2-9
魔物が残した魔力の糸を辿り、五人は鬱蒼とした森林のさらに深部へと足を踏み入れていた。
導くように地を這っていた魔力の痕跡が途切れ、完全に消え始めたころ――それまでの暗く不吉な樹海は影を潜め、まるで童話の世界のような神秘的な光景が目の前に広がってきた。
鬱蒼とした木々の間から差し込む光は柔らかな翡翠色に輝き、見たこともない色鮮やかな大輪の花々が甘い香りを漂わせている。
どこか現実離れした感覚に圧倒されながらも、一行は巨木の根元で束の間の休息を取ることにした。
小さな焚火を囲み、爆ぜる小枝の音と温もりに身を委ねる。
イオスの体調は、限界まで追い込まれていたのが嘘のように回復を見せていた。右腕を苛んでいた痛みが引き、包帯の隙間から覗く皮膚からは、忌々しい呪いの跡形もなく消え去っている。衰えきっていた魔力も徐々に戻り、本来の万全な状態へと着実に近づいていた。
だが――完全に元通りになったわけではない。
イオスは静かに胸元へ手を当て、体内の深い場所で優しく、けれど確実に脈打つ異質な魔力を、深呼吸とともに確かめる。
表向きの手がかりは途絶えてしまったが、イオスに焦りはなかった。体内に残った魔力が、まるで引き合う磁石のように、これからどこへ向かうべきかを明確に示していたからだ。
「ねえ、イオス君。気づいているとは思うけど……かなり精霊が多いわ」
焚火の揺らめく炎を見つめながら、カグラが落ち着いた様子で周囲へ視線を走らせた。ハーフリングの彼女にとって、この場所は心地がいいのだろうか。
「そうですね。魔物から伸びていた魔力の糸が途絶えてから、急に周りの雰囲気が変わりましたね」
イオスもまた、空中を軽やかに舞う光の粒を見つめながら頷く。
「道が間違っておるわけじゃないんじゃろ?」
ミロが心配そうに尋ねた。
「保証はできませんが、おそらく合っているはずです」
イオスは再び胸元にそっと手を当てた。確信までは至らないものの、体内に留まった『わずかな魔力』が、羅針盤のように正しい方向へと自分を導いている感覚があった。
「イオス君、地図を見てほしい」
静かに呼びかけたラクシュが、羊皮紙の地図を地面に広げた。
山の中腹から森へ突入してから、体感としては二日弱ほど歩みを進めてきた。本来であれば、そろそろ山頂が見え始めてもいい頃合いだった。
「やっぱり……そうですよね」
広げられた地図と周囲の景色を見比べ、イオスは思案に沈む。知らず知らずのうちに、別の空間へ迷い込んでしまったのだろうか。
ラクシュとともに探知魔法を絶やさず、細心の注意を払いながら進んできたはずだった。
しかし――イオスはすぐに思考を切り替え、胸の奥で小さく息を吐いた。
(だが、焦る必要はない)
今回の旅における目的の半分以上は、すでに達成しているのだから。最大の脅威であった右腕の呪いは解け、万全に近い状態まで体力を取り戻すことができた。そして何より、手がかりは今やイオス自身の体内に宿っている。
「もう一日進んでみて、それでも進展がなければ一度戻りましょう。幸い、命の危険はなくなりましたからね」
「……それも一つの手だな」
イオスの提案に、ラクシュは深く頷いた。
(このぐらいの若者は手柄を焦って突き進みがちだが、この子は違うようだ……)
血気盛んに突撃するのではなく、引くべき潮目を冷静に見極める判断力。今回の旅で改めて痛感させられたことだが、イオスがこのパーティーで担っている役割は重い。全員が彼の観察眼と戦略に絶大な信頼を寄せ、命を預けているのだ。
(ディオスも、すさまじい弟子を育てたものだ……)
師の顔を脳裏に浮かべ、ラクシュは胸中で深く感嘆していた。
「ねえ、見てあれ――」
カグラが指差した先を見上げた一行は、思わず息を呑んだ。
翡翠色の葉が茂る木々の隙間から見える空を、幾重もの光の幕が揺らめきながら覆っていた。青空を背景に蒼と緑の光彩が透き通り、まるで空そのものが生きているかのように静かに波打っている。
「いよいよ、別の世界に迷い込んだみたいになってきましたね……」
天から降り注ぐ神秘的な光に照らされながら、イオスはその浮世離れした光景に深く目を奪われていた。
「――来訪者の皆様!」
不意に、森の奥から声が響いた。
「誰……!?」
カグラが即座に腰の短剣へ手を伸ばし、身構える。
「驚かせてしまい申し訳ありません。私はこの辺りを見回っている者です。お近くへ伺ってもよろしいでしょうか?」
凛とした声とともに木々の陰から姿を現したのは、弓と軽革の鎧を身にまとった、狩人風の人物だった。イオスたちは警戒を緩めぬまま、その佇まいを静かに注視した。
(大丈夫よね……?)
カグラが素早く一同へ視線を巡らせると、オロチやラクシュたちも静かに頷いて意を示した。
「どうぞー!」
カグラの声に応じ、狩人は一定の距離を保ちながら、節度ある足取りで歩み寄ってきた。
「はじめまして、来訪者の方々。私はトーリと申します。近くの神殿にお世話になっている者で、ここでは狩人や案内役を務めております」
丁寧にお辞儀をするトーリと名乗った狩人は、イオスたちを警戒させないよう細心の注意を払いながら接してくる。
「はじめまして。イオスと言います」
イオスが一歩前に出て挨拶を返す。
「……来訪者とおっしゃいましたが、僕たちがここへ来ることをご存じだったのですか?」
「いいえ。ここへ辿り着かれたということ自体に理由がある、ということです。ですから、皆様は『来訪者様』なのです」
どこか禅問答のような答えだったが、トーリの瞳に敵意や偽りはないように見えた。イオスは少し思案し、言葉を継ぐ。
「……では、僕たちをどこかへ案内していただけるのでしょうか?」
「イオス様も、すでにお分かりのはずです」
トーリが静かに微笑む。イオスは体内の奥深くで引き合うあの小さな魔力の感触を頼りに、森の奥の一点へゆっくりと指をさした。
「……あちらですか?」
「その通りでございます。皆様がお疲れでなければ、すぐ近くに神殿がございますので、そちらまでご案内いたしましょう」
トーリは丁寧な仕草を添えて言った。カグラがイオスの隣へ寄ると、声を潜めて尋ねる。
「どうする? ついていく?」
「僕たちの目指す行き先と同じようですからね。警戒だけは怠らず、ついていきましょう」
イオスの言葉に全員が静かに頷き、荷をまとめてトーリのあとに続いた。
トーリのあとに続いてしばらく森を進むと、木々の切れ目から圧倒的な存在感を放つ建造物が姿を現した。
天を突くほど高く聳え立つ、古びた塔。その側面には巨大な樹木が太い根を絡みつかせ、まるで塔と大樹がひとつに溶け合っているかのようだ。幾重もの翡翠色の光と静寂に包まれたその姿は、この世の境目を越えてきたことを改めて実感させるほど、一層神秘的な佇まいを漂わせていた。
「これは……まるでおとぎ話に出てくるような魔法師の塔ですね」
目の前にそびえる異様な光景を見上げ、イオスは思わず声を漏らした。古代魔法文明の時代において、魔法師は己の技術の粋を集めて塔を建てて初めて一人前と認められ、生涯そこを拠点として研究に没頭した――学院の古書で目にした記述が、脳裏をかすめる。
「魔法師……ですか? いえ、あの神殿には尊い神様がおわします」
イオスの呟きを拾ったトーリが、不思議そうに首を傾げた。どうやら彼の認識では、あの大樹と一体化した塔そのものが『神殿』であり、そこに祀られている存在こそが神なのだという。
時代の変遷か、世界の隔たりか。歴史の交差点に立ったような不思議な感覚を覚えながら、イオスは再びその聳え立つ塔を見上げた。
「これはいよいよじゃな……」
ミロが小さな声で呟いた。古代の魔法師の残滓か、あるいはトーリの語る『神』と呼ばれる存在か。重なり合う大樹と塔を見上げる全員の表情に、自然と緊張が走る。
失われた手がかりの先に待つ未知の存在を前に、一行は静かに気を引き締め、足を踏み出した。
「……みなさんは、ここに住まわれているのですか?」
集落の様子を眺めながらイオスが尋ねると、トーリは静かに頷いた。
「ええ。神様から土地をお借りし、身を寄せ合って暮らしております。幸いにも野生の動物はおりますが、魔物は出ませんので、みなで祈りを捧げながら細々と生計を立てているのです」
見渡せば、年月の経過を感じさせる古い木造の家々が整然と立ち並び、敷地の間には小さく手入れされた畑がぽつぽつと広がっていた。慎ましくも穏やかな営みが、ここにはある。
「神殿には、その神様が住んでおられるのですか?」
イオスの問いに、トーリは敬虔な面持ちで首を振った。
「神殿にいらっしゃるのは『代行者様』です。神託をお伝えくださる、尊いお方なのですよ」
やがて塔の門前に辿り着くと、トーリは静かに立ち止まり、深く一礼した。
「詳しいお話は、代行者様とお話ししていただければ幸いです。どうぞ、お進みください」
言葉少なく先を促すトーリの仕草に応え、一行は互いに頷き合うと、重厚な扉の先へとゆっくり踏み出した。
扉を開けて中へ入ると、外観の古びた印象とは一変し、そこには心地よい清涼な空気が満ちていた。床や壁は隅々まで清められ、よく手入れされた清潔感が漂っている。通路の両脇には、長い年月を越えてきたと思われる精巧な神々の像がいくつも静かに居並んでいた。
その荘厳な佇まいに圧倒されながら奥へと進むと、正面の祭壇の前に、仕立ての良い神官服を身にまとった人物がゆっくりとこちらを振り返った。
そこに立っていたのは、美しい銀髪をたたえたエルフだった。
イオスは思わず困惑を覚える。魔法師や、何らかの敵意をむき出しにした存在が待ち構えているのではないか――そう警戒していたのだが、拍子抜けするほど綺麗に裏切られたのだった。
銀髪のエルフは柔らかな眼差しでイオスたちを見つめると、静かな声で語りかけてきた。
「はじめまして、皆様。いつもであれば、ここで洗礼を受けていただき、この地で穏やかに暮らしていただくのですが……どうやら皆様をお見受けするに、少々事情が異なるようですね」
「そうですね。ここは落ち着きませんから、場所を変えましょうか」
エルフがそう呟き、手にしていた神官の杖を軽やかに翳した次の瞬間――視界が一瞬で歪み、一行は煌びやかな調度品が整えられた豪華な部屋のまっただ中に立っていた。
「転移魔法……!?」
イオスは息を呑み、目の前のエルフとの圧倒的な実力差に思わず唖然とした。転移魔法といえば、古代の記録でも極一部の高位魔法師しか扱えなかった魔法だ。それを呪文の詠唱すら挟まず、呼吸でもするように軽々とやってのけたのだから。
動揺を隠せないイオスを前に、エルフは心安らぐ笑みを浮かべ、優しく椅子を指し示した。
「少し話が長くなりそうですから、どうぞお座りください」
目の前で起きたあまりの現象にイオスが思考を停止させていると、直後に背中へ鋭い衝撃が走った。
「イオス」
オロチが低くイオスの名を呼び、『しっかりしろ』と強い眼差しで訴えかけてくる。
「ねえイオス君、目の前のお姉さんが綺麗なのは分かるけど、見とれちゃダメよ?」
カグラがいたずらっぽく笑い、肘でイオスの脇腹を小突いて茶化してきた。重苦しくなりかけた空気が、ふたりのやり取りで一気に解れていく。
「違いますって……! 単に圧倒されていただけです」
イオスは照れくさそうに首を振りながらも、おかげで正気に戻り、勧められた椅子へと腰を下ろした。
大きな卓の上には、人数分の茶器がいつの間にか用意されていた。エルフは手際よくお茶を注ぎ、一行の前に差し出す。
「エルフ殿、この茶器……古代の品ではないか?」
出されたお茶に手を伸ばしかけたミロが、珍しそうに細工を覗き込みながら話しかけた。器の表面には見たこともない複雑な文様が刻まれており、一目で極上品だと分かる重厚な雰囲気を放っている。
「そうですね。はるか昔、この地にいた魔法師たちが、お客様用に用意した品々です」
エルフは穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「毒も魔法もかかっておりませんので、どうぞご安心してお飲みください。……もし気になるようでしたら、検分していただいても構いませんよ?」
その透き通るような佇まいと淀みのない言葉に、イオスたちの緊張も徐々に解けていくのだった。
「イオス君、先にいただくわね。お話を始めちゃって」
毒見の意味合いも込めてか、カグラが率先して茶器を手に取り、そっと口をつけた。盗賊としての経験と心得から、不審な仕掛けがないかを察知しようとしているのだろう。
問題がないことを確認するように軽く頷いたカグラを見て、イオスも口を開く。
「まずは……改めて自己紹介を。僕はイオスと申します。見ての通り魔法師です」
イオスを皮切りに、オロチ、ラクシュ、ミロ、カグラも順に己の名を告げた。
「皆様、ご丁寧にありがとうございます。私はこの塔の管理を任されております、セリアと申します」
セリアと名乗ったエルフは、静かに一礼を返した。
「塔……とおっしゃいましたか? 神殿ではなくて?」
イオスの問いに、セリアはくすりと笑みをこぼす。
「イオス様は魔法師ですから、すでにお気づきのことでしょう。この建造物は元々、古代魔法文明の時代に建てられた塔なのです。集落の者たちが勝手に神殿と呼んでいるに過ぎませんので……まあ、信仰に関しては各々の好きにさせています」
「トーリさんから伺ったのですが、神の『代行者』がいらっしゃるとのことでしたが、それはセリア様ですか?」
イオスが尋ねると、セリアはどこか困ったように微笑んだ。
「信仰など必要ないのですが……集落の治安維持のついでに、彼らの抱える問題を『神託』という形で解決しております」
その答えに、イオスは内心驚いていた。規模こそ慎ましいものの、この地は彼女という絶対的な存在を中心として、ひとつの国家のように成り立っているのだ。
「――では、私からもよろしいでしょうか?」
今度はセリアがイオスに質問する。
「はい、何でしょうか」
「実は、あなた方のように正規の手順を経ずに証を得て、ここへ辿り着いた方を私は初めて見ました。一体何があったのか、教えていただけますか?」
詳しく尋ねてみると、セリアはこの塔の三代目管理者であり、引き継いでから約三百年もの間、正規の手順以外での来訪者は一人もいなかったという。
イオスはこれまでの旅路と、ここへ辿り着くまでに起きた出来事をかいつまんで説明した。
「……なるほど。それで、ここ最近になって大きな『魂の奔流』が二度も起こったのですね」
イオスの話を聞き終えたセリアは、納得がいったように深く頷くのだった。
「セリア様、その『魂の奔流』について詳しく教えていただけますか?」
イオスの問いに、セリアは試すような、それでいて温かな眼差しを向けた。
「イオス様、人は命を落とした後、肉体から離れた魂がどうなるとお考えですか?」
「教会の教えでは、魂はただちに天へ昇ると言われていますね」
「そうですね。ですが実際には、すぐに天へ還るわけではないのです」
「……というと?」
「もし即座に昇天してしまうのであれば、神聖魔法による死者復活が成り立ちません。それに、街や戦場で観測されるゴーストやワイトといったアンデッドの存在も説明がつかなくなってしまいます」
(確かに……そうだ)
学院の講義でも議論されていた疑問に辻褄が合い、イオスは膝を打った。それらの現象を説明する仮説として、極めて合理的だ。
「とすると……失われた魂は、しばらくの間、肉体の近くに留まっている、と?」
「その可能性が高いということです。現に『浄化』を施すと、留まっていた魂は天へと還っていきます。先ほどのお話から察するに、皆様方は短期間で大勢の魂を一斉に浄化されたのでしょう。それがこの地からでも『魂の奔流』として見えましたので、何が起きたのかとお聞きしたのです」
――ベイル軍の犠牲者たちを一斉に埋葬し、祈りを捧げたあの時のことか。セリアの解説と、自分たちが辿ってきた事実が見事に一致し、イオスは深く納得した。
「では……この『証』についてはいかがでしょうか? 僕たちが持っているこれの意味について教えてください」
イオスが胸元から取り出した証を示すと、セリアは静かに頷いた。
「そうですね。先ほどお会いになったトーリを例にお話しいたしましょう」
セリアは温かいお茶に軽く口をつけ、語り始めた。
「彼はかつて、この地に小さく点在していた山間の村の住人でした。しかし村が魔物に襲撃され、復讐心にとらわれた彼は、一人で魔物を狩り続ける凄惨な日々に身を投じたのです。やがて心が荒み、限界を迎えたとき、彼は偶然にもこの地の境界へと足を踏み入れました。そこで精霊と出会い、ある選択を迫られたのです」
「選択……ですか?」
イオスの問いに、セリアは少しだけ表情を曇らせた。
「ええ。『生きるか、死ぬか』の選択です」
部屋の空気がわずかに緊張を帯びる。
「この地は、皆様のいらっしゃる現世と、精霊の世界との『狭間』のような状態になっています。ですから、疲れ切ったトーリを気に入った精霊が接触したのです。精霊は彼に問いかけました――『この先ずっと、私と一緒にいてくれないか?』と。トーリはその誘惑を強い意志で断ち切り、生きることを選んで『証』を得ました。そうして、この塔へと辿り着いたのです」
セリアは視線を一行に向け、言葉を続ける。
「トーリは断りましたが、もし精霊の誘いを受け入れた場合、肉体はその場で死を迎え、魂は精霊によって浄化されます。浄化された清らかな魂がこの世界に漂い続けるのは理に反するため、塔を経由して天へと還っていくのです」
セリアの説明を聞き終えたイオスは、顎に手を当てて深く思考を巡らせた。
「となると……僕たちのケースは少し違いますね。精霊にも会っていませんし、僕たちが遭遇したのは、先ほどお話ししたあの『異形の魔物』でしたから……」
「魔物が証を持っていることなど、これまで一度として例がありませんが……」
その瞬間、セリアの手が止まった。ほんの一瞬だった。だが、イオスは見逃さなかった。
「……セリア様?」
「……いえ。少し、嫌な記憶を思い出しただけです」
セリアは珍しく困惑の色を浮かべ、深く眉をひそめた。数百年の管理の歴史の中でも、聞いたことのない異常事態なのだろう。
「――もし、その異形の魔物が、元々は『精霊』だったとしたらどうだ?」
沈黙を破ったのはラクシュだった。その鋭い指摘に、イオスは息を呑む。
「その線……十分にあり得るかもしれません」
精霊が何らかの理由で変異し、魔物と化していたのだとしたら。話を聞いていたセリアの表情が、突如として一変した。
「なんて恐ろしいことを……! イオス様、その異形の魔物が描いていたという魔法陣を、再現することはできますか!?」
「ええ、書けますよ」
持ち前の抜群の記憶力を誇るイオスは、迷いなく即答した。
そこからの展開は、まさに怒濤の如くであった。 イオスが記憶を辿って羊皮紙に書き起こした魔法陣を取り囲み、古代の知識を持つセリアと、魔法師であるイオス、そしてラクシュを中心に検証作業が始まる。構造の解析、変質した精霊の仮説、現世への影響――議論は白熱し、一行は夜を徹して魔法陣の研究に没頭することとなった。
一昼夜に及ぶ研究の末、イオスたちが導き出した仮説は、恐るべきものだった。
「――というのが、僕たちの立てた仮説です」
整理された羊皮紙を前に、イオスは導き出した結論をひとつずつ口にした。
•精霊の命を無理やりつなぎ止め、『器』として利用している。
•外部からの魔力を触媒とし、精霊の力を枯渇させず、延命・増幅させ続けている。
•魔物や人間の体を強引に取り込むことで実体化させ、『異形の魔物』へと変貌させる。
•仮に異形の魔物を倒して肉体を滅ぼしても、増幅された精霊が存在する限り、何度でも新たな肉体を得て再生する。
「……よくもまあ、これほど悪趣味で緻密なものを作り上げたものですね」
事態の異質さに、セリアもお手上げといった様子で深いため息を漏らした。古代の知識を持つ彼女から見ても、その魔法陣は精霊への冒涜と、歪んだ執念に満ちていた。
「直接関わりたくもありませんが……これを組み上げた存在が、決して善良な人物ではないことだけは確かです。もはや『人間』であるかどうかも怪しくなってきましたね」
イオスはそう答えながら、暗い予感を抱いていた。精霊の命すら捻じ曲げるほどの術式を操る敵の魔法師――そいつはすでに人外の領域へと足を踏み入れ、不死の存在と化しているのではないか、と。
「イオス君、それはそうと……その胸の『証』だっけ? それはどうするのよ」
カグラが思い出したように、そもそも自分たちがここを目指すきっかけとなった根本的な問題を指摘した。
「ああ、そうでした。その証なら、私の方で消すことができますよ」
セリアが思い出したように手を叩く。
「消すと……どうなるのですか?」
「通常であれば、ここを去る際に精霊が証を解除し、同時にこの地での記憶も消し去るのですが……イオス様は精霊と契約したわけではありませんからね。私がただ証を解除するだけで済みますよ」
「……ちょっと待ってください。少し考えさせてください」
イオスは制止の手を挙げ、思索の海へと没入した。
この証は、あの異形の魔物を倒して手に入れたものだ。精霊の命すら捻じ曲げるような歪んだ術を組む敵の魔法師が、何の企みもなく証を残すはずがない。
(もし奴が何かしらの罠を仕掛けているとしたら……それは一体、いつ発動する?)
仕掛けが起動する最も決定的な瞬間――それは間違いなく、この『証の解除』が行われた時だ。あるいは、解除そのものが敵へこちらの居場所を知らせる合図になっている可能性すらある。
「……このままにしておきましょう」
「え?」
意外な決断に、カグラが驚きの声を上げる。
「僕なりに考えたんです。仮にあの魔法師がこの『狭間の地』の存在を知っていたとしても、証を持たない以上、自分自身では足を踏み入れられない。ならば、証を持たせた第三者を送り込めば、自ずとこの場所を特定できます。今は何の害も及ぼしていませんが……仕掛けの引き金が引かれるとすれば、間違いなく『証の解除』の瞬間のはずです」
さらにイオスは言葉を散らさず、表情を削いで付け加えた。
「それに、この塔は現代の魔法師には刺激が強すぎる」
もし現代の魔法師たちがこの塔や狭間の地の存在を知れば、あの敵のように塔や精霊を悪用しようとする不届き者が後を絶たなくなるだろう。
「イオス様の判断が正しいかもしれませんね。私としても、この平穏な地を荒らされるのは非常に困りますから」
セリアも深く頷き、イオスの懸念に同意した。
「ふふ、イオス君の判断は分かったけど……戻ったら姫様になんて説明するの? 『手掛かりはありませんでした』じゃ済まないでしょ。良い言い訳、考えておいてよ?」
カグラが茶目っ気たっぷりに笑いながら小突いてくる。
「そうですね……『山からの絶景を眺めていたら胸のつかえが取れて、気分がすっかり良くなりました』とでも報告しておきますよ」
イオスが肩をすくめて冗談めかすと、一行の間にどっと笑いが弾けたのだった。
それから半日ほどが過ぎ、イオスたちは現世へと戻る境目の手前まで、セリアに送られてきていた。
「それではくれぐれも、今後の来訪者にはお気をつけください。結界の防衛障壁も、念のため強く張り直しておいた方がよろしいかと思います」
イオスが真剣な表情でセリアに助言を送る。
「深く心に留めておきます。イオス様方も、どうぞお気をつけて……ああ、それとこちらを」
セリアが静かに呪文を唱えると、イオスの胸元にあるネックレスが淡い光を放ち始めた。
「呪い対策の魔法を施しました。もし証が消された際に何らかの呪いが発動しても、その装身具である程度は相殺できます。どんな魔法が仕掛けられているか分からない以上、できる限り強力にしておきました。定期的にご自身の魔力を流し込んであげてくださいね。より強固になりますから」
「ありがとうございます、セリア様。本当に助かります」
イオスは深く頭を下げ、感謝の意を示した。
「……行くぞ」
後方からオロチが低く声をかけると、一行は力強く頷き合った。
「さーて! 戻ったら待ちに待った建国祭ね!」
カグラが弾んだ声で機嫌よく言うと、イオスは苦笑いを浮かべながら付け加える。
「その前に、まずはリア王女を無事に王城までお送りしなければなりませんね」
「では皆様、どうかご無事で。……良き旅を」
背後から聞こえたセリアの穏やかな声を最後に、視界が白い光に包まれていく。
振り返った先、光の向こうで微笑む銀髪のエルフの姿と、浮世から切り離された神秘の塔が、まるで最初から夢であったかのように、静かに遠ざかっていった。
光が収まると、頬を撫でたのは世界の狭間の澄んだ空気ではなく、どこか懐かしい現世の風だった。胸元のネックレスが、まるでセリアの祈りを宿したかのように、仄かな温もりを残して小さく光っている。
幾多の謎と恐るべき企みが潜む未来は、依然として彼らの行く手を阻んでいる。けれど、隣を見れば頼もしい仲間たちがいる。
イオスは胸の証をそっと確かめると、前を見据えて一歩を踏み出した。
「――帰りましょう。ベイルへ」




