4話「グレン・リンドウとの出会い」
いつの間にか空は暗く沈み、冷ややかな夜がすぐそこまで迫っていた。
ガクガクと膝が笑い、一歩踏み出すたびに肺が焼けつくような熱を帯びる。
背負った少年の重みは一歩ごとに血の気を奪い、容赦なく地面へと引きずり込もうとする。
(……っ、もう、限界……!)
意識が混濁し前のめりに崩れ落ちそうになったその時、視界が唐突に開けた。
深い緑の切れ間の向こう、夕闇の底に重厚な屋敷が聳え立っている。
「や、やっと……見つけたぁ……!」
窓の隙間から漏れる、暖かな橙色の明かり。それが今の私には救いそのものに見えた。その光を網膜に焼きつけた瞬間、私は一気に脱力した。ドサリ、と膝が折れ、地面の硬い感触が全身を打った。
だが朦朧とする意識の中でも少年を地面に叩きつけまいと私は咄嗟に体を捻り、自分の体をクッションにするようにして彼を抱き寄せた。
「……っ」
肺に溜まった熱い呼気を吐き出し、腕の中の少年を壊れ物を扱うように地面へ横たえる。
動け。あと少し。
自分に呪文をかけるように言い聞かせ、泥に塗れながら門へと這いずった。指先で土を掻き、重い鉄格子へとなんとか手を伸ばす。
ぼやける視界の中、その門扉を叩こうと振り上げた手が空を切り、屋敷の奥から一人の男が弾かれたように飛び出してきた。
「へ、へるぷ……」
掠れた声とともに伸ばした手は誰の体温にも触れないまま、重力に負けて地面へと落ちる。
そこで張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「――っ、おい! しっかりしろ!」
焦燥に満ちた声が遠くで響く。
誰かが肩を叩いた気がしたが、私の意識はその感触を最後に深い闇へと沈んでいった。
ーーーー
コンコン、と扉を叩く控えめな音で意識が緩やかに浮上した。
鼻腔をくすぐったのは、保健室を思わせる淡い消毒液の匂い。
鉛のように重たい瞼を無理やり押し上げると、視界の先に広がっていたのは染み一つない無機質な白い天井だった。
(……ここ、どこだっけ?)
霞がかった思考のまま、首だけを動かして室内を見渡した。
生活感を削ぎ落としたあまりに整いすぎている空間。少し開けられた窓際の花瓶には一輪の花が活けられ、柔らかな陽光を透かして静かに揺れている。
うーん。確か――。
ふかふかな枕に顔を埋め、ぼんやりと記憶を手繰り寄せる。
確かいつも通り外に飛び出して、迷子になったのに、意気揚々と森に突っ込んで……。
「あッ!」
途切れていた光景が弾けるように脳内へ流れ込み、私はカッと目を見開いた。
そうだ。男の子を背負って必死に歩き続けたんだ。それでようやく辿り着いたあの屋敷の門前で力尽きたんだ。
「あの子は……! っつ、痛たたた……っ!」
反射的に体を起こそうとして、私は思わず呻いた。
何度も転びながら、そのたびに少年を庇って。そう繰り返していた私は泥にまみれ、膝を擦りむき、自分の痛みなど二の次で彼を守り通した。
今、全身に走る痛みは、間違いなくその代償だった。
転んだときに刻まれた無数の擦り傷と節々の筋肉が猛烈な悲鳴を上げる。
反射的に跳ね上がった体は、抗う術もなくベッドへ逆戻りした。
「え。擦り傷はそんなでもないけど、なんか筋肉が痛いんだけど…………えっ? 嘘、もしかしてこれって筋肉痛!?」
驚きが口を突いて出た。
重いものを背負ってあれだけ歩き続けたのだから、当然の報いではあるのだけれど、こんなに早く反応が来るなんて。
前世で歳を重ねるごとに訪れる、あの忘れた頃にやってくる絶望的なタイムラグ。あの忌々しい時間差とは何もかもが違う。
(若いって、子供の代謝能力って、なんて恐ろしいの……!)
そんな斜め上の感動に浸りながら、私は静かに背中を受け止めたベッドの柔らかさに抗うのをやめた。ふっと体の力を抜き、重力に身を任せる。
それはまるで上質な真綿に包み込まれているような感覚だ。
全身を蝕むジンジンとした拍動さえ、今は心地よい微睡みを誘うリズムに思えてくる。
天国のような寝心地に身を預け、意識が再び溶けかかったその時。
ガチャリと、静かに扉が開く音が室内に響いた。
「――おー。なんだ起きてたのか」
低くどこかぶっきらぼうな声とともに入ってきたのは一人の男だった。
あ、誰か来た。そう思って、寝起きのぼんやりした頭のまま、咄嗟に上半身を起こそうとして思い出した。
「ア゛ァ゛…………ッ! 筋肉痛……っ!!」
喉の奥から絞り出すようなうめき声が漏れる。
勢いよく起こしてしまった体を、すぐさまエビみたいに丸めた。
さっき痛感したばかりなのに、もう完全に忘れていた。前世の記憶が戻ったからといって、頭のポンコツ具合まで引き継がなくていいのに。
そんな無様な私を見て、男が愉快そうに笑った。
「具合はどうだって聞こうとしたんだが、元気そうだな」
筋肉痛と戦っていた私を見て笑う男の顔を拝もうと顔を上げて、視界に飛び込んできた造形美に今度は別の意味で悶えることになった。
「ハァッ!」
思わず短い呼気が漏れる。
紫がかった艶やかな黒髪に無造作に捲り上げられたシャツの袖。そこから覗くのは硬い石を彫り出したかのように逞しい前腕の筋肉だ。
私は一瞬、痛みを忘れて吸い込まれるようにその腕に見入ってしまった。
浮き出た血管、引き締まった手首。重い荷物を軽々と扱いそうな、節くれだった大きな手。
(……なんて健康に良すぎる筋肉。脳内スタンディングオベーション! これが生で見られるなんて、もしかして頑張ったご褒美か?)
道中、自分の貧弱な筋肉の不甲斐なさに絶望していただけにその眼福すぎる光景の説得力は凄まじい。
私は内心の猛烈な興奮を必死に押し殺し、動くたびに襲い掛かる痛みに耐えながら、なんとかベッドの上で居住まいを正した。この素敵な筋肉の前で、自分の筋肉が悲鳴を上げている無様な姿を見せるわけにはいかない。
そんな私の心情を知らない男は迷いのない足取りでベッドの脇へと歩み寄った。そしてそばにあった椅子を無造作に引き寄せると、そこへどっしりと腰を下ろした。
「まずは自己紹介でもするか。俺はグレン・リンドウ。お前の名前は?」
「フローリア、です」
「フローリアな。屋敷の前で倒れたことは覚えてるか?」
「はい……って、そうだ! 男の子! 私と一緒にいた男の子は?」
「あいつなら無事だ。医者も『安静にしてりゃ問題ない』ってことで今は別室で寝てる」
無事に助かった。その言葉を聞いて私はホッと胸をなで下ろした。どこか張り詰めていたものが、ふっと緩む。
「よ、良かった……」
あんなに弱りきっていた彼がまだこの世に繋ぎ止められている。その事実だけで胸の奥がじんわりと温かくなった。
「助けていただいて、ありがとうございました」
私はシーツの中で姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
ボロボロだった私たちを保護し、手当を手配してくれたのはきっと目の前にいるこの人なのだ。
幼い子供が見せた予想外に殊勝な態度に、グレンは「ガキのくせに丁寧なこった」と面白そうに喉を鳴らして笑った。
けれど、直後に彼はふっと笑みを消した。
どっしりと椅子に預けていた背を離し、わずかに前傾姿勢になって私と視線を合わせる。その瞳に宿ったのは、一人の人間に対する真摯な光だった。
「だが頭を下げなきゃなんねえのは、こっちの方だ」
彼は居住まいを正すと、短く言葉を継いだ。
「お前があそこまで踏ん張ってくれたおかげで、あいつが助かった。……ありがとう」
その言葉はぶっきらぼうながらも深く、重い響きを持っていた。
子供相手に投げかけられた心からの謝意。その真摯な態度とまっすぐに見つめる彼の視線の強さに私は思わず息を呑んだ。
「あ、いえ、私はただ……って、ん?」
私はぶんぶんと両手を振って謙遜しながら、ふと沸いた疑問を投げかけた。
「もしかして、ここがあの子のお家なんですか?」
「あぁ。目を離した隙に、勝手に外に出ちまったみたいでな。あいつがいないのに気づいて探しに行こうとしたら、ボロボロなお前があいつを背負ってるの見てびっくりしたぞ」
きまりが悪そうに頬を掻いたグレンに私は怪訝な目を向けた。
森の深奥にそびえ立つあの屋敷が自宅だというのなら、彼が森にいたこと自体は不思議ではない。
けれど。
「あんなに、今にも死んでしまいそうなほど体調が悪かったのに、一人にしたんですか?」
「…………あぁ」
私の静かな、けれど逃げ場を塞ぐような問いかけにグレンは苦々しく顔を歪めた。
何かを言いかけては、固く唇を引き結ぶ。その喉の奥で言葉が仕え、吐き出すことさえ躊躇っているような沈黙。
重苦しい一瞬の空白は、彼自身が誰よりもその過失を悔いていることを物語っているようだった。
「まぁ、事情があってな」
「……事情、ですか」
何やら言い淀む彼が視線をわずかに逸らした仕草。
単なる不注意や放任ではない、もっと複雑で容易には立ち入らせない何かがそこにあることをなんとなく感じ取る。
私は思わず眉をひそめ、ジト目で目の前の男を値踏みするように見つめた。
(……まさか、虐待じゃないよね?)




