1-8
激しい死闘から数日。
あの不気味な神殿を後にしたイオスたちは、無事に学院へと帰還していた。
「——というのが、事の顛末です」
イオスは目の前に座る主任ディオスへの報告を静かに締めくくった。
死線を潜り抜けた数日前とは対照的に、そこには静寂があった。
上質な革張りの家具と羊皮紙の香りに満ちた主任室。
磨き上げられた調度品や壁に飾られた絵画は、先刻までの激闘が夢であったかのような錯覚を抱かせる。
「……この魔法師が、一連の事件に関係していると」
ディオスは机の上に並べられた提出資料の中から一枚の紙を手に取り、眉をひそめてまじまじと見つめた。
そこに描かれているのは、カグラの手による問題の魔法師の似顔絵だ。無事に学院へと戻った後、彼女の記憶を頼りに描き直してもらったものだった。驚くほど特徴を捉えた繊細な筆致が、その男の不気味な面影を克明に浮かび上がらせていた。
「少なくとも、あの神殿に現れた巨人はこの魔法師が作り出したものです」
「ふむ……。で、その魔法師の腕前はどれほどのものだったのだ?」
重々しい問いに、イオスは一瞬だけ唇を噛み締め、率直な事実を口にした。
「相当な腕前です。……正直なところ、まったく敵いませんでした」
自身の無力さを認める悔しさを微かに滲ませつつも、イオスの言葉には偽りのない実感がこもっていた。
「その他は?」
手元の資料から視線を上げ、ディオスが試すような目つきで尋ねる。
「冒険者なら珍しくない程度の危険です」
イオスは怯むことなく、努めて平然とした声で答えた。
結果を見れば、イオスほどの若い年齢なら、恐怖で怯み、逃げ出してもおかしくはない過酷さである。
(冒険者とは死と隣り合わせなのが当然だと思っているのか、それとも今まで生きてきた環境があまりに過酷すぎたのか……)
少年のあまりに達観した様子に、ディオスは内心で困惑と危惧を交錯させた。
そもそも今回の依頼は、イオスが指揮を執るような大層なものではなかったはずだ。ミロたちベテラン冒険者に現場まで護衛させ、後ろで調査を行わせる程度のものを想定していたのである。
だが実際のところ、イオスは自ら現場で指示を出し、戦闘の主導権を握り、想定外の強敵すらも退けて見せたのだ。
ディオスは手元の報告書へと再び視線を落とした。
羊皮紙に几帳面な文字で記されているのは、事前に要求していた通りの調査結果だ。専門的な観点から見れば甘い部分も少なからず散見されるが、これ以上の細密さを求めるのはもはや冒険者ではなく専門の研究職の領域だろう。
冒険者として可能な限りの危険を排除しつつ、依頼者の期待には十二分に応えている。文句のない合格点だった。
「うーむ……」
主任は腕を組み、深く考え込むように唸り声を漏らした。
「……何か不備がありましたか?」
しばらく黙り込んでいた主任に、イオスは不安を滲ませながら尋ねた。
ディオスは内心で大いに頭を悩ませていた。 日頃の生活態度や魔法に対する真摯な姿勢からも、この生徒が大器であるという確信は以前からあった。そして今回も、少年はまだ若い身でありながら、こちらの想像以上に完璧に依頼を完遂してみせたのだ。
(褒めて伸ばすべきか、それとも……優秀すぎるというのも、教師としては実に困りものだな)
腕を組んだまま、ディオスは表には出さず、心の中で苦笑を漏らしていた。
(さて、こういう役目は——)
「リンジー先生」
「なんでしょうか、ディオス主任?」
呼応するように、秘書兼教師のリンジーが軽やかな足取りで寄り添うように近寄ってきた。 何かと冒険で学院を不在にしがちなディオスに代わり、よく教壇に立っている人物だ。小柄で愛らしい容姿も相まって生徒たちからの人気は高い。その実、彼女自身も並の魔法師を遥かに凌駕する存在である。
「これをどう思う?」
ディオスは手元の報告書をひらひらと揺らし、面倒な評価作業をあっさりとリンジーへ丸投げした。
「あら、まあ……! 調査に行ってらしたのですね!」
手渡された報告書に目を通したリンジーは、顔を輝かせて声を弾ませた。 自分の教え子である生徒が、過酷な現場で立派に調査をやり遂げてきたことが心底嬉しかったのだろう。
リンジーは目を輝かせながらイオスへと向き直ると、報告書の内容を指で追いながら、現場での対応や、細やかな魔力の運用など、今後の課題について的確な助言を与えながら、最後には惜しみない称賛を送った。
(おっさんに褒められるよりは、美人な先生に褒められた方が嬉しいだろう。)
そんな適当かつ図々しい言い訳を心の中で捏ね上げながら、ディオスは満足そうに背もたれへ深く体を預けた。
イオスがようやく主任室から解放されたのは、陽がすっかり傾きかけた頃だった。
学院の正門をくぐり、賑わいを見せ始める街へと繰り出すと、どこか澄んだ夕焼けの光がイオスの顔を鮮やかな茜色に染め上げる。
リンジー先生の熱烈な指導にはすっかり辟易としてしまったが、革袋には、想像以上の金貨が詰まっていた。
手に伝わる革袋の確かな重みが、疲れ切っていた心までじんわりと温めていく。
しかし、歩を進めるイオスの思考は、自然とあの戦闘へと戻っていた。
(あの魔法師は、一体何者だったのだろうか……)
現場で自身の手により破壊してしまった魔法陣について、覚えている限りの記憶を頼りに魔法陣として書き起こしてみたのだが、その構成はあまりに複雑かつ不気味で、見返してみても何の魔法なのか、見当すらつかなかった。
ふと足を止め、イオスは暮れなずむ空を見上げた。胸の奥で、じわりと冷たい不吉な危機感が広がっていく。
『まだ……生きている』
あの戦いの最中――敵が残した一言だった。
己の身体に何かを施されたのか、それとも目に見えない何かを刻まれたのか。
答えの出ない不安が、尽きることなく胸を苛む。
もし、次にあの魔法師と戦うことになったら——。
嫌な予感は、決して外れない。
不安が現実味を帯び、冷たい戦慄がイオスの全身を駆け巡った。
そして、痛感していた。
今の実力のままでは、確実に勝てない、と。
強くなるために、やらなければならない課題は山積みだった。
魔力の圧倒的な底上げ。そして、あの敵に対抗するための上位魔法の構築。さらには、それらを研究、修得するための専門書籍や、魔法を増幅・補助するための媒介の調達——。
そのどれもが、莫大な金と労力を要求するものばかりだった。せっかく主任から手渡された多額の金貨も、これらを揃えていけばあっという間に吹き飛んでしまうだろう。
(お金、かかるなぁ……。農民のままの方が、ずっと気楽だったかもしれないな)
ふと、イオスは自嘲気味に吐息を漏らした。 大人になってからの農民の過酷さや苦労を、自分がすべて知っているわけではない。だが少なくとも——日々の暮らしの中でこれほど死の影に追われることはなかったはずだ。
「……さすがに、一度に多くを望みすぎか」
首を振って苦笑を漏らし、イオスは気持ちを切り替えるように顔を上げた。 魔力の底上げも上位魔法の習得も、一朝一夕で成し遂げられるものではない。焦ったところで道が拓けるわけでもないのだから、まずは目の前の課題から、着実に片付けていくほかない。
「一つ一つ、解決していこう」
声に出してそう決心すると、胸の中にあったモヤモヤとした焦燥感がすっと引いていった。
懐にある金貨の重みを感じながら、イオスは足を速める。向かうのは、共に死線をくぐり抜けた大切な仲間たちが待つ場所だ。
酒場にたどり着き、木の扉を押し開ける。 途端に店内に満ちる熱気と賑わいが押し寄せ、イオスは思わずたじろぎ、足を止めた。
(相変わらずだな、ここは……)
酒場は今日も賑わっていた。
焼けた肉の匂い、酒の香り、笑い声。
戦いとは無縁の日常がそこにはあった。
苦笑交じりに足を踏み入れたその時、奥のテーブルから聞き慣れた快活な笑い声が飛び込んできた。
「遅いぞ、イオス!」
ジョッキを片手に持ったミロが、大きく手を振って席へと呼び寄せる。
「報告は無事に終わったの?」
「とりあえず座れ」
仲間の短くも温かい言葉に促され、イオスは引き寄せられるように椅子へ腰を下ろした。
「ええ、報告はしっかりと終えてきました。……報酬も頂いてきました」
懐にあるずっしりとした金貨の重みを思い出し、イオスは思わず笑みを浮かべた。 仲間たちの気安い会話と酒場の温かな賑わいに包まれ、自分は無事に生きて帰ってきたのだと、その時ようやく実感した。
「よし! 無事な帰還を祝って乾杯じゃ!」
ジョッキを打ち鳴らし、互いに顔を見合わせて笑い合う。 束の間の平穏と温かな酒の味が、戦いの疲労を優しく解きほぐしていくようだった。
翌朝になれば、またいつも通り講義が始まる。
それがイオスの日常だった。
束の間の平穏を胸に、少年はまた一歩、魔法師として前へ進んでいく。




