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3話「ペロッ! こ、これは――!」

 王都の喧騒から少し離れた場所に私の住む村はあった。

 都会ほどの利便性はないが、さりとてド田舎というほどでもない。そんな中途半端な村で私は父と二人で暮らしている。


「おとーさーん! お外で遊んでくる!」

 

 父の返事も聞かず、私は弾かれたように家を飛び出した。

 外に出た瞬間、肌を撫でる風が頬をくすぐる。どこか湿り気を帯びた土の匂いと干したばかりの布の柔らかな香りが混ざり合い、胸いっぱいに広がった。遠くでは薪を割る乾いた音が響き、子供たちのはしゃぐ声がそれに重なる。

 背後で「待て、フローリア!」と父の声が聞こえた気がしたが私の足は止まらなかった。

 だってこの世界、知らないことだらけなんだもの。

 前世を思い出してからの私は確実に精神年齢は上がっているはずなのに、器であるこの体が勝手にうずきだす。

 落ち着き払った大人であろうとする過去(前世)の自分と、未知への期待に胸を膨らませる|未来(現生)の私。

 

 けれど子供特有の有り余るエネルギーに引きずられるように、私の思考もどんどん傾いていく。今や私の内側では好奇心(子供心)だけが弾けている。

 あっちへ行っては茂みを覗き込み、こっちへ行っては見慣れないものに手を伸ばす。小さな体でせわしなく動き回り、視界に映るすべてを片っ端から五感で確かめていく。

 草を踏むたびに青くみずみずしい匂いが立ち上る。足首に触れる葉がくすぐったくて思わず笑みがこぼれる。指先で触れた木の幹はざらついていて、ところどころに苔が生え、しっとりとした冷たさを帯びている。木漏れ日が揺れるたびに、地面に落ちる影の模様が形を変える。風が吹くたびに葉が擦れ合い、さわさわと心地よい音を奏でる。

 

 図鑑(前世)では見たことのない奇妙な植物。

 毒々しいほど鮮やかな色彩の果実。

 空を泳ぐように羽ばたく、鱗に覆われた極彩色の鳥。

 そしてお伽話ではなく語られる“貴族”や“王族”たちの存在。


 どれもこれも前世では画面の向こう側の「設定」に過ぎなかったものばかりだ。それが今は、手を伸ばせば触れられる距離にある。

 新しい人生も、この景色も、何もかもが粒子を撒いたように輝いて見えた。


「こんな世界、じっとして見てるだけなんてもったいない!」


 前世の私は勉強なんて将来何の役に立つんだろうと、どこか穿った目で子供時代を過ごした。

 実際、社会に出てから使う知識なんてほんの一部だし、それよりも実用的なことを教えてほしいと複雑な税金を見ては嘆いていたくらいだ。


 だけど――。

 

 いろんなものを知るたびに、世界の見え方が少しずつ変わっていく。

 ばらばらだった点と点が、ふいに繋がる瞬間がある。

 そのたびに、目の前の景色が前よりもずっと鮮やかに見えた。


 ――ああ、勉強が仕事だと言われるうちに、もっとちゃんとやっておけばよかった。


 それに気づいてから後悔したのは、一度や二度じゃない。

 だからこそ今度は逃したくないと、私は気の向くままに駆けていく。


「お?」

 

 すると、ふと視線を落とした先でそれを見つけた。

 足元の低木に小さな赤い実がいくつもなっているのを見つける。

 つやつやと光るそれを見て、ふと昔の記憶がよぎった。


「この世界にもこういうのあるんだ。懐かしいな」

 

 小学校の帰り道、道端で見つけてはつまんでいたあの実にそっくりだ。指先でそっと摘まみ上げると、柔らかな皮の奥に確かな弾力を感じた。


「味も同じなのかな?」


 実に顔を近づけて匂いを嗅ぐと、ほのかに甘い香りがする。

 けれどそれだけじゃよくわからない。


「んー……?」


 まぁ一つくらいなら、と軽い気持ちで口に放り込み、一口齧った瞬間。


「……っ、すっぱーーーーッ!!」


 脳天を突き抜けるような刺激に、唾液が一気に溢れ出す。

 奥歯にぐっと力が入り、反射的に目をぎゅっと閉じた。舌の上で弾けた強烈な酸味に頬の奥がきゅうっと縮こまる。梅干しやレモンを丸かじりしたときみたいな感覚に涙目になりながらもなんとか飲み込む。

 

「えー、なにこれ……面白い!」


 酸味で顔をしかめながらも私は舌の上でその余韻を転がした。この甘く芳醇な香りの裏にこれほどの酸味を隠し持っているとは。

 この実自体がまだ未熟なのか、それともこういう特性なのか――。

 いや。もしかして、安易に動物に食べられないための防衛として進化したのだろうか。けれど植物が種子を遠くへ運ぶなら、動物に美味しいと思わせて食べてもらう方が効率がいいはずだ。

 何か別の理由があるのか、それとも特定の動物だけをターゲットにしているのか……。


「他にも何かあるかな!」

 

 期待に胸を膨らませて周囲を見回した。

 ざわめく木々の間に目を凝らすと、少し奥の方に見慣れない実がなっているのが見えた。

 私は来た道を振り返る。随分と家から離れてしまったが、まぁすぐに戻れば大丈夫だろう。


「ちょ、ちょっとだけだから! すぐ戻るから!」


 自分に言い聞かせるように呟いて、また一歩踏み出す。

 気になるものを見つけては足を止め、また別の好奇心に引かれて進む。

 そんなふうに歩き回っているうちに――ふと、違和感を覚えた。

 最初に気づいたのは、音だった。さっきまで聞こえていた鳥の声がいつの間にか消えている。

 足を止めて、振り返る。

 来たはずの道は、もうどこにもなかった。


「あれ?」


 顔を上げ、周囲を見渡す。

 いつの間にか、村の周辺にはない背の高い見慣れない木々が壁のように並んでいた。幹は太く、空を覆い隠すように枝葉を広げ、光はわずかにしか差し込まず薄暗い。


「……ここ、どこだ?」


 きょろきょろと辺りを見回す。来たはずの道も、それらしい目印も見当たらない。


「うーん、これは完全に迷子」

 

 気づけば私は、村の外れへと続く道を駆けていたらしい。

 

「まぁ、歩いてればどこかに出るか、人に出会うでしょ!」


 少し首を傾げただけで、あっさりとそう結論づける。

 前世と今世が変な風に混ざり合っているせいか、私は今の状況に焦るよりも楽観的な思考になっていた。

 未知の場所は、それだけで宝箱だ。

 私は引き返すどころか、迷いなく森の深淵へと足を踏み入れた。

 進むほどに、空気の質が変わっていく。肺に入る空気は少し重く、ひやりと湿っていた。

 足元の草を踏みしめる音。自分の規則正しい足音。それだけが、静まり返った森の中に響いている。

 葉と葉が擦れる音がさっきよりも近く感じた。まるで森そのものが、息を潜めてこちらを見ているみたいだ。

 

「ん?」


 ふと視線の先に、木々が密集する奥に不自然な“空白”を捉えた。生い茂る木々の隙間。その奥にぽっかりと開けた空間がある。

 差し込む光の角度が明らかに違う。

 私は息を呑み、吸い寄せられるように一歩を踏み出した。


「こ、これはッ……!」


 目を瞠った私の視界に一人の少年が飛び込んできた。

 木に体を預け、深く折り曲げた背中は今にも崩れ落ちそうになっていた。

 

 ひらり、と。どこからか舞い込んだ木の葉が私の視界を横切る。

 その向こうで開けた場所に差し込む陽光が斑な光となって少年の背をなぞった。

 深い緑に沈んだ森の中で、そこだけが不自然に明るい。

 光に切り取られたその場所で、まるで舞台に立たされた役者のように少年が孤独に佇んでいた。

 

 ――イベントの香りッ!


 ペロッと舐めて事件性を確認するまでもない。前世から引き継いだオタクとしての嗅覚が脳の奥で激しく警鐘を鳴らしている。

  あまりにもストーリーを進めるのに理想的なシチュエーション。前世(オタク)の血が騒ぎ、思わず鼻息が荒くなりそうになる。

 ――いや、落ち着けフローリア。ここは画面の向こうじゃない、現実(リアル)よ。こんな森の奥深くに、具合の悪そうな少年が一人で放置されているなんて怪しさの極みでしょう。

 自分も絶賛迷子中であることを棚に上げ、私は少年に気づかれないよう足音を殺して慎重に距離を詰めた。

 近づくにつれて彼の異変はより鮮明になっていく。

 手で胸元を抉るように押さえ込みながら、肩を大きく上下させている。


「……はぁ……っ、……」

 

 掠れた喘鳴が静まり返った森の中に心細く漏れる。

 紙のように白い顔色。額には脂汗が滲み、淡い色の前髪が張り付いているのが見えた。


(……本当に具合が悪そう)

 

 森の深奥にこんな衰弱した少年が一人きり。どう考えても訳ありの気配しかしないし、関わったら面倒なことになりそうなのは目に見えている。

 けれど今にも消え入りそうな少年の横顔を前に私は息を吐いた。

 

(いや、無視なんてできないでしょ。後味の悪いバッドエンドなんて、前世からずっとお断りなんだから)

 

 私は意を決した。隠れるのをやめ、わざと一歩を大きく踏み出す。


「大丈夫ですか?」


 ジャリ、と土を踏みしめ、少し離れた位置で足を止めた。私は警戒を解かないまま少年に声をかける。

 

「だ、れだ……」


 少年が重たげな首をゆっくりと持ち上げた。少し長めの前髪。その隙間から、潤んだ透き通る色の瞳が覗く。

 少年の唇から漏れたのは、今にも風に掻き消されそうなか細い声だった。


「ッ!」

 

 その瞬間、私の脳天を雷が貫いた。あまりの衝撃に肺の空気が一瞬、すべて止まった。

 

「お……!」

 

 ――推せる……!

 脳内で祝福か警告か判別のつかない鐘が派手に打ち鳴らされた。

 最悪の状況で最高に「癖」に刺さる逸材と出会ってしまった。その事実に打ち震え、熱を帯びた吐息が静まり返った森の空気に溶けていく。


「――って、違う違う! 不謹慎すぎる私!」

 

 ぶんぶんと首を振って邪念を消す。


「大丈夫ですか? すごい顔色ですよ」

 

 数歩詰め寄った距離で改めて見る彼は、もはや生きているのが不思議なくらいだった。生気を失った白い肌が陽光を弾き、浮かんだ脂汗がその輪郭をよりいっそう危うく、脆いものに見せている。

 今にもこの世に繋ぎ止めている糸が切れて崩れ落ちそうだ。

 想像を遥かに超えていた死の気配の濃さに、さっきまでの警戒心とオタク心は霧散した。

 私は吸い寄せられるように、その危うい命へと手を伸ばす。

 少年は少し驚いたように目を丸くすると、荒げた息を吐き出しながら私の手を振り払う。

 

「ッ触るな……っ……」

 

 拒絶と呼ぶにはあまりに弱々しい反撃だった。軽い音を立てて叩かれた手に痛みは一切感じない。

 それが少年の最後の力だった。

 振り払った反動のまま全ての抗う力が失われ、糸が切れた人形のように少年の体がぐらりとこちらへ傾いだ。


「危なっ――!」

 

 咄嗟に腕を伸ばしその体を受け止める。

 だが意識の混濁した少年の体は重石となってのしかかってきた。その重さに耐えきれず体勢が崩れる。

 私は少年を抱き寄せ、そのまま地面へと倒れ込んだ。


「~ッ!」

 

 地面に叩きつけられた衝撃に思わず涙が滲んだ。

 だが、その痛みを堪えて少年の肩を揺さぶる。

 

「ね、ねぇ、ちょっと大丈夫ですか!」


 押し潰された体勢から抜け出そうと、もぞもぞと身をよじる。

 そのわずかな揺れに反応するように、少年のまぶたがピクリと震えたのが視界の端に映った。

 私は慌てて体を起こし、四つん這いのまま彼の顔を覗き込む。

 重たげに持ち上がった瞼の奥。少年のその瞳は焦点を結ばないまま、どこか遠くを彷徨っていた。

 

「……ぃ……」

「え?」

 

 掠れた声が途切れ途切れにこぼれた。

 

「……た、い……」


 ――たい……?

 零れた言葉を拾おうと私はそっと耳を寄せる。けれど少年のまぶたはそのまま力なく閉じられた。

 少年のまつ毛の端にぷつりと小さな雫が滲む。それは汗と混じりゆっくりと肌をなぞった。透明な筋を描いて頬を伝い静かに落ちていく。

 

「ちょっと、しっかりして!」

 

 叫ぶ私を置き去りに彼からの反応は完全に途絶えた。

 私は縋る思いで彼の口元へ耳を寄せる。


(良かった。まだ息はある)


 わずかに開いた唇からかろうじて空気が震えるのを感じた。けれどその呼吸はひどく浅い。

 指先で触れれば壊れてしまう薄氷のような危うさ。その呼吸はあまりに細く、今この瞬間にも途絶えてしまうのではないかと錯覚した。


(このままじゃまずい。……本当に、死んじゃう)


 恐怖を振り払い、私は顔を上げて胸いっぱいに空気を吸い込む。

 

「誰か――! 誰かいませんか!」


 張り裂けんばかりの絶叫。

 だが広大な森は冷ややかな沈黙を湛え、その声を深く飲み込んでいった。

 人の気配はどこにもない。

 風が葉を揺らす音さえ自分を突き放す嘲笑のように響く。

 足元から這い上がってきた死の気配が内臓を一つずつ凍らせていくようだった。

 

「誰かッ! 助けてくださいッ!!」

 

 今度はさっきよりも強く、必死に叫んだ。だが声は森の奥へ吸い込まれ霧散する。

 ここには非力な自分と消えかかったこの命しかない。どくん、どくんと耳の奥で自分の鼓動がうるさく跳ねる。じっとりと背中を伝う嫌な汗が服を肌に張り付かせる。


(……どうする)


 助けを呼びに戻るか。でも一度この場所を離れ、再び戻れる保証はない。

 もしその間に、この子が――。

 地面に横たわった少年に視線を落とす。

 呼吸の音が遠くに感じる。胸はわずかに上下しているが、それが生きている証だと信じるにはあまりにも弱々しかった。

 一刻の猶予もないのは誰の目にも明らかだった。一秒待てば、その分だけ彼が死に近づく。

 

「……よし!」


 小さく息を吐き、私は覚悟を決めた。

 

「ちょっと失礼します!」

 

 ぐったりとした少年の腕を肩に回し、崩れ落ちようとするその体を引き寄せる。


 「……んっ、ぐ……! お、重……!」


 背中にのしかかる、容赦のない重み。

 この小さな体のすべてに力を込め、私はふらつく膝を地面から引き剥がした。

 息を詰め、ふらつく膝をどうにか押し上げる。

 奥歯が軋むほどに食いしばり、ようやく立ち上がる。

 

「ぐうぅ……」

 

 意識のない人間は、生きた人間より重い――。

 どこかで聞いたそんな言葉を、今、嫌というほど突きつけられていた。

 ぐったりと脱力し私の背に沈み込むその重みとは裏腹に、背中から伝わってくる彼の体温はあまりに生々しい。


(……熱い)


 布越しでもはっきりと分かる。彼を蝕む猛烈な熱が私の肌を焼くように伝わってくる。


「……はぁ……っ」

 

 耳元で彼のか細い呼吸が漏れた。

 震える熱い吐息が首筋をかすめ、私はたまらずちらりと横を向く。

 固く閉じられたまぶた、額に浮かぶ大量の脂汗、そしてそれが糊のように頬へ張りつかせた乱れた髪。


「大丈夫」


 そう呟いてから、私はぐっと足に力を入れた。

 止まるわけにはいかない。

 

「絶対、助けるからね!」


 返事がないのは分かっている。それでもつい声をかけてしまった。


「だから、もうちょっとだけ頑張って!」


 踏み出した歩調に合わせて、少年の腕がだらりと力なく揺れた。

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