるというのか?」
「温度と圧の流れだけだ。中身までは断定できない」
口にするほど、警告が歯切れの悪いものになっていく。それでも今回は、測定値が揃うまで待ちたくなかった。過去への償いで他人を危険へ巻き込むのは違う。それと同じくらい、黙る理由へ自分の保身が混じっていることも分かっていた。
「壁が破れれば、中身が噴き出す。高温の水なら、圧力が落ちた時点で一気に沸騰する。ここにいたら危ない」
「隊長、耳を貸す必要はありません」
年嵩の兵士が口を挟む。
「地上の間者です。拘束してから調べればよろしい」
「拘束は構わない。場所を変えてからにしてくれ」
自分の声が震えているか、理人には分からなかった。
強く言い切れば、根拠以上の確信があるように聞こえる。曖昧に言えば、誰も動かない。技術上の不確かさを保ったまま人を説得する方法を、理人は一度も教わってこなかった。
「いつ破れる」
女が尋ねた。
「正確には分からない。岩の厚さも強度も知らないから、二分かもしれないし、十分かもしれない。ただ、僕なら十分ある方には賭けない」
女は理人から視線を外し、壁へ近づいた。
籠手を外して岩へ指先を当てる。濡れた表面を親指で擦り、今度は耳の後ろを壁へ寄せた。
彼女まで巻き込んだらどうする。
理人の喉が狭くなる。警告したせいで、かえって危険な場所へ近づかせてしまった。止めるべきか迷ったものの、ここで慌てれば、彼女の判断を乱すだけかもしれない。
「昨日より温い」
女が壁から離れた。
「隊長」
「黙れ」
箱を確かめに行った若い兵士が戻り、理人から少し離れた場所で足を止める。
「昇降箱があります。潰れていますが、上から落ちてきたのは本当です」
女は籠手をはめ直した。
「第三隔壁まで退く。こいつも連れていけ」
「危険性は確認できておりません」
「だから、確認しても死なない場所まで下がる。残りたいなら止めんが、報告書には自分の判断で残ったと書くぞ」
年嵩の兵士は不満を隠さなかったが、それ以上は反論しなかった。
隊列が反転する。若い兵士が理人の左腕を取ろうとすると、女が押し退け、自分の肩へ回した。
「歩けるか」
「平らなら」
「ここに平らな道はない。足を動かせ」
女は理人の返事を待たずに進み始める。右脚を着くたび脛の傷が開き、脇腹の痛みも強くなった。彼女は理人が遅れるたび、何も言わず歩幅を半歩だけ縮める。
自分の警告を信じたわけではない。
壁の温度を確かめ、落下した昇降箱を見つけ、退避に必要な時間と、残った場合の危険を比べて決めたのだろう。
その違いが、理人にはありがたかった。
同時に、彼女が引き受けた責任の一部は、自分の言葉から生まれている。何も起きなければ、彼女は部下から判断を疑われる。理人だけが嘘つきとして処理されて終わるとは限らない。
一つ目の曲がり角を越えても、背後から異常音は聞こえなかった。
二つ目へ向かう間に、理人は何度も振り返る。赤い流れは岩壁に遮られ、もう見えない。
破裂しなければどうなる。
拘束され、尋問されるだろう。それでも、何も起きない方がいい。誰も傷つかず、自分が間違っていたと分かるだけなら、その方がいいはずだった。
一方で、警告が正しかったと証明されてほしい気持ちも消えてくれない。誰も傷つかず、それでいて自分の正しさだけは認められる。そんな都合のいい結果を待っている。
理人は唇の内側を噛んだ。
二つ目の曲がり角を越えたところで、足裏へ低い振動が届いた。
女も同時に立ち止まり、わずかに首を傾ける。坑道の天井から砂が落ち、濡れた肩へ細かな粒が当たった。
「伏せろ!」
女は理人の腕を自分の肩から外し、そのまま背中を押した。
轟音より先に、岩盤を伝わる衝撃が腹の内側を揺らす。理人の身体は濡れた地面へ投げ出され、次いで白い蒸気と砕けた石が、二つの曲がり角を回って坑道へ噴き込んできた。
熱気が剥き出しの頬を焼く。弾き飛ばされた兜が壁へ当たり、耳障りな音を立てた。
遅れて押し寄せた濁流は、曲がり角と傾斜に勢いを削られ、理人たちの靴を浸したあと、坑道脇の斜面へ流れ落ちていく。
理人は地面へ片腕をつき、咳を堪えながら呼吸を確かめた。
助かったという安堵と、予測が正しかったという満足が、区別できないまま同じ場所から湧き上がる。その満足へ触れれば、たったいま起きた災害を喜んでしまいそうで、理人は足元を流れる濁った水だけを見つめた。
女が退避を命じなければ、全員があの壁の前に残っていた。理人の言葉があと少し遅ければ、一つ目の曲がり角を越えたところで蒸気に追いつかれていたかもしれない。
能力が人を救った、とは思えなかった。
見えたものを伝えただけだ。その不完全な警告を受け取り、退避を決めたのは女だった。事故の前に言葉を口にできたことへの安堵はある。それで過去の失敗が消えるわけではない。
水音の向こうで小石が転がり、見えない深みへ落ちていく。
女は膝を起こすと、部下の名を一人ずつ呼び、返事と負傷箇所を確かめて回った。兜を失った兵士の額に浅い裂傷があるほかは、全員自力で動けるようだった。
最後に理人の前へ戻ってくる。
「立てるか」
「肩を借りれば」
差し出された腕をつかむと、女は脇腹を圧迫しないよう身体の向きを変え、理人をゆっくり引き上げた。先ほどより扱いは慎重だが、腰の剣へすぐ届く位置に右手を残している。命を救われたからといって、素性の知れない地上人を信用するつもりはないらしい。
理人も、その方が信頼できた。
女は手を離さず、蒸気に塞がれた坑道と理人の顔を交互に見る。岩の奥で何が起きたのか確かめたい警戒と、目の前の男をどう扱うべきか決めかねている迷いが、眉間の浅い皺に現れていた。
「リヒト」
今度は、地上人ではなく名前で呼ばれた。
そのわずかな変化を聞き取った途端、理人は自分がこの女にどう見られているのかを気にしていることへ気づく。数分前まで殺されかけ、いまも槍を向けられている立場なのに、役に立たない人間だと再び判断されることを恐れていた。
女の視線が理人の目へ定まる。
低い声が、水と蒸気の音を縫って届いた。
「お前には、岩の向こうが見えるのか」




