8話
運動と勉強、どちらかと言われれば勉強の方が得意という自負はある。
そもそも勉強している自分が1番自分らしいし、成果を出せる事が誇りとまで思っている節が彼女にはあった。
もちろん体育の成績が悪い訳ではない。
まだ中学での体育の授業は受けていないが、少なくとも小学校の頃は「鉄棒ができなかった」や、「泳げなくて…」といった事もなく、その日体育の先生がやると言った内容は難なくできていた。
だから夏乃の中では『運動より勉強が得意』なだけで、別段身体を動かす事に苦痛はなかった。
ーーーこの山登りを始めるまでは
「…………」
「おい。人の背中の上で辛気臭ぇツラするな」
山頂付近にあるという湖を目指して、ラウゼン山に入ってどれくらい経過しただろう。
まだ充分高い位置にある太陽が、リーヴェの赤い髪を照らしている。
ほんの目と鼻の先にある彼の髪をぼーっと見ながら、夏乃は口を開いた。
「……顔、見えてないでしょ」
「空気で分かんだよ。このジメッとした鬱陶しい空気でな」
リーヴェは山の入り口付近と何ら変わりない足取りで進んでいく。
肩には二人分の荷物、腰には剣を差し、背中には夏乃のおぶった状態だが、汗一つかかず、息も乱れてはいなかった。
圧倒的な体力の差に、夏乃は自身の体力がなさすぎるのではと自信を喪失しかけていた。
+++
ラウゼン山を登り出してしばらく経った時、数歩前を歩くリーヴェがくるりと振り返り、夏乃の肩に手を軽く乗せて言った。
「背中に乗れ。今のペースだと日が暮れる」
それは夏乃の足取りが重くなっていた事を察知しての提案だった。
確かに日が暮れるまでに目的地に着かないと危険もあるのだろう。
だが二人分の荷物と剣を持っている彼に、更に自身まで担いでもらう提案にはすぐには首を縦に振れなかった。
「言ってなかったが、いつもはこの剣の他に盾も持ってんだよ。お前より重さのある馬鹿でかい盾だ」
「……本当?昨日の模擬戦でも、そんな大きな盾使ってなかったよね」
「あいつらやここの魔獣程度なら、そこまでの重装備は必要ねぇからな。信じられねぇってんなら、俺が息切らし始めたら降りろ」
そう言ってリーヴェは無造作に下ろしていた赤髪を紐で一つに束ねて肩にかけ、そして夏乃に背中を向けてしゃがんだ。
その背中を見て夏乃はごくりと息をのみ、ゆっくりとその双肩に両手を添えた。
身体を密着させると思っていた以上に彼の背中が硬く、大きく感じた。
リーヴェの美形と言える綺麗な顔立ちからは想像し難い筋肉質の身体に驚きながらも、「リーヴェって着痩せするタイプなんだね」という軽口が喉から飛び出そうだったが、飲み込んだ。
リーヴェは夏乃の身体が自身に乗った事を確認して、スッと立ち上がり、進行方向に向けて歩き出した。
+++
そうして今に至るまで、リーヴェは手ぶらで緩やかな坂を登っているかのような足取りのままである。
夏乃や荷物の重さなど存在しないかのような身のこなしに、バテる直前だった自分が情けないと夏乃は感じ始めていた。
「そんな事より、話す事があるだろ」
リーヴェが重たい空気を一掃するように、少し大きな声でそう言った。
その言葉で夏乃はハッとして、陰鬱な思考を振り払った。
彼が言っているのは出発直前に会った、フェインの兄だというクリス・ククの事。
言語が違うこの世界で言葉が通じるのは転移の術に関わった唯二人だけ、それも接触しながらという特別な条件下でしか話ができないと思っていた。
だが彼は接触をせずに、夏乃が分かる言葉を話していた。
おそらく、彼女の世界の言葉を。
夏乃はククの言葉を思い出しながら、リーヴェに話した。
夏乃の事を『二人目の別世界からのヒトの転移者』と言った事。
ククが夏乃に語りかけた言葉は夏乃の世界の言葉か、ククが一人目の転移者か、の問いに『半分正解』と答えた事。
そして彼が別れ際に言った言葉。
『無事帰還できるよう、陰ながら祈っているよ…………お互いのためにね』
リーヴェに話しながら、夏乃はククの黒い瞳を頭に浮かべていた。
日本人は黒目と言われがちだが、少なくとも夏乃の周りにはあんなに黒い瞳を持つ者はいなかった。
(リーヴェとは対照的だけど、同じくらい引き込まれそうな眼だった)
ふとリーヴェの瞳をのぞいてみたくなったが、残念ながら今は彼の赤い髪しか見えない。
夏乃は視線そのままに、再び口を開いた。
「ねぇリーヴェ。ククさんってどんな人なの?」
「どんなもこんなもねぇ、あのままだ。あいつとは2つしか歳は変わらんが、ガキの頃から偉ぶってていけすかねぇ奴だ」
リーヴェの口ぶりから察するに、昔馴染みには違いないようだが、弟のフェインほどは仲良くないようだ。
リーヴェが一拍置いてから言葉を続ける。
「神裔って分かるか?」
「しんえい……?」
「国の象徴と言える存在の事だ。この国には王政じゃない。国の事は領主らとクリス家の当主、あとは多少の民意で決めている。……が、実際のところは国の象徴である神裔の意見が大きく反映されている。事実上の、国のトップと言ったところか」
リーヴェの今の言葉を聞いて、夏乃の身体の血がサーっと引くのが自分自身でも分かった。
思わずリーヴェの肩に置いている手に力が入る。
「その神裔ーーー事実上の国のトップが、ククさん……?」
「あぁ、あいつは九代目の神裔だ」
ここでやっとリーヴェが「片膝ついて頭下げとけ」と言った意味が分かった。
夏乃の想像していた『偉い人』より、何倍も権力のある人物であった事に、遅れながらも肝が冷える。
「神裔は産まれたときからその運命が決まってる。黒髪と黒眼を併せ持つ者。先代の神裔が亡くなった直後に産まれるクリス家の赤子が、必ず次の神裔の証を持っているという」
「黒髪、黒眼……」
「何代目からだったか忘れたが、近年は全領主が神裔の誕生を直接その目で確認するという形になっている。だからククが『別世界の転移者』という事はないだろう」
ここでリーヴェはようやく深い息を吐いた。
流石の彼でもこの状況で大量の言葉を紡ぎ出すと息の詰まりを感じるようだ。
しかし歩く速度は緩まる気配がない。
彼の足裏で土を踏む音は少しも変わらなかった。
夏乃はそれならば自分がと思い、口を開く。
「じゃあククさんが言ってた『半分正解』の方は、やっぱり日本語…私の世界の言葉を話していたんだね」
「あぁ」
「転移者じゃない、けど別世界の言語を話せる……か」
夏乃は少し考えこんだが、すぐに思考を放棄した。
彼女の今持つ情報ではその答えに辿り着けないことを悟ったからだ。
それにククが言っていた、『夏乃には関係のない話』だという事も、放棄に一票が入った理由だった。
(ククさんが転移者でも日本語を喋れても、確かに私には関係ない事かもしれない。気にはなるけど、そもそも会おうと思って会えるような人じゃないから。……ん?)
ふと、リーヴェから伝わる揺れが止まっている事に気がついた。
リーヴェの足がその場から動いていないようだ。
直後、「降りろ」と一言告げられる。
その声色に緊張感が混じっている事に気付いた夏乃は、無言で地面に足をつけた。
瞬間、リーヴェが持っていた荷物を全て地面に放った。
そして彼の左腕が夏乃の身体に巻き付くように触れ、ぐいっと彼の体の中心に向かって引き寄せられる。
「リーーー」
「怖ぇなら顔伏せとけよ」
そう言いながらリーヴェは右手で帯刀していた剣を鞘から抜いた。
そして前方に向かって空を切るように素早く剣を振る。
だが、切ったのは空ではなさそうだった。
柔らかい物体を切った時のような音、そしてそれが地面に落ちる音が夏乃の耳に入った。
顔を伏せる余裕などなく、夏乃は反射的に何かが落ちたと思われる地面を目をやった。
「黒い……蛇?」
そこには全身が縦に真っ二つになった蛇がいた。
その真っ黒な体はピクリとも動かず土の上に横たわっている。
(なんで急に蛇が…?)
おそらくリーヴェや夏乃に向かって、草陰から飛び出してきたのであろう。
夏乃の世界では山にいたりペットにしている人がいたりと、身近かそうでないかで言えば前者の印象が強い蛇の突然の姿に、夏乃は一瞬の罪悪感が芽生える。
が、その気持ちは次の瞬間には恐怖感によって塗り替えられる事となった。
「まだ来るぞ」
まるで人間の言語が分かるかのように、そのリーヴェの言葉を合図にしたかのようなタイミングで、四方の草陰から蛇の大群が飛び出してきた。
「きゃ……っ!!!」
思わず夏乃はリーヴェの身体にしがみつき、ギュッと固く目をつむった。
リーヴェの身体にくっついた事で離れる心配がなくなったのか、それとも蛇の大群に対処するためか、はたまたその両方か。
リーヴェが先程よりも大きく右手や身体を動かしているのが振動で伝わってくる。
だが依然として彼の左腕は夏乃の身体に張り付いたままで、その手に一抹の安心を感じるが、それでも先の蛇の時の同じような音が幾度も耳に入って、夏乃の脳でこだましていた。
夏乃にとっては1時間かそれ以上とも思える時間だったが、その時はおよそ1分程度で終わりを迎える。
リーヴェが下方に向かって大きく剣を振ったのを最後に、身体の振動が止んだ。
そういえば地面に落下する音も止んでいる。
いつの間にかリーヴェの左腕も夏乃から離れていた。
夏乃は目を開けて、リーヴェの身体に掴んでいた手を緩める。
(視界がぼやけてる……思ってたより力入れてつむっていたんだな)
ぼんやりとした視界の中、リーヴェの方を向いていた身体の向きを変えている内に、目のピントが世界に合ってくる。
「……っ」
そこには、夏乃の予想よりもかなり多い、横たわる蛇たちの姿があった。
全て黒い胴体の蛇だ。
飛びかかってくる瞬間に見たものよりも多数いる。
「あれを見ろ」
夏乃の頭上からリーヴェの声が静かに降ってきた。
同時にある方向に向かって指差す手がぬっと出てくる。
夏乃はリーヴェの指の先を目で追った。
彼の指した方にも蛇の骸が何匹も横たわっている。
が、その一つから黒紫色のモヤが出ている。
その蛇の身体は徐々に茶色の蛇柄模様に変化しており、そしてその身体から黒い色が抜け切った刹那、身体が白い砂の塊と化した。
そして黒紫色のモヤが薄れていくと同時に、風に吹かれて何処かに消え去った。
「あれが『魔獣』だ」
そして他の蛇たちも身体から黒紫色のモヤが立ち始め、同じように身体の色が変色していき、そして跡形もなく消えた。
数秒前まで足の踏み場を探すのが一苦労なほど、蛇の骸で覆われていた地面が、いまはリーヴェと夏乃だけのものになっている。
リーヴェは剣を一瞥して、その刀身を鞘に納めた。
蛇たちの血で赤く濡れた剣は、いつの間にか何事もなかったように元の綺麗な状態に戻っていた。
「あいつらも元は普通の蛇だ。それがある条件下で魔獣と化す。魔獣になった奴は抗戦的になり、より人に害をなす存在となる」
リーヴェは地面に置いた荷物を順番に持って、そして夏乃に向かって空いている方の手を差し出した。
夏乃がその手を握ると、リーヴェは「もうすぐ目的地に着く。歩けるな?」と聞いてきたので頷いた。
彼らはその手のまま、山頂に向かって歩みを進める。
「で、続きだが……と言っても、まぁ後はさっき見た通りだ」
「……死んでしまうと、何も残らずに消える」
「あぁ」
「元に戻る事はできないんだね」
夏乃がそう呟くと、リーヴェは一瞬ばつが悪そうに眉間に皺を寄せた。
夏乃の手を掴んでいる左手を離して、ポケットからライターと煙草を取り出す。
荷物を肩にかけて両手が使えるようになった隙に素早く煙草を咥えてライターで火をつけた。
左手で再び煙草を掴んで白い息を吐いてから、再び夏乃の手を取る。
「ある意味、死が唯一の元の姿に戻る方法だな」
そう言われて、夏乃は先程の蛇たちの姿を思い出した。
黒い身体が、徐々に変化していく様子。
最期に見せてくれた茶色の蛇柄模様の方が、本来の彼らの姿だった。
「……魔獣になってしまう条件、ってなに?」
「瀕死や重傷を負った時に、あのモヤに身体を蝕まれると魔獣になる。と言われている。それ以上の詳しい事は分からん」
リーヴェのその言葉を最後に、二人の間には静寂な空気が漂った。
地面に足がつき、先に進む音だけが周囲に響く。
ややリーヴェが前を歩き、繋がれている手を若干引く形で夏乃の歩行をサポートしているようだ。
二人で黙々と山頂目指して歩いているうちに、ふと夏乃が視線を上げた。
木々が少し開けているように見える。
(……家?)
山中に、明らかに人の手が入ったであろう広場があり、その傍らに畑のようなものと家が一軒建っている。
丸太で建てられたロッジのような見た目の家で、どうやら二階建てのようだ。
「ここは代々ミリア湖の管理者が住まう土地だ」
リーヴェは歩みを止めず、ロッジに身体を向けて進めていく。
夏乃も引っ張られる形で彼に続いた。
確かによく見るとロッジの側には物干し竿があり、男物と思われる服が干されていたりと、若干の生活感があるスペースだ。
「ミリア湖は入湖許可を管理者にもらわなきゃならん。ついでに荷物もここに置いていく。目的地はもう目と鼻の先だからな」
「分かった」
ロッジ前の階段を登って、玄関前に並ぶ。
リーヴェは右手で玄関扉を数回叩き、声を上げた。
「急に尋ねて申し訳ない。アルベリク・リーヴェだ」
するとロッジの中から足音がコツコツと聞こえてきた。
段々大きくなるその音に、夏乃は若干身体を固くした。
扉の前で止んだかと思えば、すぐにその扉からガチャリと鍵が開けられる音がして、ゆっくりと開かれていく。
「えっ……!?」
中から現れた人物の顔を見て、思わず夏乃は声を出してしまった。
まさか見覚えのある顔が出てくるとは考えてもおらず、身体が一層硬直する。
(……リーヴェの、お父さん……!?)




