第1話「眠れない夜」
私の一日は正確だった。
朝七時に目を覚まし、トーストを焼き、インスタントではないコーヒーを淹れる。豆はカルディで買ったグアテマラの中深煎り。二杯目はない。一杯で充分だし、充分なものを二つにする理由が見つからない。八時十二分の電車に乗り、大学に行き、講義を受け、図書館で予習をし、火曜と金曜は駅前の書店でバイトをする。夕飯はだいたい自炊で、だいたい一汁一菜で、だいたい九時半には食器を洗い終えている。歯を磨く。髪を乾かす。日付が変わる前に電気を消す。
判で押したような、と人は言うかもしれない。でもそれは判を持っている側の感覚であって、押される紙の側には毎回ちゃんと新しいインクの匂いがある。少なくとも私はそう思っていた。
特別な不満はなかった。足りないものがあるとも感じていなかった。足りないという言葉そのものが、私の辞書ではまだ索引の奥のほうで静かに出番を待っていた。使われないまま変色していく切符のように。
*
七月の第二週だった。梅雨が明けた翌日。
昼間の気温は三十四度まで上がり、アスファルトが飴のように柔らかく見えた。夕方になっても空気は冷めなかった。部屋に帰ってエアコンをつけても、壁が昼の熱を覚えていて、じわじわと内側から放出し続けていた。建物全体が巨大な蓄熱器になっていた。あるいは、恨みを忘れない象の記憶力で太陽の温度を抱え込んでいた。
夕飯は冷やしうどんにした。茗荷を刻み、大葉を千切りにし、生姜をすりおろす。麺つゆは少し濃いめに作る。氷水でしめた麺の表面がきゅっと締まる感触が好きだった。ガラスの器に盛ると、一瞬だけ涼しくなった気がした。一瞬だけ。
食器を洗った。歯を磨いた。シャワーを浴びた。髪を乾かした。十一時四十分。いつもどおり。すべてが正しい手順で進んでいた。
電気を消した。目を閉じた。
眠れなかった。
*
理由はわからない。体は疲れていたし、カフェインも午後三時以降は摂っていない。部屋の温度はエアコンで二十六度に保たれている。枕は三ヶ月前に買い替えたばかりの、頭の形にちょうどよく沈むやつ。何ひとつ問題はなかった。問題はないのに、意識だけがまるでプールの水面に浮かぶビーチボールのように、沈もうとするたびにぽんと跳ね返された。
仰向けになる。横を向く。反対側を向く。また仰向けになる。天井が暗い四角形としてそこにある。目が慣れてくると、天井のクロスの継ぎ目が見えてくる。あの継ぎ目は昼間は存在しない。少なくとも私は一度も気にしたことがない。でも今、暗闇の中で、それは地図上の国境線のようにはっきりと見えた。
スマートフォンで時間を確認する。午前一時。
目を閉じる。羊を数える代わりに、明日の講義の内容を頭の中で復習してみる。十八世紀イギリスの社会構造について。産業革命前夜の労働者階級。蒸気機関。ジェームズ・ワット。蒸気。蒸し暑い。暑い。眠れない。
午前二時。
ベッドから出て水を飲む。浄水器を通した水道水。冷蔵庫には入れていない、常温の水。喉を通る感触がやけにはっきりとしていた。水というのは本来こんなに存在感のあるものだったろうか。普段は気にも留めないのに。まるで昼間は透明人間だった誰かが、夜になって急に輪郭を取り戻したみたいに。
ベッドに戻る。目を閉じる。
午前二時半。
天井を見ている。国境線がまだそこにある。私はその線の、こちら側にいる。
*
午前二時五十三分に、私はベッドから起き上がった。
パジャマの上にカーディガンを羽織り、デニムのショートパンツに穿き替え、鍵と財布とスマートフォンをポケットに入れた。サンダルをつっかけて、玄関のドアを開けた。
理由はない。本当に、ない。ただ「出てみよう」と思っただけだ。その思いつきは、脳のどこか普段使わない引き出しから不意に転がり出てきたもので、私はそれを吟味する前に体が動いていた。正確に言えば、吟味しないことを選んだ。
いつもの私なら、こんな時間に外に出る理由を三つは考えてからでないと靴を履かない。でもその夜の私は、理由の棚卸しをさぼった。初めてさぼった。さぼるという行為がこんなに軽いものだとは知らなかった。
*
外に出た瞬間、空気が変わった。
変わった、というのは正確ではないかもしれない。空気はずっとそこにあった。ただ、私がこの時間の空気を知らなかっただけだ。昼間の、人と排気ガスと冷房の室外機が混ぜ合わせたあの重たい空気とは、まるで別の物質だった。
湿度は高い。それは同じ。でも質が違う。昼間の湿気が肌にまとわりつく包帯だとしたら、深夜三時の湿気は霧の向こうから届く手紙だった。ちゃんと届くのに、差出人の顔が見えない。
空は晴れていた。風はなかった。月は見えなかった。でも街灯がオレンジ色の光を等間隔に落としていて、道路は奇妙なほど明るかった。
私は歩き始めた。
毎日通る道だった。駅までの、徒歩八分の道。角を曲がるとクリーニング屋があって、その隣が歯科医院で、向かいに小さな公園がある。ブランコが二つと滑り台がひとつ。昼間は子どもの声がする。全部知っている。全部。
なのに。
知っている道が知らない道だった。クリーニング屋のシャッターに描かれた花の模様を、私は初めて見た。いや、見えていたはずだ。毎日ここを通っている。でも見ていなかった。花は——百合だろうか——薄い青で描かれていて、シャッターの銀色の上で水底の植物のように揺れていた。
公園のブランコが、風もないのにわずかに動いた気がした。気のせいかもしれない。たぶん気のせいだ。でもそういう気のせいが、この時間にはやけに説得力を持っていた。
信号が赤になった。車は一台も走っていない。誰もいない交差点で、信号だけが律儀に色を変えている。カッ、カッ、カッ。歩行者用信号の音が、昼間の三倍くらいの音量で聞こえた。あるいは世界のほうが三分の一の音量になっていて、信号だけがいつもどおりだったのかもしれない。
私はちゃんと青になるのを待った。待つ理由はない。車は来ない。でも待った。午前三時でも信号は信号で、ルールはルールだった。少なくとも、まだこの時点ではそう思っていた。
*
コンビニの灯りが見えた。
いつも行く店だった。週に三回は寄る。水曜日はおにぎりが割引になるので、水曜日だけ少し嬉しい。店長は四十代くらいの男性で、いつも同じ声で「いらっしゃいませ」と言う。私はそこに何の感慨も持っていなかった。コンビニとは、そういう場所だ。
自動ドアが開く。
蛍光灯が白かった。知っている白さのはずだった。でも深夜三時に見るコンビニの蛍光灯は、知っている白さとは違うものだった。水族館の水槽の中に入り込んでしまったような白さ。外の暗さとの落差が大きすぎて、光そのものに粘度があるように感じた。空気ごと発光している。
棚を見る。いつもの配置のはずだった。おにぎり、サンドイッチ、パスタ、デザート。でも何かが微妙にずれている気がした。カップ麺の列がいつもより一段多いような。雑誌コーナーが少し左に寄っているような。もちろん実際には何も変わっていないのだろう。変わったのは私の目のほうだ。見慣れたものを、見慣れない時間に見ると、目のピントがほんの少しだけ合わなくなる。日常という映画のフレームが一コマだけ飛んだみたいに。
レジに知らない店員がいた。若い男性で、髪を後ろで束ねていた。たぶん深夜シフトの人だろう。昼間に来たことがないだけだ。来たことがないのだから、知らなくて当然だ。当然のことなのに、それがなぜか小さな証拠に感じられた。——この時間には、私の知らない世界がちゃんと動いている、という証拠。
私はアイスの棚の前に立った。
何を買うか迷った。普段アイスを買うのは日曜日の昼と決めているので(特に理由はない、なんとなく日曜日がアイスの日になった)、平日の深夜にアイスの棚の前に立つこと自体が規格外だった。規格外の行動には規格外の選択がふさわしい気がした。
ハーゲンダッツのストロベリーを手に取った。いつもはスーパーカップかガリガリ君で、ハーゲンダッツは自分には少し贅沢だと思って避けていた。でも今夜はそういうルールの棚卸しをさぼる夜だった。カーディガンを羽織って外に出た時点で、すでにその方針は決まっていた。
百八十円を払った。深夜シフトの店員は「いらっしゃいませ」とも「ありがとうございました」とも言わず、ただ小さく頷いた。その無言が、この時間にはちょうどよかった。言葉は昼間の通貨だ。夜には別の何かが流通している。
*
外に出た。
コンビニの光から離れると、目が再び暗さに順応するまで少し時間がかかった。ハーゲンダッツの蓋を開け、木のスプーンを刺す。最初のひと口。ストロベリーの甘さが舌の上で広がる。冷たさが喉を通る。
静かだった。
あまりにも静かだった。自分がアイスを食べる音が聞こえた。スプーンがアイスの表面を削る小さな音。口の中で固体が液体に変わっていくかすかな音。そういう音が全部聞こえた。普段なら車の音や人の声やエアコンの室外機の唸りの下に埋もれて消えてしまう音が、深夜三時にはひとつ残らず浮かび上がってきた。
——世界の底が見えた、と思った。
昼間の世界が水面だとしたら、私は今、その下に潜っているのだ。水面では見えなかったものが、ここでは見える。クリーニング屋の百合。無人の交差点の信号の声。アイスが溶ける音。全部、いつもそこにあったものだ。ただ水面の光が強すぎて、見えなかっただけ。
怖くはなかった。
怖いのではなく、きれいだった。
コンビニの前のガードレールに腰を下ろして、アイスを食べた。ストロベリーの果肉が小さな粒になって舌に当たる。甘さの中にわずかな酸味がある。その酸味が、夜の空気の湿り気と妙に調和していた。味覚と触覚の境界線が、深夜三時には曖昧になるらしい。
電柱の影が道路に長く伸びていた。街灯の光に照らされた葉っぱが、アスファルトの上に複雑な模様を作っていた。風はないのに、ときどき葉が揺れた。遠くの道路を走る車の振動が、地面を伝って木の根に届いているのかもしれない。あるいは木が、眠りながら寝返りを打っているのかもしれない。
アイスを食べ終わった。木のスプーンを容器に戻し、コンビニの脇のゴミ箱に捨てた。指先にストロベリーの残り香があった。
*
それから私はしばらく歩いた。
どこに向かっているわけでもなかった。ただ歩いた。知っている道を、知らない時間に、知らない速度で。昼間の私は目的地に向かって歩く。駅、大学、バイト先。矢印のある歩行。でもこの夜の歩行には矢印がなかった。地図の上をペンでなぞるのではなく、地図そのものの中に入り込んでしまった感覚。
足音が聞こえた。自分の、サンダルの足音。ぺた、ぺた、ぺた。等間隔で。その音だけが、私がここにいることを証明していた。他には何もない。私と、道と、街灯と、黙っている建物たち。
空を見上げた。
星は見えなかった。東京に近い街では星はあまり見えない。でも空は——
空は、黒ではなかった。
紺色。いや、紺よりも深くて、黒よりも浅い、名前のない色。その色は、見上げている間にもゆっくりと変化していた。東の空の低いところから、深い紺の中にわずかに紫が混じり始めていた。
気づくと、四時を過ぎていた。
紫が藍に変わり、藍が灰色がかった青に変わり、建物の輪郭が空の色から分離し始めた。夜と朝のあいだの、どちらにも属さない時間。夜の海から朝の浜辺に打ち上げられていく、その途中の、波打ち際。
空の色が変わるのを、私は立ち止まって見ていた。
一秒ごとに、色が動いた。同じ空は二度となかった。画家がキャンバスの上で絶えず色を重ねているように。いや、違う。色を重ねているのではない。剥がしているのだ。夜という塗料を、朝が一枚ずつ丁寧に剥がしている。その下から現れるのは、昨日の空ではない。今日の、まだ誰も見ていない空。
鳥が鳴いた。
一羽。それから二羽。三羽。遠くの木立の中から、目覚めの声が連鎖していった。最初の一声はおずおずと、でもすぐに確信を持って。鳥たちは毎朝これをやっているのだ。私が眠っている間に、毎朝。
街灯が消えた。ひとつ、またひとつ。オレンジ色の光が消えるたびに、空の青が少しだけ濃くなった。あるいは空の青が濃くなるたびに、街灯が自分の役目を終えたと判断して消えていったのかもしれない。どちらが先なのかはわからない。たぶん、どちらでもいい。
魔法が解けるように、と思った。
まさにそうだった。深夜三時の世界を成り立たせていた何かが、朝の光の中にひとつずつ溶けていった。影が薄くなり、静寂が薄くなり、さっきまで見えていた世界の底が、再び水面の下に沈んでいった。
遠くでシャッターが上がる音がした。新聞配達のバイクのエンジン音が聞こえた。誰かの目覚まし時計が、かすかに、どこかの窓の向こうで鳴っていた。
昼の世界が起動する音だった。
*
五時過ぎに帰宅した。
カーディガンを脱ぎ、サンダルを揃え、手を洗った。部屋はエアコンで冷えていた。ベッドのシーツがひんやりと足に触れた。それが心地よかった。あの蒸し暑さは、もうどこかに行ってしまっていた。
目を閉じると、すぐに眠りが来た。さっきまであんなに拒絶されていたのが嘘のように。プールのビーチボールが、なぜか今度はすんなりと水中に沈んでいった。水面が閉じる。意識が暗くなる。最後に見えたのは、コンビニの蛍光灯の白い光だった。
*
目が覚めたら午後一時だった。
カーテンの隙間から真昼の光が差し込んでいた。スマートフォンのアラームは鳴ったはずだが、記憶にない。木曜日。二限の講義には間に合わなかった。初めてのことだった。
顔を洗い、コーヒーを淹れた。グアテマラの中深煎り。いつもの味のはずだった。でも何か——ほんの少しだけ——物足りなかった。何が足りないのかはわからない。豆の量は同じ。湯の温度も同じ。でも何かが違う。昨夜と今朝のあいだに、私の味覚の目盛りがほんの少しだけずれたような。
窓を開けた。昼間の空気が入ってきた。重たくて、熱くて、いろんなものが混ざった空気。昨夜の空気とは別の物質だった。
昨夜。
昨夜のことを思い出す。正確には、思い出そうとする。記憶はあった。コンビニの蛍光灯。ストロベリーのアイス。鳥の声。空の色。全部覚えている。覚えているのに、その記憶にはどこか半透明な膜がかかっていた。カメラのレンズに息を吹きかけたときの、あの曇り。
夢だったのかもしれない、と思った。
蒸し暑い夜に見た、やけにリアルな夢。そう考えるほうが自然だった。あんな時間に外に出るなんて、私らしくない。それは合理的な結論だった。
そう思いながらキッチンに立ち、昼食の支度をしようとして、なんとなく冷凍庫を開けた。
冷凍庫の中に、ハーゲンダッツの紙袋があった。
昨夜のレシートが、紙袋の中でくしゃくしゃになっていた。日付は今日。時刻は午前三時七分。
私はしばらくそれを見ていた。
冷凍庫の冷気が顔に当たっていた。冷たかった。冷たくて、確かだった。
紙袋の中には、ストロベリーのアイスがもうひとつ入っていた。
——二つ買ったのだ。私は、昨夜、アイスを二つ買ったのだ。
ひとつは外で食べた。もうひとつは、冷凍庫にしまった。覚えていなかった。でも私の手は覚えていた。深夜三時の私は、もう一度あの味を確かめたいと思っていたのだ。
冷凍庫を閉じた。
部屋に午後の光が満ちていた。エアコンが静かに回っていた。遠くでセミが鳴いていた。いつもの夏の、いつもの午後だった。
でもアイスはそこにあった。
半透明の膜の向こう側から、あの夜が、小さな冷たい箱になって、私の冷凍庫の中で待っていた。




