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午前3時のルール  作者: 今井 幻


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2/12

第2話「3時のルール」

 あの夜から四日が経った。


 月曜、火曜、水曜、木曜。四つの昼と四つの夜が、いつもどおりの速度で過ぎていった。朝七時に起き、コーヒーを淹れ、電車に乗り、講義を受け、バイトに行き、帰宅し、夕飯を作り、食器を洗い、歯を磨き、日付が変わる前に眠る。何も変わらない。判が押され、インクが乾く。次の日、また同じ判が押される。


 でも何かが違った。


 違っていたのは私のほうだ。外側は同じでも、内側の配線がどこか一本だけ繋ぎ変わっているような感覚。具体的に言えば、夕飯の味付けが少し変わった。水曜日の夜にほうれん草のおひたしを作ったとき、いつもは醤油と鰹節だけで済ませるところを、すりごまを加えた。なぜそうしたかはわからない。手が勝手にそう動いた。食べてみたら、おいしかった。今までどうしてこれを試さなかったのだろうと思った。


 あるいは木曜日の帰り道、いつも通る商店街の角にある花屋の前で足を止めた。ガーベラが並んでいた。オレンジとピンクと、少し珍しい薄紫。三秒くらい眺めて、また歩き出した。買ったわけではない。ただ、今まで一度もこの花屋の前で足を止めたことがなかった、という事実に後から気づいた。


 冷凍庫のハーゲンダッツには手をつけなかった。


 理由は説明できない。食べてしまえば、あの夜が完全に消費されてしまう気がした。アイスは冷凍庫の奥で霜をまといながら、あの夜の出島のように存在し続けていた。橋を渡ればいつでも行ける。でもまだ渡らない。


   *


 金曜の夜だった。


 バイトの帰りにスーパーで鶏むね肉とトマトとバジルを買い、チキンのトマト煮を作った。にんにくをオリーブオイルで炒めるところから始めるやつ。にんにくが油の中で小さな泡を立てて、キッチンに匂いが広がるあの瞬間が好きだった。時間をかけて弱火で煮込み、塩と胡椒で整え、パスタではなくパンに合わせた。六枚切りの食パンをトースターで焼いて、端のほうがほんの少し焦げるくらいまで。その焦げた部分にトマトソースをつけて食べるのが、ささやかに幸福だった。


 食器を洗った。風呂に入った。髪を乾かした。


 十一時四十分。ベッドに入る。電気を消す。


 眠れた。問題なく眠れた。


 でも午前一時半に目が覚めた。


 トイレに行きたかったわけではない。喉が渇いていたわけでもない。目が覚めた。ぱちりと。まるで誰かが電気のスイッチを入れたように、暗闇の中で意識が点灯した。


 天井を見る。あの国境線がある。二度目だから、もう見つけるのに時間はかからない。


 しばらくそのまま横になっていた。目を閉じてみた。眠気は来なかった。でも前回のような焦りもなかった。眠れないことに対する抵抗がなかった。ただ静かに、自分の中のどこかで何かが時間を計っているのを感じていた。


 時計を見る。二時十分。


 二時二十八分。


 二時四十五分。


   *


 二時五十五分に起き上がった。


 前回と同じカーディガンを羽織り、同じショートパンツに穿き替え、同じポケットに鍵と財布とスマートフォンを入れた。前回と違ったのは、ためらいがなかったことだ。靴箱の横に立てかけてあるビニール傘を目にして、一瞬だけ手を伸ばしかけたが、空は晴れていた気がしたのでやめた。なぜ晴れていると思ったのかはわからない。窓の外は確認していない。でも晴れていると確信していた。


 玄関のドアを開ける。


 晴れていた。


   *


 空気が、あの空気だった。


 昼間の残り物ではない、深夜三時だけに調合される空気。湿度は高いけれど重くない。肌に触れる感触が柔らかい。果物の皮を剥いた瞬間に立ちのぼる、あのみずみずしい匂いに似た何かが、空気全体に薄く溶けていた。


 二度目だった。二度目なのに、新鮮だった。むしろ二度目だからこそ、一度目に見落としたものが見える。旅行先の街を再訪したときの感覚に近い。一度目は全体をぼんやりと受け取る。二度目で、細部が立ち上がる。


 前回と同じ道を歩いた。


 クリーニング屋のシャッターの百合。まだそこにあった。当然だ。塗装なのだから消えるはずがない。でも確認した自分がいることに、少し驚いた。確認しなければならないと感じていたのだ。あの百合が昼間にも存在するのか、それとも深夜三時にだけ浮かび上がるものなのか。


 ——昼間に確認すればいい話だった。でもしなかった。四日間、あの道を通るたびに、目を向けなかった。意図的に、ではない。ただ、向けなかった。昼間の速度では見えないものがあるのかもしれない。音楽の再生速度を変えると、同じ曲の中に聞こえなかったフレーズが聞こえてくるように。


 公園を通り過ぎようとして、足が止まった。


 時計があった。公園の入り口に、ちょっとした鉄柱の上に据え付けられたアナログ時計。文字盤が白くて、数字がゴシック体。いつもそこにあるもの。子どもが見上げて「ママ、まだ遊べるよ」と言うための時計。


 針は、三時四分を指していた。


 私のスマートフォンは三時八分だった。


 四分のずれ。公園の時計が遅れているだけだ。公共の場にある時計が正確であるほうが珍しい。それだけのこと。


 ——それだけのこと、のはずだった。


 秒針を見た。


 動いていた。動いてはいた。でもその動き方がおかしかった。普通の秒針は、一秒ごとに一メモリずつ進む。カチ、カチ、カチ。あるいは滑らかに流れるか。どちらかだ。


 この時計の秒針は、そのどちらでもなかった。


 進んでいた。確かに進んでいた。でも一メモリ進むのに、五秒はかかっていた。粘度の高い液体の中を泳いでいるように、ゆっくりと、重たげに、秒針は文字盤の上を這っていた。


 私はしばらくそれを見つめた。


 一分を計った。スマートフォンのストップウォッチを起動し、秒針が12の位置を通過するタイミングを待ち、計測を始めた。公園の時計の秒針が一周するのに、私のスマートフォンでは四分五十二秒かかった。


 約五倍。


 この時計の中では、時間が五分の一の速さで流れている。


 私はストップウォッチの画面をスクリーンショットに撮った。それから公園の時計の文字盤もスマートフォンのカメラで撮影した。フラッシュは使わなかった。なんとなく、フラッシュを使ってはいけない気がした。暗闘写真のように、光を当てると消えてしまうものがある。


   *


 歩きながら、スマートフォンのメモアプリを開いた。


 新しいメモを作成する。タイトルを考えて、「午前3時」と打ち、少し迷ってから「午前3時の観察」に変えた。


 ```

 7/17(金)午前3時

 ・公園の時計:秒針が約1/5の速度で動いている。4分遅れ。

 ```


 書きながら、自分が何をしているのか考えた。観察記録をつけている。深夜三時の街を歩いて、メモを取っている。ほんの一週間前の自分なら、こんなことは絶対にしない。する理由がない。でも今の私にはある。理由というよりは、必要性に近い何かが。植物が光に向かって伸びるときに理由がないように。ただそうしなければならないと、細胞のどこかが知っている。


 メモを保存して、歩き続けた。


   *


 住宅街を抜けて、少し大きな通りに出た。片側二車線の、昼間はそこそこ交通量のある道。今は何も走っていない。信号が無人の交差点を管理している。赤、青、赤、青。観客のいない劇場で照明だけが演目をこなしている。


 通りの向かい側に自動販売機があった。


 いつもの自動販売機だった。書店のバイトからの帰り道にたまに缶コーヒーを買う、あの自動販売機。サントリーのやつで、上段にペットボトル、中段に缶、下段にあたたかい飲み物。配置は覚えている。左端がBOSSのブラック、その隣がBOSSの微糖、その隣が——


 横断歩道を渡った。信号は赤だったが、今度は待たなかった。前回は待った。今回は待たなかった。その変化について、私は特に何も感じなかった。ただ、体がそう動いただけだ。


 自動販売機の前に立った。


 蛍光灯に照らされた商品サンプルが並んでいる。BOSSのブラック。BOSSの微糖。伊右衛門。いろはす。ファンタグレープ。


 三段目の右端。


 見たことのない飲み物があった。


 青いラベルの、二百五十ミリリットルの缶。ラベルには白い文字で「夜光」と書かれていた。それだけ。商品名以外の情報——メーカー名、原材料、カロリー表示——が何もなかった。値段の表示は百三十円。


 私は財布から小銭を出して、百三十円を入れ、そのボタンを押した。


 缶が落ちてきた。手に取る。冷たかった。持ち上げると、中の液体が揺れる感触が伝わってきた。炭酸ではないらしい。振っても泡立つ感じがない。


 プルタブを開けた。かすかな音がした。炭酸飲料の「プシュ」ではなく、もっと静かな、密封が解かれる音。封蝋を割る音に似ていた。


 匂いを嗅いだ。


 甘くも苦くもない。冷たい水に、ほんの少しだけ何かの花の匂いを溶かしたような。ジャスミンに似ているけれど、ジャスミンではない。もっと遠い花。図鑑で見たことはあるけれど名前を覚えていない、そういう距離感の花。


 一口飲んだ。


 冷たくて、かすかに甘くて、飲み込んだ後に舌の奥のほうに不思議な余韻が残った。色で言えば、うすい青の味がした。味覚に色はないと知っている。知っているけれど、そうとしか言えなかった。


 メモに書き加えた。


 ```

 ・駅前通りの自販機:三段目右端に見慣れない飲料「夜光」。

 青い缶、250ml、130円。メーカー名なし。

 味:冷たい、うすく甘い、花のような余韻。

 ```


 缶をもう一度見た。「夜光」の白い文字が、自動販売機の光を反射してわずかに光っていた。飲み終わったら、この缶を持って帰ろう、と思った。証拠として。


   *


 それから三十分ほど歩いた。


 メモは増えていった。


 ```

 ・3:22 住宅街のブロック塀に猫。白黒。こちらを見ている。

 瞬きの間隔が異常に長い。一度瞬きするのに約8秒。

 ・3:31 駅前ロータリー。タクシーが1台停まっている。

 運転手がハンドルに突っ伏して眠っている。

 車内灯が点いたり消えたりしている。不規則に。蛍のように。

 ・3:38 コンビニ前を通過(中には入らず)。

 窓越しに見える店内の時計は3:38。スマホと一致。

 →ズレるものとズレないものがある?

 ・3:41 線路沿いの道。終電はとっくに過ぎている。

 でも線路のレールがかすかに振動しているように見える。

 目の錯覚かもしれない。でもメモしておく。

 ```


 すれ違う人がいた。


 ゼロではなかった。三十分の間に、三人。


 一人目は、ジョギングをしている男性。三十代くらい。イヤホンをしていて、まっすぐ前を向いて走っていた。私の横を通り過ぎるとき、こちらを一切見なかった。視界に入っていないかのように。


 二人目は、スーツを着た女性。残業帰りだろうか。ヒールの音がコツコツと遠くから聞こえてきて、近づいて、通り過ぎて、また遠ざかっていった。足音の変化だけで一つの物語が完結するようだった。彼女も私を見なかった。


 三人目は、コンビニの袋を下げた老人。パジャマの上にジャンパーを羽織っていた。私と同じだ、と思った。眠れなくて出てきた人。でも老人は私を見ないまま、建物の角を曲がって消えた。


 全員が急いでいた。急いでいた、という言い方は正確ではないかもしれない。目的地がはっきりとあった。ジョギングコースの次の角、自宅のドア、明日の朝。彼らはこの時間を通過しようとしていた。トンネルを抜けるように。できるだけ速く。


 私は違った。


 私はこの時間の中に立ち止まっていた。通過ではなく、滞在。観光客のように。いや、観光客よりも丁寧に。


 誰も私を見なかった。


 それは少し不思議なことだった。深夜三時に二十歳の女がサンダルにカーディガンで歩いているのは、客観的に見てそれなりに目を引く光景のはずだ。でも誰もこちらを見なかった。視線が、私の輪郭をすり抜けていった。


 怖くはなかった。まったく。


 むしろ、安心した。この時間の中では、私は見えない。見えないことが、こんなに自由だとは知らなかった。昼間の私は常に誰かの視界の中にいる。講義室の席に座る私。書店のレジに立つ私。商店街を歩く私。すべてが誰かの網膜に映り、像を結び、「藤沢よる」という名前のついた人間として処理される。


 でも今、その処理系統が停止していた。


 私はただの輪郭だった。名前のない、目的のない、誰の記憶にも残らない輪郭。自分の足音と、メモアプリの光だけを伴にした、匿名の存在。


 それが心地よかった。適切な温度の湯船に浸かったときのように。体の境界線がゆるんで、自分と世界のあいだの摩擦係数がゼロに近づいていく感覚。


   *


 四時を過ぎた。


 東の空が変わり始める。前回と同じだ。紺色に紫が混じり、紫が藍に変わり、藍がゆっくりと白み始める。二度目でも、この推移は美しかった。美しいものは反復に耐える。むしろ反復の中でしか見えない美しさがある。


 帰路についた。


 自動販売機の前をもう一度通った。三段目の右端を確認した。「夜光」はまだそこにあった。残り本数の表示は、私が一本買ったぶんだけ減っていた。飲み終わった空き缶はカーディガンのポケットに入っていた。手に持つと、中身が空であることの軽さが不自然なほどはっきりとわかった。


 公園を通った。時計を見上げた。秒針はまだゆっくり動いていた。あの不思議な粘度のある速度で。


 帰宅したのは四時二十分。空き缶をキッチンのテーブルに置いた。「夜光」の文字がまだ読めた。靴を脱ぎ、カーディガンをハンガーにかけ、ベッドに倒れ込んだ。眠りはすぐに来た。


   *


 正午に目が覚めた。


 二度目なので、寝坊に対する罪悪感が前回より薄い。人は何にでも慣れる。土曜日でよかった、と思いながら顔を洗い、コーヒーを淹れた。グアテマラの中深煎り。味は正常に戻っていた。いや、前回の「物足りなさ」がなくなったのではなく、物足りないことに慣れたのかもしれない。判別はつかなかった。


 キッチンのテーブルの上に、空き缶があった。


 ——あった。


 持ち帰ったのだ。昨夜の私が。証拠として。


 缶を手に取った。昼間の光の下で見ると、青いラベルは少しくすんで見えた。でもちゃんとそこにあった。「夜光」の白い文字。メーカー名なし。原材料表示なし。バーコードすらなかった。


 裏面を見た。何も書かれていない。表面と同じ青。缶の底には製造年月日も賞味期限も刻印されていなかった。


 スマートフォンを確認した。昨夜のスクリーンショット。ストップウォッチの記録:四分五十二秒。公園の時計の写真。暗くてぼやけていたが、秒針の位置は記録されていた。メモアプリには「午前3時の観察」がちゃんと残っていた。


 全部、現実だった。


 靴を履いて、外に出た。昼間の空気。重くて熱い。コンクリートの匂い。車の音。人の声。


 駅前通りの自動販売機まで歩いた。五分。昼間だと昨夜よりずいぶん早く着く。道が短い。同じ距離なのに短い。


 自動販売機の前に立つ。


 三段目の右端。


 BOSSの贅沢微糖があった。


「夜光」はなかった。あったはずの場所に、あたりまえの顔をして缶コーヒーが並んでいた。ラインナップに不自然な隙間はない。最初からそこにあったように、BOSSの贅沢微糖はその位置に収まっていた。


 公園に行った。時計を見上げた。


 秒針は、完璧に正常な速度で動いていた。カチ、カチ、カチ。一秒に一メモリ。時刻はスマートフォンと一分もずれていなかった。


 しばらく秒針を見つめた。そのあいだに子どもが二人、公園に走り込んできて、ブランコに飛び乗った。母親らしき女性がベンチに座った。鳩が地面をつついていた。世界は完全に、最初から最後まで、正常だった。


   *


 帰宅して、テーブルの缶を見た。


 缶はまだそこにあった。「夜光」の文字は変わっていなかった。昼の光の中でもそれは消えなかった。現実の中に紛れ込んだ、別の現実の破片。パズルのピースが一つだけ、隣のパズルの箱から混入しているような。


 メモアプリを開いて、新しい行を追加した。


 ```

【検証:7/18(土)昼】

 ・自販機「夜光」→消失。通常のラインナップに戻っている。

 ・公園の時計→正常動作。スマホとの誤差1分未満。

 ・空き缶は手元に残っている。ラベル、重さ、質感に変化なし。

 ・結論:ズレは深夜3時にのみ発生する。朝になると修復される。

 ただし持ち帰ったものは消えない。

 ```


 画面を見つめた。自分が書いた文字を読み返した。


 ズレ。


 その言葉がぴったりだと思った。深夜三時の世界は壊れているのではない。怖いものでもない。ただ、ほんの少しだけずれている。テーブルの脚に挟む紙一枚ぶんのずれ。聞き取れるか聞き取れないかの半音のずれ。日常という精密な楽譜の中に紛れた、ごくわずかな異稿。


 でもそのずれの中に——秒針が遅れ、知らない飲み物が現れ、猫の瞬きが引き延ばされる、そのささやかなずれの中にだけ——昼間には見えないものが見えた。世界の底が。水面の下が。


 怖くなかった。


 怖いという気持ちが入り込む隙間がなかった。その隙間を、別の感情がすでに占めていたからだ。名前をつけるなら、親密さ、が一番近い。自分だけが知っている何かを持っているときの、あの胸の内側がほんのりと温かくなる感じ。秘密を持つことの快楽。


 秘密。


 秘密というものを、私は今まであまり持ったことがなかった。隠すほどのものが何もなかった。日記もつけていないし、鍵つきの引き出しもない。誰に見られても困らない人生を、誰に見られても困らない速度で進んでいた。それが普通だと思っていた。


 でも今、私は秘密を持っている。キッチンのテーブルの上の青い缶。冷凍庫のハーゲンダッツ。スマートフォンのメモアプリの中の観察記録。誰にも説明できない、説明する必要もない、私だけの小さな夜の標本箱。


 午後の光がカーテン越しに部屋を満たしていた。エアコンが静かに回っていた。テレビはつけていない。スマートフォンに友人からの通知が三件。どれも緊急ではない。


 私は青い缶を本棚の脇に置いた。何かのおまじないのように。


   *


 土曜の夜。


 夕飯は肉じゃがにした。じゃがいもの皮を剥きながら、母のことを少し考えた。母は肉じゃがを作るとき、必ず最後に絹さやを散らす。私は絹さやを買い忘れた。ないならないで構わない。でも今度は買おう、と思った。


 食器を洗い、風呂に入り、髪を乾かした。


 ベッドに入った。十一時二十分。いつもより二十分早い。眠る気は、最初からなかった。いや、眠る気はあった。ただ、眠ることよりも優先したいことができた。この二十年間で、たぶん初めて。


 スマートフォンのアラームを設定した。


 午前二時五十五分。


 スマートフォンを枕元に置き、目を閉じた。今度はすんなりと眠れた。眠れることがわかっていたから。目が覚める時間が決まっているから。約束のある眠りは安心できる。真っ暗なトンネルでも、出口の光が見えていれば怖くない。


 出口。


 いや、入り口だ。


 午前二時五十五分は、出口ではなく入り口だった。あちら側への。


   *


 暗闇の中でアラームが鳴った。


 控えめなマリンバの音。設定を変えた覚えはないのに、いつもの朝のアラームよりずっと小さく、優しく聞こえた。スマートフォンを手に取り、アラームを止めた。二時五十五分。予定どおり。


 今夜は迷わなかった。


 カーディガン。ショートパンツ。鍵。財布。スマートフォン。サンダル。手順は三度目にして儀式になりつつあった。


 ドアを開ける前に、一瞬だけ立ち止まった。呼吸を整えた。深く吸って、ゆっくり吐いた。ダイバーが水面から潜る前にする、あの最後の一呼吸。


 ドアを開けた。


 あの空気が、待っていた。

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