第十三話 匂いが消える場所
最初の整備会議は、南区画の報告へ入る前に中断された。
「旧選鉱場で人が倒れています!」
扉を開けた作業員は、敷居へ片手をついたまま息を切らしていた。顔色が悪い。額には汗が浮かんでいる。
会議室には各設備の責任者が十二人集まっていた。理人は末席に座り、読めない資料の説明をアーデルから受けていたところだった。
ガルドが椅子を蹴るように立つ。
「何があった」
「分かりません。三番槽の近くで卵が腐ったような臭いがして……見張りの二人が返事をしません。捜しに行った奴も、階段で吐いて戻ってきました」
理人の身体から眠気が消えた。
「臭いが強くなる前に離れたんですか」
作業員は息を整えながら頷く。
「途中から臭わなくなったので、中へ行けると思ったんです。でも急に目が痛くなって、足へ力が入らなくなりました」
「近づかない方がいい。臭いが消えたのは、安全になったからとは限りません」
椅子を引いた理人より早く、エルナが扉へ向かっていた。坑道巡回隊の二人に声をかけ、選鉱場付近の封鎖を命じる。
「リヒト。心当たりはあるのか」
「排液と槽の底に残っていた鉱石が反応した可能性があります。現場を見るまで決められませんが、硫化水素に似ている」
「リュウカスイソ?」
アーデルが聞き返す。
「腐った卵に近い臭いがする気体です。濃くなると鼻が利かなくなる。吸えば意識を失います」
「火は使える?」
「燃える濃度があります。油灯は持ち込まないでください」
ガルドは廊下へ出ると、工房へ走る職人へ指示を飛ばした。
「救難箱と送気具を出せ。灯りは冷光石だけにしろ。第五換気班にも知らせろ」
会議室に残った設備責任者たちへは、アーデルが持ち場へ戻るよう告げた。次の会議時刻は決めない。旧選鉱場の状態が分かるまで、排液系統へ触れないよう念を押す。
理人は机の上に広げていた図面を丸めた。
「お前は工房へ行け」
ガルドの声が飛んできた。
「現場へ行きます」
「怪我人を増やす気か」
「何が起きたか判断するには、槽の状態が必要です」
「足を引きずった化学屋に、倒れた人間を運べるのかと聞いている」
言い返せなかった。
設備を見ることと救助へ入ることは別だ。理人が中毒すれば、空気を送る人数も運び出す人数も余計に要る。
「入口までにします。中へは入りません」
「勝手に動けば縛って置いていくぞ」
ガルドはそれだけ言い、職人たちの後を追った。
理人が廊下へ出ると、フィアも検査箱を抱えてついてきた。箱の中で小瓶がぶつかっている。
「フィアは工房に残って」
「気体の検査が要ります。銀糸なら鉱毒に反応しますから」
「倒れた人がいる場所だよ」
「分かっています」
声は小さかった。足も止まりかけている。それでも彼女は検査箱を手放さなかった。
理人には戻れと言い切れなかった。自分も同じ理由で現場へ向かっている。
「僕より前へ出ないで。少しでも目や喉が痛んだら教えてください」
「はい」
フィアはすぐ返事をしたあと、付け加えた。
「リヒトさんもです。自分だけ黙らないでください」
二人はエルナたちの後を追った。
旧選鉱場へ近づくにつれ、人の姿が減った。
最初の封鎖線は沈殿槽へ下りる坂の手前に設けられていた。見張りの兵士は鼻と口へ布を巻いている。臭いを防ぐためだろうが、気体そのものを遮断できるとは思えない。
「布は外して構いません。臭わないことを安全の目安にしないでください」
「外せと言うのか?」
「呼吸を妨げる方が危ない。検査せず奥へ入らないことの方が重要です」
兵士は迷った末、エルナを見た。彼女が頷くと布を外した。
坂へ入ると、湿った岩の臭いへ異質なものが混じっていた。腐った卵というより、温泉地の噴気へ近い。理人の記憶にある硫化水素の臭いだった。
まだ臭う。
少なくとも、この位置では鼻が働いている。
沈殿槽へ下りる階段の前には、第五換気班が機材を広げていた。革の蛇腹を二つ並べ、長い送気管をつないでいる。油を染み込ませた布製の頭巾もあった。前面だけ透明な鉱石板がはめ込まれている。
「息袋です」
エルナが頭巾を一つ持ち上げた。
「鉱山火災で使う。外から空気を送れるが、管が外れれば中には届かない」
「送気管の長さは?」
「階段の下までなら足りる。三番槽の奥へ入るには短い」
フィアが箱から銀色の細糸を取り出した。
小さな枠へ糸を渡し、長い棒の先へ固定する。階段の入口へ差し出すと、銀糸の表面が少しずつ褐色へ変わった。
「反応しています」
「どのくらいで黒くなる?」
「普通の鉱気なら、もっと時間がかかります」
フィアは棒を引き戻した。入口へ出していた時間は十秒にも満たない。それでも銀糸の半分が黒ずんでいる。
ガルドが階段へ近づこうとする。
「中へ下りないでください」
理人が止めた。
「見張りが二人いる」
「分かっています。だから、救助へ入る人まで倒れない方法を決めたい」
階段は途中で右へ曲がり、その先が見えない。倒れた者の位置も不明だった。
作業員の話では、見張りの一人は三番槽へ続く通路にいた。もう一人は槽の水位を確認するため、さらに奥へ入ったらしい。
「上から空気を送るだけでは、気体を奥へ押し込むかもしれません」
理人は選鉱場の図面を床へ広げた。
「排気できる場所はありますか。気体を人がいない方向へ出したい」
ガルドが三番槽の上を指した。
「鉱石を乾かしていたころの煙道がある。外縁坑へ抜けるが、いまも通っているかは分からん」
「出口側を確認してから開けましょう。そこに人がいれば危険です」
エルナが隊員を二人呼び、外縁坑へ向かわせた。経路は遠回りになる。戻るまでには時間がかかる。
階段の下にいる者を、そこまで待たせてよいのか。
理人は暗い入口を見た。
「最初の人は、階段に近いと言っていましたね」
報告に来た作業員が頷く。
「踊り場の少し先です。声をかけたら、うつ伏せに倒れているのが見えました」
「長い鉤棒はありますか」
ガルドが職人へ顎を振る。
運ばれてきた鉄棒は、五メートルほどあった。先端が丸い鉤になっている。普段は水路へ落ちた木材を引き上げるために使うらしい。
救難用の縄を鉤へ結ぶ。引っかけたとき身体を傷つけないよう、先端へ厚い布を巻いた。
エルナが息袋をかぶる。
「私が行く。曲がり角から先へは出ない。見える方だけ引く」
理人は止めようとした。彼女以上に適した者がいないことも分かっていた。
「空気が送られていても、頭巾の隙間から入る可能性があります。具合が悪くなってから戻ろうとしないでください。視界が狭くなったり、身体が重く感じた時点で合図を」
エルナは透明板越しに理人を見た。
「お前は自分に言えないことを、よく他人へ言うな」
聞こえにくいのか、声は普段より大きい。
「こういうときだけは得意なんです」
送気管の接続部を確認する。エルナの腰へ救命索を結び、入口にいる隊員二人が握った。
蛇腹を動かす職人も二人ずつ交代でつく。最初に数回空気を送り、頭巾が膨らむことを確かめた。
エルナが階段を下り始める。
冷光石を胸元へ吊しているため、青白い光が壁を移動した。踊り場で姿が半分隠れる。
鉤棒が差し込まれた。
先端が何かへ触れるたび、鉄を擦る音が階段の奥から返ってくる。エルナは片膝をつき、身体を低くして棒を操作していた。
「いた。上着へ掛ける」
声が送気管の隙間を通って聞こえる。
鉤が布を捉えた。
「引け!」
入口の職人たちが縄を引く。最初は重く、ほとんど動かなかった。倒れた男の脚が段差へ引っかかっているらしい。
エルナが一段下り、鉤の位置を直す。
救命索を握っていた兵士が声を荒らげた。
「副長、それ以上は!」
「あと一段だ。縄を緩めるな」
エルナが男の脚を持ち上げた。
縄が動く。
うつ伏せの身体が踊り場へ現れ、階段を一段ずつ上がってきた。頭を打たないよう、入口側の職人が縄の角度を変える。
男が地上へ引き上げられた。
顔色は土気色だった。口元に吐いた跡がある。胸の動きは弱いが、呼吸は続いている。
「新しい空気の場所へ運んで。横向きにしてください」
理人が声をかける前から、救護役が担架を出していた。
エルナも階段を上がる。頭巾を外すと、額に汗が浮かんでいた。
「もう一人は奥だ。ここからは見えない」
「送気管が足りない」
ガルドが低く言った。
「継ぎ足せば空気が漏れる。予備の管は工房だ」
「取りに行かせます」
エルナは別の隊員を走らせようとした。
そのとき、外縁坑を確認しに行った兵士が戻ってきた。
「煙道の出口を確認しました。周辺に作業員はいません。格子は錆びていますが、開けられます」
「開けろ。下から引くぞ」
ガルドは換気班へ向き直った。
携帯式の排気機が運ばれる。羽根車を手回しで動かし、革管を通じて空気を吸い出す装置だった。吸込管を階段の低い位置へ置き、排気側を煙道へつなぐ。
「硫化水素は空気より重い。なるべく床近くから吸ってください」
「煙道側の気圧が低ければ、自然にも流れるはずだ」
ガルドは格子を開ける合図を送った。
しばらくすると、階段から吹いていた空気の向きが変わった。垂らした布切れが、奥へではなく煙道側へ引かれている。
換気班が排気機を回す。鈍い羽音が始まり、腐った卵の臭いが少しずつ弱くなった。
理人はフィアの銀糸を借り、再び階段へ差し入れた。
一度目より変色が遅い。それでも安全とは言えなかった。
「時間を決めて繰り返そう。変色しなくなるまでは、息袋なしで入らない方がいい」
「もう一人が待てるか分からん」
ガルドの声には焦りがあった。
理人も同じだった。換気に時間をかけるほど救助は遅れる。だからといって急いで二人目、三人目を倒せば、結果はさらに悪くなる。
工房へ向かった隊員が予備の送気管を抱えて戻ってきた。
接続部には二重の留め具を使う。継ぎ目へ樹脂を塗り、外側から革帯を巻いた。送気した状態で水へ沈め、泡が出ないことを確認する。
エルナが再び頭巾をかぶろうとした。
「今度は私が行きます」
ボルグが前へ出た。第一話で理人を間者と呼んだ年嵩の兵士である。
「副長は一度入っています。残る距離は私の方が近い」
「お前は救難具の訓練を受けたか」
「坑道火災で二度使いました」
エルナは彼の顔を見た。断る理由を探しているようだったが、やがて息袋を渡した。
「奥の男を見つけても、まず合図しろ。一人で持ち上げるな」
「承知しています」
「聞こえなければ縄を二度引け。戻る合図は三度だ」
ボルグは頭巾をかぶり、救命索を腰へ巻いた。
予備の送気管をつなぐ。蛇腹を動かす職人が空気を送り、接続部の膨らみを確認した。
ボルグが階段へ消えていく。
理人は送気管から目を離せなかった。
管が岩角へ当たるたび、職人が位置を直す。継ぎ目は入口近くに置き、すぐ確認できるようにしてあった。それでも、奥で頭巾が外れる可能性はある。
救命索が少しずつ送り出される。
半分を過ぎたところで止まった。
「見つけました!」
奥から声が届く。
「槽の縁に倒れています。右腕が水へ入っている。呼吸は……分かりません」
エルナが縄を握る。
「索を身体へ回せ。結んだら二度引け」
返事はなかった。
数秒後、救命索が二度動いた。
「引け!」
入口の兵士たちが縄を引く。
最初は軽かった。やがて重みが加わる。ボルグが後ろから身体を支え、段差を越えさせているのだろう。
送気管の継ぎ目が軋んだ。
革帯の端がずれ、樹脂の間から小さな泡のように空気が漏れる音がした。
「押さえないで。先に送気を増やして!」
理人が叫ぶ。
職人たちが蛇腹を速めた。ガルドは留め具へ工具を当て、管を潰さない程度に締め直す。
漏れる音が止まった。
先に倒れた男の足が階段へ現れる。次いでボルグの頭巾が青い光へ浮かんだ。
二人が地上へ出る。
救助された男に自発呼吸はなかった。
救護役がすぐ仰向けにし、口の中を確かめる。吐瀉物を除き、顎を上げた。息袋から外した送気管を口元へ近づけ、清浄な空気を送りながら胸を押す。
理人は手を出しかけた。
自分より慣れた救護役がいる。そう分かっていても、見ているだけでは身体が落ち着かない。邪魔になる前に一歩下がった。
エルナが隣へ立つ。彼女も何も言わなかった。
胸を押す回数が続く。
一度目の咳は弱く、空気が漏れただけのように聞こえた。二度目で男の身体が大きく震え、黒っぽい液を吐いた。
「呼吸が戻った!」
救護役の声に、周囲の者たちが息を吐いた。
安心するには早い。男は目を開けない。呼吸も浅く、間隔が揃っていなかった。
担架へ載せられ、先に救出された者と一緒に医療院へ運ばれていく。
理人は見送ったあと、沈殿槽へ続く階段を見た。
排気機は回り続けている。銀糸の変色も、まだ完全には止まっていなかった。
「排液を止めます」
ガルドへ言うと、技師長は黙って頷いた。
点検室へ戻り、旧選鉱場へ向かう仮管の弁を閉じる。排液は緊急用の小槽へ切り替えた。小槽で受けられるのは、大きな脈一回分ほどしかない。
次の熱流入までに別の受け先を決める必要があった。
*
沈殿槽へ入れるようになったのは、排気を始めてから二刻後だった。
銀糸が変色しないことを三度確認する。それでもエルナとボルグは息袋を装着したまま先行した。槽の底に溜まった気体は、上部より抜けにくい。
理人は入口まで下り、床の状態を見た。
一番槽には熱い排液が残っている。水面近くの煉瓦は黄色く変色し、ところどころ黒い泡が付着していた。底から浮き上がった古い泥が、水面へ斑模様を作っている。
フィアが長柄の匙で泥を採った。
換気の続いている場所まで戻り、複数の試薬を加える。水へ浸しただけでは反応しなかった泥が、酸性の液を落とすと泡を出した。
その上へ銀糸をかざす。
すぐ黒くなる。
「これです」
フィアが息を詰めた。
「前に調べたときは、水へ何か溶けるかしか見ませんでした。酸を加えるなんて考えていなくて……」
「僕も考えていませんでした」
旧選鉱場で扱っていた鉱石には、金属と硫黄が結びついたものが含まれていたのだろう。通常の水ではほとんど変化しない。そこへ高温の酸性排液が入ったことで、硫化水素に近い気体が発生した。
フィアは黒くなった銀糸を見つめている。
「私が、残っているものはすぐ水へ溶けないと言ったから」
「それは間違っていません。普通の水では目立った反応が出なかった」
「でも、あの槽を使えると判断する材料になりました」
「使うと決めたのは僕です」
口にした途端、胸の内側が重くなった。
王から十日の権限を与えられ、最初に選んだ仮置き場で二人が倒れた。時間がないことも、飲料水へ混ぜ続ける方が危険だったことも事実である。それでも、槽に何が残っているか十分に調べなかった結果は変わらない。
あの二人が戻らなければ、説明の仕方で軽くできるものではなかった。
「私も同じ試料を見ました」
フィアが言った。
「責任を分けたいわけではなくて……私だけ外に置かないでください」
理人は返事をしばらく探した。
「分かりました。では、次の試験条件を一緒に決めましょう」
慰めにはなっていない。それでもフィアは頷き、検査記録を開いた。
ガルドとマルタも槽の状態を確認していた。
「ほかの槽も同じ泥がある」
マルタが二番槽の底を棒で探る。
「選鉱場だったんだ。全部きれいなわけがない」
「六番槽は清水用だったはずだ」
ガルドが図面を開いた。
「洗った鉱石を最後にすすぐ槽で、沈殿泥は入れていない」
「二年前まで地上水を溜めていたところだね。三番槽からも離れてる」
六番槽は、一番奥の高い位置にあった。内側の焼き煉瓦は白く、底に残った泥も少ない。
ただ、見た目だけでは決められない。
理人たちは槽の底と内壁から試料を採った。まず水へ浸す。次に第三浄水所の原水と混ぜる。最後は地上側排液と同じ腐水性になるよう、フィアが試薬で条件を調整した。
温度も変える。
冷たい状態では反応なし。温めても銀糸は変色しない。酸性を強めた高温水へ入れたときだけ、わずかに色が鈍ったものの、一番槽の泥とは比較にならなかった。
「六番槽なら、緊急用として使えそうです」
理人は結果を記録した。
「ただし排液をそのまま入れない方がいい。槽へ届く前に腐水性を弱めたい」
「白灰石を使うのか」とガルド。
「浄水所と同じ方法です。ただ、こちらは飲料水にするわけではありません。気体の発生を抑えられるところまで中和する。そのあと槽へ送り、魔晶残滓が沈むか試します」
「流れている管の中へ石を放り込めば詰まるぞ」
「途中へ小さい混合槽を置けませんか。排液を受けて攪拌し、上澄みを六番槽へ送る」
ガルドは坑道の勾配を見た。
「選鉱場の薬液槽が一つ残っている。陶器製だ。容量は小さいが、脈を受けながら混ぜるには足りるかもしれん」
「一回分を受けられなくても、連続して六番槽へ流せればいい。白灰石を一度に入れすぎない構造が必要です」
マルタが、選鉱場で使っていた粉鉱供給器を思い出した。上の箱へ砕いた石を入れ、羽根車を回すと少しずつ下へ落ちる装置らしい。回転速度を手で調整できる。
「試薬の色を見ながら量を変えられるね」
「最初は人がつく必要があります。原水より腐水性の変化が大きいので、固定量にはしない方がいい」
浄水所で作った手順が、別の場所でも使える。ただし同じ配合をそのまま持ち込むことはできない。排液の性質も目的も異なる。
ガルドは必要な部品を図面へ書き込み、職人へ割り振った。
「次の脈までに仮でつなぐ。六番槽の周囲には見張りを置け。銀糸を三か所へ吊す」
「臭いが消えても、銀糸を見るよう伝えてください」
「お前が説明しろ。選鉱場の連中は工房に集めてある」
理人は頷いた。
現場へ来る前なら、人前で説明することを避けたかもしれない。今回は、自分で話さなければならない。仮置き先を提案したのも、その危険を見落としたのも自分だった。
作業が始まったところで、医療院から使いが来た。
最初に救出された見張りは意識を取り戻した。二人目は呼吸こそ安定したが、まだ目を覚ましていないという。
理人は安堵しかけた。
途中で止めた。意識が戻っていない者を前に、助かったと決めるのは早い。
*
事故説明には、沈殿槽へ入った者だけでなく、選鉱場の作業員全員が集められた。
工房の広間に三十人ほどが立っている。先ほど救助に入ったボルグとエルナも壁際にいた。
理人は黒く変色した銀糸を作業台へ置いた。
「一番槽で発生した気体は、底に残っていた鉱石と排液が反応して生まれた可能性が高いです。少ないときは腐った卵のような臭いがします。ただ、濃くなると鼻が利かなくなります。臭わなくなったから入ってよいとは考えないでください」
作業員たちの顔を見ながら話す。
疑いも怒りもあった。誰も口を挟まないことが、かえって重かった。
「仮置き先に一番槽を選んだのは僕です。中へ入れる排液と、底に残っていた鉱石を同じ条件で試しませんでした。そのため、見張りの二人が倒れました」
後方で誰かが身じろぎした。
「謝って終わりか」
低い声が上がった。倒れた見張りと同じ班の男らしい。
「終わりにはできません。今後は六番槽だけを使います。底の試料へ実際の排液と同じ酸性、同じ温度を与えて反応を確認しました。槽へ入れる前にも中和します。銀糸による検知と排気設備を置き、見張りは一人にしません」
「また見落としたら?」
「見落とす可能性はあります」
ざわめきが起きた。
「なら、誰が入るんだよ」
「検査で異常が出た場合は誰も入りません。原因が分からなくても止めます。設備を動かすために人を中へ送る判断はしない」
「止めたら、あの水は飲み水へ戻るんだろ」
「緊急用の小槽が一回分あります。それも使えない場合は、上層熱受け槽の圧力を見ながら冷却系統を落とすことになります」
完全な代案ではない。小槽が満ちれば、再び選択を迫られる。
それでも、安全を確認できない状態で作業員を入れることだけは、選択肢から外すべきだった。
作業員たちは納得した様子を見せなかった。当然だと思う。二人が倒れた直後に、今度は大丈夫だと言われて信じられる方がおかしい。
ガルドが前へ出た。
「六番槽の運転責任者は俺だ。リヒトは水質条件を決める。フィアは検査。換気の判断は第五換気班が行う。誰か一人が動かせと言っても、残りが止めるなら止めろ」
「技師長まで止められるんですか」
若い作業員が聞いた。
「俺が槽の中へ入れと言ったら、その場でエルナを呼べ」
壁際でエルナが頷いた。
「呼ばれれば拘束する」
「そこまで言わなくてもいいだろう」
ガルドの顔がわずかに歪み、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
説明が終わると、作業員たちは持ち場へ戻っていった。理人へ声をかける者はいない。最後に残ったのはガルドとフィア、エルナだけだった。
「事故報告を書け」
ガルドが紙束を差し出した。
「こちらの文字は書けません」
「フィアに写させろ。原因を知らん言葉で飾るな。起きたこと、事前に確認したこと、確認しなかったことを分けて書け」
「提出先は?」
「俺と王宮だ」
理人は紙束を受け取った。
表紙には設備事故と負傷者の文字があった。欄の多くは空白である。報告書を提出する仕組み自体はあるものの、用紙が使われた形跡は少ない。
「明日の整備会議は」
「今日の分が終わっていない。六番槽を動かしたあと再開する」
ガルドは理人の返事を待たず、工房を出ていった。
フィアが隣の机へ座り、筆記具を用意する。
「最初は、何を書きますか」
理人は事故報告の欄を確認した。
「地上側排液の一時保管先として、旧選鉱場の一番沈殿槽を選定。槽内残留物について、水への溶出試験を実施。目立った反応は認められず」
フィアがこちらの文字へ直していく。
「次は?」
「実際の排液を入れたあと、槽内で有毒気体が発生。見張り二名が中毒。ここまでが起きたことです」
筆が一度止まった。
「確認しなかったことは」
「残留物へ、高温で酸性の排液を加えた場合の反応。発生する気体。換気経路。それと、見張りが異常を感じたときの退避条件」
フィアは一つずつ書いた。
窓のない工房では、時刻を鐘でしか知ることができない。遠くで次の鐘が鳴った。上層熱受け槽の警報ではなく、通常の時刻を知らせる一打だった。
フィアが最後の欄を見た。
「負傷者の経過」
「まだ空けておいてください」
二人目の見張りは、まだ目を覚ましていない。
理人は黒く変色した銀糸を紙の横へ置いた。事故報告を書き終えるまで、処分する気にはなれなかった。




