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午前3時のルール  作者: 今井 幻


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第4話「夜だけの距離」

 八月に入っていた。


 大学は試験が終わって夏休みに入り、書店のバイトのシフトが週に一日増えた。火曜と金曜と土曜。それ以外の日は特に予定がなかった。美咲と映画を見に行って、図書館で後期のリーディングリストの本を少しずつ読み、夕飯を作り、洗濯をし、掃除をした。


 夏休みの一人暮らしは静かだった。講義のない日は一日中誰とも口をきかないこともあった。それが苦ではなかった。もともと一人でいることが得意だった。得意というか、一人の状態をデフォルトだと思っていた。呼吸するのが得意な人がいないように、一人でいるのに得意も不得意もなかった。


 ただ、一日のどこかで、時計を確認する回数が増えていた。


 午後十時。あと五時間。午後十一時。あと四時間。意識してやっているのではなかった。視線が勝手にスマートフォンの時刻表示に向かう。磁石が北を向くように。そのたびに私は自分の視線に少し驚いて、何でもない顔をして目をそらした。誰に見せるための何でもない顔なのかは、自分でもわからなかった。


   *


 カイに会えたのは、週に三回くらいだった。


 毎晩ではない。月曜に会って、火曜はいなくて、水曜もいなくて、木曜にいて、金曜はいない。法則はなかった。「夜光」の缶がある夜とない夜に法則がないように、カイがいる夜といない夜にも規則性はなかった。


 いない夜は一人で歩いた。前と同じように。ノートを持って、ズレを観察して、メモを取った。それはそれで悪くなかった。一人の夜には一人の夜の良さがある。静けさの純度が高い。観察に集中できる。自分の足音だけが世界に落ちていく、あの透明な感覚。


 でも——これは認めなければならないことだったけれど——コンビニの前にカイの姿が見えた瞬間に、空気の温度が〇・五度くらい上がる感じがあった。実際に上がるわけがない。気温は気温だ。人がいようがいまいが、八月の深夜三時の気温はだいたい二十五度前後で、それは都市の蓄熱と海風と湿度で決まるものであって、コンビニの前に誰がしゃがんでいるかには一切左右されない。


 されないのだけれど。


   *


 買い物が儀式になった。


 カイはいつもBOSSのブラックを買った。それ以外を選ぶところを見たことがない。百八十五グラムの缶。砂糖なし、ミルクなし。一貫して。


「よく飽きないね」と言ったことがある。


「飽きない。これは飽きるとか飽きないとかの問題じゃない」


「何の問題?」


「儀式」


 私はそのとき、ああ、と思った。同じ言葉を使うつもりだった。


 私のほうは毎回違うものを買った。ハーゲンダッツのバニラ、マカダミアナッツ、グリーンティー。チョコモナカジャンボ。パルムのチョコ。ビスケットサンド。それからアイスに飽きた夜にはプリンを買ったり、シュークリームを買ったり、肉まんを買ったりした。八月に肉まんを食べるのは季節外れだけれど、深夜三時に季節は関係なかった。肉まんの白い皮から湯気が立ちのぼり、具の甘い匂いが鼻先をくすぐる。八月の夜風の中で食べる肉まんには、冬のそれとは違う切実さがあった。本来いるべき場所にいないものの、居心地の悪い幸福。


「なんで毎回違うの」


「選ぶのが楽しいから」


「俺は選ばないほうが楽」


「何に脳のエネルギーを使うかの違いだね」


「そうかもな」


 コンビニを出て、公園に向かう。ベンチがふたつある。遊具側のベンチは木製で、入り口側のベンチは金属製。私たちはいつも入り口側に座った。金属製のベンチは夜になると冷たくなって、八月でもひんやりしていた。その冷たさが、深夜三時にはちょうどよかった。


 最初のころは、ベンチの端と端に座っていた。二人がけのベンチの両極。間に人がもう一人座れるくらいの空白。


 その空白が、少しずつ縮んでいった。


   *


 話す内容は他愛なかった。


 カイの情報は相変わらず少なかった。大学生であるらしいことは確認した。「らしい」というのは、確定的な言い方を一度もしなかったからだ。「大学どこ?」と聞くと「ん、まあ、そのへん」と返ってくる。学部を聞くと「いちおう文系」。住んでいる場所は「このへん」。それ以上踏み込むと、カイは質問に質問で返すか、別の話題にゆるやかにカーブを切った。


 最初は気になった。一週間くらいは。


 それから気にならなくなった。


 正確に言えば、気にする必要がないと理解した。名前、大学、学部、住所。それらは昼間の座標だった。人を特定するための軸。縦軸と横軸の交点に個人を固定するための情報。でも深夜三時の世界に、その座標系は必要なかった。


 カイはカイだった。BOSSのブラックを飲み、スニーカーで歩き、ときどき笑い、ときどき黙る人。信号が変わるのを律儀に待つ人(私と同じだ)。猫に手を振る人。空を見上げるときに少しだけ目を細める人。


 それで充分だった。それ以上の情報が何を足すというのだろう。


「昼間何してんの」とカイが聞いてきたことがある。


「バイトと、本読んでる。あと夕飯を作ってる」


「夕飯自分で作るんだ」


「うん。毎日」


「えらいな」


「えらくない。好きでやってる」


「好きなんだ、料理」


 考えた。好きなのかどうか、実はちゃんと考えたことがなかった。


「好きっていうか……材料があって、手順があって、結果が出る。その過程が安心するのかもしれない」


「プラモデルみたいな?」


「それ食べ物に失礼じゃない?」


「ごめん。でもわかる気がする。決まった手順でやれば、ちゃんとしたものが出来上がる感じ。安心するよな、そういうの」


 カイがそう言ったとき、ふと気づいた。深夜三時の散歩を始める前の私なら、料理のことをそういうふうには説明しなかった。材料と手順と結果。ルーティンの安心感。それは——たぶん——この時間に毎晩来るようになって、ルーティンの外側を知ってしまったから言えることだった。内側にいるときは壁が見えない。外に出て初めて、ああ、壁の中にいたんだ、とわかる。


「カイは? 昼間」


「寝てる」


「嘘でしょ」


「嘘じゃない。半分くらいは」


「半分は?」


「半分は普通のこと。普通すぎてここで話す気にならないくらい普通のこと」


 それ以上聞かなかった。カイが話したくないのではなく、ここではそれを話す必要がないのだと伝わってきたからだ。深夜三時の会話には、昼間の語彙が入り込める隙間が限られていた。大きなものを持ち込もうとすると、入り口で引っかかる。小さくて軽いものだけが通れる。好きな食べ物の話。子どものころの記憶の断片。くだらない仮説。世界の端っこにある疑問。


「チャーハンに入れる具で一番重要なのは何だと思う」


 カイが唐突に言った。


「卵」


「速い」


「即答できる。卵のないチャーハンはチャーハンじゃない」


「極論だな」


「事実。カイは?」


「ネギ」


「ネギ」


「ネギがないチャーハンは、体の右半分がないのと同じ」


「何その比喩」


「合ってるだろ」


 合ってないと思った。でも面白かった。カイの比喩はいつも斜めの角度から来た。私が世界を観察して記録するタイプだとしたら、カイは世界を少し歪んだ鏡に映して楽しむタイプだった。歪んでいるぶん、ときどき本物より正確な形が見える。遊園地のミラーハウスで、自分の知らない自分の輪郭に出会うような。


   *


 昼間の生活は変わらなかった。変わらないように保っていた。


 美咲とカフェに行った。アイスのカフェラテを注文して、夏休みの予定について話した。美咲は来月、高校の友達と四人で沖縄に行くらしい。


「よるも来ない? まだ空きあるよ」


「ありがとう。でもバイトあるし」


「シフト調整すれば?」


「うん、ちょっと考える」


 考えなかった。沖縄に行けば、深夜三時に外に出られない。行かない理由はそれだった。でもそれを美咲に説明する方法がなかった。


「最近なんか楽しそうだよね、よる」


 美咲がストローでカフェラテの氷をかき混ぜながら言った。


「そう?」


「そう。なんか、ちょっと雰囲気変わった」


「何も変わってないよ」


「変わってるって。前はさ、なんていうの、隙がなかったっていうか。今はちょっと……緩んだ? いい意味で」


 緩んだ。その言葉がテーブルの上に置かれて、私はそれを拾い上げて見つめた。緩んだ、か。自覚はなかった。でも美咲がそう言うのだから、外から見てそうなのだろう。


「彼氏できた?」


「できてない」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 嘘ではなかった。カイは彼氏ではない。そもそも何なのかを定義する語彙がなかった。友達、とも少し違う。深夜三時に公園のベンチでアイスを食べながらチャーハンの具について議論する相手を表す日本語は、たぶん存在しない。


「ふうん」と美咲は言った。信じていない顔だった。でも追及はしなかった。美咲のそういうところが好きだった。


   *


 八月の第二週。火曜の夜。


 いつもどおり三時に出て、いつもどおりカイがコンビニの前にいた。今夜は缶コーヒーではなく、ペットボトルの水を持っていた。


「珍しいね、コーヒーじゃないの」


「たまにはいいかなって」


「儀式は?」


 カイは少し笑った。「今夜は休憩」


 コンビニで私はアイスの実のぶどう味を買った。小さな粒のアイスが袋にたくさん入っているやつ。ひとつずつ食べると長持ちする。


「ひとつあげようか」


「もらう」


 袋を開けて、カイの手のひらにひとつ落とした。紫色の小さな球。カイがそれを口に放り込む。


「うまいなこれ」


「でしょ。ぶどうがいちばんおいしい」


「他にも味あるの」


「みかんとか、りんごとか」


「ぶどうがいいな」


「わかってるね」


 こういう会話をしていた。どこにも行き着かない会話。結論もなく、議論もなく、何かを決める必要もない。言葉が二人のあいだを行ったり来たりして、そのたびに空気がほんの少しだけ温まった。焚き火のように。小さくて、静かで、でも確かに温かい焚き火。


 公園に向かった。金属のベンチに座る。


 今夜は近かった。


 いつから近くなったのか、正確には覚えていない。最初の夜のベンチの両端から、たぶん三回目で三分の二になり、五回目で半分になり、先週あたりからは拳ひとつぶんくらいの距離になっていた。意識して詰めたのではなかった。潮が満ちるように、自然に。


 肩が触れた。


 左の肩に、カイの右の肩の体温が触れた。Tシャツ越しの、布と皮膚と体温の層。


 どちらも動かなかった。離れもしなかったし、押しつけもしなかった。ただそのまま。触れたという事実だけがそこにあって、それについてどちらも何も言わなかった。


 アイスの実をひとつ口に入れた。ぶどうの甘さが広がる。外側の氷の層が舌の上で溶けて、中からジュースが出てくる。二層構造。外側と内側の味が違う。


 肩が触れたまま、空を見ていた。


 八月の深夜三時の空は、七月よりも高かった。いや、高さは変わらないはずだ。でも空気の透明度が少し違う。七月の梅雨明け直後の湿気が、八月には少しだけ引いていて、その分だけ星が見えた。東京近郊の空で見える星なんてほんの数個だけれど、七月にはその数個さえ霞んでいた。


「あれ金星じゃない?」とカイが言った。


「三時に金星見える?」


「知らない。でも明るいから金星だろ」


「その理屈はおかしい」


「おかしくない。明るいやつは金星。昔からそう決まってる」


「誰が決めたの」


「俺が今決めた」


 天体物理学的には完全に間違っていた。でも深夜三時の公園のベンチでは、それが正しい気がした。明るいやつは金星。暗いやつは星。二つの分類だけで夜空は充分に成り立った。


   *


 それから二人で歩き始めた。いつものルート。


 住宅街を抜けて、線路沿いの道に出て、駅前のロータリーを回って、また住宅街に戻る。一周約四十分。二人で歩くと一人のときより少し遅い。カイの歩幅は私より大きいのに、歩く速度は私と同じだった。合わせているのだろう。でもその「合わせ」はわざとらしくなかった。二人の間に歩調を合わせましょうという会議があったわけではない。五回、六回と一緒に歩くうちに、自然に同期した。


 駅前通りの、信号がひとつだけ壊れている交差点を過ぎたあたりだった。


 カイが立ち止まった。


「なに」と私は言いかけて、カイの視線を追った。


 街灯だった。


 通りに面した街灯が、一本だけ、青い光を放っていた。


 他の街灯はいつもどおりのオレンジ色。ナトリウムランプの、温かくて単調な色。でもその一本だけが青かった。もっと深い、海の底のような青。その光が円錐形に道路に落ちて、アスファルトの一区画だけが青い水の中に沈んでいるように見えた。


 二人で見上げた。


 街灯のガラスの中で、青い光がゆっくりと明滅していた。完全に消えるのではなく、濃くなったり薄くなったりを繰り返していた。呼吸のように。吸って、吐いて、また吸って。


「きれいだな」


 カイが言った。


 小さな声だった。いつもの軽い口調ではなく、声を周囲に溶かすように言った。きれいだな。三文字と一音。それだけの言葉が、青い光の下で、不釣り合いなほどの重さを持っていた。


 きれいだった。


 昼間に見たら、ただの故障だ。管理会社に電話して修理してもらうべきもの。道路照明における異常動作。報告書に書くならそうなる。でも今、この時間に、この光の下に立っていると、故障という言葉がまったく的外れだった。故障ではなく、変異。あるいは、開花。この街灯はオレンジ色に光ることに疲れて、今夜だけ自分の好きな色を出しているのだ。


 そう思ったら、不意に目の奥が熱くなった。


 なぜ。理由がわからない。泣くような場面ではない。街灯が青く光っている。それだけ。それだけなのに。


 ——ああ、そうか。


 共有しているからだ。


 これまでのズレは全部、私一人で見てきた。「夜光」の味も、公園の時計の遅れも、レールの振動も。全部、私の目と耳と舌だけが知っていた。ノートに記録して、自分だけの標本箱にしまって、それで完結していた。


 今、隣に人がいた。同じものを見て、同じ言葉を選んだ人が。きれいだな。私もそう思った。そう思っていることを、言わなくてもわかった。


 きれいなものがきれいであることを確認してくれる人が隣にいる。それが——それだけのことが——こんなにも胸の内側を押し広げるのだと、二十年間知らなかった。


 目の奥の熱さを悟られたくなくて、空を見上げた。星が幾つか見えた。金星かもしれないし、金星じゃないかもしれない。どっちでもよかった。


「行こうか」


 しばらくしてカイが言った。


「うん」


 青い光の下から歩き出した。振り返ると、街灯はまだ青かった。呼吸するように明滅していた。十歩離れても。二十歩離れても。


 三十歩離れたところで、カイが言った。


「あれ明日の夜はないんだろうな」


「ないだろうね」


「一回きり?」


「たぶん」


「撮らなくてよかったの」


 私はポケットの中のスマートフォンに意識を向けた。写真を撮ることは、一度も考えなかった。


「いい。覚えてるから」


「二人で?」


「二人で」


 カイは前を向いたまま、小さく息を吐いた。それが笑いなのか溜息なのか、あるいはそのどちらでもない何かなのか、私にはわからなかった。


   *


 四時を過ぎた。


 東の空が約束どおりに明るくなり始めた。私たちはいつの場所に戻ってきた。コンビニの前。蛍光灯の白い光。自動ドアの横のゴミ箱と灰皿。ここが待ち合わせ場所で、ここが解散場所だった。始点と終点が同じ場所にある。


「じゃあ」とカイが言った。


「じゃあ」


「おやすみ、よる」


「おやすみ」


 カイが歩き出す。反対方向。スニーカーの足音。す、す、す。


「カイ」


 呼び止めていた。


 カイが振り返った。五歩分の距離。街灯の光がその横顔を照らしている。


 何を言うつもりだったのか、自分でもわからなかった。カイを呼び止めて、その先に続くはずの言葉がなかった。空のファイルを開いたような状態。タイトルだけがあって、本文がない。


「……また」


 結局それだけ言った。また。四文字の中で最も情報量の少ない別れの言葉。


 カイは少し笑った。


「また」


 同じ言葉を返して、角を曲がった。足音が消えた。


   *


 帰り道。


 足音が一人分に戻った。ぺた、ぺた、ぺた。聞き慣れた音。私の音。心臓は今夜も少しだけ速かった。もうこの速さに慣れ始めていた。深夜三時の帰り道の心拍数は、昼間より十パーセントくらい高い。たぶん。計ったことはない。計りたくなかった。数字にすると、何かが定義されてしまう。定義されると、名前がつく。名前がつくと、逃げられなくなる。


 アパートの階段を上がった。鍵を開けた。サンダルを脱いだ。


 部屋に入った。


 電気をつけた。六畳のワンルーム。キッチンとユニットバス。ベッド。机。本棚。カーテン。冷蔵庫。電子レンジ。エアコン。


 全部、今朝と同じだった。出る前と同じ位置に、同じ向きに、同じものがあった。当然だ。一時間外に出ていただけで部屋の何かが変わるはずがない。


 でも。


 部屋が広かった。


 いや、違う。広いのではない。足りないのだ。何かが。今までこの部屋を過不足なく満たしていた何かが、ほんの少しだけ足りなくなっていた。風船の空気がわずかに抜けたように。コップの水が蒸発して、飲み口から二ミリ下がったように。目に見えないくらいの差。でも確かに、何かが減っていた。


 ベッドに腰を下ろした。


 マットレスが沈む。一人分の重さで。


 公園のベンチを思い出した。金属の冷たさ。左の肩に触れていた体温。アイスの実をカイの手のひらに落としたときの、指先から三センチの距離。


 三センチ。


 あの三センチが、今ここにはなかった。


 手を見た。右手。アイスの実の袋を持っていた手。今は何も持っていない。空っぽの手のひらが、自分のものなのにどこかよそよそしく見えた。何かを渡した後の手は、渡す前の手とは違うのだ。形は同じでも、手のひらの温度の記憶が違う。


 寂しい。


 その言葉が、頭の中に浮かんだ。ゆっくりと。水面に浮かび上がる気泡のように。小さくて、透明で、触れたら消えてしまいそうな気泡。


 寂しい。


 二十年間、この部屋——この部屋に住んで一年半だけれど——この部屋に帰ってきて寂しいと思ったことは一度もなかった。一人でいることがデフォルトで、デフォルトに対して寂しいという感情は発生しない。「足りない」を知らなかった。「足りない」を知らなければ「足りない」は存在しない。


 でも今、知ってしまった。


 公園のベンチで肩が触れる感覚。隣から聞こえるコーヒーの缶を開ける音。「きれいだな」という三文字。二人分の足音が作るリズム。それらが「ある」ことを知った体が、「ない」を検知し始めていた。センサーがオンになったのだ。一度オンになったセンサーを、オフに戻す方法を私は知らなかった。


 エアコンが静かに回っていた。冷気が部屋を満たしていた。いつもと同じ温度のはずだった。


 少しだけ、寒かった。


 冷蔵庫を開けた。浄水器の水を飲もう、と思ったのに、手が冷凍庫のほうに伸びた。


 ハーゲンダッツのストロベリー。


 最初の夜に買って、ずっと手をつけなかったやつ。展示品。あの夜の出島。


 取り出した。蓋を開けた。スプーンを刺した。


 一口食べた。


 冷たかった。ストロベリーの甘さと酸味が舌に広がった。あの夜の味だった。深夜三時のコンビニの蛍光灯と、ガードレールの冷たさと、誰もいない道路と、空の色が変わり始める瞬間の味。全部が凍ったまま保存されていた。


 でもあの夜と違うものがひとつあった。


 あの夜は、一人で食べて満足だった。


 今は、隣に誰もいないことを知りながら食べている。


 同じアイスの、同じ味が、一ヶ月前とは違う意味を持っていた。おいしさは変わらない。冷たさも甘さも酸味も同じ。でもその周りにある空白の形が変わっていた。アイスの味を縁取る空白が、一ヶ月前より少しだけ広くなっていた。


 半分食べて、残りを冷凍庫に戻した。


 歯を磨いた。顔を洗った。ベッドに入った。電気を消した。


 天井の国境線を見つめながら、目を閉じた。左の肩に、まだかすかに体温の残像があった。触れていたのは十分にも満たない時間だったのに、肌がそれを覚えていた。


 明日は水曜日だ。カイがいる夜かどうかはわからない。いない夜かもしれない。いない夜は、いない夜として受け入れるしかない。コンビニの前のあの場所に、缶コーヒーを持った人影がない夜。


 ——それを想像しただけで、胸の中の気泡がまたひとつ浮かんだ。


 寂しい。


 小さくて、透明で、名前をつけたばかりの感情が、暗い部屋の中で静かに発光していた。青い街灯のように。呼吸するように、明滅していた。


 目覚ましは二時五十五分のままだった。変えなかった。


 いてもいなくても、私はあの時間に行く。あの時間は私のものだ。カイがいなくても。


 ——でも。


 いてほしいと思っている自分が、ベッドの上に横たわっている。一ヶ月前には存在しなかった自分が。「足りない」を知ってしまった自分が。


 エアコンの音だけが聞こえていた。


 その音が、部屋に一人分の沈黙を量り取っているようだった。

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