第3話「コンビニ前の男」
三度目の夜から、私は数えるのをやめた。
四度目、五度目、六度目。アラームは毎晩二時五十五分に鳴り、私は毎晩同じ手順で支度をして外に出た。カーディガン、ショートパンツ、鍵、財布、スマートフォン、サンダル。六つのアイテムを身につける順番まで固定された。新しいルーティンが古いルーティンの隣に並んだ。昼間の私は七時に起きてコーヒーを淹れる。深夜の私は二時五十五分に起きてドアを開ける。どちらも同じ精度で、同じ正確さで。
違いがあるとすれば、深夜のルーティンのほうが少しだけ呼吸が深い、ということくらいだった。
メモは増え続けた。
スマートフォンのメモアプリでは足りなくなって、大学生協で小さなノートを買った。A6サイズの、表紙が紺色のやつ。百二十円。そこに日付と時刻と観察内容を書き込んでいった。
ズレは毎晩あった。でも毎晩同じではなかった。
ある夜は、街灯の光がいつもよりオレンジ色に濃かった。通りの向こうまでマーマレードを塗り広げたような色。別の夜は、アスファルトの上に水たまりがあった。雨は降っていなかった。水たまりは翌朝には消えていた。また別の夜には、線路沿いの金網に絡まっている雑草が花をつけていた。白い、小さな花。翌日の昼間に確認しに行ったら、同じ雑草はあったが花はなかった。蕾すらなかった。
自販機の「夜光」は、出る夜と出ない夜があった。法則はわからない。あるときは三段目の右端、あるときは二段目の左から四番目。場所も一定しない。ただ味はいつも同じだった。冷たくて、うすく甘くて、飲み終わった後に青い余韻が残る。空き缶は本棚の脇に並べた。四本。小さなオーケストラの管楽器セクションのように。
公園の時計はだいたい遅れていた。ただし遅れ方には幅があった。五分の一の速度の夜もあれば、三分の一の夜もあった。一度だけ、ほぼ正常な速度で動いている夜があった。その夜はズレ自体が少なかった。街灯の色もアスファルトの水たまりもいつもどおりで、世界が深夜三時であることを忘れそうなくらい普通だった。
日によって、ズレの深さが違うのだ。
潮の満ち引きのように。あるいは、ラジオのチューニングのように。周波数が合う夜と、わずかにずれる夜がある。何に対する周波数なのかはわからない。
*
七月の最後の週に入っていた。
大学は試験期間の直前で、図書館の席が埋まるようになった。私は相変わらず昼間の生活を正確にこなしていた。講義に出て、ノートを取り、バイトに行き、夕飯を作った。木曜日に冷やし中華を作った。錦糸卵を焼くのに少し手間取ったけれど、仕上がりは悪くなかった。きゅうりは斜め薄切りにしてから千切りにする。ハムは細切り。トマトはくし形。酢醤油のたれに練りからしを溶く。
冷やし中華を食べながら、友人の美咲から来ていたメッセージに返信した。日曜日に映画を見に行こうという誘い。いいよ、と返した。何の映画かは聞かなかった。
誰にも言っていなかった。
深夜三時の散歩のことも、ズレのことも、ノートのことも、本棚の脇の青い缶のことも。言えない、のではなかった。言う相手がいない、のでもなかった。美咲に話すことはできた。でも話す必要がなかった。この秘密は、誰かと共有した瞬間に形が変わってしまう種類のものだった。箱を開けると状態が変わる、量子力学の猫。私はその箱を閉じたまま持ち歩いていた。
*
その夜も同じだった。同じはずだった。
二時五十五分。アラーム。支度。ドアを開ける。空気。
七月の終わりの空気は、月の初めよりも少し重たくなっていた。夏が深まると空気にも厚みが出る。図書館の本棚の奥のほうに進んでいくと、空気が古くなるのと似ている。でも不快ではなかった。こういう夜の散歩にちょうどいい。
いつもの道を歩いた。クリーニング屋の百合。公園の時計(今夜は約四分の一の速度)。住宅街を抜けて駅前通りに出る。自販機を確認する。今夜は「夜光」はなかった。残念だとは思わなかった。ない夜もある。
コンビニに向かった。
今夜はアイスを買おう、と思っていた。ハーゲンダッツの、今度はバニラにしようか。あるいはクッキー&クリーム。冷凍庫のストロベリーにはまだ手をつけていない。あれは展示品だ。食べるためのものと、保存するためのもの。用途が違う。
コンビニの灯りが見えた。
いつもの灯り。水槽のような白。深夜三時の定点。
その手前に、人がいた。
*
最初、私の足は普通に動き続けていた。
歩幅も速度も変わらなかった。視覚が情報を処理する前に、足がいつもの慣性で進んでいた。コンビニまであと三十メートル、二十メートル、十五メートル。
足が止まったのは十メートルの地点だった。
男が一人、コンビニの前にしゃがんでいた。
自動ドアの横、ゴミ箱と灰皿の間のスペース。膝を抱えるようにしゃがんで、右手に缶コーヒーを持っていた。黒いTシャツにグレーのイージーパンツ。スニーカー。年齢は——私と同じくらいに見えた。髪は少し長めで、耳にかかっている。顔はまだよく見えなかった。
しゃがんでいた。
急いでいなかった。
この二つの事実が、私の脳の中で小さな衝突を起こしていた。深夜三時に私がすれ違ってきた人々は、全員が通過する人だった。ジョギングの男、スーツの女、コンビニ袋の老人。全員が矢印を持っていた。ここからあそこへ。この時間を通り抜けて、昼の世界に帰るための矢印。
この男には矢印がなかった。
コンビニの前にしゃがんで、缶コーヒーを飲んでいた。それだけ。どこかに向かう途中ではなかった。どこかから帰る途中でもなかった。ただ、そこに、いた。深夜三時の世界に腰を据えて、くつろいでいた。
猫がお気に入りの塀の上で日向ぼっこをしているように。
私は十メートルの距離で立ち止まったまま、三秒か四秒か、たぶんもう少し長く、その人を見ていた。
男がこちらを向いた。
*
目が合った。
深夜三時の散歩を始めてから、誰かと目が合ったのは初めてだった。すれ違う人々は全員、私の輪郭をすり抜けていった。私は透明だった。この時間の中で透明であることに慣れていた。慣れて、心地よくさえ思っていた。
その透明が、破れた。
男の視線が私をまっすぐに捉えていた。暗くてよく見えなかったけれど、驚いた顔ではなかった。怪しむ顔でもなかった。ああ、いたんだ、という顔だった。道端に咲いている花を見つけたときの、あの穏やかな認識の顔。
「お前もこっち側?」
男が言った。声は低めで、けれど柔らかかった。蛍光灯の光がその横顔を照らしていた。睫毛が長い、と場違いなことを思った。
こっち側。
その言葉が耳に入った瞬間、私の中で何かが鳴った。音叉を叩いたときの、あの全身に広がる単一の振動。意味がわからなかった。わからなかったはずなのに、体が意味をわかっていた。
こっち側。深夜三時の、こっち側。通過するのではなく、ここに留まっている側。ズレに気づいている側。水面の下に潜っている側。
「……たぶん」
と私は言った。自分の声が深夜三時の空気の中に出ていくのを、妙に遠くから聞いた。
男はふっと笑った。笑い方は軽かった。でも軽薄ではなかった。パーカーのポケットに手を入れるみたいに自然な笑い。
「たぶん、ね」
缶コーヒーをひと口飲んで、男は立ち上がった。私より十センチくらい背が高い。百七十五前後。顔がはっきり見えた。整ってはいるけれど印象に残りにくいタイプの顔。街ですれ違っても目に留まらない。でも目が合うと離しにくい。黒目がちで、その黒の中にコンビニの蛍光灯の白が小さく映り込んでいた。
「いつもこの時間?」と男が聞いた。
「二週間くらい前から」
「ふうん。俺のほうが先輩だ」
「先輩」
「この時間の」
変な言い方だった。でも間違ってはいなかった。
「名前は」と私は聞いた。
「カイ」
「カイ」
「カイでいいよ。本名じゃないけど」
「偽名ってこと?」
「この時間の名前」
彼はそう言って、空になった缶コーヒーをゴミ箱に入れた。BOSSのブラック。百八十五グラム。ラベルは普通だった。メーカー名もバーコードもある、昼間の世界の飲み物。
「あんたは?」
「……よる」
言ってから気づいた。本名を言っていた。偽名の相手に、私は本名を差し出していた。フェアではない、と思ったけれど、今さら取り消す気にはならなかった。
「よる」とカイは繰り返した。「夜の、よる?」
「藤沢よるの、よる」
「どんな字?」
「ひらがな」
「ふうん」
カイは少し首を傾げて、それから頷いた。何を頷いたのかはわからない。
「いい名前だな、この時間には」
*
カイはコンビニの方を顎でしゃくった。
「なんか買う?」
「アイスを買おうと思ってた」
「じゃあ買いなよ。俺もう一本コーヒー買うから」
一緒にコンビニに入った。深夜三時に誰かと並んで自動ドアをくぐるのは初めてだった。蛍光灯の白い光が二人分の影を床に落とした。今まで一人分しかなかったものが二人分になった。それだけのことなのに、店内の広さが変わった気がした。同じ空間が少しだけ狭くなって、少しだけ温かくなった。
アイス売り場の前で迷った。バニラかクッキー&クリームか。結局バニラにした。新しいものを試す夜ではないと思った。今夜は別のものが充分に新しかった。
レジに持っていく。深夜シフトの店員は先週とは別の人で、若い女性だった。小さな声で「いらっしゃいませ」と言った。深夜三時にしては珍しく言葉があった。
カイが後ろから缶コーヒーをレジに置いた。同じBOSSのブラック。
「一緒に」
店員が頷いた。カイが二つ分の代金を出した。
「いい。自分で払う」
「いいんだよ、先輩だから。入学祝い」
「入学祝い」
「この時間への」
おかしな言い方だった。でも私は財布をしまった。断る理由を探す気力がなかったのではなく、断る必要がないと感じたからだった。このやりとりは、交渉でも駆け引きでもなかった。ただの事実の交換。缶コーヒーとアイスが紙袋に入る。レシートをもらう。三百八十二円。
店を出た。
*
カイはさっきと同じ場所にしゃがんだ。私はその隣に、少し距離を空けて——二人分の肩幅くらい——しゃがんだ。ガードレールに背中を預ける。アスファルトの熱はもう冷めていて、コンクリートのひんやりした感触がショートパンツの裏側に触れた。
ハーゲンダッツの蓋を開ける。バニラ。木のスプーンを刺す。表面がぱきっと割れる小さな音。最初のひと口。冷たくて、甘くて、正しかった。バニラにして正しかった。
カイはプルタブを開けて、コーヒーを飲んだ。
しばらく黙っていた。
沈黙が重くなかった。初対面の人間と黙っていると、普通は居心地が悪い。言葉で隙間を埋めなければならないという圧力が、どこからともなくかかる。でも深夜三時にはその圧力がなかった。空気がもともと静かすぎるので、沈黙がデフォルトで、言葉のほうが例外だった。水の中では息をしないのが普通で、息をするほうが特別であるように。
「あの自販機のやつ、気づいた?」
カイが言った。
心臓が一拍だけ速く打った。
「夜光」
「そう」
「気づいた」
「飲んだ?」
「四本」
カイは少し驚いた顔をした。今夜初めて見る表情の動きだった。
「四本。空き缶取ってあるんだ」
「部屋に並べてる」
「マジで。俺は最初の一本で怖くなってやめた」
「怖い?」
「いや、怖いっていうか。何飲んでんだろう俺、って」
「で、やめたの」
「やめた。二本目はないな、って」
「私は二本目もあったし三本目もあった」
カイはまた笑った。さっきとは少し違う笑い方だった。感心しているような、呆れているような。
「度胸あるな」
「度胸じゃない。おいしかったから」
「おいしかった?」
「青い味がする」
カイが缶コーヒーを持ったまま、こちらを見た。蛍光灯の白い光が彼の横顔の半分を照らし、半分を影にしていた。
「青い味、か」
「変?」
「いや。たぶん正しい」
それから少し間があった。カイがコーヒーを飲み、私がアイスを食べ、遠くの道路で信号が無人の交差点のために色を変えた。
「時計も?」と私は聞いた。
「公園の?」
「うん」
「遅いだろ、あれ」
「日によって速度が違う」
「それ」カイが人差し指を立てた。「そこまでわかってるの、すげえな」
「計った。ストップウォッチで」
「計ったの?」
「メモもつけてる」
カイは缶コーヒーを地面に置いて、両手を膝の上に乗せた。それからゆっくり首を振った。
「お前さ」
「よる」
「よる。お前、研究者タイプだな」
「そうかもしれない」
「俺はそこまでやんなかった。ただ、なんとなく、ああズレてんなって」
「いつから来てるの」
「春くらいから。四月の——桜が散ったちょっと後」
四月。三ヶ月前。私よりもずっと長く、この時間を知っている。
「最初から一人?」
「ずっと一人」
カイがそう言ったとき、声の温度が一瞬だけ変わった。低くなったのではない。表面の軽さの下に、何か固いものの輪郭が透けて見えた。骨の影。すぐに消えた。
「でもまあ、一人でも別に困んないんだよな、ここ」
「うん」
「困んないんだけど」
カイは缶コーヒーを拾い上げて、残りを一気に飲み干した。
「お前が立ってんの見えたとき、ちょっとびっくりした」
「急いでなかったから?」
「そう。この時間に急いでないやつ、初めて見た」
私はアイスの最後のひと口を食べた。バニラの甘さの余韻。木のスプーンの繊維が舌に少し触れる。容器の底に溶けた液体が薄く残っている。
「私も」と言った。「急いでない人、初めて見た」
*
歩こう、とどちらからともなく立ち上がった。
二人で歩くのは一人で歩くのと違った。当たり前のことだ。でもその当たり前のことが深夜三時に起きると、当たり前ではなくなる。
足音が二人分になった。
私のサンダルの、ぺた、ぺた、という音。カイのスニーカーの、す、す、という音。二つの足音が交互に、あるいはときどき重なって、深夜三時の道路に落ちた。一人で歩いているときは自分の足音だけが存在証明だった。今は二つの証明が並走している。
「猫いる」
カイが指さした。ブロック塀の上に白黒の猫がいた。私のノートに何度も登場する猫だ。
「知ってる。瞬きが遅いやつ」
「遅い?」
「一回の瞬きに八秒くらいかかる」
カイは猫を見た。猫はこちらを見ていた。カイが手を振った。猫はゆっくりと——八秒かけて——瞬きをした。
「ほんとだ」
「でしょ」
「こいつもこっち側なのかな」
「猫はもともと時間のルールが違うから」
「なにそれ。かっこいい」
かっこいいと言われたのは、たぶん人生で初めてだった。少なくとも記憶にない。私はそれに対して何も返さなかった。返し方を知らなかった。
線路沿いの道に出た。金網の向こうにレールが二本、オレンジ色の街灯に照らされて鈍く光っていた。
「振動してるの、見える?」とカイが聞いた。
「レール?」
「そう。電車走ってないのに」
「わかる。ノートに書いた」
「書いた?」
「三日目の夜に気づいた」
カイは金網に指をかけて、レールを見下ろした。
「俺の感覚だと、これ、昼間走った電車の記憶みたいなやつ」
「電車の記憶」
「レールがさ、覚えてんだよ。重さとか、速さとか。で、夜中に再生してる」
非科学的な説明だった。金属に記憶はない。レールの振動は地盤の微細な動きか、温度変化による収縮か、何か合理的な理由があるはずだった。でも私はカイの説明のほうがしっくりきた。この時間には、合理性よりもしっくりくることのほうが正しい。
「あんたさ」
「カイ」
「カイ。この時間のこと、誰かに話した?」
カイは金網から指を離して、少し考えるような顔をした。
「話さないだろ、普通」
「普通って何だろうね、ここでは」
「それもそうか」
また少し歩いた。二人分の足音。二人分の影。街灯の下を通るたびに影の長さが変わり、伸びて、縮んで、また伸びた。二つの影が同じリズムで伸び縮みするのを見ていたら、影絵人形劇の練習のようだと思った。
「でしょ」
カイが突然言った。
「え?」
「さっきの。自販機、時計、猫、レール。全部気づいてるんだろ」
「うん」
「で、怖くないんだろ」
「全然」
「だよな」
カイは前を向いたまま歩き続けた。
「怖い人は来ないんだよ、ここに。っていうか、怖い人はそもそも三時に起きない。起きても外に出ない。出ても、すぐ帰る。最後まで残るのは、ここが好きなやつだけだ」
「自然淘汰みたいに?」
「そう。この時間のフィルターをくぐり抜けたやつだけが残る。お前は——よるは、くぐり抜けた」
何回目のフィルターがあったのだろう、と考えた。最初の夜に外に出たこと。二度目の夜にアラームをセットしたこと。メモを取り始めたこと。「夜光」を四本飲んだこと。そのどれかが、あるいはその全部が、フィルターだったのかもしれない。
「カイは」
「ん?」
「くぐり抜けた人に、会ったことある?」
「お前が初めて」
さっきと同じ声の温度の変化。軽さの下の固いもの。今度は少しだけ長く透けて見えた。
「三ヶ月、ずっと一人だったってこと?」
「まあ」
「寂しくなかった?」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。でもカイは別に気にした様子もなく、ポケットに両手を入れたまま歩き続けた。
「寂しいっていうのとは違うな。一人が嫌だったわけじゃない。ただ——」
言葉が途切れた。
「ただ?」
「確認したかったのかもしれない。俺以外にも見えてるのか、これ。俺がおかしいのか、それとも世界がおかしいのか。それだけわかればよかった」
「どっちだった?」
「お前がここにいるから、たぶん世界のほう」
「おかしいのは」
「おかしい、っていうか。ズレてるのは」
ズレ。
同じ言葉を使っていた。私のメモアプリにある言葉と、カイの口から出た言葉が、同じだった。示し合わせたわけでもないのに。同じものを見て、同じ言葉を選んでいた。
その一致が、空き缶や写真やストップウォッチの記録よりもずっと確かな証拠のように感じられた。
*
四時が近づいていた。
空の色が動き始めている。紺色の底に紫が滲む。もうすぐこの時間が終わる。潮が引くように。
二人はいつの間にかコンビニの前まで戻ってきていた。一周したのだ。同じ場所に帰ってくる散歩。円を描くように。
カイがポケットから手を出した。
「明日もいる」
約束の口調ではなかった。待ち合わせの提案でもなかった。天気予報のように言った。明日もここに天気があるのと同じように、明日もここにカイがいる。
「同じ時間?」
「三時。いつも三時」
「わかった」
わかった、と私は言った。それだけだった。連絡先の交換はなかった。LINEもメールもなかった。約束を担保するものが何もなかった。でもそれでいい気がした。この時間のことを昼間のツールで繋ぎ留めるのは、何か違う。深夜三時の約束は、深夜三時の通貨で交わすべきだ。信頼とか、確信とか、そういう目に見えないもので。
カイが片手を軽く上げた。じゃあ、という合図。
「おやすみ」
「おやすみ。よる」
私の名前を呼んで、カイは反対方向に歩いていった。スニーカーの足音がだんだん小さくなった。す、す、す。角を曲がって、消えた。
*
帰り道は、来た道と同じだった。
同じ道。同じ街灯。同じアスファルト。同じ建物。何も変わっていない。一時間前に歩いた道と物理的には完全に同じ。
でも。
何かが変わっていた。
サンダルの足音が聞こえた。ぺた、ぺた、ぺた。自分の足音。一人分。さっきまで二人分だったものが一人分に戻っている。それだけのこと。引き算。二から一を引けば一になる。算数の問題。
なのに。
足音が聞こえるたびに、胸の内側で何かが反響していた。足音のリズムに合わせて、心臓がほんの少しだけ強く鳴っていた。ぺた、どくん、ぺた、どくん。サンダルと心臓が交互にビートを刻んでいた。
怖さではない。
興奮、というのも少し違う。
一番近い記憶を探した。この感覚に似たものを、過去のどこかで感じたことがあるはずだ。記憶の引き出しを片っ端から開けていく。小学校の遠足。中学の合唱コンクール。高校の受験発表。どれも違う。もっと些細なもの。もっと個人的なもの。
——あった。
中学二年の冬だった。テスト勉強をしていて、深夜まで起きていた。あのころはまだ夜更かしが特別で、許可されていない冒険のようだった。午前一時を過ぎたあたりで猛烈にお腹がすいて、台所に下りていった。家族は寝静まっていた。戸棚を開けたら、インスタントラーメンがあった。サッポロ一番の味噌。
鍋に水を入れて、火にかけて、麺を入れて、三分待った。冬の台所は寒かった。パジャマの上にフリースを着て、ほぼ裸足で、立ったまま湯気の匂いを嗅いでいた。誰にも許可を取っていない。誰にも見つかっていない。自分だけの、真夜中の、味噌ラーメン。
一口目の、あの味。
口の中に味噌の塩気が広がって、体の芯が温まって、世界が自分だけのものになった三十秒間。あれだ。あの感覚だ。禁じられてはいないけれど許可も取っていないことをしているときの、胸の奥がきゅっと狭くなるような、でも狭くなったぶんだけ密度が上がるような。
あの密度が、今、帰り道の胸の中にあった。
心臓がうるさかった。さっきまでは気にならなかった。カイと歩いているときは、二人分の足音と会話がその音を消していた。一人に戻った今、心臓の音だけが残っている。
東の空が白み始めていた。鳥が一羽、どこかで鳴いた。街灯が一つ消えた。
アパートの階段を上がった。鍵を開けた。サンダルを脱いだ。カーディガンをハンガーにかけた。手を洗い、うがいをした。
冷蔵庫を開けて、水を飲んだ。浄水器を通した常温の水。喉を通る感触がやけにはっきりとしていた。あの最初の夜と同じ。水は深夜三時の後だと存在感が増す。でも今夜はそこにもうひとつ別のものが混じっていた。
コップを置いて、本棚の脇を見た。「夜光」の空き缶が四本。紺色のノート。スマートフォンの中のメモと写真。冷凍庫のハーゲンダッツのストロベリー。
私だけの標本箱。
——私だけの、ではなくなった。
ベッドに入った。電気を消した。天井の国境線がぼんやりと見えた。目を閉じた。心臓はまだ少しだけ速かった。サッポロ一番の味噌ラーメンの味を、八年ぶりに舌の上で思い出していた。あの夜の台所の冷たいタイルの感触を、足の裏で。湯気の温度を、顔の皮膚で。
眠りが来る直前、カイの声が耳の奥で反響した。
——お前もこっち側?
こっち側に、もう一人いた。
こっち側に、もう一人いたのだ。
それがどういうことなのか、私はまだ正確には理解していなかった。でも体は理解していた。心臓が理解していた。サッポロ一番の夜から八年ぶんの時差を超えて、あの密度が帰ってきていた。
眠りに落ちる寸前、目覚ましを確認した。
二時五十五分。明日も。
明日もカイはいる。天気のように。深夜三時の自動販売機に時々現れる、青いラベルの飲み物のように。
——でもあの飲み物は、ある夜とない夜がある。
その考えが浮かんだ瞬間に、眠りが来た。




