9.4 好きなもの④
「よし! じゃ、行ってくる」
唐突に根古屋が宣言して立ち上がった。どんな会話の流れがあったのかは聞いてないし、聞いていたとしても頭に入らなかっただろう。これまでの会話の流れからして根古屋が行く場所なんて1つしか浮かばない。……が、俺なら絶対にしない行動なので気になった。
「行くって、どこに」
確認のために訊ねると、根古屋はきょとんとした顔で言った。
「亀掛川先生んとこだよ」
「……」
こいつは俺とは違う。俺は、誰かと話し合う前には失敗しないように綿密な作戦を立てる。だが、根古屋は違う。準備も何もなく、その身一つで乗り込む。予想外の事態にもそのひらめきを駆使して、アドリブで切り抜けてしまうんだろう。
他のやつらも立ち上がってぞろぞろと根古屋の後に続く。俺もその列の最後尾に加わった。
* * *
当然のことながら、根古屋は今日登校することを亀掛川先生に連絡していなかった。だから、地学準備室のドアを開けた亀掛川先生がその赤髪のツインテールを見たら驚くと予想していたのだが。
「こんにちは〜……お久しぶりです、根古屋さん〜……立ち話もなんなので、どうぞ〜……」
亀掛川先生は特に驚くでもなく、いつものゆるふわな雰囲気で根古屋を迎え入れた。白のブラウスに裾の長いカーディガンを合わせ、私服のようなパンツルックに足元はモコモコのスリッパ。鎖骨のあたりまで伸ばした栗色の髪の毛をゆるく巻いている。気だるげな目がダウナー系の雰囲気を印象づけている。つい数年前まで女子大生をやっていた若い先生だ。
そんな亀掛川先生はのんびりとした動作で、俺たちを準備室の奥に案内する。室内は普通の教室と同じ奥行きで、横幅は両手を広げたより少し大きい。しかし、所狭しと並ぶ書類の山や、数百ものファイルが詰まった巨大な棚、何かの模型や段ボール箱などで室内は散らかっており、実際よりも狭く感じる。亀掛川先生を先頭に一列で進み、俺は最後尾につける。
部屋の奥まで進むと、先生のデスクに行き着く。デスクの隅にはノートPCとプリントの山、ペン立てがあり、デスク中央には何があるかと言うと、白い陶器のティーカップ。それと大量のお茶菓子。先生はこの部屋を自分専用のティータイム会場にするために私物を持ち込んでいるのだ。今も、室内には紅茶のいい匂いが漂っている。
俺たちは勝手知ったる足取りで進み、デスク手前の横長の簡易机に用意されていたパイプ椅子に座った。横一列に座ると、5人だと割と狭い。椅子と椅子をぴったり密着させてなんとか収まる。
「うわぁ……秘密基地みたいだな」
地学準備室に来るのが初めての根古屋は新鮮な感想を口にする。それを横目に、先生はティーポットを傾けて紙コップに紅茶を注ぎ、俺たちの前に出していく。
「さてさて〜……このメンバーで来たからには、用件の察しはつきます〜……先生に、顧問をやれと言うのですね〜……」
「はい!!」
ユニ助がバカデカい返事をした。小学一年生かよ。うるせーな。紙コップの紅茶にさざなみくらい立ってるかも知れない。
「遊仁くん、その約束は〜……君の方から、取り消したんですよ? 高校生なら、自分の発言に責任を持ちましょう〜……先生、面倒ごとは嫌いなんですよ〜……」
まあ、ここまでは想定内だ。さて、どうする根古屋よ。長机を挟んで相対す亀掛川先生は顔色ひとつ変えていない。この鉄壁の守りをどう落とす?
「そっかあ、残念だなあ。せっかく学校の中に、面白いモン見つけたと思ったのに。ショックだなあ。部活できないんなら、また不登校に戻っちゃうなあ?」
根古屋は正面から先生にプレッシャーをかける。自分の立場を最大限に活用した振る舞いだ。でも、その言葉に嘘はないだろう。ペン回し部の話が消えたら、根古屋はこの学校に見切りをつけて、本当にどこかに行ってしまいそうな危うさがある。亀掛川先生もそのことは重々承知だろう。
「またまた〜……別に、先生がいなくたって、根古屋さんは元気にやれますよ〜……顧問なんて、他の誰かに頼めばいいじゃないですか〜……」
亀掛川先生は視線を外し、デスクに置かれたティーカップの持ち手を指先で撫でた。柔和な口調とは裏腹に、頑なに視線を合わせようとしない。なんだこの人、どこまで本気なんだ。根古屋のことが心配じゃないのか? それとも、本当にどうでもいいと思ってるのか?
「……先生、すっかり変わったな。腐った大人になった」
隣に座る兎澤先輩が押し殺した声でつぶやいた。顎を引いてじっと見つめるその目にはギラついた敵意が見え隠れしていた。その時、脳みそに静電気が走ったみたいに、先輩が俺たちに亀掛川先生を紹介したときの言葉を思い出した。
あの人熱血だし、顧問やってない。去年もヨーヨー部の話、真面目に聞いてくれた。
でも、俺が知っている亀掛川先生は、他人に興味がないドライアイスみたいな目をしている。この学校の中で熱血という言葉が最も似合わない人だ。俺はその違和感を、目まぐるしく展開する日々のせいで忘れていた。
「……そりゃ違うよ。キャロさん」
それを制したのは根古屋だった。
「みんな、考えてみなよ。ボクは今日登校することを先生に伝えてない。それなのに、どうして先生は驚いてないと思う?」
問いかけながら俺たちを見回す根古屋の視線が、言い終わるとルーレットの針のように俺に向いた。なんとなく指名された気がして、頭に浮かんだことを喋った。
「そりゃ、この人は俺たちのことなんか何一つ興味ないからだろ」
「はずれ。シホさん……ボクの保護者と、つながってるからだよ。毎晩電話してるの、知ってるよ。はっ、このボクが気づかないとでも?」
亀掛川先生に向けて、勝ち誇ったような根古屋。なんだか根古屋にいいように使われた気がする。もともとこの問いはフェアじゃない。まあ、話の流れを円滑にするために道化を演じたと思おう。
「あとあと先生! これ、先輩に聞いちゃったんですけど、先生の前のクラスに不登校の子がいて、その子を登校させてあげられなかったことを、ずっと後悔してるんですよね?」
ふわふわとした金髪のショートボブを揺らしてパーコが言う。俺の知らない情報がまた出た。先輩に顔がきくヤツの情報網は軽くチートだ。
亀掛川先生は目を閉じて、ふうぅぅ……と、長いため息をついた。それが決定打になったことは明白だった。クレーンゲームの筐体の中にうず高く積まれたお菓子の箱がぐらりとバランスを崩す様子に似ていた。
「少し、訂正します」
ぽつりと、先生は言った。俺たちが次の言葉を待つ間、先生は手元のティーカップの水面を眺めていた。
「初めて受け持った子の1人が、不登校になりました。当時の先生は熱血キャラなんて言われたりして、あらゆる手でその子と友達になろうとしました。家に行ったり、手紙書いたり、電話したり、いろいろです。卒業式までには、元気に登校してもらおうと思って、知識も経験もない中で、がむしゃらにやってました。そして、卒業式の日。今からほんの2ヶ月前ですね。その子は登校してくれました。それが嬉しくて。その子と少し話しました」
なんだ、良い話じゃないか。そんな良い先生が、どうしてこうなったんだ。
「……そしたら、ずっと迷惑だったと、言われてしまいまして……。頃合いを見計ってもっと早めに戻ってくるつもりだったのに、先生が大げさにしたせいで、引っ込みがつかなくなった、と……。先生は、そんな簡単な検討すら忘れて、自分の気持ちだけで動いて、その子に取り返しのつかないことをしてしまいました……。それからは、常に気持ちを落ち着かせて、生徒との距離に一線を引いて、複雑な事情には首を突っ込まないようにと思いながら、その正解が分からないうちに、根古屋さんのことがあって……まあ、何を言っても言い訳ですね」
亀掛川先生はいつになく饒舌で、普段のおっとりした雰囲気は感じられない。ただ、これは先生視点の話でしかないので、正確な事情は分からない。でも、少なくとも去年までは、生徒と積極的に関わろうとするタイプだったことは分かった。そして、実はとても責任感が強いことも。
「どうしたらいいか分からなくなった先生は、根古屋さんの社会復帰を生徒に丸投げしました。それも、見返りで釣るようなやり方で。未熟でした。そんな私が、君たちの側にいることを、先生自身が許せないのです……
部屋に静寂が満ちる。先生の目に、いつものダウナーな雰囲気はない。一気に話したせいか、頬が上気している。俺の左腕に巻き付く安物の腕時計が、かちり、かちりと時を刻む微かな音が耳に届く。
「先生! 俺は難しいことわかんねーけど、なんも怒ってないっすよ! むしろ、根古屋と仲良くなれてよかったと思ってます!」
「お前ら、知らないと思うけどさ。遊仁が来る前にも、クラスのヤツが家に来たりしたんだよ。今もシホさんと電話してるし。距離感がどうとか言ってるけどさ。たぶん、あんま変わってないと思うよ」
ユニ助を援護するように根古屋が続けた。
「ボク入学早々不登校だからさ、他に先生知らないんだよ。だから顧問は、全然知らない人よりも、亀掛川先生になってほしい。そしたら、この学校もちょっとはマシかもなって思えるよ。だからお願い。ボクの居場所を、守ってください。亀掛川先生」
根古屋はぺこりと頭を下げた。赤髪のツインテールが横顔を隠す。打算も駆け引きもない、心からの言葉なのは疑いようもなかった。
亀掛川先生は立ち上がった。俺たちに背を向け、デスクに置いてあるティーポットを持ち上げてカップに紅茶を注いだ。ポットをデスクに戻した後もしばらく背を向けて立っていた。俺たちは先生の顔を見ることはできなかった。
「面倒ごとは、嫌いなんですがね……」
亀掛川先生は椅子に腰掛け、ティーカップを傾けた。こくりと喉を鳴らすと、ほっと息をつく。
「ま、可愛い教え子の頼みなら、聞かないわけにはいきませんね〜……」
いつもの調子で答えると、先生はカップをカチャリとソーサーに置き、柔らかく微笑んだ。




