第73話 刃の訪問者
黒いトレンチコートの若く見える大男は夕闇が迫る路地に立っていた。その目の前には古びたアパートがあった。どこか来るものを拒むようなその古びた鉄製の階段を男は迷うことなく登りきったところで立ち止まった。
男はそこで何かを感じたかのように周りを見回した。特に変わったことは何一つないことが男には逆に気に入らないようだった。
子供の声が遠くで聞こえるが見る限り人影は無い。目の前の廊下に並んでいるドアもどれも閉ざされていて別に人の気配は感じられなかった。それを確認すると、その男、桐野孫四郎はコートの下からまるで図面でも入れるためのような長い紙の筒のふたを開けた。
逆さにして滑り出した物の重量がどっかりと桐野の左手にのしかかる。それは図面などではなく真剣だった。『備前忠正』。桐野はダミーのつもりで入れていた図面入れを投げた。そしてそのまま朱塗りの鞘を静かに払って鞘をベルトに差した。その動作はあまりに自然だったのでこの光景を見ても誰一人それが何かやましいことを桐野がしようとしているなどとは思いもつかないだろう。
アパートの一階に並ぶ洗濯機の列の乱れて汚れた感じと比べれば、桐野の一連の動作の方が理にかなっているように見えてくるほどその一連の動作はあまりに自然だった。
だが、この場所が見える路地は完全に無人で誰もその姿を見る者はいない。そして桐野はさも当然のようにそのままぎしぎしときしみをあげる作りの悪い廊下を進んだ。
彼の意識はすでに人を斬る時のものに切り替わっていた。意識でたどれる範囲では法術の気配は無かった。アパートの二階の四つの部屋。目的の一番奥の部屋までの三つの部屋には人の気配自体が無かった。このアパートに着いた直後に桐野を襲った脳髄を刺激するほどの力の存在はすでに消えうせていたのが残念に感じられた。
「時間だな。それでは行くとするか」
そう言うと桐野は目的の扉に向けて体当たりをかました。安い板とアルミの枠でできた扉は大柄な桐野の体当たりで見事に押し破られた。
桐野はそのままいかにも安い作りのアパートの部屋に転がり込むようにして飛び込んだ。
「うわ!何ですか!いきなり!」
飛び込んだ部屋の中に一人のうだつの上がらない中年男が、膝ぐらいまでの小さな机で本を読んでいたところを突然の轟音に振り向いて、桐野の手に日本刀が握られているのを見ると怯えたように腰を抜かしてひっくり返った。突然の出来事に混乱しているのは見れば分かった。そのような光景は桐野には見慣れた光景の一つに過ぎなかった。
桐野はすでに何人もの人を殺めたが、彼の手にある真剣を見て驚くその表情はどれも同じで時々デジャブーを見ているような気分になる。今もまたそんな気分で腰を抜かしたままじりじりと部屋の奥へ這っていく男を玄関先で見下ろしていた。
「失礼したね……どうやら驚かせてしまったようだ。ただ、それほど驚くようなことではないと俺は思うのだがな。貴様には珍しいことかもしれないが、俺にとってはこれが日常の出来事だ。俺と言う人間が存在するということは俺が貴様とこうして出会うこともありうる。そうなると貴様の驚きは少し貴様の見てきた世間が少し狭かったというだけの話だからな」
そう言うと桐野はそのまま土足でアパートの一室に上がりこんだ。男は奥の窓の下に張り付いてただ震えながら桐野を見上げていた。意識してか、無意識にか。その手にしている引き裂かれたノートが何かをその貧弱な男が決意したことを示しているように桐野には見えた。
「ああ、一応貴様の名前を確認しておこう。俺も間違った人間を殺めたとあったら気分が悪い。水島……徹さんだね?それで間違いなければ俺は何も問題も起こしていないことになる。どうなんだ?」
自分の剣の間合いに入ったところで静かに桐野は男に尋ねた。そのいかにも平和に慣れ親しんできたと言う水島の顔の周りの肉をみれば桐野にはすぐに分かった。自分のこれまでの境遇とはあまりにかけ離れたその造形に桐野にはふつふつと殺意が沸き上がってきた。だが湧き上がる殺意に身を任せてこの中年男を斬り捨てるのはいつでもできることだった。窓から没した太陽の残り火が差し込む中、桐野は黙って震える水島を見下ろしていた。
「そう……ですけど……あなたは?なにか……私があなたにご迷惑でもかけたんですか?そんな記憶は私には無いんですけど……そもそもあなたに会うのは私は初めてですし……」
泣き叫ばないだけましなのか。桐野は震えながらも自分の名前を聞いてくる水島を見て少しばかり感心した。顔は恐怖で引きつっているが、桐野の頭の中を必死で探っている水島の力のかけらは感じていた。力には力で応じる主義の桐野は右手に握った刀の柄に力を込めた。
「なんだ……旦那。先にはじめちゃったんですか?いきなり斬らないで下さいよ……大事な戦力になるかも知れないんですから。ねえ!水島さん!しらばっくれても無駄ですよ!アンタの名前とやったことなんて俺達は全部知ってるわけなんだ!アンタには選択の余地なんかないの!とっとと俺達についてこの街を出てもらおうか!」
入り口の壊れたドアを呆れたように見つめている男がさらに現れた。その革ジャンと洗いざらしのジーンズ。この男は最初にドアを蹴破って現れた日本刀の男と違って話の通じそうな人懐っこい笑顔を浮かべていたので、その姿を見て水島の表情が明るく変わる。しかし、その希望は馴れ馴れしく桐野に話しかけている事実を見れば自然に霧消する儚い希望に過ぎなかった。
「さっきまでこの部屋にいたのは……どこの連中ですかね?ゲルパルトのネオナチの旦那達……東モスレムの原理主義者連中……それとも?水島さん?お話してたんでしょ?相手の法術師の所属とか……教えてくれると俺としても助かるんだけどなあ……いや、お互いに助かると思うんだよ。ねえ?そう思いません?」
革ジャンの男、北川公平は見慣れた桐野の手荒いやり口に苦笑いを浮かべながら目の前で震えている水島に気づいてそれを見下ろした。水島はその目を見てすぐに気づいた。
水島は明らかに自分を安心させようと笑顔で近づいてくる革ジャンの男の軽い口調が妙に気になって仕方が無かった。もしかしたらこの革ジャンの男の方が刀を手にした大男より信用に足らない人間なのかもしれない。おそらくは革ジャンの男が今回の襲撃を仕組んだ本人で刀の大男はただの手駒に過ぎないように水島には見えた。
それ以上の判断がまるでできないほどに水島は混乱していた。クリタ少年の言葉通りなら彼の部屋の前には紳士的な県警の捜査官か『兵隊やくざ』の司法局実働部隊の武装隊員が現われるはずだった。だが目の前にいる二人は警察官にも軍人にも見えない。
無頼漢。まさにその言葉がぴったりと来る二人のコンビを水島はただ黙って見上げた。
これはまるでやくざが金を取り立てにでも来た態度だ。確かに水島には金に似たものをこの世の中に借りているのかもしれないと言えた。そして返すのは自分の命かその法術と言うことになるのかもしれない。そんなことを考えると目の前の二人の男もまた自分の法術について深く知るところがあるのだろうと感じられてきた。
『おじさん……ピンチなの?さっさと決めてくれないからそうなるんだよ。自業自得だね。警察や司法局以外が来るケースも僕は想定していたけどおじさんを驚かすことになるから言わなかったんだ。その人たちが来ればおじさんがいつも言ってたようにおじさんは本当にモルモットにされちゃうよ……そいつ等は本当に手加減というものを知らないから。僕たちのような最上級での地球の旅は期待できないね。遼州圏のどこかのアジトで本当に豚の餌を食べる生活がおじさんを待っているんだ……可哀そうに』
頭の中でクリタ少年の声が響いた。
「なんでだ!話が違うぞ!いきなり私服の男が刀を持って現れた!こいつ等本当に警察官なのか?それに黙っていたとはどういうことだ!説明しろ!君にはその義務があるはずだぞ!俺は協力者なんだ!」
思わず水島は口に出してそう叫んでいた。
「話が違う?なにも俺は話してないですけど……」
革ジャンの男の言葉に水島は我に返った。
「北川。たぶんこいつはどっかの勢力に買われたんだろ。そいつからの思念通話だ。なら仕事を急がないといけないな。急ぐぞ、北川」
落ち着いて分析してみせる刀を手にした桐野の死んだような表情に水島は死を直感した。ゆっくりと刀が振り上げられる。
「飼い主が決まるまで静かにしていれば良かったのにねえ……それともたった今落札されたところかな?だとしたら運が悪かったね。しかも桐野の旦那は今日は男でも斬りたくて仕方がないみたいだ。いつもは奇麗な女を斬ってから犯すのがお好みだが、今日は男でも良いらしいや。旦那、もしコイツがどこかに買われたという確証があるようなら斬っても構わないっすよ。人様の手に落ちた法術師はもううちには必要ないんで」
北川と呼ばれた革ジャンの男の笑みがうかんだ。自分が斬り殺されるのを覚悟しながら恐怖に震えるしかない自分に呆れながら水島は考えていた。
『助けてくれ!俺は契約を結んだんだ!約束は守れよ!』
次の瞬間、振り下ろされた桐野の刀は何も無い畳に突き立てられた。桐野はその独特の感覚から一瞬だけ干渉空間が目の前に展開されたことを悟った。すぐに備前忠正の刃に目をやる。
「刃こぼれは無いか……」
水島を斬ることが出来なかったことへの不満から桐野の表情は曇った。
「何言ってるんですか?旦那。逃げられちゃったじゃないですか!俺がちょっとふざけて脅してみせたのを真に受けていきなり斬るなってアンタには何度言えば分かるんですか!さっきの斬ってもいいってのはあのおっさんを脅すための冗談ですよ!それを本気にするなんて本当に旦那には冗談が通じないんですね!」
北川はそう言うと水島が消えた畳を丁寧にさすった。
「いい飼い主が見つかったようだな。他にも空間制御系の能力者、しかも有力な奴を飼っている。なかなか面白い展開だ」
暗がりの中に光る刃をじっくりと眺めた後、桐野は静かに鞘に収めた。その不満そうな表情を見ると北川はいかにも滑稽なものを見たというように爆笑を始めた。
「何がおかしい」
戸惑ったような表情で桐野は北川に尋ねた。
「旦那……せっかくの獲物に逃げられて無様に刀を納めるなんて……獲物に逃げられた人斬りほど哀れなものは無いですね」
そう言って北川はなんとか笑いを堪えようと腹を抑えた。
「そういうオマエは手ぶらで帰るつもりか?」
不愉快そうにつぶやく桐野に笑みを浮かべると北川は長身の桐野の耳元に背伸びをしてつぶやいた。
「なあに、相手の法術師はやり手みたいですが……詰めが甘いですね。飛んだ先も俺のテリトリーの中ですよ。場所は割れてます。行きましょう……それより最近、警察がこの辺をウロチョロしているみたいですけど……今パトカーがこっちに近づいてきているんで、そっちは遠慮なく斬ってもいいですよ。そっちは明らかに俺達の『敵』ですから」
そう言うとそのまま部屋を出て行く北川。彼の背中を見ながら桐野は剣を手に古いアパートの壁をさすりながら用がなくなった部屋を後にした。




