2-7
イオスは夢を見ていた。
視界を満たすのは、夕日を浴びて黄金色に輝く無限の麦畑。心地よい風に揺れる穂の音は、まるで穏やかな波のようだった。
包み込むような茜色の光の中で、父が愛おしそうに目を細めて笑い、母が優しく手を振っている。その周りを、幼い兄弟たちが無邪気な歓声を上げながら駆け回っていた。
胸を満たす、愛おしい記憶。
息を呑むほどの温もりが、そこには確かにあった。
だが、唐突に終わりを告げるように、日は落ちた。
あたたかな橙色だった空は、まるで腐りかけた果実のように濁り、瞬く間にどす黒い暗紺色へと変貌していく。
同時に、足元から蠢き、這い上がってきたのは、粘りつく湿り気を帯びた泥のような暗闇だった。それは生ぬるい異臭を放ちながら、急速に視界のすべてを塗り潰していく。
広がり、広がり、どこまでも侵食していく底なしの黒。
そして――誰の顔も見えなくなった。
「——はっ!」
イオスは弾かれたように跳ね起きた。直後、右腕に芯を刺すような鋭い痛みが走り、思わず息を呑む。
見下ろした右腕は、手首から肘まで隙間なく丁寧に包帯で巻かれ、その上には見たこともない札が何枚も貼り付けられていた。
「イオス君、目が覚めたの!? 痛いところはない!?」
カグラが勢いよく顔を覗き込んできた。
その目元は少し赤く、ずっと心配していたことが窺える。
「……なんとか、手足もついてますね。痛みは……腕が痛くてよく分からないです」
動く左手で頬を掻きながら、イオスは努めて軽く答えた。
「良かったぁ……もう、本当に心配したんだからね!」
「すいません、ご心配をおかけしました」
深々と頭を下げるイオスに、カグラは胸を撫で下ろすと急にパッと表情を明るくした。
「みんなを呼んでくる!」
「大急ぎで!」と叫ぶなり、カグラは風のように部屋を飛び出していった。
一人残されたベッドの上で、イオスは気絶する直前の光景を頭の中で反芻していた。
異形の巨人を討ち果たしたこと。
迫り来る魔法師の一撃を、障壁を展開して受け止めたこと。
そして、リア王女に対し、凱旋を促したこと——。
思考を巡らせるイオスだったが、胸の奥を苛む不穏な気配だけは消え去ってくれない。
むしろ、目を覚ましたことで、あの魔法師への疑念がより鮮明になっていた。
(あの魔法師……いったい何が目的なんだ?)
「呼んできたわよ!」
扉が豪快に開かれ、カグラを先頭に仲間たちが雪崩れ込んできた。
「イオス! やっとお目覚めか、心配したぞ!」
「うむ」
オロチとミロが、頼もしい笑顔を浮かべて部屋に入ってきた。
「二人とも……心配をかけて申し訳ないです」
「あの魔法師の一撃を受けて無事だっただけでも、大したもんじゃ」
ミロが感心したようにイオスを見る。
「ひとまず、状況を整理しましょうか」
そう切り出そうとしたイオスの言葉を、カグラが制した。
「待ってイオス君、姫様も来られたわ」
部屋の雰囲気が一変する。ヨミを従え、リア王女が部屋へ駆け込んできた。
「イオス様! 大丈夫なのですか!?」
「姫様、少々お心を落ち着けて……」
後ろからさらに見知らぬ関係者たちが部屋へ入ってくる。そこでイオスは、自分が上半身裸のままだったことに気づき、慌てて身を小さくした。
「あ、すいません、こんな格好で……」
「はい、これ羽織って」
カグラが手早く、準備されていた綺麗な羽織をイオスの肩にかけた。
「そのままでお構いなく。イオス様、お加減はいかがですか?」
「お気遣いありがとうございます。右手以外は、今のところ特に問題なさそうですね」
「良かった……一時はどうなることかと」
心の底から安堵したように、リアは細い胸に手を当てた。
「そんなに危ない状態だったんですか?」
「どこからお話ししたものでしょう……」
思案するリアの横から、側近のヨミが冷静に助け舟を出した。
「リア様、まずは凱旋後からお話しされた方がよろしいかと」
ヨミの説明によれば、イオスが眠っていたこの二日間の間に、事態は大きく動いていた。
戦地からの凱旋後、ただちに遺体の回収と適切な弔いの儀式が執り行われたこと。
そして、ベイル軍にあまりにも多くの殉職者が出たこと――。
レベレース騎士団にこそ戦死者は出なかったものの、重傷を負い、騎士としての復帰が絶望的となった者も数名いるという。
ただ、不幸中の幸いと言うべきか、あの激闘を境に魔物の異常発生は嘘のように沈静化しているとのことだった。
「……やはり、ベイル軍の被害は大きかったですか」
イオスは無念さに眉をひそめ、唇を噛み締める。
「あの混沌とした状況では、致し方なかったかと……」
伏せがちに答えるリアの痛ましい表情からも、被害の苛烈さが窺えた。重苦しい静寂が部屋を包み込む中、ヨミが意を決したように言葉を継ぐ。
「イオス様のお体のことなのですが……」
「それは私から説明いたしましょう」
歩み出たのは、見覚えのない聖職者風の女性だった。イオスはベッドの上から軽く頭を下げる。
「初めまして。私はフェネスと申します。単刀直入に申しますね」
フェネスは静かに礼をとると、イオスの腕に目を落とした。
「右腕の状態ですが、肉体的な傷はほとんど癒えています。ですが……現在、イオス様の右手には根深い呪いが刻まれており、そこから常に魔力が漏れ出している状態です」
「魔力が……?」
イオスは体内の魔力を確かめる。
確かに、右腕から微量ながら魔力が流出しているのが分かった。
「ええ。幸いにもイオス様ご自身に呪いの耐性があったため、現在は魔力の枯渇に至っておりません」
フェネスはそこで一度言葉を切った。
「……そしてここからが大切なのですが、その呪いが浸食を進め、左胸にまで到達した時、イオス様の命の保障はできなくなります」
フェネスの重々しい告白に対し、イオスは己の腕を見つめながら静かに頷いた。
「なるほど。今日明日で死ぬということは無さそうですね」
自分の命がかかっているとは思えないほど達観したその口ぶりに、フェネスは毒気を抜かれたように目を丸くする。
「あ、はい……ひとまずは……」
戸惑いを隠せないフェネスをよそに、イオスはすぐさま次の思考へと意識を向けた。
「お聞きしますが、その呪いさえ解いてしまえば問題はなくなるのですね?……そして、今のところ解呪の目処は立っていないという事でよろしいですか?」
「……ええ。私の力では及ばず、申し訳ありません」
申し訳なさそうに肩を落とすフェネスに対し、イオスは深く息を吐き出した。
顎に手を当て、思考を巡らせる。
流出しているということは、捨てているのか。
それとも――『どこか』へ届けているのか。
あの魔法師のことだ。
碌なことになっていないだろう。
情報が足りない。
「フェネス様、教えてください。呪いというものは、一度かければ永続するものなのですか?」
「いいえ。この手の呪いは、常に祈りを捧げ続けることで維持されます」
「病気や毒のように、一度発生させれば放置で成立するものではない、と」
「その通りです」
「遠くからでも祈りを捧げ続けさえすれば、呪いは維持できてしまうのですか?」
「呪いの規模と内容によるとしか言えませんが……ただ、他国ほどの遠方から維持するのは困難かと。また、ベイルの近くであれば神殿の加護が働くため、呪いの効果も薄まります」
レベレース国内には歴史ある神殿が点在している。
となれば、この手の儀式を行うのであれば――神殿の加護が届かない場所。
そうなると、魔物が湧き出していた山の奥か。
イオスは視線を巡らせた。
「オロチさん。あの魔法師と刃を交えた際、何か気になる事はありませんでしたか?」
「力を欲しがっていたな」
オロチが短い言葉で思い返す。
「それと、『次はもっと大きく頂こう』と言っていた。……どうやら、次があるらしい」
イオスは不吉な予感を確信に変え、オロチへ問いを重ねた。
「ちなみにオロチさん、呪いへの耐性についてですが……」
「先日、同じことをされただろう」
以前、イオスが広域探知魔法を使った際に苦しんだあの感覚。あれは呪いだったらしい。
「僕なりに、今なすべきことの優先順位を考えました」
静かな、しかし淀みのない声が室内に響く。
イオスは指を一本立てた。
「ひとつめは、どこかで行われているであろう呪いの儀式を止めること。僕自身の命のためにも、これは最優先で阻止したい」
そして、二本目の指を立てる。
「ふたつめは、あの不気味な魔法師が画策している『次の企み』を潰すこと」
さらに、三本目。
「そして最後に、再び襲い来るかもしれない魔物の脅威を取り除くこと」
イオスは自らの右腕を静かに見つめた後、ゆっくりと顔を上げた。
「一番早いのは、呪いの儀式が行われている場所を特定して、直接乗り込むことです。というわけで、この『魔力の行き先』を追います」
イオスは札が貼り付けられた右腕を掲げて見せた。自身の魔力が糸のように流れ出ているのなら、その痕跡を辿ることで敵の企みを一網打尽にできるはずだった。
「そうね、そこから調べて攻めるのが一番確実そうね」
カグラが腕を組み、納得したように頷く。
「イオスがそう言うなら間違いなかろう! よし、ならば儂はいつでも叩き割れるよう、斧の点検と手入れをしておくかのう」
ミロはそう言うと、両の拳を打ち合わせ、頼もしい笑みを浮かべた。
「ちょ……ちょっとみなさん! せっ、説明を求めます!」
淀みなく話を進めていくイオス達を見かねて、ついにリアが制止の声を上げた。傍らではヨミが深く頷いて同調し、フェネスに至っては話の展開に全く追いつけず、目を丸くして呆然と立ち尽くしている。
「えっと……何かおかしなところがありましたかね?」
首をかしげるイオスに対し、ヨミがため息まじりに間に入った。
「イオス様、もう少し順を追って、詳しくお話しいただけますか?」
呆然とするフェネスたちと、全くついていけていないリアの表情を交互に見やり、イオスは苦笑いを浮かべた。どうやら話を飛ばしすぎてしまったらしい。
「そうですか。では最初からですね」
イオスは一つ頷くと、指を立てながら論理を組み立て直すように語り始めた。
「まず、あの異形の巨人についてです。以前遭遇した個体は、十数名ほどの犠牲者で構成されていました。ですが今回の巨人は……ベイル軍の皆様には痛ましいことですが、少なくとも五十名以上の犠牲者が出ています」
一息置き、イオスは自らの考察を深めるように言葉を重ねる。
「……ですが、本来、あの巨人を作るのに、そこまでの犠牲は必要ないはずなんです」
室内に緊張が走る。
「あの巨人は、取り込まれた肉体と、それを維持するための魔力。この二つによって成り立っていると僕は考えています。前回の個体から、巨人の肉体を維持するために必要な魔力量が、ある程度推測できます」
イオスは一度言葉を切り、皆の反応を確かめるように視線を巡らせた。
「前回の個体より多少大きかったとはいえ、今回の巨人は明らかに犠牲者が多すぎる。しかも、今回は魔物まで混ざっていました。だとすれば、巨人を構成するために使われなかった魔力が、どこかに蓄積・残留している可能性があります」
イオスは自らの右腕へ視線を落とした。
「そこに、『僕の右手から魔力が出ている』『敵が呪いをかけている』『あの魔法師が裏で何かを画策している』という事実を掛け合わせると……」
イオスは自身の右腕をすっと示してみせる。
「僕の右手から伸びる魔力の痕跡を辿れば、余剰魔力が蓄えられている場所――つまり、敵が何かを仕掛けている場所へ辿り着ける可能性がある」
「なるほど……」
誰かが小さく息を呑んだ。
「つまり、あの巨人を作ったのは、それ自体が目的ではなかったということですか?」
身を乗り出して尋ねるリアに、イオスは頷いた。
「その可能性が高いと思います。五十人以上もの人間を使って、わざわざ必要以上の魔力を生み出した。そう考えるなら、あの巨人は『目的』ではなく、『何かを生み出すための手段』だったのかもしれません」
室内に、重い沈黙が落ちた。
イオスは右腕に貼られた札を見つめる。
「そして僕の右手から流れ出ている魔力も、その『何か』に使われているのだとしたら……」
そこでイオスは顔を上げた。
「敵は今も、どこかで魔力を集め続けていることになります」
そして、静かに結論を告げた。
「そこを突き止めて、上手くいけば一連の問題はすべて解決する……そういうわけです」
イオスの説明を聞き終えたリアは、まだ戸惑いを残した面持ちで傍らに控える騎士団長へと視線を向けた。
「騎士団長、軍の指揮を執る者として……どう思いますか?」
尋ねられた騎士団長は、真剣な眼差しでイオスを見つめた後、力強く応じた。
「率直に申し上げて、理にかなっております。今できる最善手と言えましょう」
信頼する団長の言葉に意を決しつつも、リアは不安を隠しきれずにイオスへと向き直った。
「……ちなみにイオス様、その作戦は危険ではないのですか?」
「あの魔法師と再び対峙する可能性もありますからね。もちろん、危険です」
やはり――と、リアは胸を痛めた。
自嘲気味に微笑むイオスに言葉を重ねる。
「ならば……本陣の到着を待ち、十分な戦力を整えてからでも遅くはないのでは?」
「リア王女。結局のところ、待っても何も変わらないんですよ」
イオスは自らの右腕に一瞬視線を落とし、静かに首を振った。
「今ある情報以上に確実なものなど、待っていても簡単には手に入りません。仮に都合よく情報が転がり込んできたとしても、それこそ敵の罠だと疑うべきです」
そこで、イオスはリアをまっすぐに見つめた。
「時間をかければ安全な策は見つかるかもしれません。でも……その間に僕の呪いが進行して死んでしまっては、どうしようもない。ご理解ください」
イオスは諭すように優しくリアへ語りかけた。 重苦しい沈黙が室内を支配する。リアは溢れ出そうになる反対の言葉を必死に呑み込み、ただ唇を噛み締めて黙り込むしかなかった。
やがて、その静寂を切り裂くように、イオスは静かにベッドから立ち上がった。
「さて。やりますか」
イオスはそう呟くと、呼び出しの魔法で愛用の樫の杖を引き寄せ、その手に握りしめた。
「イオス様!? い、今からやるのですか!?」
まだベッドから立ち上がったばかりの彼の行動に、リアが驚愕の声をあげる。
「こういう面倒な事は、すぐに片付けておかないと後でもっと困ったことになるのが相場なんですよ」
イオスは何でもないことのように言うと、準備にかかり始めた。
「……手伝おう」
「私もお手伝いさせていただきます」
オロチとフェネスが静かに前に出て、祈りの準備をする。
「あ、そうそう。今回は前回の魔法の形式から、ちょっと趣向を変えてみたんです」
イオスはバッグから真新しい魔導石を取り出すと、手際よく部屋の隅へと配置した。
「なにをする気なの?」
興味津々といった様子で、カグラが覗き込んでくる。
「細かい理論は省きますが……もし相手がこの間と同じように魔力を流し込んできたら、その魔力をこの魔導石へ誘導して逆流させます。そのまま相手の魔法陣を書き換えて、内側から爆発させる仕掛けです」
それは、魔力の逆探知を利用した、性格の悪い反撃策だった。
前回のリンジーとの会話を手掛かりに、イオスがあらかじめ考案していた対抗策である。
「えっ……えげつないわね」
「というわけで姫様方、一度退席いただいて、それなりに離れた場所で待機していてください」
「姫様、こちらへ」
ヨミに促され、リアはしぶしぶといった様子で部屋を後にする。
「体よく追い返したわね」
カグラは呆れを含んだ視線をイオスに向けた。
「リア王女は魔法学院に通っているとはいえ、やっぱり王族ですからね」
「魔法師の戦いを見せたくないの?」
「いや、後のことを考えると、あまり背負わせすぎるのも良くないと思いまして」
今回の魔法も、最悪の事態になれば命を落とす。
そして仮に場所が特定できたとしても、そこは死と隣り合わせだ。
戦場で震えながらも騎士たちを鼓舞していたリアの姿を思い出し、イオスはこれ以上、彼女に心労をかけたくないと思っていた。
「さすが守護騎士様!」
「それ、そろそろやめませんか?」
イオスの言葉に、一同からどっと笑いが起こる。
(初めはもっと冷たい方かと思っていましたが、思った以上に優しい方なのですね)
部屋の端で、フェネスがどこか慈愛の籠もった眼差しでイオスたちを見つめていた。




