7話
太陽が出て間もない早朝。
白馬が干し草を食べる咀嚼音と、野生の鳥のさえずりが厩舎に響いている。
ここは村外から来た宿泊客などが乗ってきた馬専用の厩舎のため、今はリーヴェの白馬以外の馬はいない。
のびのび使えるのが気楽でいいのか、白馬は昨日ここに預けた時からご機嫌だった。
世話はリーヴェ達が泊まった酒場兼宿屋の店員に依頼しているようだが、朝の餌やりは自分であげるからいい、とリーヴェは断っていたようだ。
白馬が食べ終えたのを確認すると、リーヴェは馬の背中を優しく撫でて何か声をかけていた。
厩舎の入り口付近でそれを見ていた夏乃には、リーヴェが何と声をかけたのか、正確には理解できない。
けれどいつもより幾分か柔らかな眼差しと、この後の予定を併せて考えると、多分「行ってきます」的な言葉だろうと予測した。
馬と別れたリーヴェは夏乃の側に来て、彼女の傍らに置いていた荷物を肩にかける。
夏乃はリーヴェの目を見てから、その右手にそっと触れる。
「待たせた、行くぞ」
リーヴェのその言葉を合図にして、二人は歩き出した。
まだ人通りは少ないとはいえ、昨日と同様に夏乃はマントをつけ、フードを深くかぶっている。
そのおかげかすれ違う人はリーヴェをチラッと見るだけにとどまっていた。
「山や森は魔獣の巣窟になっている事が多いが、今から向かうラウゼン山は圧倒的に数が少ない」
「少ない、って事は出会う事もあるんだ」
「あぁ。だがこの山の魔獣なら、たとえ複数いても俺一人で十分対応できる」
目の前には青々と茂る草や木々、そしてその中央には道がまっすぐ伸びており、いかにもな『山の入り口』が見えてきた。
「だから―――」
リーヴェは歩みを止めて、夏乃の腰辺りに視線を移す。
その視線に気がついて、夏乃は空いている方の手でそっと『それ』に触れた。
「お守り代わりに持っておくだけ。分かってるよ」
今朝寝泊まりした部屋から出る時にリーヴェから預かったコンパクトハンドガンが入った、茶色のガンホルスターの革の質感が新鮮に感じた。
リーヴェは言葉を発せず、ただただ頷いた。
そして視線を前方に戻す。
「行くぞ」
「うん。…………っ!?」
前は何も変化がない、おそらく後方からだろう。
突如、『煙草』の匂いが漂ってきた。
これはリーヴェが愛用している煙草の匂いではなく、夏乃の元の世界で嗅いだ事があるもの。
彼女の母親が夜勤終わりに頻繁に纏っていた匂いと酷似している。
(お母さん……!?)
夏乃は勢いよく後ろを振り返った。
目に入ったのはもちろん自身の母親、ではなく。
真っ黒な髪と真っ黒な瞳に目が行く、別人だった。
昨日リーヴェから、この国に黒髪の人物はクリス家の者しかいないと聞いていたが、その事を聞いていなかったとしても、今視界に映っている人物はクリス家の人だろうと夏乃は思うだろう。
それほどまでに、今そこに立っている人物は夏乃が知る唯一のクリス家の人間―――フェインに似ていた。
彼と圧倒的に違う部分は髪型と年齢層だ。
フェインよりも数年歳を重ねているようにも見えるが、彼よりも中性的な顔立ちをしている。
加えて顎のラインで綺麗に切り揃えられ、微妙に内側にカーブしている漆黒の髪の形も相まって、顔だけでは性別が判断できない。
ただ煙草を持っている骨ばった手や、服の上からでも何となく分かる、丸みが一切ない体付きからして、おそらく男性だろうと夏乃は思った。
その男が煙草を片手に、こちらに向かって小さく手を振っている。
「―――リーヴェ、――――――」
男が発した言葉の中から、夏乃はかろうじてリーヴェの名前を見つけた。
上から「ちっ」と舌打ちが降ってきたのでその方向を見ると、リーヴェが苦い顔でその男がゆっくりこちらに向かって歩いてくるのを見ていた。
「……クリス・クク。フェインの兄だ……はぁ、めんどくせぇ奴に会った」
「そ、そうなの?」
「とりあえず片膝ついて頭下げとけ」
小声でそう言うとリーヴェは夏乃の手を一時的に離し、彼女の前に一歩出る。
そして言っていた通りの体勢を取った。
夏乃も慌てて地面に片膝をつき、真下を見るように頭を下げた。
(リーヴェが頭下げてるってことは……フェインさんのお兄さん、かなり偉い人なんだ)
通常時より少し早く脈打つ心臓の音に気を取られているうちに、リーヴェが言葉を発した。
「――――――」
彼との接触がないため、相変わらず言葉は理解できない。
だが靴が地面を擦る音と強くなった煙の匂いで、下を向いていてもクリス・ククがすぐそこまで来ている事は分かった。
「ーーー」
先程一言聞いただけの、知らない男の声がする。十中八九ククの声なのだろう。
高めの男声。物語の語り手のような澄んだ声色が夏の風のように気持ちよく夏乃の耳に届く。
リーヴェは今のククの言葉を聞いてか、スッとその場に立ち上がった。
おそらく「楽にして」と言うような言葉だったのだろうが、夏乃にとっては突然の動きに思わず顔を上げてしまう。
リーヴェの体の傍らから、こちらを見ていたククと目が合った。
彼の夜のような暗い瞳に夏乃の姿が映る。
が、彼は何も言わずに、再びリーヴェの方に視線を向けた。
(……びっくりして、顔上げてしまった。怒られたりは……しなそう、かな)
ククはそれからリーヴェと言葉を二、三度交わして、随分短くなった煙草を地面に落として踏んだ。
そしてそれを拾って懐紙のようなもので包んでいる時に、夏乃はリーヴェの紡ぐ言葉の中に自身の名が出てきた事に気がついた。
(今、私の名前……ククさんに紹介してくれているのかな?)
ククは再びこちらを見て、微笑んだ。
そして彼の右手が夏乃に差し出された。
(掴んで、立ち上がれって事だよね。……う、緊張する)
自身も右手を出して、戸惑いながらもククの右手をぎゅっと握る。
冷たい手に一瞬ピクリと夏乃の指が反射的に動いた。
そのままその場に立ち上がり、ククの黒い瞳を見てから頭を軽く下げ、指の力を抜く。
が、繋がれた手が一向に離れる様子がない。
もう一度ククの瞳を見つめると、その綺麗な形の唇がゆっくりと動いた。
「二人目」
「…………え」
短いがはっきりと聞き取れた言葉に、夏乃は呆気に取られた。
(ふたりめ、二人目って言った?空耳?ううん、こっちの世界の言葉をこんなに綺麗に聞き間違いした事なんかーーー)
夏乃は全身が汗ばむのが分かった。
普段なら汗をかくのは気になるところだが、今はそんな場合ではないと頭の傍らでその考えを一蹴する。
ククはそんな夏乃の様子を見て面白がったのか、機嫌が良さそうな笑みを浮かべて再びその唇から言葉を紡ぐ。
「貴女で二人目だ。別世界からやってきたヒトの転移者は」
次に紡がれたのは単語ではない、しっかりとした文章だった。
『魔の者は側頭部を喚ぶ者に触れられている間は、喚ぶ者の言語を理解する事ができます。また、約う者相手では身体のどの部分でも同じ効果があります』
そうフェインが説明してくれていたのを思い出す。
ククがフェインの兄であるという事は、彼もまた喚ぶ者なのだろうか。
(……今触れているのは手だけ。フェインさんの話と違うけど)
「あぁ、言葉が分かるのが理解できないのか」
ククはずっと変わらないその澄んだ声色で、夏乃に語りかけている。
けれど今の夏乃には、何故かその涼しさが冷たくも感じていた。
「言っておくが、貴女と接触で対話できるのは、貴女を喚んだ者と約った者だけ。貴女の場合は愚弟とそこの彼だけだ」
「ならどうしてーーー」
夏乃がその言葉を口にしたとほぼ同時に、左腕を掴まれる感触がした。
その方向を見てみると、リーヴェが不可解な物を見るような表情でいる。
「おいっ……何を話している。今の言葉、そいつが何を喋っているのか、お前には分かるのか?」
リーヴェのその言葉は、彼が今ククの話している内容を理解できていない事を意味していた。
ククはフッと失笑したように息をもらして、夏乃の手を掴んでいた力を弱め、接触を断つ。
「私の事を『そいつ』呼ばわりするとはな。まぁこの余興に免じて許してやるか」
接触がなくなってもなお聞こえる、理解できるククの言葉。
本来なら嬉しい場面だが、夏乃の中では不気味さの方が勝っていた。
(接触は関係ない。リーヴェに理解できなくて、私には分かる言葉。それってつまり……)
夏乃は怖がりながらもククの姿をその目にしっかりととらえて、彼に向かって言葉を投げる。
「あなたが今話しているのは私の世界の言葉、って事ですか?じゃああなたが一人目の転移者……?」
ククは空いた右手で懐から煙草を取り出し、火をつけ一口吸って煙を吐いた。
そしてその後、言葉も吐く。
「半分だけ正解、と言っておこう。貴女が考えているほど単純ではない。……ただ、それは貴女には関係のない話だ。そうだろう?」
そう言うとククはくるりと後ろを向き、村の方へとゆっくり歩みを進めた。
彼の吸っている煙草の煙が、彼の立っていた場所に戻ってくる。
「無事帰還できるよう、陰ながら祈っているよ…………お互いのためにね」
ククの姿が徐々に小さくなり、やがて見えなくなった頃、彼の煙草の匂いも薄まっていた。
夏乃はククが視界から消えてからも、動かずにその場に立ち尽くしている。
リーヴェはそんな夏乃をチラッと見てから、軽く息を吐いて「行くぞ。奴の事は道中話せ」と言った。
そして夏乃の腕を掴んでいた手を一旦離して、彼女に向かって差し出し直した。
+++
ーーーメロディが聞こえる。
現在僕一人しか乗っていない馬車の窓から外を見た。
漆黒の髪の人物ーーー兄さんがこちらに向かって歩いてきている。
このメロディは兄さんの、水のような透明な声が奏でているものだった。
兄さんは歌うのが好きなようで、機嫌の良いときには必ず何か歌っている。
けれど兄さんが口ずさむ曲は誰も知らないものばかり。
街で流行っている曲でもないし、昔からある伝統的な曲という訳でもない。
以前「兄さんが作ったんですか?」と尋ねたが、首を横に振られてしまった。
それ以来曲についての言及はしていない。してはいけない気がした。
これ以上追求すると、僕に対して煩わしい感情を持たれてしまうかもしれない。
僕は兄さんの歌が聴けるだけで、兄さんが側にいてくれるだけで充分だから。
「おかえりなさい、兄さん」
兄さんが馬車の扉を開けて中に入ってくるタイミングで声をかける。
兄さんは今の僕の声に反応することなく、僕の向かい側、進行方向に顔を向けるように座ると懐から煙草を取り出して火をつけた。
紫煙が車内を揺蕩う。
「如何でしたか?」
「お前が言っていたように、確かにただの子供だった。何の脅威でもない。ただーーー」
兄さんは煙草を煙を吐き出して、言葉を続ける。
「やはりあのアルベリク家の倅は惜しい。術が干渉などされなければ、あれは今までに類を見ないほど強い力の魔の者と約えたはず」
「……申し訳ありません」
「今回は不運であった、と言っておこう」
それはつまり、『次はない』と同義だ。
兄さんの深淵のような黒い瞳に自分が映っているのが見える。
「フェイン。分かっているな?」
「はい、兄さん」
兄さんの瞳の中にいる僕は、暗闇に佇んでいるようだ。
そんな暗いところにいて、彼にはこの先の道が見えているのだろうか。
「次は必ず強力な魔の者を喚び、リーヴェと約いを結んでいただきます。そしてーーー」
これから口にする言葉を思うと、喉元でグッと詰まるようだった。
しかしそれを飲み込む術を僕は知らない。
目を閉じて、ゆっくりと唇を動かす。
瞳の奥には友として彼と過ごした日々が映る。
が、それらが次第に色褪せていくのを感じた。
「リーヴェを亡き者とし、その魔の者を我らが手中に収めましょう」
揺れ始めた馬車の中で、兄さんの歌が優しく響く。




