第45話 まるで神にでもなったような
事件から一日経ってようやく水島の心は落ち着いてきていた。
その日、降りしきる雨の中水島は駅前を歩いていた。突然彼の目の前をトイレ掃除を終えた50代くらいの清掃会社の制服を着た女性が通り過ぎようとした。
ぶつかりそうになったのは最近は突然現れたアメリカ陸軍の関係者を名乗る少年のことを考えていたからだった。だがそのおかげであることに気がついた。
『まったく……あんなに汚して誰のものだと思っているのかしら……雨の日にこんな目に遭うなんて……本当についてないわね』
女性の思考とともに流れ込んだ強力な力を示す独特の引っかかり。水島の悪戯心を最大限に刺激するそんな引っかかりの魅力に水島の意思はすでに決まりきった作業のように動き出していた。
『起きろ』
それだけ念じただけだった。銀色の板のようなものが突然女性の制帽の後ろから現れた。
「うわ!」
それが自分に眠る力によるものだとも知らずに、女性はそのまま腰を抜かして水たまりの中に倒れ込んだ。ふわふわと移動していた銀色の鉄板にしか見えないものが中空に浮かんでそこにあった。女性の叫び声に気付いた通行人達はその奇妙な物体に目をやった。しかし、彼らがそれを目にすることができたのは一瞬だった。
そんな通行人の一人、眼鏡を掛けた大学生風の男の肩に向けて回転するように飛んで行ったその板のような存在は、彼の周りの空間と一緒に腕を捻じ切るとそのまま蒸発するように消えた。
しばらく腕を捻じ切られた青年は何が起きたか分からないと言うように立ち尽くしていた。唖然とした表情の彼が我に返ったように顔をさっきまで彼の腕が生えていたところに向けた瞬間にそこからおびただしい鮮血が噴出した。それを見てようやく男は気がついたように叫び声を上げた。
ここまで来て通行人達はそれが尋常ならざる事件であることに気付いた。第一発見者のサラリーマン風の男が持っていた傘を投げ捨てて降りしきる雨の中慌てて駅の係員を呼びに走った。血を見て驚きその場にしゃがみこんで二人の女子高生が雑談をやめて泣き始めた。隣で黒い大きめの傘を手に立っていた老人は茫然自失という感じでただ立ち尽くしていた。
そんな中、水島は一人起きた出来事をじっと眺めていた。そのままパニックを起こして逃げ去ろうとする群衆にまぎれて走り去らなかったのはほとんど奇跡だった。
そして先ほどの法術の発動源である女性に目をやった。まだ女性は座り込んだまま事態の重要性に気がついていない。それを見た水島の気は大きくなっていた。
「大丈夫ですか?」
水島は何も知らない通行人を装って倒れ込んでいる女性に手を差し伸べた。
「あ……ありがとうございます」
50は越えているだろう。今の出来事への驚きからさらに年上に見える彼女を助け起こしながら水島は自分が起こした出来事があまりにも大きい事実にようやく気付いていた。
そしてようやく辿り着いた駅員の姿を見ると水島は群集にまぎれて雨の町を歩き回った。
知らない町。足はいつの間にか最近見慣れてきた通りに辿り着き自分の部屋に辿り着いていた。
驚きと恐怖。しかし慣れない力を操った疲れはそのままコタツに入り込んだだけの水島を眠りに導くには十分なものだった。
「やっぱり……こんな殺傷能力がある力まで有るなんて……遼州同盟も東和政府も何かを隠しているんだな。こりゃあ大事になりそうだ……しばらくいたずらは控えた方が良いかもしれないな」
目覚めてコタツの上の法律書を眺めていてもそのことばかりが気になってきた。
人体発火は以前から都市伝説として知られていた。最近では一部のテロ組織は法術の存在を知っていてそのことを同盟機構が隠蔽していたことがマスコミで騒がれていた。何度となく起きた法術と言う存在が無ければ説明不可能な不自然な自爆テロ。それを法術の発動と知りながらもみ消していた事実は自称良心的市民達を激怒させるには十分な事実だった。
そしてまた最近の話題となっているのは意識介入。いわゆるテレパシーについてもその後のプライバシー対策の為に成立した法案を見れば政府はかなり以前からその能力の存在について知っていたと考えるのが自然だった。そのあまりにできすぎた隙の無い法律文章が察しの良いワイドショーの司会者に政府はまだ法術に関して隠していることがあるというコメントをさせた。一応、法律家を目指す水島にもそれはその文章を想起した人間が完全に意識介入能力を理解した上で作ったものであることは一目瞭然だった。
その日、水島が見た空間を切り裂く銀色の平面。それについては水島も初めて見るものだった。
まるで知らない法術の発現。そしてそのもたらした効果の絶対的な威力。傘を持っていた腕がなくなってからもその事実が信じられないように落ちた腕を見下ろしていた青年の恐怖の表情が今でも頭の中を駆け巡っている。
「しかしあの切れ味……色々使えそうだな。やっぱり前言撤回だ。色々使い道があるなら試してみた方が良いかもしれないな。他にどんな力が俺達遼州人に眠っているのか確かめてみる必要がある。そうだ、これは遼州人の特権的力なんだ。その力の限界というものを俺は見てみたい」
突然湧き出てくる独り言に水島は自信を取り戻した。その能力が強力でありながら簡単に発動する。その事実。不意に水島の顔には笑みが浮かんできた。
「色々使える……色々使える……まだまだあるはずだ。俺は今日ほど遼州人に生れてうれしく感じたことは無い……」
笑みが止まらない。行政訴訟に関する判例集は次第に水島の『色々使える』と言う言葉に埋め尽くされていく。鉛筆を持って『色々使える』とその判例集の文章の上から水島の手は絶え間なく書きなぐり続けた。まるで意思を持ったように同じ言葉がそれまでただの法律書だったページを鉛筆の落書きだらけの汚い紙片へと変えていく。
人の腕の骨を切り裂くのにまるで抵抗など無いというようにあの銀色の板は動いていた。そして切り裂いた後は何事もなかったかのように蒸発していた。
「どんな武器より強力で便利。本当に最強じゃないか!なるほど、何の文明も持たない俺達遼州人が地球の無法者たちに勝てた理由もこれではっきりわかった!これだけのことが出来る地球人が一人でもいるのか?いいや、一人として俺は地球上でこんな力を使える確実に実在する歴史上の人物がいたなんて話は聞いたことが無い!地球人に出来ないことが俺達遼州人には簡単にできる!そうだ簡単にちらりと目を向けただけで出来るんだ!地球人なんぞ俺達の敵じゃ無いんだ。無力で哀れな金の事しか考えない血も涙もない連中ばかりだ……ならば鉄槌を下してやるのも面白い!」
水島は自分がいかに得意げな表情をしているか想像しただけでも楽しくなってきた。
その時だった。
「もしかしたら神にでもなったつもりなのかな?その程度の力なんて合衆国はとうに理解してるよ。その対策も十分練ってある。そういう僕自身もそんな合衆国の法術師対策の一つでね」
突然の背中での声に水島は驚いて振り返った。
そこには当然のように以前東都で出会った例の少年が立っていた。野球の帽子。噛み続けるガム。それらの遼州の民衆が考える典型的なアメリカの少年に似た姿はあまりに滑稽に見えて、突然の闖入による恐怖よりも笑いが出てきそうになるのを感じていた。
何しろこちらには力がある。その自信が水島にこの驚いても仕方の無い少年の登場と言う出来事を平然と受け入れる度量を生み出していた。
「ずいぶん変わったね。それだけしっかり練習をしていた成果があったってことだね。でも遼州人の魔法が万能だと考えるのはやめておいた方が良いよ。どんな力にも限界はあるんだ。僕にはおじさんが起こしたようなことは簡単にできるけどそんな力を好き勝手に使うような趣味は無いからね。それに僕にだって何でもできるかというと違うんだ。当然僕より弱いおじさんには出来ることと出来ない事が有る。そのくらいの分別は持ってもらいたいものだね。もう大人なんだから」
少年は自分の登場をあまり驚かない水島に気を悪くしたように口を尖らせて呟いた。今の水島にはそんなことすら些細なことに思えていた。ここにいるのもアメリカ陸軍の情報網とやらのおかげだろう。少年が現れたのもきっと自分が回想によっていたからだろう。そう言い聞かせると少年に対していくらでも強気に出れる気がしてきた。
「さっきは自分は最強だというような顔をしていた割に僕が何ができるかわからないみたいだね?そこら辺で不安を感じないのかな?鈍感なのかな?おじさんは?自分が全能?全知全能なのはこの世界では神だけでその御子であるイエス・キリストだけだ。キリストが生まれたのは地球だよ?この遼州じゃない。神は地球を選び、それ以外の星にはその御子を使わさなかった。地球は選ばれた星なんだ。遼州は選ばれた星ではない。だから地球圏には全宇宙を神の意志で支配する権利と義務が神の御名により与えられている。だから地球圏はこの星系を支配し指導し神の名においてそこに住まう邪神の使いである地球圏の意に沿わない遼州人を征服し浄化する権利がある。その点は理解した方が良いね。信仰心というものをそもそも持つことができない遼州人にはこの考え方は理解できないかな?僕にも信仰心というものはよく理解していないと日曜礼拝の度に牧師さんからよく言われるんだ。その点では僕とオジサンは似た者同士なのかもしれないね」
再び心を読まれたと言う事実が水島を驚愕させた。そして少年の言葉は水島の痛いところをついていた。確かに水島は少年が何ができるか分からない。思考を探ろうとしても他の法術師のようにあっさりと侵入できる隙すらない。
「そう、おじさんはそこまでなんだよ。おじさんには僕に何が出来て何ができないか分からない。そして僕が何を考えているかもわからない。なぜなら僕はおじさんより強いから。ただそれだけ。それ以上の事は知ることは出来ないし知る必要もない」
少年はそのままガムを噛みながら水島を見つめていた。ここの来てようやく水島は本気で少年の意識を探ろうとした。
「無駄無駄。やめたほうがいいよ。それより知りたいんだろ?」
少年は水島を憐れむような瞳で見つめた。
「何が……」
いくら意識を集中しても一切思考が読めない少年に次第に恐怖を感じながら水島はつぶやいた。
「あの切れ味とあの力で何ができるか……僕も試したけどあれはいいものだよ。あれはね、盾にも使えるし、移動手段としても使える便利な壁なんだ。そんな使い道があることはおじさんは考えてみたことも無いだろ?合衆国はあの壁の性質についてすべて解明済みなんだ。そしてそれは僕にも使える。この意味が分からないほどオジサンは馬鹿じゃないんだろ?だっておじさんは僕の友達なんだから。そう……神の守護とは無縁な永遠の約束の無い汚れた友達……だと僕は牧師さんにそう教わったよ」
この少年はあの板のようなものを自由に操ることが出来ると言った。そしてそれには水島が使ったような使い方の他にも使い道がいくつもあり、その仕組みも地球圏は理解している。水島はその事実を知って愕然とした。
「つまり……君も使えるのかな?あれを」
冷静を装いつつ水島は声を絞り出した。一瞬少年の心の中に触れた気がした。そしてそこにあると感じたのはあの掃除の女性のものと同じ感覚。ただその力は水島がいくら意識を集中しても微動だにせず何も起こりはしない。
水島に意識の進入を許してもなお笑顔で少年はガムを噛み続けた。彼はただニコニコと笑いながら水島を見つめている。すでに先ほどまでの優越感は水島には無かった。ただ恐怖。具体的に目の前に見える少年に対する恐怖だけが感情のすべてだった。
「そんなことを俺に教えて……ど……どうするつもりだ……」
動揺する水島の様子に少年はようやく自分の勝ちを認めて満足そうにうなずいた。しかし明らかに少年にしか見えい目の前の化け物に負け続けるには水島のプライドは高すぎた。すぐに小さな反撃を思いついた。
「靴で人のうちに上がるのは感心しないな。ここは東和だ。人の家には靴を脱いで上がるものだよ。そのくらいのことは覚えておいた方が良いな。いくら強くっても郷に入れば郷に従えだよ」
水島は少年が土足で自分のアパートの部屋に上がり込んできていることだけが指摘できる精いっぱいだった。
「おっと……連絡事務所の私室からなので……失敬!」
そう言うとすばやく靴を脱いだ少年はそのまま腰を下ろした。
「アメリカ連絡事務所で暮らしている……信じろと言われても……」
水島には確かに東和の暮らしにはなれていないらしい少年の行動からしてみてそれは事実なのかもしれないと思うようになっていた。
「よく覚えていたね。それにしてもなんだか難しい本が一杯あるね。勉強家なんだ、おじさんは」
少年はそのまま身を乗り出してコタツの上をのぞき込んだ。
「一応法律家を目指しているからな」
吐き捨てるように水島はそう言った。
「おじさんが?立派ともいえない軽犯罪者のおじさんが?あんな傷害事件を面白半分で起こすおじさんが?」
そう言って笑う少年の頬には悪意が見て取れて水島はそのまま黙り込んだ。少年の悪意の正体は『侮蔑』だった。届出が無く、緊急性の認められない法術の発動に懲役を含む刑罰が科せられる法律が施行されてもう三ヶ月以上が経った。それに水島がやってきたのは放火、器物破損、そして今回は傷害である。
「それより僕についてくれば厚遇してもらえると思うのにな。弁護士なんかよりもっといい仕事を紹介してあげるよ。おじさんの真の力をそこで発揮することが出来る。良い仕事だと思うんだけどな。そうすれば地球圏という神の聖域に触れることが出来て、神の祝福を受けることができる。この神とは無関係な生きてるだけの砂の人形の街ともおさらばできるんだ……最高の幸せじゃないのかな?」
少年は笑みを崩すことなくそう言った。だが水島も恐らく少年の意図する自分のが予想できないほど愚かでは無かった。
「それはモルモットのことだろ?実験材料の地位が弁護士より上だなんて聞いたことが無い」
水島のつぶやきににんまりと笑う少年。そして彼はそのまま腕の通信端末を開いた。
「見てごらんよ。おじさんが能力暴走で腕を切り落とした大学生。死んじゃったよ。これでおじさんは軽犯罪者から殺人者へ格上げだ……今の気分はどう?最高かい?」
少年の言葉に水島は彼の端末も開いた。しかしそのような情報は何度検索しても出てこない。
「警察の発表はまだだからね。こう見えても僕の使ってる合衆国のネットは一応網羅している範囲が広いんだ。担当の警察官に直接指示を出せるレベルにも親切に情報を送ってくれる人がいるから、ちょっと検索すればすぐ結果が出てくるんだ。便利でしょ?」
淡々と少年は語った。水島は少しばかり諦めたように肩を落として少年の端末に移る箇条書きの被害者の死を知らせる文書を眺めていた。
「まあ僕は……と言うか僕達はすごく心が広いんだ」
少年はそう言うと立ち上がる。水島は被害者の死と言う事実に困惑したまままだ立ち上がれずにいた。
「おじさんのような犯罪者でも役に立つ場所がある。そして地球における唯一の神と触れることができる。ああ、地球の神こそがこの宇宙の唯一の神。地球だけが宇宙で神に選ばれた星だからね。そんな素晴らしい世界にご招待しようと僕は言ってるんだよ。いいことだと思うよ。でもね。時間と言うものは有限だから。それに僕達もそれほど気が長くは無いんだ」
少年の目の前にあの水島が女性の法術を利用して作り出したものよりも遥かにはっきりとした銀色の板が現れた。水島は何もできずにそれに手を伸ばす少年を眺めていた。
板の中に少年の腕が引き込まれた。あの死んだ青年のように千切れるわけも無く少年はにこやかな笑みを浮かべたまま水島を見つめていた。
「ゆっくり考えて結論をね。よろしく。まあ他に選択肢はないだろうけど。いずれ警察か司法局がおじさんの能力に気付いてここを尋ねてくるだろうからそれまでに決めてくれると嬉しいな。たぶんここにたどり着くのは僕たちの分析だと司法局の方が先みたいだよ。あそこの実働部隊は最初に魔法をこの世界に知らしめた連中だ。舐めない方が良いよ。彼等は『特殊な部隊』とか呼ばれているくらい危ない連中だから怪我くらいすることになるかも知れない。いや、たぶんそんなものじゃ済まないかな?そんな連中に殺されたくはないでしょ?彼らが来る前に……連絡はいつでも待っているからね」
少年はそのまま銀色の板の中に飲み込まれた。そして彼のジャンバーが飲み込まれると同時に銀色の板も当然のように蒸発した。
水島はただ自分がとてつもない出来事に巻き込まれたことを理解していた。そしてそのきっかけを作ったのも自分自身だと気付いて力が抜けていくのを感じていた。




