2-8
薄暗い森の木々を掻き分けながら進んでいた。
イオスは今、オロチの背に固定された背負子に収まっている。右腕の痛みに加え、魔法を連続で行使した反動で、体力も魔力も底を突いていたため、苦肉の策としてこの恰好に落ち着いたのだ。
(背に腹は代えられないけど、なんとも情けない格好だな)
イオスは新しく手首に装着されたブレスレットに触れ、その感触を確かめるように指先で撫でた。
「なに?イオス君、綺麗な金髪のメイドさんから貰った贈り物がそんなにお気に入りなの?」
カグラが茶化すような笑みを浮かべ、イオスを覗き込んできた。
「綺麗なのは否定しませんがね。ただ……」
先を促すように、カグラが楽しげに顎をしゃくってみせる。
「ヨミさんは人間離れしているというか……妖精か、あるいはその系譜にあたる種族の方ですね。まったく、王家の人材の層の厚さには頭が下がります」
思いもよらない角度からの答えが返ってきて、カグラは目を丸くした。
「イオス君は、見分けがつくの?」
「まあ、日常的に魔力の波長を観察していますからね。先日の行軍の際、探知魔法を展開した時点で、彼女の魔力が人とは異なることの確信が持てました」
「じゃあ、私とかミロの魔力も見え方が違うわけ?」
カグラが自分と、少し離れたところを歩くミロを指さした。
「もちろん、まったく違いますね。カグラさんは常に澄んだ風を纏っているかのようですし、ミロさんは重厚な大地と深く結びついているような印象を受けます。まあ、あくまで私の主観的な感覚に過ぎませんが」
「そうなんだ……」
カグラは感心したように呟き、何かを確かめるように視線を落とした。イオスはそんな彼女の反応を余所に、ブレスレットの感触を確かめながら言葉を継ぐ。
「しかし、実用面でも誠にありがたい贈り物でした。何より、経費が浮きましたからね」
「そこ!?」
カグラの呆れたような声を聞きながら、イオスは自嘲気味に息を吐きながら、ここに至る経緯を思い返す。
探知魔法を使い、敵の潜伏場所を特定したまでは良かった。案の定、向こうからの逆探知が仕掛けられてきたが、あらかじめ用意していた魔導石の罠へと誘導し、魔力を逆流させてやったのだ。
結果は良好――どころか、上手く行き過ぎていた。山の中腹から目視できるほどの煙が立ち上り、敵の拠点が相応の打撃を受けたのは明白だった。
(……だが、あの狡猾な魔法師が、これほどあっさり策に嵌まるだろうか)
罠を仕掛けたのはイオス自身だったが、あまりの成果に疑心暗鬼が募る。しかし、どれほど勘ぐろうとも眼前に広がる煙は現実だった。イオスは思考を切り替え、改めて現在の局面を見直す。
仕掛けは見事にはまった。だが、それは同時に「敵を追い詰めてしまった」ことをも意味していた。窮地に立たされた魔法師が、なりふり構わず『次の企み』を強行する危険性がある。それを阻止するため、イオスたちは十分な休息も取れぬまま、急遽山へと突入したというわけだ。
先発隊として森に入ったのは、イオス、オロチ、カグラ、ミロ、そしてラクシュの五人。万が一の事態に備え、教団の神官、さらにはベイル軍の一部が森の手前に防衛陣形を敷いて待機している。
「イオス君、大丈夫? 揺れて気分が悪くなったりしてない?」
前方を行くカグラが、心配そうに振り返る。
「大丈夫ですよ。オロチさんの足取りが驚くほど安定しているので、むしろ快適なくらいです」
「うむ」
イオスを背負うオロチが、短い肯定の言葉を口にする。その背中は決してイオスを落とさないよう、確かな力強さで支えてくれていた。
「しかしイオス、あの爆発は凄まじかったのう! 敵もまさか反撃されて、内側から吹き飛ぶとは思っておらんかったじゃろう」
ミロが大笑いしながら、周囲の木々に警戒の目を配る。その隣で、黙々と先頭を進んでいたラクシュが足を止め、静かに手で制した。
「……静かに。この先、空気の質が変わる」
ラクシュの言葉に、全員の緊張が一気に跳ね上がった。
イオスはオロチの背に揺られながら、途切れそうになる意識を鼓舞して探知魔法を維持する。
「迷いの森という感じはしませんね」
周囲に残された魔力の痕跡を慎重に辿っていくが、以前に遭遇したような、進行を妨害する結界や認識を狂わせる魔法の反応は見当たらない。
木々の隙間から覗く奥の景色は、昼間だというのに暗く濁り、鳥や虫の羽音すら途絶えた不気味なほどの静寂に包まれていた。まるで空間そのものが死に絶えているかのようだ。
静まり返った樹海の中を、五人は慎重に歩みを進める。
「……あれ?」
先頭を進んでいたカグラが、不意に足を止めた。 その視線の先で、鬱蒼と茂っていた木々が唐突に途切れている。
「どうした、カグラ」
オロチが低い声で問いかけながら踏み出す。 カグラは返答もできず、ただ口元を手で覆ったまま、目の前に広がる光景に瞳を大きく見開いていた。
「……嘘でしょう」
息を呑むカグラの背後から、イオスたちも前を見る。そして――全員が言葉を失った。
そこに広がるべき森が、消えていた。
正確には――森だったはずの土地そのものが、ごっそりと削り取られていたのだ。
木々も、大地も、岩盤さえも。
巨大な存在に抉り取られたかのように、凄絶なすり鉢状の大穴が穿たれている。その底は遥か下にあり、崩れ落ちた土砂と折れた木々が幾重にも積み重なっていた。
「……こんなの、外から見えたはずなのに」
カグラが呆然と呟く。イオスもまた言葉を失い、眼下に広がる惨状を見つめた。
山の中腹から見えた、あの煙。
あれが敵の拠点で起きた爆発なのだとしたら――。
「……おそらく、先ほどラクシュさんが感知した違和感の正体は、強力な認識阻害の魔法だったのでしょう」
イオスは絞り出すように言葉を繋ぐ。
「だから外から見たときには、何事もない森にしか見えなかった……というところでしょうか」
一行に重苦しい沈黙が降りた。その静寂を破るように、カグラが不審な表情を浮かべる。
「ねえ、これって……」
カグラが大穴の底へ視線を落とした。
「以前にあった、あの神殿の跡地で見つかった大穴と同じじゃない? 何か関係があるのかしら」
「恐らく無関係ではないでしょうね。ですが、ここで一体何が行われたのか……皆目見当がつきません」
イオスは焦りを抑えきれず、探知魔法の出力を極限まで高めた。だが――。
「……おかしい」
「何が?」
カグラの問いかけにも答えず、イオスはさらに広範囲へ探知の網を広げていく。 これほどの地殻変動を伴う爆発であれば、周囲には焦土の臭いとともに、膨大な魔力の残滓が留まっているはずだった。
だが、何もない。
焼け焦げた魔力すら、微塵も感知できないのだ。
「……爆発が起きたようには思えませんね」
「え?」
「ここにあった土地や建造物そのものが……まるで、最初から存在していなかったかのようです」
イオスの表情から、血の気が引いていく。その時、黙って大穴の縁を観察していたラクシュが、底に向かって静かに指をさした。
「イオス君、ここを見てほしい」
「……何でしょうか」
「爆発による衝撃なら、周囲の木々は外側へ向かって倒れるはずだ。だが……ここの木々はすべて、穴の中心に向かって傾き倒れている。少なくとも、普通の爆発ではない」
ラクシュの冷徹な指摘に、一同の表情が強張った。
「これは……まずいですね」
イオスは不快感に顔を歪め、痛みの引かない右腕へそっと手を添えた。
逆探知を利用した反撃は、間違いなく成功していたはずだった。敵の魔力を魔導石へ誘導し、そのまま逆流させて魔法陣を書き換えて爆発を引き起こしたのだ。――だが、もしも敵がその『イオスから逆流してくる魔力』すら織り込み済みで、この未知なる魔法を起動させるための『引き金』として利用していたのだとしたら。
自分の反撃が完璧であったからこそ、図らずも敵の計画を次の段階へ進めてしまったことになる。
最悪の予想が、イオスの脳裏を冷たく駆け抜けていった。 だが――ここで足を止めて引き返したところで、事態は何一つ好転しない。
「ひとまず、大穴の調査をしましょう」
イオスの提案を受け、一行は大穴の底へ続く斜面を慎重に下っていった。
崩れた土砂に足を取られ、露出した太い木の根を避けながら進んでいく。何かに削り取られたようなその空間には、鳥のさえずりも獣の気配もない。不自然なまでの静寂が、辺りを支配している。
やがて、傾斜の途中に堆積した土砂の隙間から、青白い光を放つ石が姿を現した。それは、この凄惨な光景の中にあって傷一つなく、異質とも思える存在感を放っていた。
「……何かしら?」
カグラが眉をひそめ、警戒の眼差しを向ける。彼女は腰の短剣へ自然と手を添えつつ、慎重な足取りで石の周囲を巡って安全を確認した。
「物理的な仕掛けの類はなさそうね。魔法的な仕掛けの有無は任せるわ」
「では、調べてみます」
イオスはオロチの背から下ろしてもらうと、樫の杖にしっかりと体重を預け、石の前へと膝をついた。
右腕が苛烈に痛む。戦いが終わってからというもの、その疼きは一度たりとも途切れていない。だが、今は痛みに意識を奪われている場合ではなかった。
「これは……魔導石ですね」
石の表面には古代の文字とともに、複雑な幾何学的模様が深く刻み込まれていた。
本来、純粋な魔導石というものは魔力を蓄積するための単なる結晶に過ぎない。しかし、用途は多岐にわたり、内部や表面に刻む魔法陣が次第で全く異なる性質へと変化する。
緻密な細工さえ施せば、魔導石は多種多様な現象を引き起こす触媒となり得るのだ。 それこそ――イオスが先ほど試みた反撃の罠のように。
「読めるの?」
カグラが横から覗き込んできた。
「古代語と構造が似ていますね。危険を伴いますが……魔導石の中身をのぞいてみましょう」
イオスは深く刻まれた刻印を指先で丁寧になぞり、そこに浮かび上がる魔法陣を読み解いていく。やがて、その眉間に深い皺が刻まれた。
「これは魔法の記録ですね」
イオスは石板の中央に刻まれた紋様を示した。
「生命力と魔力を一つの『器』に集約させるための魔法です。仮に本来の肉体が滅びても残された魔力残滓を別の器へと移し定着させる……」
「つまり、あの巨人を作り出した魔法か」
ラクシュが静けさを湛えた声で呟いた。
「おそらく……。ですが、まだ続きがあります」
刻印を滑らせていたイオスの指先が、唐突にその動きを止めた。その顔から、急速に血の気が失われていく。
「どうした、イオス」
オロチが低い声で問いかけた。
「……この紋様!」
イオスは自らの右腕を見つめ、包帯の隙間から袖を捲り上げた。 そこには、怪しく蠢く黒い痕に混ざり、魔導石の魔法と酷似した不気味な紋様が浮かび上がっていた。
「その呪いと、同じ魔法なのか?」
ラクシュがイオスの腕と魔導石を交互に見比べる。その瞳に、明確な懸念の色が宿っていた。
「完全に同一ではありません。ですが……魔法の『根幹』が同じです」
イオスは魔導石へ視線を戻した。
「生命力を別の器へ移す魔法。そして、僕の腕を侵食するこの呪い……恐らくは、まったく同一の魔法体系から生み出されたものだと見て間違いないでしょう」
イオスが答えを導き出し、思考を巡らせた――その瞬間だった。
足底を通じて、腹の底を揺さぶるような震動が伝わってきた。
斜面の土砂が崩れ落ち、足元がゆっくりと沈み込んでいく。
ラクシュが即座に声を上げた。
「全員、離れろ!」
その声に含まれた極限の緊張を感じ取り、全員が思考よりも早く跳躍して散開した。
直後、彼らが立っていた足元から、大量の土砂が爆風のように頭上高くへと跳ね上がった。 崩れ落ちる地中から這い出てきた『それ』を目にし、カグラは息を詰まらせた。
それは到底、生物と呼べる代物ではなかった。
太く肥大化した胴体には、獣の骨、人の白骨、そして黒く腐濁した肉の塊が複雑怪奇に絡み合っている。頭部と思われる部位に目や鼻の器官はなく、ただ中央に巨大な『亀裂』のような裂け目が口として開かれていた。その内側には、人間の歯が無秩序かつ異常な密度で幾重にも重なり合って並んでいる。
「また異形か……!」
オロチが剣を抜き、即座に魔法をまとわせる。鋼が清廉な神聖の光を放ち始めた。
魔物が地を揺らして巨体を持ち上げた瞬間、イオスの右腕に骨の髄まで焼き尽くすような痛みが走り、歯を強く食いしばった。
「……っ!」
見れば、皮膚に浮かび上がる黒い刻印がこれまでにない濃密さをもって変色し、禍々しく蠢動していた。それと同時に、体内の魔力が勢いよく外へと吸い上げられていく不快な感覚がイオスを襲う。
「イオス君!」
変調に気づいたカグラが、悲痛な声を上げて振り返る。
「大丈夫です……!こいつ、僕の腕の呪いに反応しています……僕を狙っている!」
魔物がその裂け目のような口をイオスへ向け、歯を覗かせた。イオスの体から奪われた魔力が、そのまま異形を活性化させる糧となっているのは明白だった。
「なら、先に叩き潰すまでじゃ!」
ミロが猛炎を纏わせた大斧を上段に構え、一気に間合いを詰めていく。灼熱の刃が、魔物の肥大化した胴体へ深く食い込んだ。
肉が焼け焦げ、腐濁した黒煙が立ち昇る。――だが、次の瞬間、焼き切れたはずの断面から、重々しい赤黒い光が走り抜けた。
魔物の肉体が急速に変質していく。先ほどまで焼け焦げていた肉壁が、あろうことかミロの放った猛炎と同じ輝きを帯び始めたのだ。
「なに……!?」
ミロが驚愕に目を見開いた瞬間、魔物の巨大な裂け目から灼熱の火炎が放たれた。ミロは即座に横へ跳躍し、間一髪でその火炎を回避する。
「こやつ、わしの真似をしおったぞ!」
「ならば削ぎ落とす!」
オロチが強く地を蹴った。疾風のごとき踏み込みから繰り出された神聖な一閃が、魔物の胴体を深く断ち切る。 しかし、切り離された肉塊は地面へ落下するよりも早く不気味に胎動をはじめ、不可視の力で引き寄せられるように本体へと再び融合していった。
「また再生!?」
カグラが短剣を構え直しながら驚愕の声を上げる。神聖な魔力を宿したオロチの斬撃すらも効果を結ばず、傷口は跡形もなく塞がっていた。
イオスは激痛に耐えながら、思考を高速で巡らせた。
(ミロさんの猛炎を無力化し、同じ炎を纏って火柱を放ったこと。そしてオロチさんの魔法剣も即座に肉体を復元させたこと……)
一見するとただの再生能力のようにも思える。だが、ただダメージを無効化しているわけではない。
(攻撃された魔力の性質を、その身に取り込んで学習している……?)
あの魔導石に刻まれていたのは、魔力の集約と再構築の魔法陣だ。
この魔物は、与えられた魔力や衝撃をただ受けるのではなく、その魔力を解析し、即座に自らの能力として組み込んでいるのだとしたら――。
確信に近い仮説が、イオスの頭の中に組み上がっていく。
「カグラさん! ただの弓矢はありますか!?」
突如として放たれた問いに、カグラは一瞬だけ目を見開いた。
「ただの矢……? あるわ、護身用の小弓と鉄矢なら!」
「それで魔物を射抜いてみてください!普通の攻撃に対してどう反応するかを確かめたいんです!」
イオスの意図を察したカグラは、すぐさま短剣を鞘へと戻し、鞄から小弓と矢筒に手を伸ばした。
「オロチ、隙を作って!」
カグラの叫びに応じ、オロチは間合いを詰めた。神聖な光を抑えた刃が一閃し、魔物の胴体を深く切り裂く。
魔物の意識が傷口の復元へと向いたその一瞬の隙を逃さず、カグラは弓を引き絞り、解き放った。
放たれた鉄矢は空を切り、魔物の頭部へ突き刺さる。
オロチに切り裂かれた胴体はすぐさま不気味に結合し、再生を果たした。――しかし、頭部に刺さった矢は吸い上げられることも、模倣されることもなく、そのまま深く突き立った状態で残されていた。
「……刺さったまま、再生も吸収もしていない!」
カグラが叫ぶ。イオスの見立て通り、魔物は『魔力を伴わない単純な攻撃』に対しては、無力化や学習の反応を示さなかった。
「細かいことは省きます。魔物は魔法を学習します。ですから……一切の魔力を排した、純粋な攻撃だけで攻めてください」
「了解した」
オロチは短く応えると、刃に纏わせていた神聖な光を消し去った。無垢な鉄の剣を握り直し、地を疾走して魔物へと斬りかかる。
「イオス君、魔法を封じるとなると前線の火力が落ちる。私も出るよ!」
ラクシュが静かに剣を抜き放ち、前線へと一気に躍り出た。
確かに、魔力を排した素の武器しか使えないとなると、攻撃の決定打には大きく欠ける。
「わしは身に着けておる武具のすべてが魔導具じゃぞ!?」
ミロが悲痛な叫びをイオスへと向けた。職人として自作の魔導具を極限まで鍛え上げてきたミロにとって、その自慢の武具がすべて封じられる状況は天敵以外の何物でもない。
「ミロさんはそのまま待機してください! 下手に攻撃を当てて相手に新しい力を学習されるわけにはいきません!」
イオスの制止を聞きながら、ミロは歯噛みをして自らの斧を引き戻した。
「ミロ! そこらの丸太を引き抜いて殴りつけなさい!」
カグラが思いもよらぬ助言を言い放った。あまりに強引な案ではあったが、ドワーフたるミロの並外れた怪力を活かすという意味では、理にかなった一手と言える。問題は、できるかどうかだった。
「なんと不恰好な戦い方じゃ! ……じゃが、冒険者の知恵としては大正解じゃな!」
ミロは大地に深く根を張る巨木の下へと歩み寄ると、その幹を抱え込むように太い両腕を回した。全身の筋繊維を限界まで爆発させ、一気に上空へと引き揚げていく。
頭上で太い枝々が激しく破砕する破壊音が響き渡り、やがてオロチの身長の三倍はあろうかという大木が、根こそぎ土から引き抜かれた。
「ふんぬ!固い根っこじゃ……だが、これで存分に殴れるぞ!」
大木を軽々と振るうミロが、凄まじい衝撃とともに化け物へと殴りかかった。素の質量による打撃は魔物の学習対象にならず、的確に相手の体勢を崩している。これで前線はしばらく持ちこたえるはずだ。
後はこの化け物を完全に討ち果たす手段だった。
(こいつは……僕の右腕にある呪いとまったく同じ『理』で動いている……)
イオスは自分の右腕へと集中する。
激痛に耐えながら、己の右腕へと全神経を研ぎ澄ませた。生命を繋ぎ止める魔法。魔力を別の存在へ遷移させる機構。器を置換する構造。これまで個別に存在していた知識の断片が、思考の深層で滑らかに噛み合わさっていく。
「そうか!そういうことだったのか!」
「何かわかったのか?イオス君」
大木と剣の連撃で魔物を押し込みながら、ラクシュが声を張り上げた。
「この魔物は、魔法を受けた瞬間に『学習と再構築を行う魔法陣』を体内で展開させています! 攻撃を模倣される危険はありますが、あえて魔法を打ち込み、展開されたその魔法陣を内部から直接破壊すれば――ただの魔物へと成り下がるはずです!」
その言動に反応を示すかのように、魔物がイオスを目掛けて猛然と牙を剥いた。巨体からは想像もつかない速度で繰り出された突進の射線上へ、間一髪でオロチが滑り込む。
異形の裂け目から覗く幾重もの歯列と、オロチの携える無垢の鋼が正面から激突した。鋭利な衝撃音が戦場に響き渡り、受け止めたオロチの脚部が深く土砂を削りながら、後方へと引きずられていく。
「オロチさん!」
「問題ない……」
踏みとどまったオロチは態勢を構え直し、イオスへ迫る一切の脅威を遮断するように、その背は強固な壁となって立ち塞がっている。
「その足、止めさせてもらうわよ!」
一瞬の隙を逃さず、カグラは弓を引き絞り、正確な連射で異形の足首へ矢を連続して撃ち込んだ。鉄矢が肉と関節を正確に穿ち、地面へと縫い留める楔となって魔物を縛りつける。
「わしは上から叩き潰して押さえ込んでやるわい!」
ミロが大木を力任せに振り下ろした。巨大な木幹が魔物の胴体へ強打し、その絶大な質量と力で地面へと深く押し潰す。
足首を撃ち抜かれ、上から大木で圧殺された魔物は、身動きすらままならぬ状態で完全に地に伏した。
「今じゃ、イオス! 好きに料理してやれ!」
「ラクシュさん、あの魔物に魔法の攻撃を!」
「了解した!」
カグラとミロが作り出した完璧な拘束に応じ、ラクシュが間髪入れずに魔法陣を展開する。
「堅牢なる沈黙を破り、鋭利なる岩槍となり貫け!」
ラクシュの詠唱と同時に地面が大きく隆起し、鋭利な土の槍となって魔物の顎下を下方から貫き上げた。
攻撃を受けた魔物の体内で、受けた魔法を学習するための魔法陣が急速に励起する。イオスはその瞬間の魔力の流れを見逃さず、死角から一気に距離を詰めると、無防備となった異形の額へと右手を直接押し当てた。
――だがその瞬間、異形に宿る魔法陣が、イオスの右手を『新たな侵食対象』として認識した。
「ぐぁ……っ!?」
押し当てた右手から、不快な魔力が押し寄せる。魔物が蓄積していた呪術の残滓が、イオスの呪いへと直接流れ込んできたのだ。
その魔力に反応し、右腕の呪いが凶暴に脈打ち始める。
外側からの魔力と、内側からの呪いの暴走。二つの異なる魔力が右腕の内部で衝突し、まるで血管に煮えたぎる油を流し込まれたかのような激痛がイオスの全身を駆け巡った。
「イオス君!!」
カグラの悲鳴のような叫びが聞こえる。イオスの視界は不自然な色に染まり、耳奥では不快な呪詛の鳴動が響き渡って意識を混乱させる。脳が過熱で焼き切れかけ、呼吸すら激痛へと変わっていく。
(ここで手を離せば……死ぬぞ……!)
イオスは暴風のごとく荒れ狂う右腕の呪いを、気力だけで無理やり抑え込む。
魔物の魔力と己の呪い――その歪んだ波長を抑え込み、イオスは力任せに魔法陣を編み直した。
「――魔力共鳴破砕!!」
蒼白い閃光が、イオスの右腕から爆発的な奔流となって解き放たれた。溢れ出た黒濁の呪詛と、イオスが放った純粋なる青銀の魔力が魔物の内部で激突し、致命的な波長干渉を引き起こす。
音にならぬ戦慄の悲鳴を上げ、魔物の肉体を構成していた不浄な魔力が、紫電の散華とともに剥落していく。 やがて限界を迎えた異形の巨体へ亀裂が奔った。
「オロチさん!」
イオスの鋭い叫びに呼応し、退避と同時にオロチの剣が翻る。極限まで研ぎ澄まされた一閃が、亀裂に沿って魔物の胴体を正確に截断した。
上下へと二つに分かたれた肉塊は、ミロが叩きつけた大木によって自重を支えきれず、一気に崩壊する。
異形の魔物が押しつぶれ、戦場に静寂が戻る。荒い息遣いだけが響くなか、しばらくの間、誰一人として動くことができなかった。
呪いの侵蝕と過度な魔力行使に耐えかね、イオスは膝から崩れ落ちるようにその場へ倒れ込んだ。
「イオス君! イオス君、大丈夫!?」
カグラは手にしていた弓を放り出すと、なりふり構わず駆け寄り、地上に伏したイオスの肩を抱きかかえた。
――呪いの解けた右腕は赤く腫れ上がり、指先まで激しく震えている。命を削るような無茶な試みであったことは、その憔悴しきった表情を見れば明白だった。
「無茶をしよって……! じゃが、見事な采配じゃったぞ、イオス」
ミロが大木を横に放り投げ、息を荒らげながら歩み寄ってくる。オロチとラクシュもまた、剣を収めながら安堵と敬意の混じった視線をイオスへと注いでいた。
「ひとまず……解呪には成功したようですね」
イオスは荒い息を吐きながら、自分の右腕を見下ろした。
黒い紋様は消えていた。そして心臓に向かって伸びていた忌々しい爪のような紋様もまた、跡形もなく消え失せている。
「……完全に、とは言えないかもしれませんが」
「何?」
ミロが心配そうに声をかける。
「さっきの魔物から流れ込んできた魔力の一部が、まだ僕の中に残っています」
そう語るイオスの視線が途切れ、ラクシュが不自然なほど静かに、消滅した魔物の痕跡を見つめ続けていることに気づいた。
「ラクシュさん、何か……気になることでも?」
「これを見てくれ」
ラクシュが静かに指さした先――魔物の痕跡から、糸のように細い一筋の黒濁した魔力が、地上を這うように伸びていた。
その先は、暗鬱な森林のさらに深部へと向けて、途切れずに続いていた。
「……なるほど。倒された後も魔力を手繰り寄せているということは、この先に『敵の真の拠点』が存在するということかの?」
ミロが険しい面持ちで尋ねる。
「その可能性が極めて高いですね」
イオスは黒く揺らめく魔力の糸を見つめながら、重い口調で肯定した。
「……あそこに行けば、奴らの真の目的が判明するかもしれません」
「ならば、行くまでだ」
オロチの短く研ぎ澄まされた言葉には、揺るぎない意志が込められていた。
「せっかくここまで辿り着いたんだもの。毒を食らわば皿までよ!」
カグラも弓を握り直し、力強く首肯する。
「それにしても……わしはそろそろ腹が減ってきたぞ! 破滅の元凶とやらをすべて片付けたら、ベイル辺境伯に一番上等な酒を奢らせてやるからの!」
「ミロさんは、どんな時でもお酒のことばかりですね」
イオスが力なく苦笑いを浮かべると、ミロは豪快に白い歯を見せて笑い飛ばした。
ラクシュが静かに、だが確かな足取りで先頭へと立ち、闇の奥へと進み始める。
暗く深い森林の深部に、どのような罠と絶望が待ち受けているかは誰にも分からない。だが、今の彼らに立ち止まる理由などどこにもなかった。
単に降りかかる脅威を払うためだけではない。残された謎の解明と、仲間たちとともに掴み取るべき未来のために――イオスは杖を固く握り直し、力強く一歩を踏み出した。
「行きましょう」
五人の背影は、鬱蒼とした深い闇の中へと静かに消えていった。




