第十四話 止める順番
事故報告書の最後には、負傷者の状態を記す欄があった。
理人はそこだけを空白にしたまま、乾きかけたペン先を布で拭っていた。発生時刻、現場の人数、救出までに取った手順。分かっていることは書ける。硫黄を含む鉱滓に酸性の排液が触れ、毒性のある気体が発生した可能性が高いことも、試験の結果として記載した。
だが、二人目の見張りが助かるかどうかは、まだ誰にも分からない。
紙の右端には黒く変色した銀糸が置かれている。硫黄を含む気体へ曝した検知糸で、元は白かった。光を吸うような黒さを見るたび、排水槽の階段から引き上げられた男の顔が思い出された。唇の色。動かなかった胸。救命具の継ぎ目から漏れた空気の音まで、余計なところばかり鮮明だった。
かつて勤めていた研究所にも、事故報告の様式があった。負傷者欄の下には休業見込み日数を書く小さな枠があり、医師の診断を待たずに数字を求めてくる者もいた。報告書を早く閉じたいからだ。紙の上で事故が完了すれば、設備も組織も平常へ戻ったことにできる。
もちろん、戻るはずがない。
あのとき火傷を負った先輩は、職場復帰したあとも右手の小指がうまく曲がらなかった。けれど報告書に残ったのは「軽度熱傷」と「休業なし」という二つの言葉だけである。理人も署名した。署名するときに感じたペンの滑りやすさを、今も覚えている。
扉の向こうで靴音が止まった。
顔を上げるより先にフィアが立ち上がる。彼女は向かいの席で試験記録を清書していたが、途中からほとんど筆が動いていなかった。
入ってきたのは治療院の白い上衣を着た女だった。五十歳ほどで、袖口には乾いた薬草の破片がいくつも付いている。
「二人目の人、意識が戻りました」
椅子の脚が床を擦った。立ち上がったのが自分かフィアか、理人には一瞬分からなかった。
「話せるんですか」
「少しなら。喉を傷めているし、息もまだ浅い。今夜を越せば大丈夫だなんて、軽々しくは言えません」
女はそう告げてから、机の上の空欄へ視線を落とした。
「見に来ますか。今なら起きています」
理人はペンに蓋を戻した。指に付着した黒いインクが、爪の脇へ入り込んでいる。
フィアも腰を浮かせていたものの、試験記録を見てから座り直した。
「私は、こっちを終わらせます。二人で押しかけたら休めませんから」
声は平静だった。けれど最後の一枚をつまむ指に、少し力が入りすぎている。理人は何か言おうとしたが、謝罪も慰めも彼女の手を止めるだけに思えた。
「あとで代わる」
「字が違うと読みにくいです」
断られているらしい。理人は頷き、治療師のあとを追った。
廊下には夜勤明けの人々が行き交っていた。地下には朝日がない。代わりに通路の灯具が一段明るくなり、共同炉から焼いた穀物の匂いが流れてくる。時刻を知らせる鐘までは、まだ半刻ほどあるという。
治療院は王城区画の外れにあり、元は兵舎だったらしい。広い部屋を布で区切り、十ほどの寝台が並んでいた。地下水の冷気を避けるため、どの患者も毛織りの敷物を二重にしている。
二人目に救出された見張りは、入口から三つ目の寝台に寝かされていた。
名はヘンリク。事故報告にそう書いたものの、本人の顔と名前を結びつけたのは今が初めてだった。四十歳には届いていないだろう。閉じた瞼の周りが腫れ、鼻の下には薬草を煮た湯気を送るための細い管が添えられている。寝台の脇には赤毛の女が座っていた。年齢から見て妻か姉か判断できず、理人は勝手な呼び方を避けた。
女がこちらを見る。エルナの姿を探すように一度廊下へ目をやり、理人しかいないと分かると唇を固く結んだ。
「排水槽に行かせた人?」
背中に残っていた言葉が消えた。
「調査を提案したのは僕です。見張りを出す判断にも関わりました」
「じゃあ、あなたね」
女はそれ以上責めなかった。黙っているほうが、理人には都合が悪い。弁明を求められれば、現場で確認したことや予測できなかった条件を並べられる。言葉を組み立てる用意だけは、ここへ来る途中ですでに済ませていた。
ヘンリクの指が毛布の上で動く。女はすぐそちらへ向き直り、濡らした布を彼の口元へ当てた。
「レムは」
擦れた声だった。
「隣で寝てる。あんたより先に起きて、粥が薄いって文句まで言ったよ」
女の返事を聞くと、ヘンリクは目を閉じ直した。安堵したというより、確認すべき仕事を一つ終えた顔に見える。
しばらくして、片目だけが理人へ向いた。
「技師……なのか」
「まだ違います。設備調査員です」
「どっちでもいい」
話すたびに胸が小さく上下する。治療師から休ませるよう目で促されたが、ヘンリクは毛布を握って続けた。
「俺たちは、何を吸った」
「硫黄を含む毒性の気体だと思われます。排水と、槽の底に残っていた鉱滓が反応して発生した。詳しい組成は調べている途中です」
「臭いはしてた。最初だけ」
理人の舌が上顎へ張り付いた。
ヘンリクは排水槽の縁で腐卵臭に気づいていた。見張りに出したとき、異臭があれば離れるよう伝えてある。それでも留まった理由を訊けば、責任の所在を探しているように聞こえるだろう。
迷っているうちに、女が布を絞り直した。
「この人、鼻が利かないんです。坑道で働いてた頃に傷めてね。臭ったと言うなら、よほど強かったんでしょう」
「いや」
ヘンリクは首を動かしかけ、咳き込んだ。女が背を支えると、彼は息を細く吐きながら言葉をつないだ。
「臭ったんだ。レムも言ってた。けど、すぐ消えた。風が抜けたと思った」
臭いがなくなったのを、危険が去った合図と受け取った。硫化水素なら起こり得る。高濃度では嗅覚が麻痺し、本人には臭いが消えたように感じられる。
理人たちはそれを知っていた。少なくとも、事故が起きたあとには。
「知らせておくべきでした。臭いが消えても近づくなと、見張りに立つ全員へ」
「知らなかったことまで、この人のせいにしないで」
女の声が尖る。理人が反論すると思ったらしい。だが、彼が黙っていると、その勢いを持て余したように布へ目を落とした。
「休んでいる間の配給はどうなるんです。うちは、この人の分も入れて三人いるんだけど」
事故を起こした設備の構造よりも、彼女にとってはそちらのほうが差し迫っている。考えてみれば当然だった。男が助かったという報せを聞き、理人はひとつの危機が遠のいた気になっていたが、彼らの生活では何も終わっていない。
「僕には決められません。ただ、作業中の負傷として報告します。技師組合にも確認して――」
「減らさせませんよ」
背後からエルナの声がした。
振り返ると、入口の布を肩で押し分けて入ってくるところだった。坑道から戻ったばかりなのか、外套の裾に白い石灰の粉が付いている。
「王命の調査に伴う負傷です。勤務札は事故前と同じ扱いになります。窓口で何か言われたら、近衛のエルナ・ヴァイスがそう決めたと伝えてください」
「副長に、そんな権限が?」
女は疑いを隠さなかった。
「ないかもしれません。そのときは私が会計官に叱られます」
エルナは寝台の脇へ歩み寄ると、ヘンリクの呼吸を確かめるように顔を覗いた。彼女は怪我人に励ましの言葉をかけない。毛布から出ていた足を中へ戻し、水差しが手の届く位置にあるかを見る。その手つきのほうが、安請け合いより信頼できた。
「会議が始まる。ガルドが待ってる」
「今から?」
「昨日の続きだからな。始まる前に事故が起きたせいで、設備の話を一つもしていない」
ヘンリクが目を開けた。掠れた息に、わずかに声が混じる。
「槽は、もう平気なのか」
大丈夫だと言えば、この男は休めるのかもしれない。理人は舌先まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「まだです。次に同じことが起きないよう、使い方を決め直しています」
「なら、早く行け。俺に見せる顔を考えてても、槽は空にならん」
女がたしなめるように彼の肩を押す。ヘンリクは目を閉じ、もう話すつもりはないらしい。
理人は頭を下げた。謝罪の言葉を口にしても、その返事を病人へ強いるだけになる。何も言わずに出ていくことが逃げではないと自分へ言い聞かせたが、廊下へ戻っても喉の奥には硬いものが残った。
◆
技師組合の会議室には、円卓へ収まりきらない人数が集まっていた。
配管、換気、揚水、炉、昇降機、浄水。それぞれの担当者が壁際まで椅子を並べ、座れなかった者は道具箱を足元へ置いたまま立っている。夜勤を終えたばかりの顔も多く、室内には油と汗、それに濃く煮出した茶の匂いがこもっていた。
円卓の中央には、排水槽から回収された銀糸が布に包まれて置かれている。黒くなった部分だけが露出していた。
理人が入っても、話し声は止まらなかった。正面に座るガルドが拳で卓を一度叩くと、ようやく椅子の軋みだけになる。
「二人とも生きてる。片方は飯の文句まで出た。もう片方も起きたが、しばらく働けん」
ガルドはそこで言葉を切り、理人を見た。
「昨日の事故を話せ。短くしなくていい。ただし、自分を殴るための言葉は要らん」
先回りされた。理人は持ってきた報告書を開き、書いた順序には頼らず現場で起きたことから説明した。
南冷却還路から来る酸性排液を、旧鉱石洗浄槽へ逃がそうとしたこと。水を張った容器で槽内の沈殿物を試したものの、実際の排液を使わなかったこと。さらに、上澄みだけを採って底の鉱滓を調べず、見張りへ臭気の消失が危険を示す場合もあると伝えなかったこと。
「六つの槽のうち、使える見込みがあるのは第六槽だけです。そこも小規模試験を終えただけで、常用できるとは言えません。今は上層の受け槽側で排液を留めています」
壁際から低い声が飛んだ。
「留められるのは、あとどれくらいだ」
換気班の男だった。片耳が潰れ、革帽子には白い粉がこびりついている。
「次の大きな流入がなければ二日。これまでと同じ脈動が来た場合は、半日ほど短くなります」
「来たら、また第六へ流すのか」
「石灰で酸性を弱めてから流す準備をしています。ただ、今朝の時点では運用を始めていません」
「準備ばかりだな。昨日は急いで流して二人倒した。今日は怖くなって止めた。その間に上で溢れりゃ、今度は換気塔まで蒸気が来るぞ」
責める口調ではあるが、男の指は卓上の地図で第五換気塔を押さえていた。自分の設備を守りたいのだ。悪意ではなく、守る範囲が違う。
別の席から、マルタが鼻を鳴らした。
「じゃあ、飲み水へ戻すかい? あんたの部下が息を止める前に、こっちの子供が腹を壊すよ」
「誰も戻せと言ってない」
「言い方を変えただけじゃないか」
ガルドが茶の椀を持ち上げた。空だと分かると、渋い顔のまま元の場所へ戻す。
「喧嘩は腹に何か入れてからやれ。今は時間が惜しい」
円卓の端には王都地下区画の図面が広げられていた。細い線が何層にも重なり、後世の増設部分は色の違う墨で描き足されている。地図というより、何度も継ぎを当てられた衣服に近い。しかも破れを直した者は、自分の仕事が百年後まで残るとは思っていなかったらしく、日付も材質もない線が少なくなかった。
理人は空いている壁へ一枚の板を立てかけた。倉庫で埃を被っていた工程板を借り、表面を削って文字を書けるようにしたものだ。
縦に設備名。横には「壊れた場合」「今出ている兆候」「現在の対処」「分からないこと」と書いてある。
文字を追った配管班の老人が眉を寄せた。
「これを全部埋めるのか」
「全部は無理です。各班から、いちばん気になっている設備を一つずつ出してください」
「気になってる設備なら十はある」
「その中で、自分が眠っている間に壊れたら困るものを」
誰もすぐには答えなかった。
故障の報告は、修理の要求と同時に管理不足の告白にもなる。この街では部品も人手も足りない。異常を報告して設備を止めれば、その設備に頼っている区画から恨まれる。黙って動かし続けて壊れた場合も責められるが、それまでは今日の仕事を終えられる。
研究所にいた頃も形は違うだけで似たことがあった。停止を提案した者には、試験日程の遅れを説明する仕事が付いてくる。異音を「経過観察」と呼べば、少なくともその日の会議は短く済んだ。
「罰を決める板じゃない」
ガルドが言った。
配管班の老人が鼻で笑う。
「お前の横に置かれた板を見て、そう思う奴がいるか」
「なら俺から出す。第三揚水所の第一機だ。軸封からの漏れが増えてる。第二機を昨日動かしたせいで、止めて直す時間も消えた」
ガルドは板に自分で書き込もうとして、理人から炭筆を受け取った。太い指では細かな字が書きにくいらしく、「第一機」の一の字が妙に大きい。
マルタが続いた。
「第三浄水所の石灰槽。仮設の沈殿桶を増やしたせいで、攪拌軸が重くなってる。止まれば処理できる水が半分以下だ」
換気班の男は帽子を脱ぎ、縁に付いた粉を親指で落とした。
「第五塔の下軸受け。三日前から音が変わった。油を足せば静かになるが、一刻もすると戻る」
「三日前?」
誰かが呟いた。男の目がそちらへ向く。
「止める時間をくれるなら、三日前に言ってる」
責める声は上がらなかった。皆、自分の持ち場に同じものを抱えているのだろう。
板は少しずつ埋まっていった。共同炉の排気路に走る亀裂。北昇降機の制動輪。下層居住区へ温水を送る第四主管。どの担当者も最初は設備名だけを告げたが、ガルドに促されると、いつから何が起きているかを渋々話し始める。
理人は書きながら、それらを数字で順位づけしたくなる自分を抑えた。故障確率と影響度を掛け合わせ、検出可能性を加味すれば、少なくとも比較する形にはできる。だが、ここには圧力計のない配管があり、点検記録の残っていない昇降機もある。精密そうな数値を置けば、それだけで人は正しい順番だと思い込む。
二年という見積もりに対して、自分が国王へ言ったことを思い出す。根拠の薄い数字は、曖昧な言葉より危険になることがある。
「人がすぐ死ぬ可能性があるものから見る。ただし、壊れる前に分かる設備は少し待てます」
理人が炭筆で板を二つに分けると、共同炉の担当者が腕を組んだ。
「すぐって、どのくらいだ。今日か、今年か」
「そこも書きます。分からなければ、分からないままで」
「王様へ出す報告に?」
「はい」
室内の何人かが顔を見合わせた。十日後に提出する調査報告は、理人一人の評価では終わらない。この板に名前を書かれた設備には、止める判断や資材の配分が付いて回る。それをようやく実感したらしい。
「分からんばかりの報告書を出したら、陛下も頭を抱えるぞ」
ガルドが言う。
「知っているふりをして埋めるよりはましです」
「そいつはそうだが、言い方は考えろ。俺まで呼び出される」
少し笑いが起きた。張りつめていたものが緩み、誰かが冷めた茶を飲む音まで聞こえる。
扉が開き、フィアが木箱を抱えて入ってきた。髪を結び直す時間もなかったのか、片側だけが頬へ落ちている。
「すみません。これを見てほしくて」
箱には蓋付きの小瓶が四本並んでいた。どれにも短い鉄片が沈められている。一本目は水だけ。二本目は石灰で処理する前の排液。三本目には処理後の排液が入り、最後の瓶では鉄片へ細い青銅線が巻き付けてあった。
フィアは四本目を卓上へ出した。濁った液体の底に、赤褐色の粉が溜まっている。
「昨夜、処理したあとの水を置いておきました。朝になって見たら、これだけ鉄の表面が崩れていたんです」
理人は瓶を灯具の前へかざした。
鉄片のすべてが均一に錆びたわけではない。青銅線が触れている部分の近くへ、小さな穴が集中している。針先でえぐったような孔食だった。石灰処理前の排液に入れた鉄も変色しているが、そちらは表面全体が黒ずんでいた。
「この青銅線は、どうして入れた?」
フィアは責められたと思ったのか、箱を抱えたまま身を固くした。
「採取札を結んでいたんです。瓶の中へ落ちてしまって、取り出すと条件が変わるかと思ってそのままにしました」
「取り出さなくてよかった」
理人は椅子を引き、窓際の明るい場所へ移った。金属が二種類あり、その両方へ導電性のある液体が触れれば、一方の腐食が加速することがある。元の世界なら珍しくない現象だ。海水配管や熱交換器では、材質の組み合わせを間違えるだけで寿命が大きく変わった。
ただし、この排液を同じ尺度で扱ってよい保証はない。含まれている塩類も分からず、魔法に使われた物質が金属へどう作用するのかも不明だった。
「鉄と青銅が触れたから、鉄だけ傷みやすくなった可能性があります。液体を通して、ごく小さな流れができる」
「熱の?」
フィアが訊く。
「熱とは別です。目では見えないし、《熱流眼》にもたぶん映らない。まだ可能性でしかないけど、別々に入れたときより、接触させたときの減りが早いなら調べる価値はあります」
アーデルが四本目の瓶を受け取った。青銅線へ指を触れず、硝子越しに向きを変えている。
「魔導管でも似たことが起こるわ。異なる導材を継ぐと、弱い側へ損耗が偏ることがある。導律の乱れだと説明されているけれど、水だけでも起きるの?」
「塩や金属成分を含む水なら。ここでは魔力が影響するかもしれませんが、今の試験では分けられません」
「分ける試験を組みましょう。導素を抜いたもの、抜かないもの。金属も鉄と青銅だけでは足りない」
アーデルはすでに次の試験を考えている。理人にはありがたかったが、円卓の向こうで配管班の老人が額を押さえた。
「待て。その青銅と鉄なら、街じゅうでつないでるぞ」
会議室が静まった。
ガルドが壁の図面へ近づき、第四主管の線を指でたどる。古い区間は青い墨、新しい補修部分は黒。線の境目には小さな輪が描かれていた。
「昔の管は青銅が多い。戦のあとで足りなくなって、鉄管へ替えた。継ぎ輪だけ古いものを使い回した場所もある」
「排液が触れるのは南の還路だけじゃないんですか」
エルナの問いに、老人は答えず図面の下端を探した。やがて第四主管から枝分かれする細い線を爪で叩く。
「南の熱交換室で温めてから居住区へ戻す。排液と飲み水が混ざる構造じゃない。ただ、隔てているのは金属板だ」
「材質は?」
老人は理人を睨んだ。質問が気に障ったのではなく、自分が答えを持っていないことへ腹を立てた顔だった。
「開けた奴は、ここにはおらん。十八年前の崩落より前から動いてる」
エルナの視線が図面の南側で止まる。父親が死んだ崩落と同じ時期だ。理人は彼女を見なかった。見れば周りの者も理由を探る。
ガルドは第四主管の担当者へ顎を向けた。
「音が変だと言ってたな」
「音じゃない。継ぎ目から白い粉が出る。拭いても二、三日でまた浮いてくるんだ。漏れはないし、温度も変わらん。次の定期止めで開けるつもりだった」
「定期止めはいつだ」
「二十七日後」
理人は瓶の中の鉄片を見た。腐食生成物が管の外へ吹き出しているなら、内側にはすでに欠損があるかもしれない。白い粉が何かも現物を見なければ判断できないが、待つ理由はなかった。
「第四主管は、どこを通っていますか」
担当者が図面上の線を追う。南熱交換室から北へ伸び、第四居住層を横切ったあと、三つの共同浴場と治療院へ分岐している。その途中に幼い子供を預かる共同育児室があった。
先ほど訪れた治療院も、この管から温水を受けている。
「止めれば、湯が出なくなるぞ」
マルタが言った。
「どれくらいの時間なら止められますか」
「浴場を諦めても、治療院は困る。洗い物まで冷水じゃ、病人を増やすよ」
正しい。管が破裂する可能性だけを見て停止すれば、その影響で別の問題が起きる。いつ壊れるか分からない設備と、止めれば確実に失われる機能。その比較に、便利な答えはなかった。
理人は板へ戻り、第四主管の欄に「外側へ白色の析出」「異種金属の継ぎ手」「内部未確認」と書いた。壊れた場合の欄では手が止まる。
温水が失われるだけではない。圧力が残った状態で破断すれば、人へ熱水がかかる。地下では漏れた水の逃げ場も限られ、蒸気が通路へ流れ込むおそれがある。しかも居住区の下だ。
「全部を止めなくても、南の熱交換室を切り離せる」
配管班の老人が図面へ顔を近づけた。
「第四主管へは、北の炉からも回せるはずだ。冬場だけ使う迂回路がある。ただし、弁が生きていればの話だが」
「最後に動かしたのは?」
「去年の寒期だ。そのときは閉じ切らなくて、革を噛ませた」
誰かが小さく舌打ちした。正常な予備設備が存在すると思った自分のほうが、この街をまだ理解していない。
ガルドは立ち上がり、壁から外套を取った。
「第四主管を見に行く。迂回弁もだ。分解するかどうかは現物を見て決める」
「上層の排水はどうする」
換気班の男が呼び止める。
「第六槽へ入れる準備を続けろ。石灰処理、通風、銀糸。槽へ降りる作業は禁止だ。次の脈動までに間に合わなければ、受け槽側の圧を逃がす方法を探す」
「全部、人が要るぞ」
「ああ。だから今日直せん設備を決める会議をしてる」
ガルドは戸口へ向かいかけ、理人が動かないことに気づいて振り返った。
「何してる。見るんだろ」
理人は板に並んだ設備名を見た。どれも放置できない。第三揚水所の軸封が抜ければ街へ水が上がらず、第五換気塔が止まれば下層の空気が淀む。共同炉の排気路から漏れる煙は、すでに誰かが吸っているかもしれない。
それでも一度に行ける場所は一つしかない。
炭筆を置き、第四主管の行へ印を付けた。
◆
第四居住層へ下りるにつれ、通路の壁には水滴が増えた。天井近くを通る温水管から熱が伝わり、冷えた岩肌へ湿気が凝結している。配管は大人の胴ほど太く、錆止めの黒い油が塗られていた。補修箇所には布や革が巻かれ、その上から針金で締めてある。
共同育児室は管の真下にあった。
石壁の向こうから子供たちの声が聞こえる。歌なのか数を数えているのか、同じ音を何度も繰り返していた。入口には濡れた小さな靴が並び、温水で洗った布が頭上の縄に干されている。
配管班の老人は、その少し手前で足を止めた。
「ここだ」
青銅製の継ぎ輪が、鉄管二本をつないでいる。表面には淡い緑色の錆が浮き、下側へ白い筋が垂れていた。床は乾いている。目で分かる漏れはない。
理人は手袋をはめ、白い析出物を薄い金属片で採った。粉に見えたものは硬く、管へこびりついている。鼻を近づけることはせず、小瓶へ落として蓋をした。
「圧力を下げられますか」
「枝弁を閉めて、先の湯を抜けばな。ただ、あの弁が固い」
ガルドと老人が二人がかりで弁輪へ棒を掛ける。無理に回せば軸を折るため、油を差しながら少しずつ力を加えていく。その間にアーデルは継ぎ輪の周囲へ細い導線を這わせ、魔力の流れを確かめていた。
「導律は通っていない。少なくとも今は」
「なら、普通の腐食か」
「普通の範囲を、私は知らないわ」
アーデルは淡々と返し、導線を外した。
理人は《熱流眼》を開いた。
視界の輪郭がわずかに滲み、管の中を進む熱の帯が浮かぶ。主流は継ぎ手を越えて北へ流れている。その外側に、糸ほど細い熱の筋があった。白い析出物の下から始まり、青銅の縁を回って冷たい岩壁へ消えている。
水が漏れている。
量が少ないため、外へ出たそばから蒸発していた。床へ滴が落ちないのも、そのせいだろう。見た目だけなら乾いている。だが、管壁を貫く道はすでにできている。
右目の奥が重くなる。理人は能力を閉じ、壁へ手をついた。
「漏れてます。ごく少量ですが、継ぎ輪の下側から」
老人が膝をつき、灯具を床へ置いた。白い筋へ薄紙を押し当てる。しばらく待つと紙の中央が透け、縁へ緑がかった水分が広がった。
「いつからだ」
「そんなもの、管に聞け」
ガルドの苛立った声にも、老人は振り返らない。
「外から分かるようになったのは五日前だ。昨日より白い筋が太い気はする。気のせいかもしれんが」
五日前。上層熱受け槽から来る脈動が強くなった時期と近い。
理人は採取瓶とフィアの試験を思い浮かべた。異なる金属。温かい水。中に溶けた成分。繰り返す温度と圧力の変化。どれか一つが原因とは限らない。すべてが少しずつ管を削り、表面だけを残している可能性もある。
弁が呻くような音を立てて回った。
管の中の流れが弱まり、遠くで誰かが声を上げる。温水が細くなったのだろう。育児室の歌も途切れ、扉から女が顔を出した。
「何かあったんですか」
ガルドが口を開きかけたが、理人は継ぎ手から目を離せなかった。圧力が落ちるにつれ、漏れは小さくなる。ところが青銅の輪と鉄管の境目で熱の色が均一にならない。下側だけが妙に冷え、内部から壁へ熱が逃げていた。
管の厚みが、残っていない。
「その下から離れてください」
声が思ったより強く出た。女が怪訝な顔をしながらも、戸口の内側へ子供たちを戻す。
ガルドは理人の視線を追い、工具を持ったまま一歩下がった。
「開けたら持たんか」
「分かりません。だから、圧が残った状態では触れないほうがいい」
「迂回弁を見てくる。使えなけりゃ、治療院の湯も止まるぞ」
「止めてください」
答えたあとで、理人は治療院の寝台を思い出した。薬草の湯気を吸うヘンリクと、水差しを抱えた赤毛の女。温水が必要だと聞いたばかりなのに、自分はいま、その供給を止めようとしている。
それでも管の真下には育児室がある。事故が起きてから危険を説明するのでは遅い。
「少なくとも、この継ぎ手を外して中を見るまでは流せません。治療院へは桶で運ぶ手配を。浴場は――今日は止めるしかないと思います」
ガルドはすぐには返事をしなかった。配管の白い筋を指でなぞり、濡れた手袋を鼻へ近づけかけてから、理人の顔を見てやめる。
「分かった。第四主管は停止。北の迂回路を試す。桶運びは近衛から人を借りろ」
「私に聞いてから決めてほしいものだな」
エルナはそう言ったが、すでに育児室の入口で職員へ事情を話し始めていた。
管から流れの音が消えていく。壁の向こうでは中断した歌が再開され、今度は先ほどより少し小さい。
配管班の老人が白い析出物を工具の先で軽く押した。
表面が崩れ、その奥に黒い穴が現れる。針ほどの大きさだった穴は縁から薄片を落とし、豆粒ほどに広がった。水は出てこない。圧力を抜くのが少し遅ければ、どうなっていたかは考えなくても分かった。
老人は工具を下ろし、誰に向けるでもなく呟いた。
「同じ継ぎ輪を、あと十九か所使ってる」
理人は返事をせず、黒い穴の縁を見つめた。
十日間の調査期限は、残り七日。
壁の向こうで数を数える子供たちは、十九まで来ると、揃って一つ先の数字を間違えた。




