10.4 走れ!④
俺たちは放課後の廊下を全速力で疾走した。廊下は静まり返り、生徒はほとんどいなかった。店じまいを連想したが、間に合わないとは思わなかった。精神が一種の無敵状態になっていた。息が弾むが、不思議と悪い気はしなかった。隣を走るユニ助はこちらを見てなぜか笑っていた。
「なんか懐かしいな! この感じ!」
「お前がベッカムに喧嘩売ったアレだろ」
「だはは! あったな、んなことも!」
「けっ、他人事みてえに」
「シロー!」
「あん?」
「お前と会えてよかった!」
「バカ。恥ずかしいこと言いやがって」
職員室のある曲がり角を越えると、まばらな人影の奥に、人だかりが見えた。部員のみんなが職員室の扉の前で待ってくれていたのだ。
いち早く俺たちに気づいたパーコはパッと笑顔を見せてこちらに手を振ってくる。その隣のキャロ先輩と根古屋も俺たちの方を見た。
「……よく戻った」
「フン。このボクを待たせるなよ」
「おかえり、シロー!」
こんな俺を信じて待っていてくれたのか。俺は涙が出そうになるのを堪えながら辛うじて言った。
「わりぃ遅れた!」
速度を緩めずにドアに突っ込んだ。ドアノブをわしづかんで強引にひねり、力任せにドアを開ける。息を整えながら早足で大塚先生のデスクに向かう。放課後の職員室には場違いな騒音を立てて登場した俺たちは、室内の注目を全身に浴びていた。
先生は机上の置き時計を伏せ、俺たちをまっすぐに見た。俺は後ろを振り返った。みんながいて、ユニ助は俺を見て笑った。俺は再び前を向いて大塚先生と対面した。
「先生。『一芸研究会』を改めて申請します」
「部員は、揃ったのか?」
「はい」
厳しいが決して理不尽ではない大塚先生は、俺たちに一度だけチャンスをくれた。おそらく、期限は過ぎている。必死で滑り込んだのを、お情けでセーフにしてくれたのだ。ブザービートが決まるかどうか。命運を託したボールが空中に放られた。
「先生。やっぱり俺には、好きなものとか、よくわかんないです。何かを好きになったり、ひとつのことに夢中になる気持ちも」
パーコの言葉が頭に残っていた。ペン回し部が好きだから設立に尽力したのか。今日まで俺を突き動かしていたのは、そんな綺麗な感情じゃないと思う。
「先生、前に言いましたね。俺の背景が真っ白だって。その通りです。俺は、好きなものがなんもない奴で。一芸研究会から逃げ出した弱い奴で。個性がほしいと願ってる無個性な奴で。何者かになりたくていつも何かと戦ってる痛い奴で」
今まで目を逸らしてきた本当の姿。それを口にするのは怖かった。だが、一度言葉にしてしまえば、それは思ったより大したことではないように思えた。不思議と、心臓がドキドキして胸が暖かくなった。
「でも、これが俺なんだ」
ずっと、他人が羨ましかった。みんなと比べたら、俺には何もないという劣等感を抱えていた。素を出すのが怖かったから、金で買える個性や、気取った言動で自分を飾った。しかし、そうしている限り、俺は彼らに永遠に敵わないと知った。
「真っ白だからなんだっていうんだ。白だって、立派な色じゃねえか。――俺になれるのは、俺しかいないんだ」
俺はひとつ決定的な勘違いをしていた。ユニ助は、ペン回しが得意だから輝いて見えるのではない。自分の好きなように、自分らしく生きているから輝いて見えるのだ。ユニ助の場合はそれがたまたまペン回しだっただけで、その技術の習熟度は本質的な要素じゃなかった。それは、他の3人についても同じだ。俺が欲しがっていたものは、その人らしさを突き詰めて生きてきた結果が、目に見える形で結晶化した、表面的なものにすぎない。
「何が言いたいかって言うと。どっかで見た何かの真似じゃなくて、俺は俺のままで、何者かになります。でも、何をしたらいいかわからないから、それを見つけるために、この部活にいます。今はただ、それだけです」
大塚先生からもらった問いには答えたつもりだ。俺には好きなものがない。だから、今日も、あのときも、『好きなもの』を挙げるのは不正解だ。さっきのユニ助じゃないが、みんなに合わせて要領のいい嘘をついていたら、俺の中の俺が死んでいたのだ。重要なのは、好きなものがない俺が、自分の意思でここにいることだ。そして、何者かになりたいという願いは間違いじゃない。それは、俺が俺であるために必要なことだ。
先生は俺の目をまっすぐ見つめている。俺は目を逸らさずに先生の目を見つめていられる。これが俺の全てだ。隠すことなんて何もない。
先生はユニ助の方を向いた。審判の時だ。俺は、流石に通るだろうと楽観していた。敗北からの主人公の覚醒という超王道のパターンだ。だが、その鉄仮面のような顔には、ほんのわずかな表情の変化もなかった。
「申請は却下だ」




