第19話 アンと二人きり
先着の人物がいるらしくシャワーの音が響いていた。誠はそのまま静かに服を脱ぐと手前のシャワーの蛇口をひねった。
「神前曹長!」
隣から目だけを出している褐色の顔の持ち主に誠はびくりと飛び上がった。
第二小隊三番機担当のパイロット、アン・ナン・パク軍曹だった。このまだ18歳の小柄な人物が誠の苦手な人物の一人だった。いつもは女子用の制服を着ているが、『男の娘』なので男性隊員が少ない時間帯を見計らって男性用のシャワーを使うのが彼の日常だった。
いつもは女装して暮らしている上に、最近では髪まで伸ばし始めてどう見ても首から上は女の子にしか見えないアンがいきなり出てきたことに誠は心底驚いた顔をしていた。
「なんだ……アンか……第二小隊はクバルカ中佐が隊員の指導をかえでさんに一任しているから、僕やカウラさんみたいにクバルカ中佐にランニングをさせられるようなことも無いのになんでお前がここにいるんだ?」
誠は自分が汗をかいたからシャワーを浴びているのは当然としてランニングをしていないはずのアンがシャワー室にいる等状況が理解できずにいた。
「かえでさんは体力強化はそれぞれ自主的に行うのが当たり前と言う考え方で、クバルカ中佐の体力至上主義とは距離を置いているからどうせシミュレーションルームでまだ来ていない05式に対応する訓練でもしてたんだろ?だったら勤務中にシャワーなんて浴びる必要は無いんじゃないのか?」
他の男性隊員が居ないことはアンがここに居ることで確認できた。アンは誠以外の男性隊員に裸を見られることを極端に嫌っていた。 ただ、ランニングで汗だくの誠がシャワーを浴びるのは納得できるが、それほど汗をかくはずがないシミュレータでの訓練後のアンがシャワーを浴びている意味が分からなかった。
「僕は白兵戦闘には慣れているんですが、あのゴム臭いパイロットスーツを着ての訓練はどうも苦手で……特にあの匂いが体に着くとどうしてもシャワーを浴びたくなるんです。それより神前先輩……ここにいるのが僕だと不満ですか?やっぱり僕の身体が男だからですよね……女性に付いているものが無いのは神前曹長には不満ですよね……」
そう言いながら近づいてくるアンに誠は思わず後ずさりする。その少女のような瞳で見られると誠は動けなくなる癖があった。
「神前曹長はいつも僕を避けていますね?分かりますよ、僕でも……」
アンはそう言うと悲しそうにシャワーを浴び始める。確かにそれが事実であるだけに誠は頭から降り注ぐお湯の中に顔を突っ込んでそのままシャンプーを頭に思い切りふりかけた。
「そうですよね。僕なんか嫌いですよね。僕みたいに……彼氏持ちのお尻には興味無いですよね」
そこまでで言葉を切るアンに誠は寒いものを感じた。誠は以前耳にした噂を思い出した。アンは恋人のために無茶な訓練を続けているらしい。その内容を思い出しただけで誠は寒気がした。
『おい……もしかして男が好き……なんですよね……なんと言っても彼氏がいるくらいですから。でも、僕はノンケなんでまじで勘弁してください!神様!仏様!』
アメリアの小説を読まされ続けて蕩けてきた脳が妄想を開始する。大体が立場は逆で長身の上官がひ弱な部下を襲う展開が多かったが、一部には逆転している作品もあったのでボーイズラブの世界に落ち込むのではないかと恐れつつ時が経つのを待っていた。
「僕は……」
アンがそういうのとシャワー室の扉が吹き飛ぶのが同時の出来事だった。
「神前!もう3分経ったぞ!上官を3分待たせるとは良い度胸だ!シャワーは短く済ませて次に譲る!水の少ない戦場では常識だぞ!いい加減に出て来いや!いつまで待たせんだ!姐御が神前はまだかって怒ってたぞ!」
怒鳴る、暴れる、そして壊す。これは西園寺かなめの十八番である。男子シャワー室に一応女性のかなめが乱入してくるマナー違反よりこのままアンと二人きりで時を過ごすことを想像していた誠にはありがたい出来事だった。
「もう少し待っててくださいね……なんとかしますから」
弱々しい誠の声を聞いたかなめが近づいてくるのが分かる。だが何か入り口の辺りで衣類をかき回すような音が誠の耳にも響いてきた。
「おう、アンと一緒か……もしかしていやらしい事でもしてたのか?」
更衣室にかなめと気配としばらく沈黙が支配する。誠は息を殺して立ち尽くしていた。その隣では不安そうにちらちら誠の顔をのぞき見るアンの目が動いているのが見えた。
「……もしかして……」
背中にシャワーを浴びながら誠は立ち尽くしている。周りは見えないが明らかにかなめの気配は近づいている。しかしその様子がぴたりと止まった。誠が隣のシャワーを見るとアンの姿が消えていた。そして音もなくシャワー室の扉が開いているのが誠にも見えた。
「なんだよアン?オメエの粗末なモノをアタシは見にここに来たわけじゃねえ。アタシは神前を呼びに来たんだ」
かなめの威嚇するような低音の声が誠の耳に飛び込んできた。かなめは元々、元少年兵と言う経歴のアンを信用していなかった。明らかに見下すような視線をかなめはアンに向けてにらみつけていることは誠にも想像がついた。
「西園寺さん!非常識ですよ!」
どうやらアンがシャワーを出てかなめの前に立ちはだかっているようだと言うのが目をつぶっていても分かった。誠は全身全霊をかけてアンに言いたいことがあった。
『アン……西園寺さんが非常識なのは前からなのは分かってるだろ?お願いだから西園寺さんが誤解して後でトラブルになるような変なことは言うなよ……お願いだから』
誠のそんな思いとは裏腹にアンは強気な調子でかなめがひるむわけも無かった。
「なんだ?上官に意見か?いい度胸だ。そして付け加えると前くらい隠せ。オメエの貧弱なモノよりオメエも興味がある神前くらいの奴しかアタシは興味ねえから。ただ、神前に変なことをしたら即射殺するからな。オメエは元少年兵で殺し合いには慣れてるし、その殺した中には気に食わなかった上官も数名居るんだろ?まあ、アタシとしても簡単に殺せる餓鬼を殺すよりも多少は骨のある奴を殺した方が良心の呵責に苛まれなくて済むからな」
それだけ言うと明らかにかなめの足音は遠くになって行く。続いて蹴って外れた外の扉を直している音が響いてくる。誠はとりあえずの危機を脱したと大きく深呼吸した。
だが安心は出来ない。かなめの気まぐれはよくあることである。何か思いついて再びアンを恫喝するために戻ってこないという保証はどこにもない。しばらく誠は様子を見守ろうと沈黙していた。
「神前、別にオメエは寒い中にちょっと走っただけで大して汗もかいてねえんだろ?ちゃっちゃと汗流してとっとと上がれよ」
自分を睨み続けて来る元少年兵のアンの何とも知れぬ迫力に負けたかなめは更衣室の扉付近で思い直したようにそう言うと、更衣室の扉を直すような物音を立てながらそう叫んだ。好奇心に負けて外をのぞいて見ると目の前で食って掛かるには相手が悪すぎるとうつむきながら自分の個室に戻るアンがいた。彼の視線が責めるように誠に突き刺さった。それにどう答えるか迷っているうちに扉を抱えているかなめと目が合った。
「でも……西園寺さん。非常識ですよ。男子用シャワー室に乱入なんて」
誠はここは先輩らしく部隊最年少の後輩であるアンをなんとかかばおうとした。いくら苦手なアンとは言え大事な後輩であることは間違いない。そこは先輩らしく振舞うべきなのだろうと不機嫌そうに更衣室の扉をレールに戻す作業をしているかなめにそう言った。
「は?元少年兵の先輩気取りか?随分と偉くなったもんだな、神前。ただ、非常識なのはお互いさまじゃねえか。いつも飲むたびに股間の汚えものを見せ付けて見せびらかしてる奴に常識云々言う資格があるのか?そしてそれを無駄だというのに待ち続けている女装趣味が一緒にいる。アメリア辺りがこの光景を見たらどんな反応をするかねえ……」
その言葉に誠は何もいえなかった。酒は弱くは無いが飲むと記憶が飛んでしまう誠の無茶な飲み方はどうにも治る気配が無かった。そして気が付くと全裸と言うことが何度も繰り返されていた。そして、誠とアンが一緒にシャワーを浴びているという事実をアメリアが知ればまたその腐った脳細胞をフル回転させてろくでもない噂を捏造して体内に広めて回るのは目に見えている。そんな事実を感じて何も言い返せなくなった誠はレールに扉を乗せようと動かしているかなめを一瞥すると、そのままシャワーの個室に戻って蛇口を最大にひねって無駄にお湯を出すと髪を激しい水流で洗い流した。
「僕は確かに理性が飛ぶと脱ぎますけど、今は理性がありますんで。ちゃんと今は羞恥心が機能している状態ですから」
誠はシャワーの水を止めると相変わらず更衣室の扉を治しているかなめに向けてそう言った。
「そうか、アンのケツでも掘ってるのかと心配したがその必要はねえようだな。かえでの奴が日に日に生意気になっていく中でオメエまで勝手なことをされるとアタシとしても我慢ならねえんだ。機動部隊はランの姐御がトップでその次に偉いのはアタシなんだ。カウラはそう言うことは興味ねえし、かえではアタシの性奴隷だからな!」
滅茶苦茶な序列の論理を展開して見せながらかなめが苦々し気にそう言うのを聞きながら誠は身体をタオルで拭った。だんだん体中の石鹸の成分が抜けていくような感覚がなぜかいらだった気分を切り替えてくれていた。
「おい、終わったからな外で待ってるから」
そう言うと扉を取り付けなおしたかなめはドアを閉めた。しばらく隣でシャワーを浴びているアンの立てる水の音だけが部屋に響いた。
「よしっと」
誠はタオルで身体を拭き終わるとそのまま更衣室に出てあることに気づいた。
「あ……勤務服は男子更衣室に置いたままだった。ここにあるのはさっきまで来てた汗だくのジャージ……シャワーを浴びた意味がなくなるな」
その一言に待っていたかのようにアンがシャワーの上から顔を出した。だがドアの外にはさらに耳に自信のあるサイボーグのかなめがいた。
「おい、取ってきてやるからそこにいろよ。男子ロッカーのオメエの更衣室のロッカーに掛けてあるのか?」
かなめは気を利かせるようにそう言った。
「ええ、勤務服は僕のロッカーの中に吊るしてありますから」
かなめの気配がドアから消えた。
「やっぱり西園寺大尉のことが好きなんですね……不潔ですよ。神前先輩には日野小隊長と言う立派な『許婚』が居るんですよ。それを他の女に眼を向けるなんて……」
アンはそう言うとそのままシャワー室のかごの中のタオルで体をぬぐい始めた。
「不潔って……夜間中学が終わったら彼氏と毎日ラブホ行ってるどの口が言うんだ?そんなこと。それにかえでさんと結婚するといきなり6人を相手にすることになるんだぞ?俺はそこまで飢えてはいないぞ。変態じゃないぞ?」
誠は半分呆れつつアンに向けてそう言った。
「だってそうじゃないですか!神前先輩とクラウゼ中佐とホテルに入った所を菰田曹長が見たって噂ですよ!僕は一筋に彼との関係を維持しています!浮気なんてしていません!」
アンは自分の事は棚に上げて誠の知らない話を言い出した。
「は?そんな話信じてるの?俺にそんな度胸が有ると思ってたの?」
誠は呆れるしかなかった。菰田邦弘主計曹長。管理部門の経理部主任の事務方の取りまとめ役として知られる先輩だが、彼は誠の苦手な人物だった。ともかく彼の率いる誠の上官カウラ・ベルガー大尉の平らな胸を褒めたたえる団体『ヒンヌー教』の教祖を務めていて部隊に多くの支持者を抱えていた。
菰田のことを生理的に受け付けないカウラも明らかに迷惑に思っているが、それを利用して楽しむのが運航部のアメリア・クラウゼ少佐の日常だった。アンが聞いたデマも間違いなくでっち上げたのは『面白ければそれで良い』が合言葉のアメリアがなんとかかえでの誠の『許婚』と言う事実をひっくり返すために流したデマに決まっている。そしてそれに乗って騒いでいるのが誠のことを目の敵にしている菰田であることはすぐに分かった。
「あのさあ。そんなこと信じてるの?俺の事を好きだとか言ってる割には俺の言葉よりそっちを信じるんだ」
体を拭き終えてパンツをはき終えたアンに尋ねてみる。そのままズボンを履くと気が付いたように誠に顔を向けた。そしてしばらく首をひねった後、アンの表情が急に明るくなる。
「そうですよね。そんなことやる甲斐性は先輩には無いですからね……少し考えればわかる話ですよね。本当にすいません。日野隊長とお幸せに」
アンの納得の仕方はある意味誠の予想した通りのものだった。
「甲斐性が無いってのは余計だよ。それと俺はかえでさんを『許婚』とは認めて無いから。それもかえでさんが勝手に吹聴して回ってるだけ。クバルカ中佐がまずデートから初めてステップを踏めって言ってたから……それもどうなるか分からないけど。いきなりリンさんと一緒に襲ってきたりとかしそうだし」
そこでアンは屈託のない笑みを浮かべた。誠もしばらくは笑顔を向けていたが、そのアンの表情が次第に真顔に変わるのを見て目をそらした。
「いいえ、日野少佐はそんなお方ではありません!あの方の指導は一々理にかなっています!僕も銃の構え方にくせがあることや僕の使える法術であるテリトリーサーチの効率的な運用方法についていろいろと教えていただきました。6歳の時から戦場にいた僕が考えずにやっていたことを言葉にして説明してくれる有能な兵士にして指揮官なんです!そんな日野少佐がそんなことをするわけがありません!」
アンは真っすぐな瞳で長身の誠を見上げながらそう言った。かえでの変態行為はランが気を利かせて夜間中学に通っているアンの教育上よくないということでアンには伏せられていた。そして、自分が興味を持たない男には一切そんな変態性があることを感じさせない態度を通しぬくことを美学と考えている『男装の麗人』であるかえでがアンに自分の本性をさらけ出すほど間抜けではないことは十分誠には想像がついた。
『かえでさん……確かにあの変態性を完全に知らないアンには理想の上司に見えるんだろうな。しかし、僕は知ってるんだよ。その点では『許婚』にそんな致命的な欠点があるということを知らなければ僕も完全に騙されていただろうからな』
誠は心の声を押し殺した。
沈黙が続いた。これもまた誠に重く圧し掛かった。
『早く来てくださいよ!西園寺さん!アンと二人きりは苦行ですよ!アンにかえでさんの本性を暴露しろとでも言うんですか?西園寺さんとしてはそう言う展開はお好みなんでしょうね?なんと言ってもかえでさんをそんな変態にした張本人は西園寺さんなんですから!でもそれはそれでなんで西園寺さんの楽しみの道具に僕が仕立て上げられなきゃならないんですか?これ以上アンが何かを言うとついかえでさんの本性を暴露して西園寺さんが大笑いする展開になりそうで……僕には耐えられませんよ!』
心の中で願った。報告書を書く方がまだ楽だった。そんな彼にアンは熱い視線を投げて着替えていた。
「おーいこれ!」
引き戸が開きかなめが誠の勤務服を投げてきた。
「有難うございます!助かりました!」
パンツと下着姿の誠は慌ててズボンに手を伸ばすと早速足を通そうとした。
「何焦ってんだよ。ズボンは逃げねえだろ?それにシャツと制服の上着は濡れちゃったみたいだけどいいのか?」
慌ててズボンを履く誠の様子を不思議そうに見つめながらかなめはそう言った。
「ええ、大丈夫です!さあ、報告書作成頑張ろう!アンもちゃんと漢字の書き取りの練習頑張れよ!ともかく報告書を音声入力に頼っているけどそれを全部クバルカ中佐が漢字の変換をやっているんだからな。これ以上クバルカ中佐に手間を取らせるなよ」
慌てる誠を呆れた目で見つめているかなめとこちらはこちらで落ち着いて自分の女子用の制服を着ているアンに見つめられながら誠はなんとも惨めな気持ちになっていく自分を感じていた。




