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午前3時のルール  作者: 今井 幻


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8/12

第8話「ズレの正体」

 十二月の第一週だった。


 木曜日。ドトールでの会話から十日が経っていた。


 十日のあいだ、何も起きなかった。カイとは普通にLINEをして、日曜日に吉祥寺でデートをした。井の頭公園を歩いて、古着屋を二軒まわって、カイがモスグリーンのニットを試着しているのを見た。似合っていた。「いいんじゃない」と言った。カイは買わなかった。


 普通の日曜日だった。普通に楽しかった。


 でも夜になると目が覚めた。午前三時。天井。国境線。毎晩ではないけれど、三日に一度。眠りの底から浮き上がるように意識が覚醒して、暗い天井を見つめる時間が生まれた。


 十日目の夜、私はカイにLINEを送った。


 午後十時。寝る前。


「久しぶりに夜、散歩しない?」


 送ってから画面を見つめた。自分が送った文字列を読み返した。久しぶりに。夜。散歩。三つの単語が並んでいて、その三つが指し示すものが何なのか、カイにはわかるはずだった。


 返信は三分後に来た。


「いいよ。今夜?」


「今夜。3時に。いつもの場所で」


「了解」


 いつもの場所。コンビニの前。ゴミ箱と灰皿のあいだ。その空間を「いつもの場所」と呼ぶのは三ヶ月ぶりだった。三ヶ月のあいだ、あの場所は「いつもの場所」ではなく「かつての場所」になっていた。


 でも今夜、もう一度「いつもの場所」に戻す。


   *


 二時五十五分にアラームが鳴った。


 三ヶ月ぶりのアラーム。マリンバの音。以前は控えめに聞こえていたその音が、今夜は妙に大きく感じられた。久しぶりに使った目覚まし時計が、戸惑っているような音。お前、最近来なかったじゃないか、という非難が含まれているような。


 起き上がった。


 クローゼットを開けた。


 カーディガンがあった。夏からそのまま、ハンガーにかかっている。手に取った。生地が冷たかった。十二月の部屋の空気を吸い込んで、繊維のひとつひとつが冷えていた。夏の夜にはちょうどよかったこのカーディガンは、十二月の深夜三時には薄すぎた。


 少し迷って、カーディガンの上にダウンジャケットを着た。七月には存在しなかった上着。あの頃の私の装備には含まれていなかった新しい層。


 ショートパンツはやめた。デニムのパンツを穿いた。サンダルの代わりにスニーカーを履いた。


 鍵。財布。スマートフォン。


 六つのアイテムのうち三つが入れ替わっていた。カーディガンがダウンジャケットに、ショートパンツがデニムに、サンダルがスニーカーに。手順は同じでも、中身が違う。儀式の形式は保たれているのに、祭具が別のものになっている。


 玄関のドアを開けた。


   *


 冷たかった。


 十二月の深夜三時の空気は、七月のそれとは完全に別の物質だった。あの湿度、あの柔らかさ、果物の皮を剥いた瞬間のみずみずしさ——そういったものは全部消えていた。代わりにあったのは、乾いた、硬い、刃物のような空気だった。鼻から吸い込むと、鼻腔の粘膜が一瞬で冷える。喉の奥まで冷気が届く。


 これがあの空気か、と思った。


 違った。


 あの空気ではなかった。同じ時刻の、同じ街の、同じ空間にある空気なのに、別のものだった。季節が変わったからだ。当然だ。七月と十二月で空気が同じはずがない。


 でも季節のせいだけではない何かが、足りなかった。


 歩き始めた。いつもの道。クリーニング屋の前を通った。シャッターが下りている。百合の絵があるはずだった。


 立ち止まって、シャッターを見た。


 街灯の光で照らされている。オレンジ色の光がシャッターの銀色の表面を照らしている。表面には——


 何も描かれていなかった。


 いや、百合はあった。あるはずだった。最初の夜に見た、薄い青の百合。深夜三時にだけ浮かび上がる、水底の植物のような花。


 目を凝らした。


 銀色のシャッター。傷がいくつかある。少し錆びている箇所がある。下端に汚れがある。でも花は——百合は——見えなかった。


 昼間に見えないのは知っていた。だからこそ昼間には確認しに行かなかった。深夜三時にだけ見えるものだと思っていた。


 今、深夜三時だ。


 三時七分。スマートフォンで確認した。間違いなく深夜三時。なのに百合が見えない。


 気のせいだったのかもしれない。最初から。あの夜、眠れなくて外に出て、深夜三時の空気に酔って、シャッターの傷や汚れを百合に見間違えただけなのかもしれない。


 そう思おうとした。


 思えなかった。あの百合は確かにそこにあった。薄い青で、水底のように揺れていた。見間違いではなかった。


 見間違いではなかったものが、今は見えない。


   *


 公園に着いた。


 時計を見上げた。


 秒針が動いていた。カチ、カチ、カチ。一秒に一メモリ。正常な速度。


 スマートフォンのストップウォッチを起動した。秒針が12の位置を通過するタイミングで計測を開始した。六十秒後、秒針はちょうど一周していた。六十秒で六十メモリ。完璧に正常。


 時刻もスマートフォンとほぼ一致していた。誤差は三十秒以内。公共の時計としては充分な精度。


 遅れていなかった。


 ゆっくりでもなかった。普通に、正常に、昼間と同じ速度で、時計は動いていた。


 ストップウォッチを止めた。画面を閉じた。


 ブランコが二つ、暗闇の中で静止していた。風はなかった。ブランコは動かなかった。あの七月の夜には、風もないのにわずかに揺れていた。今は揺れていない。鎖が冷たい金属の色をして、まっすぐに垂れ下がっていた。


   *


 コンビニが見えた。


 蛍光灯の白い光。あの水槽のような光。


 ——白かった。白いだけだった。


 七月に感じたあの粘度、空気ごと発光しているような密度、水族館の中に入り込んだような非現実感。どれもなかった。蛍光灯は蛍光灯だった。コンビニはコンビニだった。二十四時間営業の、チェーン店の、ありふれた深夜のコンビニ。


 カイがいた。


 コンビニの前に立っていた。しゃがんではいなかった。立っていた。黒いダウンジャケット。ジーンズ。スニーカー。右手に缶コーヒー。


「来た」


 カイが言った。


「来たよ」


 声が白く煙になった。十二月の深夜三時。吐く息が目に見える。七月にはなかったもの。二人の口から出る言葉が、白い形になって空気に溶けて消えた。


「久しぶりだな、この時間」


「三ヶ月ぶり」


「寒い」


「寒いね」


 寒い、という会話を深夜三時にしたのは初めてだった。七月には「寒い」は語彙に含まれていなかった。暑い、蒸す、汗。そういう言葉があの季節の言葉だった。


「歩く?」


「うん」


   *


 歩き始めた。


 いつもの道。二人分の足音。ぺた、ぺた、ではなく、こつ、こつ。スニーカーの音。サンダルの音はもうない。


 足音が違った。


 足音が違うだけで、歩くリズムが違った。サンダルの足音には怠惰な軽さがあった。地面を投げやりに叩く音。深夜三時にふさわしい、脱力した音。スニーカーの足音は規則正しくて、目的のある音だった。どこかに向かっている人の足音。昼間の足音。


 カイの足音も同じだった。こつ、こつ。二人のスニーカーが十二月のアスファルトを踏む音。硬い音。乾いた音。


 駅前通りの自動販売機の前を通った。


 立ち止まった。


 三段目の右端。カイが隣で同じものを見ていた。


 BOSSの贅沢微糖。


「夜光」はなかった。


「ないな」


 カイが言った。


「ない夜もあったから」


「うん。でも最近はずっとない」


 最近は。カイは最近のことを知っている。たまに来ている、と言っていた。


「いつからない?」


「十月の頭くらいから。それから一度も出てない」


 十月の頭。私が深夜三時に出なくなってから、一ヶ月ほど経った頃。


「……前は?」


「九月までは時々あった。でもだんだん頻度が下がっていって、最後にあったのが十月一日。それから一度も」


 カイの声は淡々としていた。事実を報告する声。でもその淡々の下に、何かが沈んでいるのが聞こえた。底のほうに。


「時計は」


「先月から普通に動いてる」


「猫は」


「いない。十月の半ばから見てない」


 私は自動販売機の光に照らされたカイの横顔を見た。ダウンジャケットのフードが首の後ろに垂れていて、息が白かった。横顔の輪郭は変わらなかった。鼻筋の線も、顎の角度も、睫毛の長さも、夏と同じだった。


 でも光が違った。


 自動販売機の光がカイの顔を照らしている。蛍光灯の白い光。あの七月の夜にも、同じ種類の光がカイの顔にあたっていた。でもあの夜は、光の中にもう一つ別の層があった。深夜三時だけのフィルターが光にかかっていて、それがカイの顔を——世界のすべてを——日常から半音だけずらしていた。


 今、そのフィルターがなかった。


 光はただの光だった。白い光が白い光として、カイの顔を照らしている。それ以上でもそれ以下でもない。何の変換も加えられていない、生の蛍光灯の光。


「行こうか」


 カイが歩き出した。私も歩き出した。


 住宅街を抜けた。ブロック塀の上に猫はいなかった。塀はただの塀だった。灰色のコンクリートブロック。表面にひびが一本入っている。それだけ。


 線路沿いの道に出た。金網の向こうにレールが二本。街灯に照らされている。


「振動してる?」


 カイが聞いた。


 レールを見た。じっと見た。


 動いていなかった。


 金属の二本の線が、暗闇の中で冷たく光っているだけだった。振動はなかった。電車の記憶を再生している気配もなかった。レールは死んだ蛇のように横たわっていた。静かで、冷たくて、何も伝えていなかった。


「……してない」


「だよな」


 カイはそう言って、金網から手を離した。


   *


 駅前通りの、あの交差点を通った。


 信号が変わった。赤から青へ。カッ、カッ、カッ。歩行者用信号の音。七月の夜には昼間の三倍に聞こえた音。今は——普通の音量だった。普通に、機械的に、一定のリズムで鳴っている。


 青い街灯は、なかった。


 すべての街灯がオレンジ色だった。均一に。ナトリウムランプの、温かくて単調な色。一本だけ青く光る街灯は、どこにもなかった。


 わかっていた。


 わかっていたのだ。外に出る前から。出たらどうなるか。たぶんこうなる。たぶんもう見えない。たぶんもう聞こえない。たぶんもう——


 歩きながら、自分の内側を観察していた。観察者の目で。ノートに書くように。


 深夜三時の街を歩いている。カイが隣にいる。同じ道、同じ時間、同じ二人。七月と同じ三つの条件が揃っている。なのに四番目の条件——受信する側の周波数が合っていなければ拾えない何か——が、欠落していた。


 チューニングが合わなくなっている。


 ラジオのダイヤルをどれだけ回しても、あの周波数が見つからない。ノイズだけが流れている。ノイズですらない。ただの沈黙。何も受信できない沈黙。


 知ってしまったからだ。


 名前を知った。LINEを交換した。昼間に会った。カフェで向かい合った。映画を観た。手を繋いだ。パスタを食べた。古着屋に行った。「いい彼氏じゃん」と言われた。「おはよう」「おやすみ」を毎日送った。


 全部やった。全部正しいことをした。恋愛のテンプレートに沿って、一つずつ項目にチェックを入れていった。正しく。きちんと。


 そのチェックのひとつひとつが、深夜三時の周波数を〇・一ずつずらしていた。ひとつでは気づかない。ふたつでもまだ。でも積み重なると、いつの間にか完全に外れている。チューニングダイヤルが動いたのは私のほうだ。深夜三時の世界は動いていない。私が、動いた。


「普通」にしたからだ。


 カイを——海人を——昼間の座標系に載せて、昼間のルールで関係を構築して、深夜三時の特別さを昼間の「普通」に翻訳した。翻訳は可能だった。でも翻訳の過程で、原文にあったニュアンスが失われた。行間にあったものが。余白にあったものが。言語化できない微細な振動が。


 翻訳不可能なものを翻訳してしまった代償が、これだった。


   *


 公園に戻ってきた。一周。


 金属のベンチに座った。二人で。


 冷たかった。十二月の金属は容赦がなかった。七月の「ひんやりして気持ちいい」とは次元の違う冷たさが、デニムの裏側を突き抜けてきた。


 二人のあいだには、拳ひとつぶんの距離があった。夏の終わりに到達したあの距離と、数字の上では同じ。でも同じ距離が同じ距離ではなかった。拳ひとつの中に含まれている空気の質が違う。夏のあの拳ひとつは、もう少しで触れる期待で満ちていた。今の拳ひとつは、触れることへのためらいで満ちていた。


 黙っていた。


 二人とも黙っていた。


 沈黙があった。かつて心地よかった沈黙が。水のように二人のあいだを満たしていた沈黙が。


 でもこれは、あの沈黙ではなかった。


 あの沈黙は言葉の不在ではなく、言葉の代替だった。黙っていても通じるものがあった。空気を通じて、深夜三時の回線を通じて、何かが流れていた。名前のない何か。


 今の沈黙は——ただの沈黙だった。


 言葉がないだけ。通じるものがないだけ。二人の間に横たわる空白が、ただの空白として、ただそこにある。


 カイが缶コーヒーを飲んだ。BOSSのブラック。プルタブはとっくに開いていて、もう冷めているはずだった。カイはそれを、それでも飲んだ。


 私は何も持っていなかった。コンビニでアイスを買おうと思ったのに、通り過ぎてしまった。買うことを忘れていた。いつもなら忘れない。アイスを買うことはこの散歩の儀式の一部だった。忘れたという事実が、何かの指標に感じられた。計器の針がゼロを指している。


「よる」


 カイが言った。缶コーヒーの缶を両手で包むようにして。


「うん」


「見えてないだろ」


 静かな声だった。深夜三時のカイの声。低くて、柔らかくて、蛍光灯の白を含んだ声。その声だけは変わっていなかった。


 見えてないだろ。問いかけではなかった。確認だった。


 答えなかった。答えの代わりに息を吐いた。白い息が闇に溶けた。


「百合も、時計も、夜光も」


 カイが続けた。


「……見えない」


 認めた。


 声にした瞬間、胸の中で何かが折れた。乾いた枝が折れるときの、あの短い音。ぱき、と。もろい音。抵抗なく折れる音。


「そうだと思った」


 カイは言った。


「いつから思ってた」


「ドトールのとき。よるの顔見て、わかった」


 ドトール。あの木曜日。「最近夜出てないでしょ」と言われたとき。あの時点で、カイは私が「こっち側」でなくなっていることに気づいていた。


「カイは——」


 言いかけて、止まった。


 聞きたいことがあった。でも聞くのが怖かった。怖いというのは正確ではない。聞いたら答えが確定してしまうことが、怖かった。


「カイは、まだ見えてる?」


 聞いた。


 カイは缶コーヒーを膝の上に置いて、空を見上げた。十二月の空。黒い空。星がいくつか見えた。冬の空は澄んでいて、夏より星が多い。


「——わからない」


 カイが言った。


「わからない?」


「今夜は、よると一緒だから。よると一緒のときに見えてるかどうかは、よるがいないときとは条件が違う」


 科学者みたいなことを言った。観察条件が変わると結果が変わる。それはそうだ。でもそれは答えではなかった。


「一人のときは」


「一人のときは——」


 カイが言葉を切った。長い間があった。缶コーヒーの缶を指先で回していた。空っぽの缶が、かすかな金属音を立てた。


「正直に言うと、最近は前ほどはっきり見えない」


「前ほど」


「夜光も九月に最後に一本出てから、ない。時計は、遅いときと普通のときがある。猫は——猫はたまにいる。でもそれが前の猫なのか別の猫なのかわからない」


 カイの声は静かだった。事実を並べていた。でも事実を並べる声の下に、何かが軋んでいた。


「俺もたぶん、少しずつずれてきてるんだと思う。こっち側から」


「何で」


「わからない。でも——」


 カイが私のほうを向いた。暗闘の中で、目だけが光っていた。街灯のオレンジ色を反射して。


「お前のせいじゃないよ」


 言われて初めて、自分がそう思っていたことに気づいた。私のせいだ、と。私が名前を聞いたから。私がLINEを交換しようとしたから。私が昼間に引きずり出したから。私が「普通」にしたから。カイまでこっち側から外れ始めている。


「お前のせいじゃない」ともう一度カイが言った。「俺が名前を教えたのも、LINEを出したのも、昼間に会おうって言ったのも、俺だ。お前が引っ張ったんじゃない。俺が歩いたんだ」


 わかっていた。でもわかることと腑に落ちることは別で、カイの声でそう言われても、胸の中の折れた枝は折れたままだった。


   *


 四時を過ぎた。


 東の空が変わり始める——はずだった。


 変わらなかった。


 十二月の四時はまだ真っ暗だった。日の出は六時半過ぎ。七月とは二時間近く違う。あの夏の夜明け、紺色から紫、紫から藍、藍から白、空の色が一秒ごとに移り変わっていくあの時間は、ここにはなかった。暗い空が暗いまま、変わらずにそこにあった。


「帰ろうか」


 カイが立ち上がった。


「うん」


 私も立ち上がった。


 並んで歩き出した。コンビニの方向へ。いつもの解散場所へ。


 足音が二人分。こつ、こつ、こつ、こつ。スニーカーとスニーカー。硬い音。乾いた音。


 黙っていた。


 ずっと黙っていた。公園からコンビニまでの五分間、一言も話さなかった。話さなかった理由は——話すことがなかったのではない。話すことはあった。たぶんたくさんあった。でもどの言葉も、口に出した瞬間に嘘になる気がした。「大丈夫」は嘘。「何とかなる」は嘘。「また来よう」は嘘。嘘ではない言葉を探して、見つからないまま、五分が過ぎた。


 沈黙が重かった。


 七月の沈黙は羽毛のように軽かった。十二月の沈黙は石のように重かった。同じ「何も言わない」なのに、含まれている質量が違う。七月の沈黙には未来があった。これから何が起きるかわからない、という可能性の質量がゼロに近かった。十二月の沈黙には過去があった。かつてあったものが今はない、という喪失の質量が、一歩ごとに足元に溜まっていった。


 コンビニの前に着いた。


 蛍光灯の白い光。ゴミ箱と灰皿。自動ドアのガラスに二人の姿が映っていた。ダウンジャケットを着た二人。七月には、カーディガンとTシャツの二人がそこに映っていた。


 カイが空き缶をゴミ箱に入れた。BOSSのブラック。からん、という軽い音。


「じゃあ」


 カイが言った。いつもの別れの合図。


「じゃあ」


 私も言った。


「おやすみ」


「おやすみ」


 カイが歩き出した。反対方向。スニーカーの足音。こつ、こつ、こつ。


 見送った。


 カイの背中が遠ざかっていった。黒いダウンジャケットの背中。七月には黒いTシャツの背中だった。背中の面積が大きくなっている。ダウンジャケットのぶん。


 背中が小さくなっていく。角に近づいていく。


 ——並んで歩いていたのに。


 さっきまで並んで歩いていた。肩と肩の距離は五十センチくらいだった。夏のピーク時の拳ひとつ分よりは遠くて、最初の夜のベンチの両端よりは近い。


 数字の上では、それなりに近かった。


 でも数字では測れない距離があった。


 並んで歩いていた五十センチの中に、七月にはあったものがなかった。期待。予感。驚き。名前のない飲み物。遅れる時計。青い街灯。世界がほんの少しだけずれている、その微かな傾斜を二人で滑っていく感覚。あの全部が、五十センチの中から抜け落ちていた。


 抜け落ちた後の五十センチは、ただの五十センチだった。物理的な距離。腕を伸ばせば届く距離。でも腕を伸ばしても届かないものが、その中に空洞として残っていた。


 カイが角を曲がった。


 消えた。


 足音が聞こえなくなった。


 私は一人でコンビニの前に立っていた。十二月の深夜四時。蛍光灯の白い光。吐く息が白い。手が冷たい。ダウンジャケットのポケットに手を入れた。


 ポケットの中で、スマートフォンに指が触れた。


 画面を見なかった。


 帰り道を歩いた。一人分の足音。こつ、こつ、こつ。いつもの道。昼間と同じ道。深夜三時と昼間の区別がつかない道。


 同じ道。同じ街灯。同じ建物。


 何のズレもない、正常な、正確な、深夜の街。


 正常な街を、正常な速度で、正常な一人の女が歩いている。それだけのことだった。

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