3-1
一行は無事に王都へと到着した。
これ以上危険が及ぶこともないと判断したイオスたちは、探知魔法の維持をやめ、警護の隊列の最後尾へと回って賑やかな城下を歩いていた。
ここからは、冒険者としての解放感を味わう時間だ。
あとは依頼の報酬を受け取り、明日から始まる祭りを存分に楽しむばかりであった。
「宿屋、どこか取れますかね……?」
イオスが周囲の人波を見渡しながら呟くと、隣を歩くカグラが軽やかな足取りで応えた。
「冒険者互助会(冒険者ギルド)に顔を出せば、どこか一室くらい空いていると思うわよ。万が一満室でも、夜間の警備依頼でも受ければ寝床くらいは確保できるでしょうしね」
明日から五日間にわたって開催される建国祭を目前に控え、街には高揚した雰囲気が満ちていた。まだ前日だというのに前乗りした旅人や住民たちの賑やかな声が響き渡り、気の早い露店からは香ばしい料理の匂いや甘い菓子の香りが漂い始めている。
通りのあちこちには、太陽・大地・知識・芸術・月を象徴する五大神の紋章や、見知らぬ神の旗が色鮮やかに連なっていた。その多様な信仰が溶け込む活気溢れる情景に、イオスたちの胸にも自ずと祭りを待ち望む心が膨らんでいく。
「期間中に、条件の良い依頼があるといいんですが」
イオスが手帳を開きながら呟くと、カグラが呆れたように目を丸くした。
「まさか祭り期間中ずっと働くつもり?」
「祭りと言っても、一、二日見物すれば飽きてしまいませんか?」
「何を言っとるんじゃ! 浴びるほど酒を飲んで飲み明かしてこそ祭りというものじゃろ!」
ミロが豪快に肩を揺らして笑い飛ばすと、イオスは苦笑いを浮かべて即座に返答した。
「ミロさんはそればっかりですね」
そのやり取りを横で聞いていたラクシュが、静かな声で言葉を挟んだ。
「ちなみに、一日ごとに五大神が祭儀をするらしい。太陽神、大地神、知識神、芸術神、そして月神……といったところだな」
ラクシュが指を折りながら五つの神々の名を挙げる。レベレース王国は特定の一神のみを奉る国ではなく、多種多様な信仰に対して寛容な国風を持っていた。そのため、主要な五大神をはじめとするあらゆる宗教や教団が国内に根を張り、それぞれの神殿を構えているのだ。
「知識神ですか……。それなら、少し興味がありますね」
イオスが顎に手を当てて呟くと、カグラが満足そうに頷いた。
「でしょう? ほら、探せば見たいものなんていくらでもあるじゃない」
もちろん、特定の信仰を強制されるわけではない。無宗教の者であっても、日々の生活において何ら支障はないのだが、イオスもかつて神聖魔法を使う神官を目にして、初めて神様というものが実在するのだと思ったくらいだった。
レベレース王国とオラクル王国は、元を辿れば一つの国から分かれた歴史を持つ。そのため宗教に対する価値観や思想の根底には共通する部分が多く、どちらの国も多種多様な信仰に対して寛容だ。こうした背景もあり、この地では人々が互いの価値観を尊重し合いながら、比較的自由に暮らせる風土が形成されていた。
活気に満ちた大通りをそのまま進み、一行はやがて重厚な王城の正面へとたどり着いた。
レベレースの王城は長い年月を経た古めかしさを漂わせているが、かつての激しい戦場となった跡地に築かれた。それだけに、城を取り囲む深い水堀や各所に配置された頑丈な見張り台など、美観よりも実用性と防御性能を極限まで突き詰めた機能的な造りとなっていた。
隊列の先頭が水堀に架かる巨大な跳ね橋に差し掛かると、騎士の力強い声が響き渡った。
「開門!」
重厚な木枠と鉄柱が合わさった堅固な城門が、きしみを伴ってゆっくりと開かれていく。
広大な中庭へと足を踏み入れると、周囲の騎士たちは馬から下り、手綱を取って馬の世話を始めた。
旅の緊張感が心地よい疲労へと変わり、静かに収束していく。イオスはその光景を眺めながら、ここが彼らとの護衛旅の終わりであり、別れの時が近づいていることを静かに実感していた。
馬車から降り立ったリアが、静かな足取りでイオスたちのもとへと歩み寄ってくる。
「皆様、本当にお疲れ様でした。この度は数々の困難の中、私やベイルのために尽力していただき、心より感謝申し上げます」
そう言うと、リアは王女という身分も忘れたかのように、深く頭を下げた。周囲の騎士たちが息を呑む気配が漂う中、焦ったのはカグラだった。
「ちょっとちょっと、リアちゃん! ここは王城よ! 王女様が私達みたいな冒険者に頭を下げちゃだめだって!」
制止するカグラに対し、リアは顔を上げていたずらっぽく微笑んだ。
「そう言うカグラさんこそ、ここは王城ですよ。王女に対して少し口調が親しすぎるのではありませんか?」
「あ……! たしかに!」
顔を見合わせた二人は、張り詰めていた肩の力を抜き、示し合わせたように楽しげな笑い声を響かせた。その晴れやかな笑顔に、周囲を包んでいた重苦しい空気も和らいでいくようだった。
「いつの間にそんなに仲良くなったんだか」
楽しそうにはしゃぐ二人を眺めながら、イオスが呆れたように呟く。するとカグラはくるりと振り返り、どこか諭すような視線をイオスに向けた。
「イオス君、前々から言おうと思っていたんだけどね。リアちゃんは一国の王女様である前に、一人の繊細な女性なのよ。立派な淑女なの」
「そうですね……?」
首をかしげるイオスに、カグラは誇張気味にため息をついて見せた。
「はー、これだから……いい? 女性にとって長旅っていうのは、それだけで色々と気を使うし大変なの。それに今回の警護騎士団、全員男じゃない」
やれやれと首を振るカグラの言葉を聞き、イオスは目を見開いた。
「あー……」
道中、防衛戦術や魔力の効率ばかりに気を取られ、配慮が行き届いていなかった事実に思い至る。今さらながら、自分が見落としていたものの多さに気づかされ、イオスは気まずそうに視線を逸らした。
「そういうわけで、冒険者としての心得を教えたり、女性同士の細やかなサポートをしていたのよ」
カグラは誇らしげに胸を張った。自分の無作法を恥じたイオスは、姿勢を正してリアに向き直った。
「全く気づいていませんでした。リア王女、色々とご不便をおかけして申し訳ありません」
「いいえ、お気になさらないでください。カグラさんには本当に親身にしていただきましたし、何より緊迫した状況でしたから、これでよかったと思います」
リアは心からの感謝を込めて柔らかく微笑んだ。
「それに……こうして皆様と旅をすることができて、私はとても楽しかったです」
ほんの一瞬だけ、リアの笑顔に寂しげな影が差した。
王都へ戻れば、また王女としての日々が始まる。
自由に笑い、仲間と肩を並べて歩いたこの旅も、ここで終わる。
そう言葉にすることはなかったが、その意図をイオスはなんとなく察した。
「じゃあ、私たちの役目はここまでね。リア王女、また機会があったら指名で依頼して頂戴ね」
カグラが手を振ると、リアもまた穏やかな笑顔で頷いた。
「ええ、喜んで。カグラさん、本当にお世話になりました。そして皆様も、道中のご助力に深く感謝いたします」
リア王女が改めて深く礼を述べると、周囲を取り囲んでいた騎士たちも一斉に背筋を伸ばし、一礼を捧げた。
「では、僕たちはこれで失礼いたします」
役目を終えた安堵感とともに、イオスが仲間たちのもとへ戻り立ち去ろうとした、そのときである。
「何を言っておられますか。イオス殿には、このまま王城へ入っていただきますぞ」
大声とともに立ちふさがったのは、騎士団長とその側近たちであった。逃げ道を塞ぐようにして、素早くイオスの両脇へ陣取る。
「え……? 護衛の依頼は、ここで終わりのはずでは……」
思いもよらぬ引き留めに、イオスは目を丸くして立ち尽くした。
「学院での決闘、敵魔法師の呪いを受けてなお王女殿下を守り抜いた覚悟、そしてベイルの危機を救った功績――」
騎士団長は胸を張り、重厚な声を響かせながらイオスの功績を一つひとつ読み上げていった。
「加えて、王女殿下を狙う敵が未だ正体不明である以上、その身に直接関わった者を王宮として放置するわけにもいきません」
その言葉に、イオスの表情からわずかに笑みが消えた。
「……なるほど。そういう理由ですか」
「これほどの功績、国として相応の礼を尽くさねば筋が通りませんな」
周囲の騎士たちからも、賞賛と敬意の入り混じった熱い視線が向けられる。
有無を言わせぬ圧力を前に、イオスは引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
「イオス様、国王陛下より『何としてでも連れて参れ』との命を賜っております。どうぞ観念してください」
冷徹な面持ちのヨミが、最後通告を静かに告げた。逃げ場が完全に失われたことを悟ったイオスは、縋るような視線を仲間たちへと向けた。
「カグラさん……!」
「国王と会うんでしょ? たっくさん報酬を巻き上げてきてちょうだいねー!」
カグラは助けるどころか、ひらひらと軽快に手を振りながら、オロチとミロを引き連れて早足で立ち去ってしまう。
「では、参りますぞ」
「あ、ちょっと……!」
騎士団長とその側近に両脇をがっちりと固められ、足すら地面から浮きそうな勢いで、イオスはまるで連行される罪人のように王城へと連れ去られていくのだった。
「のう、カグラ。イオスは怒らんじゃろか」
王城をあとにしながら、ミロが少し心配そうに顎髭を撫でた。
「大丈夫よ。イオス君のためにも、公式な場は経験しておいた方がいいの。あの子なら下手な事はしないでしょうしね」
「まあ、わしらが行ったところで、何もできんじゃろうしな」
「それに、この件は事前に打ち合わせ済みよ」
カグラがいたずらっぽく微笑むと、ミロは目を丸くした。
「なんじゃい、全部仕込みかい」
実は事前にリア王女から相談を受け、イオスを王城へ「連行」する計画を裏で話し合っていたのだ。
(もう少し、搦め手を覚えてくれればいいんだけどね……)
カグラは遠ざかる王城を見上げながら、胸の中でそっと呟いた。
イオスの悪い癖は、重大な局面になればなるほど何でも自分一人で抱え込んで解決しようとすることだ。正確に言えば、もっとカグラの盗賊としての機転や、ミロの豪快な突破力をパーティーの手札として頼り、使いこなせるはずなのだ。
そうした仲間の活かし方や、力技だけではない柔軟な世渡りも含めて、この機会に学んでほしい――それが、仲間としてのカグラたちの密かな願いだった。
「それに、ハーフリングに、ドワーフに、謎の神官戦士……王族や貴族と話が合うはずがないわ」
「カグラは単に、面倒ごとから逃げたいだけだろう」
それまで静かに歩いていたオロチが、呆れたように短く口を挟んだ。
「そうともいうわね!」
カグラはあっけらかんと笑い飛ばし、悪びれる様子もなく胸を張ってみせるのだった。
湯上がりの火照った身体をなだめるように、二人はバルコニーの手すりに身を預け、風に当たっていた。
「お湯に浸かるのって、こんなに気持ちが良かったんですね……」
イオスが心地よさそうに目を細めると、隣でラクシュが満足そうに頷いた。
「ここの湯殿は王宮の中でも特に贅を尽くしているからな」
「さすがに魔道具を使って天井から温水が吹き出してくるとは思わなくて、本当にびっくりしました。あれで身体を洗えるなんて……」
王宮の風呂は驚くほど広く、贅沢な造りになっていた。頭上から絶妙な加減で降り注ぐ温水が出る魔導具に、イオスは最初こそ呆然としたものの、旅の疲労がみるみる溶けていく感覚に深く感銘を受けていた。ここまで設備の整った風呂に入ったのは、彼の人生で初めてのことだった。
「ラクシュさんが一緒に残ってくれて助かりました。僕一人だったら、何から説明すればいいのか途方に暮れるところでしたよ」
「なに、難しい状況だったからね。君の説明の補足役として一緒にいるってところかな。それより……あの塔のことは、秘密のままでいいのかい?」
ラクシュが声を少し落とし、探るような視線を向けた。
「はい。ひとまずディオス主任と相談してから、今後の対応を決めようと思います」
冒険者の探索において、依頼品以外の宝物はすべて発見者の所有物となる。そしてそれは、形ある財宝だけでなく、未知の遺跡や危険な『情報』であっても同様だった。
「それがいい。君はどうも一人で抱え込んで、全てをやろうとする癖があるからね。せっかく良い人生の先輩がいるんだ、もっと頼るといい」
「今回は頼る前に押し付けられましたけどね」
イオスが肩をすくめて苦笑すると、ラクシュも口元に薄い笑みを浮かべた。
(ここに通されたのも、あらかじめカグラさんあたりが裏で色々と調整したんだろうな……)
仲間の目論見に思いを馳せつつ、イオスは思考をこれから始まる謁見の場へと切り替えた。湯上がりの心地よさに緩んだ気を引き締め、国王に何をどこまで話すべきか頭を巡らせる。
塔に関する情報については伏せるとして、少なくとも王女を襲撃したあの敵魔法師の事は確実に問われるはずだ。リア王女を直接狙ってきた以上、一筋縄ではいかない裏の意図や勢力が動いていると見て間違いない。
(あの者をひとまず『漆黒の魔法師』と呼称して強い警戒を促すか……。相手の危険性をしっかりと印象付けておけば、今後リア王女の身辺警護をより手厚く強化してもらう口実にもなる)
イオスが夜空を見上げながら、王の前で言葉を誤らないよう頭の中で慎重に報告を組み立てていると、部屋の扉が軽やかに叩かれた。
「イオス様、お着替えをご用意致しました。入ってもよろしいでしょうか」
扉の向こうからヨミの静かな声が響く。
「どうぞ」
イオスが応じると、完璧な所作でヨミが部屋へと姿を現した。
「こちらに着替えていただきます」
ヨミが差し出してきたのは、重厚な刺繍が施された魔法師のローブと、上品な装飾が光る貴族風の礼服だった。その大げさな仕立てを目にして、イオスは思わず眉をひそめる。
「まるで宮廷魔法師みたいな衣装ですね」
「これから国王陛下に謁見なさるのですから、これくらいは当然の嗜みかと」
当たり前のように告げるヨミに対し、イオスは衣装の豪華な裾を見つめながら苦笑いを浮かべた。
「見るからに動きにくそうですね……」
普段から実用性と機動性を優先するイオスにとって、そうした飾りの多い装束は動きを制限するだけの不要なものに思えた。
「では、手直しのための寸法を測りますので、じっとしていてください」
そう言うや否や、ヨミは採寸用の紐を手に、イオスのすぐ目の前まで踏み込んできた。息遣いすら伝わりそうな至近距離まで無表情で密着され、イオスは思わず跳ね起きそうになる。
「っ、ちょっとヨミさん! 近いです――」
「動かないでください」
静かだが一切の反論を許さない声で制され、ヨミは肩幅や胸囲、袖丈を手際よく計測していく。逃げ場を失ったイオスは、全身を緊張で硬直させたまま、一言もしゃべれずにただじっと耐えるしかなかった。
「イオス様、先日の件、考えましたか?」
寸法の計測を進めながら、ヨミがふと思い出したように問いかけてきた。
「身の振り方の件ですか?」
「そうです」
「まだ決めてないですよ。それに、今はそれどころじゃないですし」
イオスが苦笑交じりに答えると、部屋にわずかな沈黙が落ちた。
ヨミは無表情のまま手元を動かし、短いため息ともとれる息を静かに吐き出す。
「……おそらく王宮は、イオス様をこちら側へ取り込むことに躍起になるでしょう」
「たいしたことはしてないんですけどね……」
「それほど今回の功績は大きいのです。ご自覚はおありでしょう?」
静かだが核心を突くヨミの言葉に、イオスは返す言葉を詰まらせた。
そんなことは百も承知だ。ただ、面倒な政治や権力争いに巻き込まれる現実を考えたくないだけだった。それに何より――あの「漆黒の魔法師」の脅威については、王家に頼んだところで解決するような生易しい問題ではないことも分かっていた。
「ヨミさん、一つ聞きますが……あの魔法師――今後は『漆黒の魔法師』と呼ぶことにしますが、明らかにリア王女の命を狙っていたのは分かっていますよね?」
「存じ上げております」
「もし仮に、奴が今この場に現れたとして、倒せますか?」
「……厳しいでしょうね」
ヨミの冷静な返答に、イオスは小さく息を吐き出した。
「そこが一番の問題なんです。悔しいですが、今の僕たちでは奴の矛先を自分たちに向けさせることすらできていない。何かしらの対策を講じる必要がありますが、いかんせん情報が圧倒的に足りないんです」
「レベレース王国の情報網を活用されては? 国王陛下へ直談判する機会もあります」
「もちろん国王陛下には情報の収集をお願いするつもりです。ただ……それだけだと対応が遅すぎると思うんですよ」
「……私たちの情報網に、不備があるとでも?」
わずかに、ヨミの声が硬くなった。プライドと警戒心が交錯するその空気を感じ取りながらも、イオスは真剣な眼差しを崩さなかった。
「いえ、そういうわけではないんです。ただ……これは僕の勘なんですが、もっと大きなことを『漆黒の魔法師』は企んでいると思うんです。それこそ、国全体を揺るがす問題になるかもしれません」
あの謎めいた塔へ足を踏み入れていなければ、ここまで大きな懸念は抱かなかっただろう。レベレースでも、そしてオラクルでも、あの『漆黒の魔法師』は陰で暗躍していた。そして何より、あの者が使う邪悪な魔法の根本には、あの塔が深く関係しているとイオスは踏んでいた。
「ここで保身に走ってしまうと、すべてが後手後手に回る気がして……すいません、上手く言葉にできなくて」
「なるほど。漆黒の魔法師にこちらを振り向かせられるほど強くなりたい、と。イオス様は存外、欲張りな方ですね」
「そう受け取りますか……。まあ、悔しいですが、事実として今は負けっぱなしですからね。一矢報いてやりたいという気持ちは本物です」
イオスは肩の力を抜き、飾らない素直な本音を口にした。
「それはそうと、イオス様」
採寸の手を止めずに、ヨミがさらりと話題を変えた。
「はい?」
「今、王宮では姫様の婚約者の選定が進められているのをご存じですか?」
「そうなんですか?」
「ヨミ殿、そこまで話が進んでいるのか?」
それまで静かに話を聞いていたラクシュが、思わず口を挟んだ。ここで状況を理解していないのはイオスただ一人である。
「はい。ちなみに……現王妃様は、もと農民出身の冒険者です」
一瞬の沈黙。ヨミの意図、そして自分が今立たされている立場を察した瞬間、イオスの思考は完全に静止し、その場で石のように固まった。
「イオス君……まぁ、なんだ。頑張れ」
覚悟を決めたような顔で、ラクシュがそっとイオスの肩を叩き、深々と同情の視線を送るのだった。
「……待ってください」
イオスがようやく口を開いた。
「婚約者って……何人いるんですか?」
ヨミは一拍置いて答えた。
「現在、候補として名前が挙がっている方だけでも、複数名おります」
「複数……」
イオスの顔から、さらに血の気が引いた。
「その中には、王女殿下との婚姻によって大きな利益を得る方もいるだろうな」
ラクシュの言葉に、ヨミの表情がわずかに曇った。
「当然です。王女殿下との婚姻は、家同士の結びつきだけではありません。王位継承にも関わる問題ですから」
「つまり……リア王女を巡って、王宮の中でも争いが起きている?」
イオスの問いに、ヨミはすぐには答えなかった。
「……争い、と呼ぶほど露骨なものではありません」
ほんのわずかな沈黙。
「少なくとも、表向きは」
その一言に、イオスは眉を寄せた。
漆黒の魔法師。
王女を狙う敵。
そして、王女の婚約者を巡る王宮内部の思惑。
頭の中で、それぞれの点が繋がりかける。
だが――
「……いや」
イオスは小さく首を振った。
まだ何も分からない。漆黒の魔法師と王宮内の政争を結びつけるだけの証拠はないのだ。疑うだけなら簡単だが、根拠のない疑念を持つこと自体、それこそ自分が最も嫌うものだった。
「とにかく、今は漆黒の魔法師への対策を優先します」
「ええ。それがよろしいかと」
ヨミはいつもの無表情に戻っていた。
しかし、その目の奥には、ほんの一瞬だけ別の色が宿っていた。
――王宮にいるのは、味方だけではない。
わずかに交わした視線の奥に潜むその真実に、イオスは静かに息をのんだ。




