第7話「普通の恋人」
九月になった。
大学が始まった。夏休みが終わり、後期の講義が始まり、キャンパスに人が戻ってきた。図書館の席がまた埋まるようになった。銀杏並木の葉はまだ緑だったけれど、風の匂いが変わっていた。八月の空気にあったあの粘度が抜けて、その代わりに透明な硬さが混じり始めていた。ガラスのコップに入った水が、冷蔵庫に入れなくても少しだけ冷たいような。
生活のリズムが変わった。
朝七時に起きる。コーヒーを淹れる。グアテマラの中深煎り。一杯。八時十二分の電車に乗る。ここまでは同じ。でも講義のあと、図書館には行かない日が増えた。代わりに、カイと——海人と——学食で会う。あるいは駅前のカフェで会う。あるいはどちらかの最寄り駅の改札で待ち合わせて、一緒に歩く。
付き合い始めたのは、あの日曜日のデートの翌週だった。
告白というほど大げさなものはなかった。二回目の昼間のデート——今度は水族館に行った——の帰り道に、カイが「付き合おう」と言い、私が「うん」と言った。それだけ。そのあとカイは自動販売機でカルピスソーダを買い、私はいろはすを買い、駅のベンチに並んで座って飲んだ。カルピスソーダを一口もらった。甘かった。炭酸が舌を刺した。
付き合い始めた翌日から、LINEの頻度が上がった。朝の「おはよう」、昼の「今何してる」、夜の「おやすみ」。一日の始まりと中間と終わりに、カイの名前がスマートフォンの画面に現れた。通知のたびに小さな光が点く。その光を見るたびに、私はちゃんと嬉しかった。
ちゃんと。
*
九月の第二週。
美咲にカイのことを話した。カフェで、アイスのカフェラテを飲みながら。
「え、彼氏できたの?」
「うん。ちょっと前に」
「ちょっと前っていつ」
「八月の終わり」
「やっぱり! 私のカン当たった。雰囲気変わったって言ったでしょ」
美咲は本気で嬉しそうだった。自分のことのように。そういうところが美咲の美点だと思う。
「どういう人?」
「……普通の人」
「普通って何よ」
「大学生で、近くに住んでて、コーヒーが好きで」
「それだけ?」
「それだけ」
それ以上言えなかった。深夜三時に出会ったとは言えなかった。コンビニの前でしゃがんでいた男だとは。自販機に時々現れる名前のない飲み物の話を共有した相手だとは。
「写真見せて」
スマートフォンを出して、カイとの写真を見せた。水族館で撮ったやつ。クラゲの水槽の前で二人で並んでいる。カイは少し笑っていて、私はほとんど笑っていない。写真を撮られるのが得意ではないのだ。
「あ、かっこいいじゃん。優しそう」
「優しいよ」
「いい彼氏じゃん」
「……そうだね」
そうだね。間違っていない。カイは優しい。いい人だ。水族館ではチケットを買ってくれたし、私が好きそうな深海魚のコーナーで長めに立ち止まってくれたし、帰りにクレープを買うとき、迷っている私に「両方買えばいいじゃん」と言った(結局一つにしたけれど)。いい彼氏だ。文句のつけようがない。
文句のつけようがない。
その評価はグラスに注がれた水のように透明で、光を通して、何の濁りもなかった。でも透明であるということは、色がないということでもあった。
*
十月に入った。
金木犀が咲いた。キャンパスの中庭にある金木犀が一斉に花をつけて、大学全体がオレンジ色の甘い匂いに包まれた。カイと一緒に中庭を通ったとき、「いい匂いだな」とカイが言った。
「金木犀」
「知ってる。秋のやつ」
「好き、この匂い」
「俺も。なんか懐かしい感じする」
金木犀の匂いをかぎながら、並んで歩いた。昼間の中庭。学生がたくさんいて、ベンチで弁当を食べている人がいて、芝生に座って読書している人がいた。その中を二人で歩いた。
普通のカップルだった。
客観的に見て、私たちは完全に普通のカップルだった。週に三回くらい会う。LINEは毎日する。デートは月に二、三回。映画を観たり、カフェに行ったり、買い物をしたり。カイの友達に紹介された。「海人の彼女?」と言われて「はい」と答えた。私の友達にも紹介した。美咲がカイに会ったとき、カイは美咲に対しても自然に話していて、美咲はあとで「いい人だね。よるに合ってる」と言った。
合ってる。
合っている。たぶん。趣味が似ているわけではないけれど、会話の速度が近い。沈黙に対する耐性が似ている。食べ物の好みは違うけれど、違うことが不快ではない。相手の選んだものに興味を持てる。
何の問題もなかった。付き合い始めて一ヶ月。ケンカはゼロ。意見の食い違いもほとんどない。既読無視もないし、返信が遅くて不安になることもない。カイはいつも三十分以内に返信をくれた。内容はいつも簡潔で、でも冷たくはなくて、ときどき思いがけず面白いことを言った。
火曜日に「今日の夕飯何にするの」とLINEが来たので「肉じゃが」と答えたら、「肉じゃがって煮物界の安打製造機だよな」と返ってきた。笑った。声を出して笑った。カイの比喩はあいかわらず斜めの角度から来る。昼間の文字の中でも、それは変わらなかった。
変わらないものもあった。
*
変わったものもあった。
十月の第二週。木曜日の夜。午前三時。
目が覚めた。
アラームではない。二時五十五分のアラームは、九月の頭に切ってから一度もセットしていない。でも目が覚めた。体内時計が六週間の習慣を覚えていて、それが散発的に発動する。週に二回くらい。月曜と木曜が多い。理由は不明。
天井を見た。国境線があった。
目が慣れてくると、クロスの継ぎ目がはっきりと見える。あの最初の夜と同じ。でもあの夜は、この線の存在に気づいたことが、外に出るきっかけになった。今は見えても動かない。見えることと動くことは別の行為だ。
窓の外に意識を向けた。十月の深夜三時はもう寒い。夏の空気はとっくに去っている。あの、湿度が高くて柔らかくて、果物の皮を剥いたような匂いのする空気は、もうない。秋の深夜三時の空気は乾いていて、硬くて、肺に入ると少し冷たい。
外に出たいとは思わなかった。
思わなかった。思わないようにしていた——のではなく、本当に思わなかった。出る必要がなかった。カイとはLINEで繋がっている。明後日の土曜日にはデートの予定がある。恵比寿でパスタを食べて(また、と思ったけれど、カイはパスタが好きなのだ)、本屋をぶらぶらする予定。深夜三時に外に出る理由が、どこにもなかった。
スマートフォンを見た。カイからの最後のLINEは午後十一時の「おやすみ」。見慣れた二文字。毎晩のこと。
画面を閉じて、目を閉じた。眠りはすぐには来なかった。でも焦らなかった。二十分ほどうとうとして、そのまま朝まで眠った。
夢は見なかった。
*
本棚の脇の「夜光」の空き缶は、まだそこにあった。
四本。引っ越してきたときに百均で買った小さなトレーの上に並べてある。青いラベル。白い文字。メーカー名なし。バーコードなし。
最近、その前を通るとき、目が行かなくなっていた。ノートも——紺色のA6ノートも——本棚の三段目に差してあるまま、一ヶ月以上開いていなかった。最後の記録は八月二十七日。「夜光」を最後に飲んだ夜の記録。
冷凍庫のハーゲンダッツのストロベリーは、あの夜に半分食べたまま残っていた。たぶん霜がついて、もう元の食感ではなくなっている。捨てるべきかもしれない。でも捨てなかった。冷凍庫を開けるたびに視界の隅に入るけれど、手は伸ばさなかった。
標本箱は閉じていた。
埃が積もり始めていた。
*
十月の終わりの土曜日。
カイと渋谷で映画を観た。今度はアクション映画だった。前回のSFよりもわかりやすい話で、悪い人が倒されて正義が勝つ。ポップコーンを買った。今回は買った。キャラメル味。二人で同じ紙容器から食べた。カイの指と私の指がポップコーンの上でときどき触れた。
映画のあと、カイが「ちょっと歩かない?」と言った。
渋谷の街を歩いた。土曜日の夕方の渋谷は人が多くて、歩道を人が絶え間なく流れていた。その流れの中を二人で歩いた。カイが私の手を取った。自然に。人混みではぐれないように、という実用的な理由と、恋人だから手を繋ぐという感情的な理由が、五分五分くらいの手の繋ぎ方。
手を繋いだまま歩いた。渋谷の街。ネオンの光。音楽。人の声。車のクラクション。情報量が深夜三時の千倍くらいあった。千倍の情報の中を、カイの手を握って歩いた。
「寒くなってきたな」
「うん。もうコートいるかも」
「よるって寒がり?」
「そうでもない。でも手は冷たい」
「確かに冷たい」
カイが私の手を少し強く握った。温めるように。
「お茶でもする?」
「うん」
適当に入ったカフェは、どこにでもある小さな店だった。テーブル席が六つ。奥の席に座った。カイはホットのブレンドコーヒーを頼み、私はホットのほうじ茶ラテを頼んだ。
向かい合った。
向かい合って、コーヒーを飲むカイを見た。
ホットコーヒーの湯気がカイの顔の前でゆらいでいた。カイはカップを両手で持って、少しだけ猫背になっていた。店内の照明は暖色系のダウンライトで、顔に落ちる影が柔らかかった。
きれいだ、と思った。
思ったけれど、口には出さなかった。昼間のカフェで向かい合っている相手に「きれいだ」とは言いにくかった。深夜三時に青い街灯を見上げながらなら——あの夜のカイなら——同じ言葉を声に出していたかもしれない。あの時間には言葉が軽かった。重力がなかった。でも昼間の言葉は重い。「きれい」の三文字が、白昼の中では告白のような重さを持ってしまう。
「どうした?」
「ん。何でもない」
何でもない。この返答を使う頻度が増えている気がした。何でもない。何でもなくはないのだけれど、何であるかを説明するための語彙が見つからないとき、この四文字で蓋をする。蓋。蓋が増えている。
カイがコーヒーを飲んだ。飲み方はBOSSのブラックを飲むときと同じだった。少し傾けて、ゆっくり口に含む。それを見て、不意に思い出した。缶コーヒーのプルタブを開ける音。深夜三時のコンビニの前で、あの小さな金属音がしていた。カシュ、という音。今はカップの陶器がソーサーに当たるかちゃ、という音。
似ているようで違う音だった。
「最近さ」
カイが言った。
「うん」
「なんか静かだよな、よる」
「静か?」
「昔はもうちょっと……いや、昔っていうか」
カイが言い淀んだ。「昔」という言葉の指す先を修正しようとして、うまく修正できなかったように見えた。
「いいよ。何」
「いや、前のほうがよく喋ってたなって」
前。前とはいつのことだろう。昼間のデートを始めてからの「前」なのか、それとも——深夜三時の「前」なのか。
「そう? 普通に喋ってると思うけど」
「そうかな」
「そうだよ」
会話が終わった。終わったことが自然だった。以前なら——深夜三時の以前なら——カイの「そうかな」の中にある疑問符を、私は追いかけていた。追いかけて、その先にある何かを引っ張り出していた。暗闇の中の会話には、そういう粘り気があった。糸を引くように、言葉が次の言葉を連れてきた。
今は糸が切れていた。
切れている、というのは正確ではない。糸はまだある。でも糸の材質が変わっていた。深夜三時の糸は蜘蛛の糸のように繊細で、触れると振動が相手に伝わった。昼間の糸は丈夫で実用的だけれど、振動を伝えなかった。
ほうじ茶ラテを飲んだ。温かくて、甘くて、おいしかった。
*
十一月。
付き合い始めて二ヶ月が経った。
何も変わらなかった。何も壊れなかった。カイは相変わらず優しくて、相変わらず簡潔で、相変わらず斜めの角度から面白いことを言った。デートは月に三回。LINEは毎日。ケンカはゼロ。
完璧だった。
完璧な交際。完璧な恋人。どこにも傷がなくて、どこにも綻びがなくて、安定していて、安全で、予測可能で。
予測可能。
朝の「おはよう」は八時前後に来る。昼間のメッセージは一日に三往復から五往復。「おやすみ」は十一時前後。デートの行き先はカイが提案して、私が了承するか別の案を出す。食事はだいたいパスタかカレー。映画はだいたい月に一回。
すべてが予測可能だった。
あの深夜三時のズレのような、予測不可能な何かが、昼間のカイとの関係にはなかった。自販機に「夜光」が出るか出ないか。公園の時計がどれくらい遅れるか。白黒の猫がいるかいないか。カイがコンビニの前にいるかいないか。
あのころは、毎晩が小さなくじ引きだった。何が出るかわからない。わからないからこそ、出たものが全部特別だった。BOSSのブラックという予測可能な選択でさえ、深夜三時に飲まれることで予測不可能な飲み物になっていた。
今は——
今のすべてが予測可能だった。
カイが何を頼むか知っている。何を言うか大体わかる。デートの帰りに改札の前で片手を上げて「じゃあね」と言うことも。三十分以内にLINEで「今日楽しかった」と送ってくることも。
間違っていない。何も間違っていない。恋人の行動が予測できるのは信頼の証だ。安定した関係の証拠。いいことだ。
いいことのはずなのに——
——あの頃は沈黙すら良かった。
ふいに、その記憶が浮かんだ。
深夜三時の公園のベンチで、何も話さずに並んで座っていた時間。カイが缶コーヒーを飲み、私がアイスを食べ、遠くの信号が色を変え、虫が鳴き、空気が静かで、沈黙が水のように二人のあいだを満たしていた。
あの沈黙は重くなかった。あの沈黙には圧力がなかった。黙っていても何かが通じていた。言葉にしなくても、空気を通して、深夜三時だけに開く回線を通して、何かが流れていた。
今の沈黙は違う。
カフェで向かい合って、ふと会話が途切れたとき、その途切れを埋めなければという小さな焦りが生まれる。スマートフォンを見る。カイもスマートフォンを見る。BGMが流れている。その音が、沈黙の存在を強調する。テーブルの上の空白が、深夜三時の空白とは全く別の空白だった。
深夜三時の沈黙は「何もない」の豊かさだった。昼間の沈黙は「何かがあるべき場所に何もない」の空虚さだった。
いつからこうなったのだろう。
いつから沈黙が気まずくなったのだろう。カイが変わったのか。私が変わったのか。それとも時間帯が変わっただけで、中身は何も変わっていないのか。
*
十一月の第三週。夜中に目が覚めた。
午前三時十一分。
スマートフォンの画面が暗闇の中で光った。時刻を確認して、画面を閉じた。仰向けに戻った。天井を見た。
最近、午前三時に起きる頻度が上がっていた。週に二回が三回になり、三回が四回になった。体内時計が何かを訴えていた。目覚ましのない目覚め。セットしていないアラーム。切ったはずの回線から届くシグナル。
天井の国境線を見ていた。
外に出たいとは思わない。思わない。今はもう十一月で、外は寒くて、コンビニまでの道のりに金木犀の匂いはもうなくて、代わりに冬の前触れの匂いがする。深夜三時に外に出る季節ではない。
でも。
あの空気のことを考えた。考えてしまった。七月の、あの最初の夜。蒸し暑くて、湿度が高くて、肌に触れる空気が霧の向こうから届く手紙のようだった夜。コンビニの蛍光灯が水族館のように光っていた夜。ハーゲンダッツのストロベリーをガードレールに座って食べた夜。
あの夜、私は世界の底を見た。
今、底は見えない。水面の上にいる。昼間の水面。光が強くて、人が多くて、音が多くて、底が見えない。
カイと一緒にいても、底は見えない。
カイと一緒にいるから、底が見えないのか?
その問いが浮かんで、すぐに打ち消した。違う。カイのせいではない。時間帯のせいだ。昼間には底が見えないだけだ。深夜三時に出れば見える。出れば——
でも出ない。
出なくなったのは、私の選択だ。出る必要がなくなったからだ。カイとはLINEで繋がっている。昼間に会える。夜に外に出る理由がない。理由がないことを、理由がないから出ない、と正しく処理している。
正しく。
正しく処理する私。正しくコーヒーを一杯だけ淹れる私。正しく八時十二分の電車に乗る私。正しく恋人と交際する私。
全部正しい。
全部正しいのに、午前三時に目が覚める。
*
十一月の最終週。木曜日。
大学の帰りにカイと駅前のドトールに寄った。カイはブレンドコーヒーのS。私はカフェラテのM。木曜日なのでバイトがない。少し時間がある。
窓際の席に座った。向かい合い。外は暗くなり始めていて、店の照明が窓ガラスに反射して、二人の姿がうっすらと映っていた。ガラスの中の私たちは輪郭がぼやけていて、少しだけ深夜三時の二人に似ていた。
「よる」
「ん」
「最近夜出てないでしょ」
コーヒーカップを持つ手が、一瞬だけ止まった。
一瞬。たぶん〇・五秒。でもカイはそれを見ただろう。カイは——深夜三時のカイは——そういう微細な変化を拾う人だった。
「……出てないよ。もう秋だし」
「秋だからか」
「寒いし」
「寒いからか」
カイの声は平らだった。責めてはいなかった。問い詰めてもいなかった。ただ確認していた。出てないでしょ。出てないよ。寒いからか。寒いし。事実の確認と、事実の応答。
「カイは?」
聞いていた。聞くつもりはなかったのに。
カイはコーヒーを一口飲んだ。
「たまに」
「……出てるの?」
「たまに」
たまに。カイはたまに深夜三時に出ている。付き合い始めてから、一度もその話をしなかった。私は出なくなったし、カイも出なくなったと思っていた。二人とも昼間の世界に移行したのだと。
「一人で?」
「一人で」
「何してるの」
「歩いてる。前と同じように」
前と同じように。前というのは——私たちが一緒に歩いていたころの前か。それとも、その前の、カイが一人で歩いていたころの前か。
「自販機とか、時計とか」
「見てる。まだズレてる」
まだズレてる。その言葉が、テーブルの上に静かに置かれた。コーヒーカップの横に。まだズレてる。深夜三時の世界は、私が行かなくなっても、変わらずそこにあった。公園の時計は遅れ、自販機には時々「夜光」が現れ、白黒の猫は塀の上で八秒かけて瞬きをしている。
私がいなくても。
私がいなくても、あの世界は回っている。私の不在に気づきもせずに。
「よるは」
カイが言った。
「もう行かないの」
行かないの。疑問形。でも声はほとんど平叙文だった。答えを求めているのではなく、答えをすでに知っている人の声。
私は——
答えられなかった。
「行かない」と言えばよかった。簡単だ。三文字。行かない。もう昼間に会えるのだから、夜に出る必要はない。合理的な回答。正しい回答。
でも口が動かなかった。
「行かない」と言ったら、何かが確定してしまう気がした。あの世界との回線が、言葉によって物理的に切断される。今はまだ、行っていないだけだ。行けないのではなく、行っていないだけ。回線は生きている。アラームをセットすれば、カーディガンを羽織れば、ドアを開ければ、いつでも戻れる。
行かない、と言ったら、それが嘘になる。行きたくないわけではないから。行きたいのか行きたくないのか、自分でもわからないから。
わからない。
自分が好きだったのはカイなのか、あの時間なのか。
その問いが、十一月の終わりのドトールの窓際の席で、ついに正面から私の前に立った。ずっと視界の端にいた。ずっと気配はしていた。でも正面に立たせなかった。横を向いていれば見なくて済んだ。
でも今、カイが「最近夜出てないでしょ」と言った瞬間に、その問いが正面に回り込んだ。避けられなくなった。
自分が好きだったのはカイなのか、あの時間なのか。
深夜三時のコンビニの前で、缶コーヒーを飲んでいた男が好きだったのか。それとも、缶コーヒーを飲んでいた男がいた時間が好きだったのか。
カイがいたから、あの時間が特別だったのか。あの時間が特別だったから、カイが特別に見えたのか。
答えが出なかった。
カイは私の顔を見ていた。待っていた。答えを。
「……わからない」
言ったのはそれだけだった。質問に対する答えではなかった。カイが聞いたのは「もう行かないの」で、「わからない」は噛み合っていない。でもそれ以外の言葉が出てこなかった。
カイは少しのあいだ黙って、それからコーヒーを飲み干した。
「そっか」
短く言った。それ以上は何も聞かなかった。
窓の外は完全に暗くなっていた。ガラスに映った二人の姿が、さっきよりくっきりと見えた。店内の照明が顔を照らし、外の暗闇が背景になっている。
ガラスの中の二人は、向かい合っていた。テーブルを挟んで。コーヒーカップを挟んで。
深夜三時の二人は、向かい合わなかった。並んでいた。同じ方向を見ていた。
今、向かい合って座っているこの距離が、並んで座っていたあの距離より遠かった。テーブルの幅は六十センチくらいだ。公園のベンチで肩が触れていた距離はゼロセンチだった。数字だけ見れば、今のほうがずっと遠い。
数字だけの話ではない、とわかっていた。
わかっていて、それでも、数字のことを考えていた。




